クラフトワーク  その3

前回の続き。

サイクリング

[ラルフ]のサイクリングに対する情熱を「趣味」のひと言で片づけてしまうのはおそらく失礼だ。八〇年代、サイクリングは彼にとって第二の(無償の)仕事になったのだ。もっとも、クリング・クラングに最初の競技用自転車を持ち込んだのはフローリアンだった。このときのことをヴォルフガングはこう回想する。「(略)[フローリアン]はときどき、デュッセルドルフ北部にある自宅から街の中心部まで自転車をこいでやってきてた。あの当時の彼は車の運転が嫌いだったんだよ。それに道路は渋滞がひどくて、競技用自転車を使ったほうが断然早かったしね。で、たしか七〇年代の終わり頃、彼の自転車を見たラルフがすっかり虜になってしまったんだ。すごく軽くて誰でも簡単に乗れた。それに機械的な魅力もあった。チェーンとギアが素敵な音を奏でるんだ」

 ちょうどこの頃西ドイツでは、新たに創刊された男性向け生活情報誌の中で運動や健康といったテーマがさかんに取り上げられるようになっていた。ラルフもまた数キロ痩せるうちに運動の大切さに気づき、自信を持つようになったのだ。そんな彼の様子をヴォルフガング・フリューアはこう分析する。「突然、自分の体というものを自覚したんだろう」「自分の血管や筋肉の成長を肌で感じられるようになったんだ。腱が実際に伸びたり縮んだりする様子をね。(略)彼は生まれて初めて、自分が魅力的だと思えるようになったんだ」。

(略)

 体力がついてきたラルフはやがて、よりきつい山道や、長距離コースを走るようになった。二〇〇三年のインタビューで、彼はそのサイクリング熱の全貌をこんなふうに明らかにしている。「春はアムステル・ゴールド・レースで走ってるし、リエージュ~バストーニュ~リエージュも欠かさず参加してる。あと、毎年ピレネー山脈やアルプスまでツーリングにも出かけてるんだ」「ラルプ・デュエズも全コース走破した。マドレーヌ峠にクロワ・ド・フェール峠、ラルプ・デュエズ峠、アーディデン峠、それにツールマレー峠も。パリ・ルーベ間も何度か走ったけど、あそこを走るには古い自転車が必要だ。石畳のコースでは確実にどこかがぶっ壊れるからね。ツール・デ・フランドルにも何度か参加した。やっぱり、あれはすごく手ごわいレースだよ」。ラルフの概算によると、ピーク時には一日二〇〇キロ近く走っていたらしい。クラフトワークのツアー中、会場の一〇〇キロ手前でツアーバスを降り、残りの距離を自分の自転車で走ったという逸話も残っている。

 こういう事情を踏まえれば、『コンピューター・ワールド』以来の作品となるシングルのタイトルが「ツール・ド・フランス」であったとしても不思議はないだろう。

(略)

 だが、相変わらずニュー・アルバムは発売されなかった。既に『コンピューター・ワールド』から三年が経過し、長期間に及んだワールド・ツアーの記憶も薄れつつあった。カール・バルトスは言う。「〈ツール・ド・フランス〉自体は元々、ニュー・アルバム『テクノ・ポップ』に収録する曲として書かれたんだ」「一九八一年に日本から帰国したとき、私たちにはあるアイディアがあった。それは"テクノ・ポップ"とでも呼ばれるべきジャンルで、〈ツール・ド・フランス〉はそのアルバムの一曲に過ぎなかったんだ」「私たち四人が自転車に乗ってるデザインは元々、そのアルバムのジャケットになる予定だった。(略)」。(略)

「[ヴォルフガングによれば]アルバム『テクノ・ポップ』は最初の頃、『テクニカラー』って呼ばれてたんだ。ただ、アメリカの映画会社テクニカラーにその名称の使用権があったから、タイトルを変えざるを得なくなって『テクノ・ポップ』に落ち着いた。ただ、その後は...…」

 何も起きなかった。バルトスによれば、アルバムはほぼ完成していたらしい。「アルバムは九割がた仕上がってた。で、ミキシングのためにラルフがニューヨークへ飛び、完成したテープと共に戻ってきた。ただ私たちはそれをリリースしなかったんだ」。それらのトラックには「ザ・テレフォン・コール」や「セックス・オブジェクト」も含まれていた。ちなみに、「セックス・オブジェクト」のリフは一九八一年のツアー中、ロンドンの会場でサウンドチェック中にバルトスが書き上げたもので、当初はロック色の濃いナンバーだったという。また、このアルバムにシングル「ツール・ド・フランス」のジャケットを使うことも決まっていたが、結局ラルフはゴーサインを出さなかった。

(略)

 その頃のラルフは集中力が続かず、自信喪失に苦しんでいた。選択肢が多すぎて、決断できない状態に陥っていたようだ。一九八三年頃、世界の音楽シーンにはシンセサイザーを使った高品質なポップ・サウンドが満ちあふれていた。

(略)

ラルフは最新のサウンドを追いかけていた。注目していたのは、ロンドンならZTT(略)ニューヨークならナイル・ロジャース[プロデュース作](略)

ラルフはある種の無気力状態にも襲われていた。今のシーンで戦っていくためには、クラフトワークサウンドを劇的に進化させる必要があると感じていたのだ。

(略)

 こうして「テクノ・ポップ」のリリースは引き延ばされた。だが相変わらずサイクリング熱だけは続いていた。

(略)

 ヴォルフガングは、クラフトワークの興味が音楽から離れつつあるのを冷めた目で見つめていた。(略)作曲をしない彼は働き続ける必要があったのだ。ツアーに出る必要が。「結果的に、彼らはスタジオに入らなくなってしまった。筋肉がつき、たくましくなったラルフはなんと言うか、顔つきが変わってた。(略)

[選手達が]レースや競技が終わったあとに熱に浮かされたような、恍惚とした表情を浮かべるだろう?(略)

やがてあの二人が仕事場に来る回数も減っていった。おまけにスタジオの中は自転車のチェーンやらタイヤ、汗臭いスポーツウェアなんかで一杯で、よけい腹が立ったんだ。(略)」

ラルフにとってサイクリングが趣味の域を超えてしまったように見えた(略)

今日でも一部サイクリストのブログには「自転車で通勤しないと、疲れてしまって働く気が起きない」などとマニアックなことが書き綴られている。(略)

ヴォルフガングは言う。「ラルフはそういう状態を求めてたんだ。一種の麻薬みたいにね」「サイクリングやレースは(略)自然とか風とか、そういったものをすべて感じることができる。彼の体はもう、そうしたすべてを感じられるようになってた。だからゲーテの"魔法使いの弟子"みたいに、一度取りかかったことを止められなくなってしまったんだ。つまり、サイクリングは一種の魔法なんだよ。カールにも私にも、その魔法がもう解けないことはわかってた。ラルフはもう以前のような、情熱的で意欲的なミュージシャンには戻れない。(略)」

自転車事故

 クラフトワークの内部では別の変化も起きていた。カール・バルトスの重要性が高まっていたのだ。一九七四年のツアー要員として雇われたカール(略)

『人間解体』『コンピューター・ワールド』のクレジットを見れば、カールの楽曲への貢献度が少なくないことがよくわかるだろう。

(略)

だがある日、その停滞期が突然終わり、クラフトワーク伝説が次のステージへと向かうきっかけとなる事件が起きた。ラルフがサイクリング中に重傷を負ってしまったのだ。(略)

ラルフは転倒し、コンクリートでしこたま頭を打った。ヘルメットなしでだ。(略)サイクリング仲間が彼を起こそうとしたが、ラルフは目覚めなかった。耳から血が流れてるのを見て、彼らは怖くなって車を呼び止めたんだ。

(略)

「医者の話だと、かなり深刻な状態だったらしい。私たちも、彼の家族も、ラルフは二度と目覚めないと思ったよ。でも彼は意識を取り戻した。で、そのときの第一声が『私の自転車は無事か?私の自転車はどうなった?』。本当の話さ。嘘じゃない。(略)二、三週間入院してたと思うけど、退院するとすぐまた自転車に乗り出したんだ!」

(略)

「いや、あれはただ落ちただけ。数日入院しただけなんだ。心配するような事故じゃない。私がヘルメットを着け忘れただけの話さ。それがあの事故の真相だ」と、彼はあるインタビューで他人事のように語っている。だが実際にはヒュッターは昏睡に陥り、数日間危篤状態が続いた。それでもラルフの言い分は一貫していて、世間は今回の事故を大げさにとらえすぎていると頑として譲らない。

(略)

「こんなことを言うのは大げさかもしれないが、あの事故以来、ヒュッターは別人になったんだ」とカール・バルトスは言う。「彼は変わったよ」

レベッカ・アレン

『エレクトリック・カフェ』のファースト・シングル「ミュージック・ノン・ストップ」(略)当時としては最先端のビデオを作ったのは、レベッカ・アレンだった。(略)

クラフトワークが連絡してきたんです。私が人体動作とシミュレーション、それに3Dフェイシャル・アニメーションに専門的に取り組んでいたから」(略)

レベッカはかつてニューヨークのコンピューグラフィックス・ラボラトリーの一員だった。(略)レベッカのチームが技術カンファレンスで披露した数々のアイディアの中には、CGのニュース・キャスターというものもあった(略)「そこからヒントを得て作られたのが、マックス・ヘッドルームなんです

(略)

今ではピクサーの社長になったエド・キャットムルも私たちのラボにいました。世界初の人体モデルを開発したのがエドだったんです。(略)

「[クラフトワークとの共同作業]はとても楽しかった(略)仕事場は驚きと笑いと冗談に満ち溢れてました。イメージとは正反対でしたね。

(略)

グループとの橋渡しは主にフローリアンがしてくれました

(略)

フローリアンとラルフが自転車レースでパリを訪れるときに会おうってことになりました。(略)」

 パリ滞在中、ラルフとフローリアンはあるクラブでアフリカ・バンバータと交流した。この初顔合わせは、互いへの敬意に満ちあふれた和やかなものとなった。クラフトワークは終始控えめな態度をとりながらも、シカゴのハウス・シーンで自分たちの音楽が使われているという事実に興味を示していた(略)

このときをきっかけに、彼らの最初の模倣者であるアフリカ・バンバータの"引用"を容認するようになったのである。

(略)

レベッカはこう振り返る。「(略)彼らが言ったんです。『(略)演奏をする度に毎回同じことをやってる。だったら、ロボットにそれをやらせることはできないだろうか?』って。これはとても強烈な発言でした。人間はロボットで代用できるかもしれないということですから(略)きっと今の社会なら、彼らが言いたかったことの意味がより深く理解できると思います。アバターとかもありますしね(略)

『そうなれば、私たちも毎回演奏する必要がなくなるよ』って言ってました。

(略)

六〇年代から七〇年代の社会では、コンピューターってすごく恐れられていたんです。(略)人類はコンピューターにすべてを乗っ取られてしまうんじゃないか。人間の仕事のすべてを奪ってしまうんじゃないか。当時はそんなリアルな恐怖があった時代でした。

(略)

彼らにこう提案してみたんです。『物理的なロボットは必要ない、ヴァーチャルなキャラクターを作ればいいのよ。ある意味、ヴァーチャルなロボットを』って(略)

『あなたたちの体をモデリングするわ。それにあなたたちの顔も。そうやって作ったキャラクターに命を吹き込むのよ』って言ったんです。今の技術なら簡単にできますが、当時は信じられないくらい難しいことでした。

(略)

まずは、彼らが自分たちのロボットに使った、マネキンの頭部をアメリカに送ってもらいました。(略)この頭部には既に、彼らの顔を芸術的に表現してるような雰囲気がありました。あと、彼らのライヴもさまざまなアングルからビデオで撮影したんです。こうしてマネキンの頭部の外見に、彼らのライヴ映像に映っているいくつかの特徴をミックスさせました」「あのビデオの中では、意図的にコンピューターらしさを出してます。しっかりとレンダリングされたリアルな顔ではない、ワイヤーフレームの顔です。私はそれを一種の"キュビズム的ルック"って呼んでました。(略)

私はコンピューターっていう芸術を進化させたかったんです。そう、まさにクラフトワークがコンピューター制御の音楽機器を使って、音楽にコンピューター的・デジタル的な美学を持ち込んだように。私がアーティストとしてコンピューターにのめり込んだのは、まったく新しい美意識を創り出したかったからです。コンピューターを使って写真のように完璧な映像を作り出したかったからじゃありません」「(略)

実は〈ミュージック・ノン・ストップ〉の声は私の声をシミュレートしたものなんです。(略)彼らは私の声をシミュレートし、私は彼らの外見をシミュレートするという、いわば"物々交換"ですよね」

ヴォルフガング脱退

 ヴォルフガング・フリューアの心は既にクラフトワークから離れていた。(略)

クリング・クラングの雑用係へと成り下がり、もったいないことに、その卓越したデザイン力を活かせる場もライヴのみとなっていた。(略)

「優秀なドラマーとして認められてはいたけど(略)メロディについてちょっと意見を言っても(略)『ああ、わかったよ、ヴォルフガング。やってみてもいいかもしれない。とてもいいアイディアだ』って言われるんだ。なんだか上から見られてるように感じたよ。毎回ああいう扱いが続くと、自信とか自意識、自尊心ってすぐにしぼんでしまうものさ。(略)言われたとおりにレコーディング・セッションへ行き、ツアーに参加するだけ。最後の数年はそんな感じだった」「彼らはいつも丘までサイクリングに行っていた。スタジオは空っぽでいるのは私とカールだけ。そうやって二人の帰りを何時間も待ってたんだ。苛立ちが募る一方だったよ。たぶん、カールも同じだと思う。あの頃、本当の意味で働いてたのはカールだけだった。彼は自宅に専用スタジオを作り、たまたまメンバーが顔を揃える貴重な瞬間に備えて音楽を演奏し、準備してたんだ。で、その曲を聴いた二人は『この曲と、それからこの曲は使えないな』って言うんだ。まるでコニー・プランクに対してとってたのと同じ態度さ。(略)簡単にコメントして『じゃあまた』って帰ってしまい、次のミーティングまで一回もスタジオには姿を見せないんだ。あの頃のクラトワークの重要な作品は、カールがいたからできたんだと思うよ

(略)

彼らは歩みを止めて突っ立ったまま、前に進まなくなった。個人的には今日まで何も進んでいないと思う。今は昔の素材をくり返し、何度も何度も焼き直しているだけさ」

 脱退により、ヴォルフガングの心は深く傷ついた。それは本人も認めている。しかもその影響は長く尾を引いたと彼は言う。

(略)

 カールはこう語る。「あの二人は音楽を製造する場としてのクリング・クラングにはもう興味を持ってなかったのかもしれない」「ただ、クリング・クラングはビジネスとしては完璧に機能してたよ。著作権やライセンスが大金を産み落とし、特にラルフとフローリアンの懐を潤してたんだ」

(略)

[ヴォルフガング談]

「今ではもう特に恨んじゃいないよ」「いろいろあったけど、あの十四年で大金を稼がせてもらったからね。まあ、最後は後味の悪い、私にとってはガッカリするような終わり方になってしまったけど(略)

彼らと一緒にやれたのは本当に自分にとってラッキーなことだったんだなあって。あの経験があったから、私は自分の中にある芸術家的な部分を発見できたんだろう。彼らと演ってきた歳月のおかげで、自分の音楽プロジェクト、ヤモを始められたしね」「私は作詞家になり、作曲家になり、ライターになり、後には作家にもなった。私が何かを創造してるってことが、きっと彼らには信じられないだろうね。メロディもそうだし、歌詞もそう。結局、自分のそういう才能に気づくまで十年かかったんだ。(略)」

『エレクトリック・カフェ』、カール脱退

 『エレクトリック・カフェ』は完成に四年を要した。(略)

ヒュッターは(略)次のアルバムのコンセプトを「自分たちの過去の名曲を最新技術で新たに録り直したベスト盤にする」と決めた(略)

 この一連の作業で中心的役割を担ったのはカール・バルトスだ。彼は同時にクラフトワークの新曲用のアイディアもいくつか披露したが、ラルフはなかなか耳を貸そうとはしなかった。

(略)

バルトスは(略)プロジェクトにさほど共感を覚えなかったと語る。「そもそも最初は(略)[ベスト盤を作って]もう一度ツアーに出ようって考えた。メンバー四人共大賛成だったよ。でもその一方で、それは平凡すぎるんじゃないかっていう懸念もあった。(略)きっとそういう理由から、ラルフは私たちが以前演ってたすべての音楽を見直すっていうアイディアを思いついたんだろう。あと、既成のあらゆる概念を否定するっていうダダイズム的な理由もあったのかもしれない」

(略)

「[マルチトラックの磁気テープをデジタル・データに移し替えたのが]新メンバー、フリッツ・ヒルバートってわけさ。(略)

実は、私はロベルト・シューマン音楽大学のヘニング・シュミッツと知り合いで、彼をクラフトワークに誘ってたんだよ。けど断られてしまってね。で、代わりに紹介されたのがフリッツだったんだ」(略)

数年が、過去の"お色直し"と"純化"、そして"浄化"のために延々と費やされたのだ。「まるで自分の庭に、離陸しないジャンボジェット機がデーンと居座ってるようだった」と、バルトスはそのもどかしい心境を吐露している。(略)

クラフトワーク黄金期のフックやメロディを踏まえた曲を生み出すバルトスは、この頃グループの鍵を握る作曲者となっていた。それに『エレクトリック・カフェ』の頃には作詞面でも重要な役割を担うようになっていたのだ。カールは語る。

「(略)[78年の〈メトロポリス〉]以降、本当にたくさんの曲を書いたよ。『人間解体』や『コンピューター・ワールド』の収録曲は全曲そうだし、シングルの〈ツール・ド・フランス〉、それに〈エレクトリック・カフェ〉の曲もそうだ。

(略)

本当なら、クラフトワークはもっとジャンルの枠を超えた、桁違いのセールスを誇るバンドになれたはずなんだ」と、カールはクラフトワークの伝記の著者であるパスカル・ビュッシーに漏らしている。「でも実際にはそういったことを管理する者が一人もいなかった。ほんのささいなレベルのことでさえ、マネージメントできる人がいなかったんだ。なにしろスタジオには電話もなければ、ファックスもない。ないない尽くしさ。(略)」

(略)

いまや、バンドのことを決める権利はほぼすべてラルフが握るようになっていたのだ。こういう特殊な形態のせいか、月日が流れるほどクラフトワークは音楽ビジネスの世界から切り離されていった。

(略)

 一九九〇年の夏、カールはついにラルフと対峙する。(略)「あのときのことはよく覚えてる。私たちはクリング・クラングや駅にほど近いカフェに座り、プラムのケーキを食べてたんだ」。このときカールは前もってラルフに、フローリアンは誘わなくていいと伝えていたという。二人だけで、ツアーを毛嫌いするフローリアンについて話し合いたかったからだ。(略)

「一、二時間話し合ったよ。このときの会話やその当時の他の会話を総合すると、ラルフは私の言うようにやるのは難しいって感じてたようだった。フローリアン・シュナイダーはステージで一番存在感のあるメンバーだし、ファンが見たいのは彼なんだ。だから彼がいなければ、クラフトワークは完成しないってラルフは言ってた」「あのときまでに、私とラルフ・ヒュッターはクラフトワーク最大のヒット曲を何曲が書いてて、私としてはあのままグループを続けたかった。だがラルフは私の案を却下した。実直なビジネスマンみたいな口ぶりでね。そう、あれはとても友好的で率直な、実りある会話だったと思う。だから私もラルフの意見を理解し、尊重したんだ」「もっとも、あれから二十二年経った今ならハッキリとわかるよ。あのときのラルフにとって最良の決断は、フローリアン・シュナイダーを家に置いて彼なしでツアーに出ることだったんだって。そうすればメンバーの入れ替えもないまま、あと二、三枚はすばらしいアルバムを作れたはずさ。だけどラルフはそうしなかった。自分はフローリアンと結婚関係にあるってことを私に印象づけようとしたんだ」(略)

 結局、間もなくしてカールはバンドを去った。アルバム『THE MIX』がリリースされるほんの数ヵ月前のことだ。このアルバムの大部分で大きな役割を果たしていたにもかかわらず、ジャケットにカールの名前はクレジットされていない。

(略)

 今でもクラフトワークの代表曲は(略)レノン&マッカートニーのようにラルフとフローリアンの二人が書いたと考える人々がいる。たしかに、グループとしてリリースした最初の六枚のアルバムまではそうだ。(略)[だが]一九七八年以降のすべての曲の著作権はカールが保有している。

(略)

いまや四十歳となったラルフとフローリアン。はたしてこの二人はどうやって、九〇年代においても画期的で斬新な音楽のヴィジョンを打ち出していったのだろう?

(略)

ヴォルフガングとカールにとってはさぞ癪に障る話だったに違いない。皮肉にも、再始動したクラフトワークのライヴは大ウケした。(略)

[ポルトガル出身のフェルナンド・アブランテスすぐ解雇され]代役にはスタジオ・エンジニアのヘニング・シュミッツが決まり、このヒュッター、シュナイダー、ヒルパート、シュミッツという顔ぶれはその後十七年間、維持されることになる。(略)

 一九九一年、イギリスのファンは十年ぶりに彼らのコンサートを観る機会に恵まれた。オリジナル・メンバーは二人しか残っていなかったが、それでも観る価値は充分にあった。ジョン・フォックスは言う。「(略)チケットは売り切れで、会場は人で溢れてた(略)観客はとても熱狂的で、しかもあらゆる世代の客がいた。サウンドもすばらしかったし、映像もよかった。彼らがようやく受け入れられたとわかって、感慨深かったな。(略)ただ公演後には疑問が残った。彼らはライヴで観たほうがいいのか、はたまた豪華なサウンド・システムで聴いたほうがいいのかって」

新曲

 クラフトワークが次に人前に姿を現したのは、一九九七年五月二十四日。(略)

 コンサートはBBCラジオが録音していたが、残念ながらオンエアされたのは編集ヴァージョンだった。その夜、ラストから二番目に演奏されたのは、一九八六年以来の新曲だった。演奏時間は五分五十六秒。アップテンポなテクノ風インストゥルメンタルで、ズンズン鳴り響くベースと降下するシンセサイザーのリフが実に印象的だった。困ったことに、その曲には正式なタイトルがなかった。ブートレグ収集家の間では「ルトン」とか「トライバル」の名で知られるが、それが正確なタイトルかどうかはわからない。(略)のちの一九九七年、ドイツ・カールスルーエでのギグでは「リヒトフ」と題された二つ目の新曲もプレイしている。これもやはりインストゥルメンタルだったが、今回はやたらファンキーなベース・ラインと、エレクトロニック・スキャットとでも呼べそうなスタイルの、歌詞が存在しない驚異的なヴォーカルがつけ足されていた。三つ目の新曲は「タンゴ」と呼ばれ、やはりカールスルーエで演奏された。新曲はどれも上品にまとまった『エレクトリック・カフェ』よりも勢いがあるように感じるが、いずれもリリースには至っていない。

 ジャーナリストのマンフレッド・ギリグ・デグレイブは、クラフトワークは九〇年代に入ってからレコード会社に新曲を持ち込んだはずだと主張する。(略)「結局リリースされなかったアルバムが一枚ある。彼らははじめ、ケルンのEMIに録音テープを聴かせたけど、思ったような反応が返ってこなくて頭に来てしまったんだ。あれは九〇年代後半だったと思う。で、彼らは"わかった、もう少しやってみよう"と言ってからテープを持ち帰った。そしてそのあとロンドンのEMI本社を訪れ、そこで新たな契約の交渉を行なったんだ。そうしたのはおそらく、ケルンの連中に首を突っ込まれるのがイヤだったからだろうね。でも、結局EMIロンドンからアルバムはリリースされなかったんだ」

ヴォルフガングは語り、また沈黙する

 一九九九年八月、ヴォルフガングの自伝『クラフトワーク ロボット時代』がハンニバル・ヴァルラグ社から出版された。(略)

家具デザインの仕事を終え、再び音楽を作りたいという衝動に駆られていた。(略)

新たに始めた音楽プロジェクト(略)["ヤモ"のCD「タイム・バイ」は]一九九七年にリリースされた。こうして音楽ビジネスには復帰したものの、クラフトワークへは戻りたくなかった。「ラルフは私を"買い戻そう"としたんだ。大金を積んで(略)あの日、私は彼にすべてを伝えた。グループのメンバーだった頃に言えなかったことも含めてね。彼は私をクラフトワークのメンバーとして呼び戻すためだけに、大金をオファーしてきたんだよ」。(略)

溜まっていた怒りをすべて吐きだし、肩が軽くなった。(略)

「きみは自転車ですべてをぶち壊しにした。カールや私がどうなろうと、知ったこっちゃなかったんだ(略)

あれだけいろんなことがあって、ようやく今日きみは私の前に現われた。そして金をちらつかせて、自分の欲しいものを手に入れようとしてる。だったら人形でも買ってきたらどうだ。私じゃなく、ロボットでも。たとえきみが今日一〇〇万ドルを差し出してきても、今はもう時代が違うんだよ。もっともきみは変わってないようだがね。それにクラフトワークも全体としてはまるで変わってない」

(略)

[ヴォルフガングはすでにEMIとレコード契約を結んでいた]

ついに自分自身のキャリアを追い求める機会を与えられたのだ。自分が何者か証明するチャンスだった。彼はつけ加える。「私が何かを創造してるってことが、きっと彼らには信じられないだろうね。メロディもそうだし、歌詞もそう」

訴訟、出版差し止め

一九九八年にエブリ・プス社から『クラフトワークデュッセルドルフから未来へ(愛を込めて)』(ティム・バー著/未邦訳)が刊行されている。その前の一九九三年にはSAF社から『クラフトワーク:「マン・マシーン」とミュージック』も出版されている。この本の著者、フランス人記者パスカル・ビュッシーは当時ラルフとフローリアンにインタビューを行ない、二人にクラフトワークについての本を書くと伝えていた。そして出版が近づいたある日、事実誤認(略)がないか確認してもらうため、原稿をクリング・クラングに送ったところ、未開封のまま戻ってきてしまったという。本が出版されたあと、ある晩遅くにビュッシーの家へシュナイダー本人が電話してきた。彼の最初の言葉は「きみの本はクソだ」

(略)

 ビュッシーもバーも明らかにクラフトワークの熱烈なファンだった。現に、両者の本はクラフトワークの新たなファンの開拓につながる内容だ。彼らの賛辞がクラフトワークにとって脅威になることはない。彼らよりもはるかに危険で、イメージを失墜させる可能性を秘めていたのはむしろ、元メンバーの回想録のほうだった。

 ヴォルフガングの本は読みやすく、正直だった。通常スターの回想録には書かれないような赤裸々な内容も含まれていたので、いささか正直すぎるくらいだったかもしれない。

(略)

 ドイツでは、この本は出版後最初の二週間で六千部を売り上げた。そして予想どおり、出版元のハンニバル社にはラルフとフローリアンの弁護士から不愉快な手紙が届くことになった。中に入っていたのは「仮出版差止命令」だ。

(略)

[編集者マンフレッド・ギリグ・デグレイブ談]

 「令状が届いたのは、あの本の出版から三、四週間経った頃だった(略)おそらく彼らが本を読み、内容を吟味するのに二週間かかったんだろう。いや、彼らって弁護士たちのことだがね。彼らが送ってきたのは三〇~四〇ページもあるぶ厚い書類だった。(略)

出版社のロベルト・アズダーボールに電話したら、『本の発売は差し止めたよ』『それでよかったと思うすでに六千部は完売してるしね。権利はヴォルフガング・フリューアに返そう。本人が望めば、彼は権利を取り戻せるんだから』って言われた。要するに、彼は相当怯えてたってわけさ」「でも私ならそんなことはしなかったろう。何ヵ所か書き変えるっていう手もあったんだ。いずれにしても初版は完売だったから、そのまま何事もなければ重版になってたと思う。だがロベルトはひどく怖れてたんだ」「ロベルトの気持ちは痛いほどよくわかる。彼はユダヤ人の家庭に生まれて、家族を皆殺しにされ、彼自身は洞窟の中に隠れてて一命をとりとめてる。そして今、巨大なドイツ人の法律事務所が冷酷で容赦ない令状を手にして、彼に食いかかってきた。そうしたらトラブルに巻き込まれたくないって思うのは無理もないよ」「実質上、あの令状は業務停止命令のようなものだった。(略)『(略)本書の販売を新たに行なった場合には、ラルフおよびフローリアンの権利を侵害したとみなし、ハンニバル社は一部につき五十万マルクの賠償金を支払うこと!」って感じのね。(略)

でも、もし彼らの言うとおりに訂正して重版してたら、ドイツでもう四、五万部は売れていただろうね」「で、私はヴォルフガングに言ったんだ。令状はドイツ語版に対してのみ有効だから、英語版は自由に出版できるよ、って。そのあと、彼の弁護士ラディガー・プレッゲとも話した。ヴォルフガングが元バンド仲間から訴えられたとき、ラディガーは必死に戦ってくれたよ。とにかく法的なごたごたはそれから二、三年続いたんだ」。掲載写真以外にも争点はあった。それはヴォルフガングが、クラフトワークサウンドの中核とも言うべき電子ドラム・キットを開発したのは自分だと主張していた点だった。マンフレッドは言う。「でもどうやら、彼ら(ラルフとフローリアン)はあのキットの特許を取得してたらしい」「だから二人は、ヴォルフガングの主張は間違っている、彼はドラム・キットの発明者ではないと言ってきたんだ。この点は、まさに彼ら(ラルフとフローリアン)が絶対に本には載せたくない内容だった。なぜなら、少なくともアメリカではいい弁護士さえ味方につければ、ヴォルフガング・フリューアは特許の使用料を請求できたからさ」

 審理は三回行なわれた。二度はデュッセルドルフで、一度はハンブルクで。毎回ヴォルフガング、カール、フローリアン、ラルフの四人が立ち会った。

(略)

[2001年刊の]英語版では問題になりそうな箇所はすべて削除されていたが、その代わり、オリジナルであるドイツ語版の出版社に対する訴訟について記した章がいくつか含まれていた。

新しいライヴ・ツアー

クラフトワークの新しいライヴ・ツアーは十台のソニー製ラップトップ・パソコンで構成されていた。ヴィジュアルを映し出すためのものが六台と、キューベースを走らせ、実際に音楽を流すためのものが四台。結果的に、妙にコミカルな魅力が感じられる不思議な雰囲気のショーが完成した。ステージに現われた四人の"音楽職人"たちは、コンサートを通じてほとんど身動きしない。たまに音楽が盛り上がってくると、いずれかのメンバーがまずはぴくっと反応して、次に控えめに膝を折り、最後にビートに合わせてつま先で床を叩いたりすることもある。だが、そうやっていったん動き始めたとたん、本人が動きを"自粛"し、たちまち謎めいた不敵な態度へと戻ってしまうのだ。このステージにはとにかく観客の大半が衝撃を受けた。まるで音のアッパーカットを直接細胞に食らったような感覚に陥った。肋骨に響くような重低音とまったく歪みのない高音域。クラフトワークの音楽は非常に純粋で、大音量で、観客の体全体がそれらに共鳴した。そしてポストヒューマン化した四人の背後の巨大スクリーンには、各曲に合わせた映像が完璧な流れで映し出されたのだ。ジョー・ブラックは、二〇〇四年のロンドン、《ロイヤル・フェスティバル・ホール》での彼らの公演を"人生最高のギグ"だと語る。「あれは音と映像とが完璧に融和したエンタテインメントだった。こっちの直感に訴えかけてくるショーだったんだ。彼らが使ってたのは、私がこれまでに見た中で最小かつ最強のPAさ。最初の十五~二十分はみぞおちのあたりで音がズンズン響いてたよ」。

(略)

 同世代の多くのポップ、ロック・バンドと同じく、クラフトワークも九〇年代後期にはすっかりツアー・バンドになっていた。定期的なライヴで安定収入を得ることを長年訴えていたヴォルフガングとカールにとっては、なんとも皮肉な状況であったことだろう。

さらば、ミスター・クラング!

 フローリアンのクラフトワークでの最後のパフォーマンスは二〇〇六年十一月十一日、サラゴサで行なわれた。(略)

[2008年のインタビューで]ラルフは次のように語っている。「そう、彼はツアーが嫌いなんだ。ここ数年はテクノロジーを使った、別のプロジェクトに取り組んでる」

(略)

 [29歳の]シュテファン・プファフェの加入により、近年多くのファンが抱いていた思い――「クラフトワークはラルフ主導のプロジェクト」――が裏付けられることになった。そう、いまやラルフこそがクラフトワークになったのだ。実際、フローリアンはここ何年も作曲という点では決定的な貢献を果たしていなかった。それゆえ彼の脱退により、ラルフに計り知れない重圧がのしかかったわけではない。だがやはり、フローリアンはこのグループになくてはならない人物だった。彼の禿げ頭やすらりと延びた立派な鼻、マッド・サイエンティスト的な仕草、彫像のような風貌、大胆不敵な笑み。どれもクラフトワークの象徴だ。

(略)

いまやクラフトワークのオリジナル・メンバーは一人だけになってしまった。

(略)

ラルフは常にリーダーと見なされていた。フリッツとヘニングはもう二十年近くもバンドの一員としてステージに立っており、そろそろヴォルフガングとカールの代役ではなく、正規メンバーとして認められてもいい時期だった。ところが実際には、多くのファンがフローリアン脱退に目を奪われ、大きな衝撃を受けていたのだ。ラルフ・デルパーは言う。「フローリアンは、ラルフがミヒャエル・ローターとのプロジェクトでグループを抜けてたときもずっとクラフトワークにいた人物だった」「私にとってのクラフトワークはいつだってラルフとフローリアンさ。けど、"ロボット"として頭にまず思い浮かぶのはフローリアンのほうだった。まったく彼は最高だよ!」

(略)

エバーハルト・クラネマンによれば、二人の別離は想像するほど友好的なものではなかったようだ。「(略)フローリアンとラルフは(略)今、互いを憎み合っていて、あらゆる面で問題を抱えてるみたいだ。(略)ラルフはフローリアン抜きでバンドを続けてて、フローリアンは今、ラルフ抜きで音楽を作りたがってる。でも、ラルフがそれを認めないって言ってるらしい。で、どうやら二人とも弁護士と動いてるみたいなんだ。(略)

クラフトワークはEMIエレクトローラとの契約があって、もう一枚レコードを作る必要があるんだ。このレコードが完成すれば、フローリアンは自由になれる。グループと縁を切って自分で音楽を作ることもできる。ただ、それまでは不可能なんだ」「私はまたフローリアン・シュナイダーと音楽を作りたい。(略)でも、フローリアンはレコード会社とラルフと取り交わした契約に縛られて、自分だけのレコード制作は禁じられてる。いわば音楽産業の奴隷みたいなもんさ」

(略)

 この発言はもちろん、二〇〇九年のインタビュー中に語られた、一人の男の見解でしかない。しかし、フローリアンが法的にソロ・アーティストとしての音楽活動を禁じられている可能性は実際にあり得る。同時に、フローリアンがグループを去ったときに、ラルフの金銭的取り決めにより、フローリアン保有クラフトワークの商標権をすべて放棄させられた可能性も示唆している。というか、ラルフとフローリアンとの間で何らかの法的合意が成されていないとしたら、そのほうが奇妙だろう。なぜなら、『アウトバーン』以降のレコードにはすべて"Kling Klang Produkt : Ralf Hutter / Florian Schneider"というクレジットが入っているからだ。この件についてヴォルフガングはこう話す。「想像するに、ラルフとフローリアンはとても長くて巨大な争いの最中にあると思う。(略)おそらく、最初に武器を捨てたのはフローリアンのほうだと思う。わかった、わかった、私はバンドを抜けるよ。あとは好きにしろ、グループの名前も使ってくれってね。ひょっとしたら、ラルフはかなりの額を払ったかもしれない。(略)フローリアンはもう、クラフトワークとは何の関係もない。もしかすると何の権利も持っていないのかも……。曲の著作権保有してるかもしれないけどね。(略)何らかの取引があったのは事実だ。とにかくフローリアンはあらゆることと縁を切りたかったんだよ」

(略)

[フローリアン脱退についてのラルフの発言]

「私に何が言える?私たちは長年一緒に仕事をしてきたパートナーだったけど、彼には別のプロジェクトがあるんだ。かたや私は自由なアーティスト。これからも先へ進むだけさ」「彼の真意は理解できない。だが彼自身が下した決断だからね。今は大学で教えたりとか、いくつかのプロジェクトをかけもちしてるようだよ。(略)

彼はもう何年も、たとえば合成音声といった別のプロジェクトに没頭してた。クラフトワークの仕事にはほとんど関わっていなかったんだ」

 もっとも彼の脱退以前、ラルフが述べていたのはまったく異なる見解だ。数年前にフローリアンの重要性について訊ねられたとき、ラルフは『シカゴ・サン・タイムズ』紙にこう語っている。「電撃結婚みたいなものさ(笑)。ミスター・クリングとミスター・クラングのね。そいつはステレオだから全方位に音楽を放出する。陰と陽、クリングとクラングさ」。記者に「ではフローリアン抜きでクラフトワークのレコードを作ることは考えられない?」と問われ、こう答えている。「ああ、あり得ないね。そんなことは不可能だ。それがクラフトワークの本質なんだから。ステレオであることが」

クラウス・ディンガー、ミヒャエル・ローター

カール・バルトス自身の手による、クラフトワークに在籍した数年間を振り返った自伝が出版されるにはまだ時間がかかりそうだ(略)。バルトスは今でもライヴでクラフトワークの名曲を演奏している(もちろん自分で作曲したか、共作した曲に限られるが)。

(略)

クラウス・ディンガーは二〇〇八年に六十二歳の生涯を閉じた。(略)

[ミヒャエル・ローター談」

「彼は千回以上、LSDでトリップしたのを誇りに思ってたよ。(略)

[助けてくれる]多くの人と疎遠になり(略)最終的に孤独になってしまったんだ。まあ、彼のほうもオフィスをぶっ壊したり、法外なギャラを要求したり、レコード会社とバカなことで揉めたりもしたけどね。(略)」

 エバーハルト・クラネマンによれば、クラウスディンガーは晩年、貧困にあえいでいたらしい。「(略)最後のほうは病院へも行けなくなっていた。金がなかったからさ。ドイツには医療保険があるのに、クラウスはそれにすら入ってなかったんだ。まったく理解できないよ。医者に行ってたら、病気が治ってたかもしれないのに(略)その二つが原因で彼は死んでしまったようなものさ」

 元メンバーにはミヒャエル・ローターもいる。(略)「一九七五年以来、彼らとは会ってもないし、話してもいない。あの年が私に連絡してきた最後だったと思う。『アウトバーン』ツアーのために、バンドへ戻ってくれないかっていう誘いだった。ただ、あの頃の私はハルモニアで忙しく活動しててすごく充実してた。一九七五年にはノイ!のリリースも控えてたしね。だから興味が持てなかったんだ。(略)」

 ただし、ミヒャエルはカール・バルトスとはずっと親しくしているという。

(略)

ミヒャエル・ローターが先駆者的なミュージシャンとして活発に活動を続け、今もなお幅広い称賛を受けていることは言うまでもない。

総括

 ジョン・フォックスは言う。「クラフトワークサウンドは他の誰にも似ていない。最初からずっとそうだった。彼らはロックの常套句をいっさい放棄し、その後に残されたものだけで音楽を作ったんだ」「彼らは最初から自分たちの限界に気づいてた。だからこそ卓越した技術と粘り強さで、自分たちの音楽を洗練されたスタイルへ変えていけたんだと思う」「彼らは途方もない時間をかけて、自分たちの楽器や自分たちが生み出すサウンドを完璧にしようと試みた。そうしてできあがった音はすべて、驚異的な彫刻作品みたいに研ぎすまされてたし、いつも空間の中に完璧に収まってたんだ」「彼らの曲を聴くと、まるで三次元空間の中を彼らの音に包まれて歩いてるような感覚に陥ってしまう。その結果、余計に純粋な音の楽しさに気づかされ、いつのまにか共感覚が生み出されるんだ」「あと、彼らのヴィジュアル・イメージには芸術作品と同じくらいの力がある。彼らの作品は、ミュージシャンにとっての時空構造を数世紀にわたって変えてしまったと言ってもいい。実際、彼ら以外のポップ・ミュージシャンはスパイナル・タップ(同名映画のために、ロック・バンドの定番イメージに沿って作られた架空のバンド)みたいに見えるようになってしまったんだ」。一九八七年、デヴィッド・ボウイは『ローリング・ストーン』誌に次のように語っている。「クラフトワークは職人のようだ」「彼らはこういった椅子を作ろうと考え、それをデザインし、最終的にとても美しい椅子を完成させる。ただ、それはどこから見ても寸分違わない同じ椅子なんだよ」

(略)

 一九九二年、ラルフはこんなふうに述べている。「自分のレコードのベスト10を挙げろと言われたら、私はいつも静寂を含めることにしている」「レコード・プレーヤーを切ってみるといい。そのときに得られる音こそ、最も重要なサウンドのひとつなんだ。巷に精神安定剤みたいな音楽がよく流れてるだろう?店の中やエレベーターの中、生活のあらゆる場所で人々を落ち着かせようとするあの音楽。私はあれが大嫌いなんだ。ただの公害だよ。そう、私たちはいつも、あの手の音楽を公害音楽と呼んでるんだ。ああいった音楽は廃止すべきだと思う。だって私たちが聴きたいのは本当の音なんだから。私はエスカレーターの音を聴きたい。飛行機が飛ぶ音や、列車の音をね。いい音のする列車はそれ自体が楽器なんだ」「あのつまらない人々が生み出した、つまらない音楽を私たちは止めないといけない。アメリカではなるべく小さなワイヤー・カッターを持ち歩いて、くだらない音楽を流すケーブルを見かけるたびに切ってしまえばいい……」「私たちは自分たちの曲の中に車や列車の音を吹き込むことで、現実に気づいてもらおうとしているんだ。音本来の美しさを知ってもらいたいんだよ」

(略)

アナログ式演奏による初期作品(略)の古いやり方もそれなりによかったのではないだろうか?どこか魅力的で、のびのびとした解放感が感じられないだろうか……?この点についてジョン・フォックスは言う。「限界って自分で積み上げた壁のようなものかもしれないね。(略)初期の『放射能』のサウンドは好きだったなあ。すごく原始的なリズム・マシンと、美しいまでに不完全なシンセサイザーヴォコーダーを使ってる。だが今の彼らはすべてが完璧なんだ」「私たちはようやく、音楽の喜びはミスタッチやエラー、不調や故障にあるってことに気づき始めている。言い換えれば、不完全なものこそ今は高品質と見なすことができる。その本当のよさを実感できるようになってきたんだ。コニー・プランククラフトワークのそういうレコードを何枚も生み出した。彼が手がけたクラフトワークのレコードを聴いてると、その時代のある瞬間に自分が存在してるみたいな気になれるんだ。だけど、その後のアルバムからは時代の質感とか特徴ってものが丹念に消去されている」「コニー時代あたりのクラフトワークは、シンセサイザーを使ったレコーディングでサウンド的なピークを迎えたと思う。(略)」(略)

二〇一〇年にジョン・フォックスは言っている。「彼らと一緒に何かをやるのはすばらしいことだと思う」「彼らに必要なのは、これまでたまった澱みたいなものを一気にすくいとってくれる人物だと私は思ってるんだ。たとえばリック・ルービンみたいなね」「唯一の問題は、オリジナル・メンバーが散り散りになってしまったことだろう。よく言われる"メンバー間の化学反応"ってヤツはたしかに存在するからね。たとえ最善を尽くしても、そういうものって失うときはあっという間に失ってしまうんだよ」