ボビー・ギレスピー自伝

両親、子供時代

 両親は「IS」として知られる、社会主義インターナショナルのメンバーだった。(略)

1962年、クイーンズ・パークでのメーデーのデモで、赤ん坊の俺が父に抱えられている写真がある。(略)

 父はいつも「とにかく本を読め」と言っていた。前述したように、父は家族の都合でちゃんと学校に通えなかった。ストリート育ちの浮浪児みたいなもので(略)

 学校に行った時も父はひどい目に遭った。下着はなし、ズボンのケツに穴が開いたぼろの服(略)教師は彼を全員の前に立たせていちばん身なりのいい子と比べ、ズボンに穴が開いている箇所を指差したあと、教室の隅に父を後ろ向きに立たせ、生徒たちがからかうのを煽った。(略)

父の世話をし、育てる役目を負っていたのは姉のローズマリーだった。ふたりには家がなかった。他人のフラットに仮住まいさせてもらい、誰かの寝室の床に寝るのに金を払っていた。ローズマリーは16歳になると(略)他の町で仕事を見つけたので、父はひとり残され、しばらく路上で暮らしていた。(略)森の川辺に座ったり、いちごを摘んだり、まるでトム・ソーヤーになったみたいだった、と話してくれたことがある。父は『ハックルベリー・フィンの冒険』が大好きだった。あの本は父に夢を与え、ひどい境遇を忘れさせてくれた。それがアートの力だ。

 父はまともな教育を受けられず、独学しなければならなかった。(略)俺が8、9歳の頃、「何をやってもいいが、もしアートを勉強したりミュージシャンになったりするためにアートスクールに進みたいなら、俺が授業料を払う」と言われたのを覚えている。

(略)

工場を辞め、組合のなかで地位が上がるにつれ、酒を飲むようになった。最後には父はSOGATという印刷業関連の労働組合におけるスコットランド西部支部長となった。それは国内でも有力な組合で(略)父は労働運動において一目置かれる人物だった。(略)

のちに財務大臣、そして首相となるゴードン・ブラウンも知っていた。ニュー・レイバー以前のスコットランドの労働運動において、父とブラウンは同志だった。父を規定したのはまさに社会主義であり、それが彼にアイデンティティと人生の目的、力と誇り、自尊心を与えていた。

(略)

 両親の結婚は暗礁に乗りあげていた(略)

 俺は子どもの頃から、世界や他の人々に疑問を持ちはじめた。たぶんそのせいで感情的な距離が生まれ、大人になってから友人や恋人をなかなか信頼できなかったんだと思う。安全のために、表面上はオープンで親しみやすいふりをした。だがその実、コミットすることを恐れ、結果として孤独を抱えることになった。俺はずっと、静かに怒っていた。

(略)

 たぶん母は、主婦になるよりも多くを人生に望んでいたのだろう。クリエイティヴになり、何かを作りたかったのかもしれない。(略)

アーティスティックな女性だった。俺の服も、自分の服も、ミシンで縫って作っていた。俺にはスパイダーマンのコスチュームも作ってくれた。

 母があまり幸せでないこと、父母の間がぎくしゃくしていることは俺にもわかっていた。(略)

不公平をなくすため、父は人生を労働運動に捧げていて、それはものすごいことで、俺は父を誇りにしていた。けど、女性はどうなる?(略)

俺はある意味、早くからフェミニストになった。フェミニズム運動についてはまったく無知だったが。俺は母を尊敬していた。母は静かに闘っていた。

(略)

 俺が幼い頃から抱えた怒り、それは家で生まれ、グラスゴーで生まれた。どの通りを歩くか、気をつけなきゃいけないことから生まれた。行っていい場所といけない場所があることから生まれた。映画館からそう遠くない、半マイルほどのところに、ポッシルパークとメアリーヒルという恐ろしい場所があった。たまにバスで通ることがあったが、見るからに荒れていた。不穏で非情で、子どもの顔には男の子も女の子も消えることのない敵意が浮かんでいた。犬は大抵痩せこけた、狼のようなシェパード犬で、首輪や綱で繋がれることもなく、いつだって通行人に黄色い牙を立てようとしていた。

(略)

 あの頃は自分の通りにいれば、どっち側でも、ある程度は大丈夫だった。でもその外に出ると同い年のキッズ、もしくはギャングに入ったティーンエイジャーに叩きのめされる。

(略)

8歳か9歳だった頃、パレルモ通りの裏で遊んでいた時には、塀の向こうから突然男が現れ、俺にれんがを投げつけてきた。労働者階級の日常では、突発的な暴力は普通だった。(略)

壁にはシルバーのスプレーペイントのくねくねした文字で縄張り宣言が殴り書きされていた。

 

ジオは100パーセント狂ってる(略)

 

俺の空想はそういうイカれたギャングや見えないブギーマンでいっぱいだった。日常には見えない境界線が引かれていて、それを踏み越えると命が危険にさらされる。

(略)

 60年代、70年代のグラスゴーはめちゃくちゃに暴力的で、俺はうんざりした(略)

解離し、意識を離してしまうことも覚えた。のちに俺は喧嘩になったり、そうした感覚の引き金となる出来事にぶつかったりすると、解離して、その場にいないみたいにぼんやりするようになった。体は存在しても、無力になってしまう。(略)40代でドラッグ依存症のセラピーを受けるまで、俺はその感覚のルーツにあるものを理解していなかった。(略)

 10代の頃、ある種の鬱に陥ったのも(略)それと関わっていたかもしれない。17の時、俺はバスルームの鏡の前に剃刀を持って立ち、自分のきれいで柔らかい肌、剃ったことのない顔を切りつけたい衝動を覚えた。(略)

俺は愛というものを疑い、自分を愛していると言う相手を疑うようになった。(略)人生とは対決、妥協、そして暴力でしかなかった。だからこそパンクがやってきた時、俺には受け入れる準備ができていた。

シン・リジィ

 俺にとって1976年の長く暑い夏を最も象徴する曲が、シン・リジィの"ザ・ボーイズ・アー・バック・イン・タウン"だ。(略)

俺は「トップ・オブ・ザ・ポップス」でシン・リジィを観て、ライノットの姿に魅了された。

(略)

[ライヴの広告を見て、絶対行かなきゃ、と思ったが]

唯一の問題は、アポロ・シアターがどこにあるのか俺にはさっぱりだったことだ。しかも土曜の夜にひとりで街に出かけたこともなかった。俺はプランを練った。学校で挨拶を交わす程度の仲だった、アラン・マッギーという少年がいた。(略)

電話帳でマッギー姓を探し、彼が住んでいそうな住所の番号を見つけた。(略)

「アラン、ボビー・ギレスピーだ。俺と一緒に今晩、アポロでシン・リジィがライヴやるのを観にいかないか?」。

(略)

 ライヴではまずクローヴァーが出てきた。(略)もしかするとヒューイ・ルイスがハーモニカとヴォーカルを担当していたかもしれない。彼らは(略)コステロの『マイ・エイム・イズ・トゥルー』でバック・バンドもやっている。だが俺たちはクローヴァーにはほぼ注意を払わず、シン・リジィマーチャンダイズを売っているホールへ向かった。その時に買った『ジョニー・ザ・フォックス』のツアー・プログラムはいまでも持っている。

(略)

突然奇妙なパトカーのサイレンが鳴り響くと、リジィがステージに現れた。

(略)

彼は黒豹のように舞台をうろつき、黒のフェンダー・プレシジョンのベースをライフルのように構えていた。彼のベースには鏡のようなスクラッチプレートが付いていて、動くたびに照明が反射し、観客に差し込む。俺は一晩中、彼のベースが放つビームにさらされていた。フィルは俺を指してる、俺は選ばれたんだ、と本当に思った。

(略)

 俺はその夜、フィル・ライノットとシン・リジィにロックンロールの童貞を捧げた。心も体もロックンロールの聖霊で満たされ、二度と元には戻らなかった。

(略)

リジィへの愛は決して消えないだろう。(略)今日まで俺をインスパイアしつづけている。フィルは偉大な、真のワーキングクラス・ヒーローだった。あらゆる少年が彼になりたがり、あらゆる少女が彼とファックしたがった。最高にシャープな服を着て、ストリートの喧嘩も軽くいなしてしまうように見えた。ロマンティックな詩人であり、究極のロッカーだった。1976年のクリスマス、俺は母に『ジョニー・ザ・フォックス』のアルバムをねだった。弟のグレアムは 『ジェイルブレイク』を買ってくれた。

パンク

 1977年は初めから、何か新しいことが始まっている空気があった。「スーパーソニック」でダムドを観たのを覚えている。(略)演奏されたのは“ニートニートニート"。わくわくした。曲は速くてハードで、俺はあんなのをそれまで見たことも、聴いたこともなかった。あの時点で俺はストゥージズなんかについてはまったく無知だった。(略)

 初めて音楽紙「NME」を買ったのは1977年のイースターで、クラッシュが表紙を飾っていた。(略)3人ともジョニー・ロットンと同じ、ぎざぎざの短髪だった。それは視覚的にも、文化的にも衝撃だった。1977年初めと言えば、みんな長髪だったのだから。

(略)

[クラッシュの1stアルバムの裏には]黒人の若者たちが白人警官と争っている場面が印刷されていた。俺はその頃BBC2で父と一緒にそのドキュメンタリーを観たばかりで、若いブラックの連中が人種差別や警察の暴力と闘う姿に興奮し、インスパイアされていた。

(略)

そのレコードを手に持つだけで俺は興奮した。理由はわからなかったが、危険で、違法なものだと感じた。まるで郵便爆弾でも持っているように。俺はその時、自分が反社会的な逸脱行動をしようとしていると感じたのだ。実際、それは文化におけるマインド・ボムだった。

(略)

 俺からすると、ファッションではボウイとブライアン・フェリーが飛び抜けていた。"ラヴ・イズ・ザ・ドラッグ"の頃のフェリーの前髪の長いウェッジカット、茶のアーミーシャツの袖をロールアップし、黒のタイをシャツに入れる着こなしは忘れられなかった。なんてクールなんだ、と思ったものだ。(略)

「ソウル・トレイン」で"ゴールデン・イヤーズ"を歌ったボウイは青のバギーなスーツを着ていて、スタイルという点ではあれも俺の記憶に深く残った。

 

 俺にはもっとパンク・ミュージックを聴く必要があった。そこへセックス・ピストルズが"アナーキー・イン・ザ・UK"という曲をリリースして発禁になった、という噂が入ってきた。めちゃくちゃにエキサイティングだった。

(略)

フランスのバークレイ・レーベルから出た輸入盤を買った。カバーには引き裂かれたユニオン・ジャックに「イギリスでは発売禁止」と書かれていた。(略)

EMIのオリジナル盤はシンプルな黒の紙ジャケットに入っていたが、フランス盤はひどく質の悪い、粗いコピーのジャケットで、それが俺の新たな美意識、その頃進化しつづけていた美意識に即座に訴えかけてきた。シングルのアートワーク、そして曲の歌詞の扇動的な組み合わせに俺はぞくぞくした。もちろん、40年経ったいま振り返ると、マルコム・マクラーレンによる巧妙なマーケティングだったとわかる。ギー・ドゥボールの状況主義理論をセックス・ピストルズに使うのは天才的な計略だった。資本主義を批評するのに資本主義を用いたのだ。不満を抱える10代の反抗的エナジーを搾取し、資本主義のレコード会社を儲けさせた、というのもひとつの見方だ――「反抗を換金した」とジョー・ストラマーは見事に、そして正しく歌った。

(略)

1977年のある夜にピールが"ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン"をかけ(略)

俺は改宗した。光を見たのだ。弟も何も言えずにいた。俺たちは目を合わせ、このレコードを買わなきゃいけない、と悟っていた。

(略)

[シングルを買い]俺は急いで店を出た(王党派の警官に通りで捕まえられるかもしれな いと思ったのだろう)。

(略)

俺たちは音量を最大限に上げた。父母はともに仕事に出ていて、俺たちはただただ、絶頂を感じていた。あの瞬間、ふたりで心理的な脱獄を体験したのだ、と俺は信じている。あの日、俺たちの感じ方、考え方、服の着方、自分や世界に対する見方は永遠に変わってしまった。

1977年夏、労働組合

 その夏はずっと工場で過ごしたが、ひとつよかったのは週に25ポンドもらえたことだ。当時としてはかなり高給だった。俺はNGA、全国グラフィック印刷協会の会員で、当時それは強力な労働組合だった。サッチャーは(略)炭鉱夫を潰した後はルパート・マードックとぐるになってワッピングやなんかを作り、印刷工を潰したのだ

(略)

[仕事の後]4時半の「ザ・マーク・ボラン・ショウ」を観た。その時もボランは好きだった。心のなかに彼の場所はまだ残っていた。

 

 1977年夏は、俺にとってパンク革命の季節だった。

 そうしたレコードを買うことだけが、俺に生きがいを与えていた。

(略)

印刷工たちは全員ビッグ・ジミーを恐れていた。ジミー・グレイは俺の父を尊敬していたので、俺も可愛がってくれた。そのおかげで俺はある意味、工場で保護されていた。ちょっかいをかけられたら、ジミー・グレイのところへ行くまでだ。ジミー・グレイはコーラの瓶底みたいな眼鏡をかけたタフな男で、工場の奥にある巨大なニス加工の機械を担当していた。(略)

ある日、ジミー・グレイはSOGATの組合員を全員外に連れだした。仲間のひとりが不当に解雇されたのだ。工場の他の部分がストップしても、印刷機は回り続けていた。だが、印刷工は機械に紙を供給するのは許されていない。それができるのはSOGATの組合員だけだった。つまり印刷工は紙があるうちしか印刷できない。なくなるとすべての機械が停止した。労働組合にはひとつ鉄則があった。ジョン・ホーンズの工場は「クローズド・ショップ」である、と。つまりここで働くには労働組合員でなければならず、労働争議の際には、誰もストライキの参加者の職を奪ってはならない。(略)何より最悪なのは「スキャブ」、スト破りの裏切り者だ。(略)

1時間ほどすると、SOGATの組合員は勝ち誇って工場に戻った。率いるのはジミー・グレイだ。工場主と話し合ったあと、解雇された同志は元の職に復帰した。俺はあの日、組合の力を目にした。労働者が連帯することで強くなり、勝利したのだ。俺は感銘を受けた。自分が加入しているNGAの組合員は怖がっていて、SOGATの組合員ほど好戦的ではないように見えた。(略)

60年代から70年代に労働組合が団体交渉を行なったおかげで、俺みたいな人間にも働く権利が与えられ、労働法がそれを守っていた。当時はいまみたいなゼロ時間契約 [労働時間が明記されない労働契約で、不安定な低賃金労働を拡大させた]なんてなかった。ほとんどの工場や職場はクローズド・ショップで、何百万人もの労働組合員が働いていた。

 

 俺は77年9月末に印刷関連の職業学校に入学した。

ジョニー・ロットン

 ジョニー・ロットンで俺にとって重要だったのは、彼が労働者階級で、スタイリッシュだったことだ。彼は他の誰よりもかっこよかった。刈られた髪はまるで強制収容所から脱走したばかりの囚人、もしくは脱走兵みたいに見えた。明るい蛍光オレンジのヘアはメッセージを発し、それはあのなじるような、首を締められたような、人を消耗させるようなヴォーカルににじむ怒りや激しさ、痛みと一致していた。(略)

彼のレーザーみたいな視線は俺のイノセントな10代の意識を灼き、穴を開けた。ピュアなアンフェタミンの憎悪、独善的でパラノイアなスピード・フリークの軽蔑によって。(略)飢えたネズミ、または隅に追い詰められた野犬のように、彼にはどこか病んだところ、齧歯類の感じがあった。

 ロットンはロッド・スチュワートミック・ジャガーのような昔ながらのハンサムでも、セックス・シンボルでもなかったが、そこが最高だった。まさに俺たちと同じ、労働者階級のストリート・キッズだったのだ。

(略)

 それに、あの服!ああ、なんと言えばいいだろう。マルコム・マクラーレンヴィヴィアン・ウェストウッドによるセディショナリーズのデストロイ・シャツが、どんなにすごかったか。

(略)

 パリのジビュス・クラブでは、ロットンが黒のボンデージ・ルックを披露した。1977年夏のスウェーデン・ツアーでの組み合わせも忘れられない。白のタキシード・ジャケットに黒とピンクの水玉のネクタイ、ボンデージ・パンツ、テディ・ボーイのクリーパー靴。ブライアン・フェリー風の色男のキャラクターが病んだみたいで、いまにも悦にいったリッチなヒッピーもどきに唾を吐きそうだった。黒革のパンツとジャック・ブーツ、モッズのバム・フリーザー・ジャケット、デストロイ・シャツ、鋲付きのリストバンド、SMベルトにデジタル・ウォッチ。 世界最高にクールな男だ、と思ったものだ。

クラッシュ、リチャード・ヘル

[10月クラッシュがグラスゴーに]

最初に出てきたのはロータス。全員女性のスウェーデンのパンク・バンドだ。シンガーはショートヘアで、フレンチスリーヴのTシャツを着た腕の筋肉が盛り上がっていた。タフに見えた。いいバンドだった。(略)

 次はリチャード・ヘルだ。詩人だという記事を読んでいたが、アポロのステージに、彼は本を手にして出てきた。(略)

当時俺は知らなかったが、彼はジャンキーだった。それでもステージに歩いてきた彼は落ち着いていて、自信を漂わせていた。娯楽を提供しようとはしていなかった。(略)俺は彼の魔法にかかった。彼のバンド、ヴォイドイズも圧倒的で、ギターはあの忘れ難いロバート・クインだった。彼のスタイルは比すべきものがなく、まるで割れたガラスのようなソロを弾いていた。壊れた音符、ささくれだったディストーションのエレクトリックな断片。クインはロック・ギターを作り替えた。他にはいないギタリストだった。(略)ヘルの歌詞とクインのギターはまるで2匹の毒蛇のように絡み合っていた。その致死的なパワー。ヴォイドイズのサウンドは頭をおかしくさせた。イカれていた。あれを聴くと、考え方を変えざるをえない。彼らは真の撹乱者だった。(略)リチャード・ヘルは時代の詩人だった。

(略)

 実は、クラッシュの演奏については細部を覚えていない。思いだせるのは音楽に無関係なことばかりだ。音楽的なライヴではなかったから。シン・リジィドクター・フィールグッドのライヴでは(略)彼らがどの曲をやっているのかがわかった。でもクラッシュでは、何を演奏しているのかさっぱりだった。彼らは強烈な光ととともに登場し、それがずっとステージを灼き尽くしていた。息をつく間もなただただハイエナジーの攻撃が続く。いちばん覚えているのはあのエナジーだ。あの夜を思うと、白い光が浮かび上がる。それは音楽を超え、言葉を超え、通常許容されているパフォーマンスや娯楽のルールを超えていた。エナジー、純粋なエナジー。それが俺を渦に吸い込んだ。

(略)

シン・リジィのライヴは性的でハードな、ストリート・ロックだった。クラッシュのライヴはまったく別物だった。それは俺にまったく違う感覚、ある種の宗教的なエピファニー、啓示のようなものを与えた。俺は宗教的な人間じゃないが、あの夜、俺のなかで何かが変わったのだ。

アラン・マッギー

 ある晩、アポロでのライヴから帰宅するためグラスゴー中央駅で電車に乗ると、同じ車両にあの赤毛の子がひとりで座っていた。アラン・マッギーだった。俺は彼の横に座ってしゃべりながら、おまえもライヴに行ったのか、と訊いた。彼は言った。「うちに来いよ、パンクのシングルも、おまえが気に入りそうなレコードも山ほどある」。

(略)

[マッギーはイーターの“アウトサイド・ヴュー”をかけ]どう思うか訊ねた。俺は「いいんじゃないか、でも最高っていうほどじゃないな」と答えた(略)。マッギーは俺に、この曲を好きなのは自分にもアウトサイド・ヴュー[外側の視点] があるからだ、と言った。

 それは俺にとって重大な瞬間だった。(略)俺はまだ自分を社会の外に位置づけていなかった。そんなふうに考えたこともなかった。自分では、ただのロックンロール・ファンだと思っていたのだ。周りの従来のやり方にうまく適応できない感覚はあったが、俺の意識はまだちゃんと形成されていなかった。かたやマッギーはこのレコードをひとつの文化批評として、また一般社会から外れた、新たなアイデンティティを作っていく方法として見ていた。

 アランは学校では俺の1学年上だった。(略)

彼の父親は板金工で、最初は自分の修理工場でアランを見習いにした。だがうまくいかなかった。入社儀式の一環として、年上の男たちがアランを裸にしてハンドクリーナーを金玉に塗りたくり、逆さまにして機械に縛りつけたのだ。アランの父もその儀式を認めていた。当時の労働者階級の職場ではよくあったことだ。俺も見習いの最終年に、1年先に入ってジャーニーマンの資格を取ったばかりの男が、俺を裸にしてインクに浸し、縛ってやる、と脅してきた。工場の連中の目の前で辱めてやると。俺はそいつに、近寄ったらハンマーで頭をかち割ると答えた。夜勤で周りには誰もいなかった。俺は見計らって本当にやるつもりだった。そいつは実行しなかった。

1978年、スーサイド、連行されるクラッシュ

 翌年、1978年にはもっとライヴに行った。観たのはスージー&ザ・バンシーズ、エルヴィス・コステロ、エディ&ザ・ホット・ロッズ、ストラングラーズ(サポートはザ・スキッズだった)、シン・リジィブームタウン・ラッツ、アスワド、スティール・パルス、クラッシュ(サポートはザ・スペシャルズとスーサイド)、トム・ロビンソン・バンド(サポートはスティッフ・リトル・フィンガーズ)、バズコックス(サポートはサブウェイ・セクト)、シャム66、ザ・ジャム、ディッキーズ、ディーヴォ、そしてまたレジロス。愛するポリー・スタイリン&Xレイ・スペックスが観られなかったときは心底がっかりした。彼らのライヴはグラスゴー大学で開かれ、学生かその連れしか入場できなかったのだ。(略)ギグの夜には、家でずっといらいらしていた。ここから30分の場所でいま、ポリーがステージに立ち、無関心な堅物の大学生の前でプレイしているのだから。そんなの、パンク・ロックといったいなんの関係がある?

 クラッシュの『ギヴ・エム・イナフ・ロープ』のツアーもストラスクライド大学で予定されていて、俺はムカついていた。自分は行けない、何よりもクラッシュを愛しているのに。ピストルズの解散後はクラッシュがパンクを率いていた。噂では、ジョー・ストラマーグラスゴーに来て、レディオ・クライドで番組の取材を受け、そこからブルーシーズ、あのレンフィールド通りのレコード屋に足を運んだという。店でパンクスが何人か彼に声をかけると、ひとりがストラマーをバイクの後ろに乗せてストラスクライド大学まで走った。ジョーは事務局へ行き、クラッシュのチケットを1枚買おうとした。学生証の提示を求められ、持っていないと彼が答えると、チケットは売れないと言われた。彼はその場でライヴをキャンセルした。英雄的で、ストラマーらしい行動だと俺は思った。ファンのために動くとはこういうことだ。

 いくつかのライヴはアラン・マッギーと一緒だったが、ほとんどはひとりで行った。1978年の春、アランは俺に彼の友だちのアンドリュー・イネスを紹介した。(略)アンドリューとアランはバンドを結成しようとしていた。アランがベース、アンドリューがギター。

(略)

 マッギーと俺は1978年7月にアポロで開かれるクラッシュのソート・イット・アウト・ツアーのチケットを買った。"ホワイト・マン (イン・ハマースミス・パレス)"と"ザ・プリズナー"のシングルが出たところで、ふたりとも死ぬほどまたクラッシュのライヴに行きたいと思っていた。

(略)

 まず初めにザ・スペシャルズが出てきた。 彼らが60年代のモッズ風のツートーン・スーツを着こむようになる前の年で、どんな服だったか、サウンドも思いだせない。 覚えているのはステージに7人ほどいたことで、4人のパンク・バンドが主流だった時代にはかなり珍しかった。テリー・ホールはステージの端に座って歌い、そんなことをする奴も見たことがなかった。

 次に奇妙な男ふたりがステージに現れた。シンガーと、キーボード・プレイヤー。ドラマーもギタリストもベーシストもいなかった。(略)

それはノイズの洪水だった。いわゆる「曲」はなく、しかもこのドラムの音はどっから出てきてる?キーボードの男はX-メン風の中央にバツが付いた巨大なサングラスをかけていた。(略)白人の男なのに髪はアフロだった。彼は足を広げて突っ立ち、不気味なサウンドを流しつづけていた。シンガーはイカれていた。アポロの観客は怒り狂った。(略)

 スーサイドを、俺はどう考えていいかわからなかった。名前は気に入った。究極のパンク・ステートメントだと思った。でもマッギーも俺も彼らの音楽は耳にしたことがなく、曲がまったくわからなかった。俺たちにはまだ早かったのだ。アポロの観客は座席の肘掛けを壊して投げ、他の物もアラン・ヴェガに投げつけだした。(略)

アラン・ヴェガは自分の口にマイクをぶつけ、血を流しながら、悪意を向ける(略)4千人のパンクスに、「おい、おまえらと俺たちは味方同士なんだよ!」と言ったのだ。あの瞬間は忘れられない。(略)彼らのミニマリスティックな音楽は、ロックンロールのライヴはどうあるべきかという観客の概念に挑み、対決したうえ、決して自分を曲げないことで俺のリスペクトを勝ち取ったのだ。(略)

同じ事態が毎晩、クラッシュがツアーで訪れたイギリスのあらゆる町でスーサイドを待っていた。(略)あとになって俺は、スーサイドがアントナン・アルトーが提唱した「残酷劇」を実践していたことに気づいた

(略)

 突然なんの予告もなくクラッシュが登場した。ミック・ジョーンズは真っ白な上下に赤のベスト、髪は肩まであり、アンプまで走るとプラグを挿して、すぐさま"コンプリート・コントロール"の破壊的なオープニング・リフをかき鳴らした。(略)

今回はクラッシュの曲が全曲わかったし、「ゲット・トゥ・ファック」と書かれたTシャツ姿のジョー・ストラマーもかっこよかった。ポール・シムノンはタイトな白のジーンズにドクターマーチンのハイブーツ、黒革のバイカー・ジャケットの下には何も着ていなかった。シルバーの鋲付きの黒革のリストバンドを着け、短いブロンドのスパイキー・ヘアが映画スターみたいなハンサムな顔を際立たせている。あんなにクールな格好があるだろうか。(略)

俺とマッギーは天にも昇る心地だった。ジョー・ストラマーは何度もライヴを止め、10代のパンクスと中年の警備員の間で起きているバトルを仲裁しようとした。連中はぞっとするようなことをしていた。 キッズがステージの両袖にある出口まで連れていかれ、殴られていた。(略)その様子の一部は映画『ルード・ボーイ』で観ることができる。ジョーは警備員に「おい、かっとするな」と呼びかけ、ミックが「それは踊ってるんだ、喧嘩じゃない」と叫ぶ。でも何を言っても無駄だった。 アポロの警備員は最初から、パンクスに一生忘れられないお仕置きをしようとしていたのだ。俺はいまでも、連中を怒らせたのはパンクスの外見だったと思っている。

(略)

 ライヴが終わり(略)ほとんど空になったアポロで、同い年くらいの男の子が5人くらいの警備員の輪のなかで小突き回されていた。ひとりがその子に殴りかかると、他の連中がはやしたて、笑い、けしかける。気分が悪くなる光景だった。(略)

楽屋口の外にクラッシュを待つパンクスが集まっていた。近寄ると、怒鳴り声やガラスが割れる音が聞こえた。次に見えたのが、ジョー・ストラマーが平服の警官3人に道の真んなかを連行されていく姿だ。(略)ポール・シムノンが暗い小道から現れ、ジョーを助けようとしたが、彼も手錠をかけられてパトカーに入れられた。(略)

後ろから泣きそうな声がした。「ジョー、ポール、ああ!」。マッギーと俺が振り返ると、まさに目の前にミック・ジョーンズが立ち、いまにも泣きだしそうになっていた。なんという瞬間、なんという場面だったろう。パンクスのなかにはクラッシュが暴力を止めようとしなかったと感じた連中がいたらしく、怒りを彼らにぶつけていた。俺たちには、ジョーもミックも一触即発の状況をなんとかしようと尽力していたように見えた。もしライヴの途中で彼らがステージを降りていたら、暴力沙汰は前方のキッズにとどまらなかったはずだ。会場中が大混乱に陥っていただろう。

(略)

家に帰ると、クラッシュが逮捕されるのを見た、と母に言った。母はいきりたち、すぐにグラスゴーのいちばん大きな警察署に電話をかけると、こう要求した。「すぐにクラッシュを解放しなさい!」。

(略)

 俺は雑誌 「ジグザグ」を買いはじめた。それは(当時は気づいていなかったが) 60年代のアンダーグラウンドの音楽を取りあげるクールな雑誌で、俺はその後、ラヴやザ・バーズ、ドアーズ、バッファロー・スプリングフィールド、ティム・ハーディン、そしてティム・バックリーに夢中になった。ただ俺が最初に「ジグザグ」を買ったのは、表紙にジョニー・サンダースのすごい写真が載っていたからだ。まるでロックンロールの海賊だった。(略)[掲載されたインタビューで]彼はバディ・ホリーについて語り、自分がやっているのはロックンロールで、パンクじゃないと言っていた。

パブリック・イメージ・リミテッド

叫ぶような、神経を逆撫でするようなアルペジオで、まるで質の悪いシャブをキメたザ・バーズのよう。バンシーズのジョン・マッケイとPILのキース・レヴィンは、ロック・ギターというものを書き換えた。あのふたりのあと、人々はギターの弾き方を考え直す必要に迫られた。それは未来そのものだった。舞台が整うとようやくロットン、いやジョン・ライドンが真新しいヴォーカルで登場する。(略)

 

俺の言うことをお前は一語も聞いちゃいなかった

俺を見てただけだ

着る服を気にしただけだ

 

 なんだと!誰も、これは予想もしていなかった。それは啓示的なレコードだった。ジョニーはより奇妙に、より強くなって帰ってきたのだ。

(略)

俺が彼に共感したのは、ワーキングクラス出身だったことともうひとつ、俺が彼を詩人として見ていたからだ。(略)

ライドンは俺を導く星だった。(略)あのクリエイティヴな大胆さ、挑発的な姿勢が、自分たちがなりたいバンドの青写真を与えてくれたのだ。

(略)

1978年に黒のクールなアーミー・パンツを買って、クラッシュみたいに見えるよう、母に頼んで脇のポケットにジッパーを付けてもらったのを覚えている。クラッシュのミリタリー・ルックが俺は大好きだった。あれは革命的なロック・スタイルだ。

(略)

自分でミリタリーっぽい文字のステンシルを作り、シャツに「イングリッシュ・シヴィル・ウォー」「ヨーロピアン・セイフ・ホーム」(略)と描いた。

(略)

 ジョン・ライドンとPILのせいで、みんなが突然、年寄りが着るようなスーツをパディーズ・マーケットで探し始めた。

スペシャルズ

ちょうど最初のシングル"ギャングスターズ"がリリースされたばかりだった。俺たちはみんなあのレコードに夢中で、60年代モッズ風のサテンのスーツとボタンダウンのシャツも大のお気に入りだった。(略)会場に向かうと、男たちの一団が通りをこっちに歩いてくるのが見えた。近づくと、スペシャルズだと気づいた。俺たちはジェリー・ダマーズに話しかけ、グラスゴーからライヴを観にきたと言った。彼らはインド料理屋で食事をするところだった。ジェリーは腹は減っていないかと訊ね、俺たちを誘った。(略)

ジェリーは俺たちキッズにすごくよくしてくれた。どこから来たのか、どんな音楽が好きなのか、そんなことを訊いてきた。カレーを食べ終えると、彼は会場まで一緒に帰ろうと言った。ティファニーズのドアに近づくと、警備員が「チケットは?」と訊ねた。ジェリーが「いいんだ、俺の連れだよ」と言って、俺たちはそのまま警備員を通り過ぎた。あとについて楽屋に入ると、ライヴ前、スペシャルズの全員が揃っていた。信じられなかった。(略)俺は国でいちばん注目されているバンドと一緒で(略)リーダーはソングライター、ミュージシャンとして傑出しているだけでなく、心遣いがあり、ファンを食事に招き、キッズの生活について訊ねるような男だった。これこそ真のパンク・ロックだ、と俺は思った。ライヴは素晴らしかった。スペシャルズは大波に乗っていた。(略)

俺の内側にはずっとあの時のエナジーが流れている。ジェリー・ダマーズがグラスゴーのキッズにそうだったのと同じくらい、俺は自分のファンに気さくでオープンでいようとしたし、そうだったと思いたい。

次回に続く。