ボラン・ブギー 電気ノ武者伝説

パンクのゴッドファーザー

[マークが死んだ77年、パンク席巻。パンク系ミュージシャンは]

ロ々に彼を"パンクのゴッドファーザー"と呼んでいた。実際、マークは1974年のグラム・ロック衰退時、あるインタビューでこう答えている。「僕は確かにグラム・ロックから始まったけれど、もう違う。今ではグラム・ロックは恥ずかしいものだと思うし、本当に僕のやりたかったことでもなかった。パフォーマーはフリークになる必要はないんだ。僕は単なるストリート・パンクなのさ」

(略)

マークのパブリシストだったキース・アルサン(略)「(略)その当時はマークが再びトップに返り咲きつつある時だったからね。心身ともに健康状態も良くなってたし、なによりも彼自身、ニューウェーブに刺激されてすごく熱意を持っていたんだ」

魔法使いとの出会い

売り込みに失敗し、傷心のまま再び両親のいるウインブルドンに帰ったマークだったが(略)

俳優のリッグス・オハラとともに、パリに放浪の旅に出る。(略)

このパリ旅行は後の彼の人生の方向を決定づける大きな意味を持っていた。それは、有名な"魔法使いとの出会い"である。

「パリに渡った時、そこで偶然にも僕は魔法使いに出会ったんだ。5か月間、その魔法使いと一緒に暮した。(略)僕は、黒魔術を除くありとあらゆる魔術、呪術、錬金術をそこでマスターした。ロンドンに戻っても、それから2年間ほどは、魔術関係の本を読破することにたくさんの時間を費やしたもんだよ」

 この発言は、絶頂時のマーク・ボランの神秘性を高めるのに一役買った(略)が、今現在は、彼特有の誇張された発言として知られている。ある人は「マークが一緒に暮したのは魔法使いではなく、実際はただのゲイだった」と言う

(略)

彼の空想癖と虚言癖が混じりあって生まれた架空のエピソードと思って間違いないだろう。

サイモン・ネピア=ベル

[66年セカンドシングル発表、マーク・ボーランドからマーク・ボランに改名。『レディ・ステディ・ゴー』初出演時、一緒に出演したジミヘンのギターに衝撃を受ける]

 あまりパッとしないまま、デッカとの短い契約も切れてしまったマークは(略)マネージャーの必要性を痛切に感じ(略)

サイモン・ネピア=ベルに突然電話をかけて、こう言った。

「僕はシンガーで、過去にないくらいビッグなブリティッシュ・ロック・スターになるから、有能なアレンジメントができるマネージャーが必要なんだ」

 サイモンが、それならオフィスの方にデモ・テープを送れ、と告げたにもかかわらず、10分後にはサイモンの家にやって来たマークは、首からギターをぶらさげて言ったのである。

「テープがないから、今すぐここで歌ってみせるよ」

 それから50分間、マークの歌を辛抱強く聞いたサイモンは、彼のルックスと才能に天性のスター性を感じとり、すぐさまレコーディング・スタジオを手配し、その晩中かけてデモ・テープの録音をした。ちなみに、この時のテープの一部が81年にバックの演奏をダビングして、アルバム『ユー・スケア・ミー・トゥ・デス』として発表された(略)

 翌日、そのデモ・テープを何度か聞き直したサイモンは、マークのマネージメントを引き受ける決心をして、彼に電話をした。電話を受けたマークのセリフがふるっている。

「僕には君がイエスと言うのがわかっていたよ。だって、どれもとってもいい曲だったろ?」

 サイモンは、マークの無雑作かつ無遠慮な態度に対してこう語る。

「遠慮知らずってのは、彼の最も鼻につくところだね。でも、それは彼の楽しい一面でもある。マークはけっして自慢なんかじゃなくって、自分自身の中に見出したクリエイティブな才能に、純粋に自分なりの賞賛を与えていたんだ。彼の場合、それが嫌味に聞こえないのが良かった。(略)」

(略)

 名マネージャーとして名高いサイモンの手にかかれば、大EMIの説得もたやすいことだった。しかし、EMIは"ヒッピー・ガンボ"が売れるレコードだとは、まったく思っていなかった。それなら、なぜマークと契約したのか?答えはひとつ。サイモンがマネージメントするヤードバーズは、その頃、EMI系のコロンビア・レーベルのドル箱だったのである。事実"ヒッピー・ガンボ"は、それほどヒットしなかった。テレビ局のプロデューサーやラジオ番組のDJは、ほとんどがマークのビブラートの効いた高い声を嫌っていた。

ジョン・ピール「ミドル・アース」

 レイ・ブラッドベリの同名短編小説から、その名前をつけたといわれるティラノザウルス・レックスは、メンバー・オーディションの結果、6人組のエレクトリック・バンドとなった。(略)マーク自身が、当時"マイ・ホワイト・バイシクル"のヒットで注目を集めていたバンド、トゥモロー(後にイエスのメンバーとなるスティーブ・ハウのワウワウ・ギターが売りだった)影響を受け、似たようなサウンドを目指したからだった。

(略)

[結成1週間]ろくにリハーサルもしないまま、コベント・ガーデンの「エレクトリック・ガーデン」でライブを行なうのだが、バンドはまともな演奏ができず、観客から非難の野次が飛ぶという悲惨な結果に終わっている。(略)

「それは最低のギグだった。(略)なにも生み出せずにマークは自尊心をひどく傷つけられた。で、それ以後、絶対にエレクトリック・ミュージシャンとは一緒にやらないと言って、ひとりでやるようになったのさ」

 マークは、エレクトリックな不協和音にあきあきしてしまったのだ。

「電気楽器は今後いっさい使わない。僕は安全でいたい。間違った方向に行かないように演奏したい。だから、もう僕ひとりだけでバンドなんかいらないし、エレクトロニクスもいらない」

 マークの書く詩からは、以前に見られた社会的観察力はなくなり、かわりにゴブリンや妖精や魔法使いの無限のおとぎ話の世界を作り上げていった。

(略)

マークは、スティーブ・ペレグリン・トゥックとアコースティック・デュオを組むことになった。2人ならば思うような演奏ができるとマークは考えたのだ、しかし、この時期マークが電気楽器を使わなかったのは、ジョンズ・チルドレン時代の器材がすべてトラック・レコーズからの借り物で、それをギグの不評によって取り上げられてしまったからだとも言われており、本当のことは定かでない。

「(略)彼がジョンズ・チルドレンをやめる時、楽器は全部トラック・レコーズに返しちゃってたからね。その辺が関係してるとも思うよ。で、そのアコースティックがウケるってことがわかってから、マークはそのスタイルに固執しちゃって長い間変えようとしなかった」(アンディ・エリソン)

 マークは『ザ・パフュームド・ガーデン』というラジオ・ロンドンの番組で、DJをしていたジョン・ピールに、ファンからと称して、1967年にリリースしたソロ時代のラスト・シングル"ヒッピー・ガンボ"を送った。ジョン・ピールは、その曲をえらく気に入り、番組で毎日のようにかけまくった。

(略)

現在もDJを続けるジョン・ピールは、新人発掘に定評があり数多くのロック・ミュージシャンに貢献した伝説的なラジオDJだ。そんな彼が、初期ティラノザウルス・レックスの良きサポーターだった。ジョンは、ラジオ・ロンドンをやめて、マークらとともに「ミドル・アース」でDJを始めた。ジョンが新しいタイプの音楽をかけ、ティラノザウルス・レックスはその間にアコースティックで風変わりな音楽をプレイした。

 1967年から1968年にかけて、マークとスティーブのデュオは、ロンドンのヒッピー達の同胞意識に迎えられた。当時は、いわゆるサンフランシスコから輸入されたヒッピー・ムーブメント、ヒッピー・パワー自体は下降気味だったが、ロンドンのミュージシャンやアーティスト達は、そのドラッグ文化と神秘主義が統一されたライフ・スタイルや50年代の"ビート"派の流れをくむ思想に、一味違う解釈を施しはじめていた。

 そういうイギリスの一連のバンド、ピンク・フロイドやクリーム、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス、ソフト・マシーンらは、ヒッピー文化に独自のブルース感覚やリズム・アンド・ブルースのリズム・パターンを導入して、実験的な新しい音楽を形成していった。新しいバンドが次々とさまざまなスタイルを持ってデビューした時期だった。マークがその流れに乗り遅れるはずがなかった。

 いつしか「ミドル・アース」は、いわゆるアンダーグラウンド・ロックの総本山として知られるようになっていった。そのまとめ役をしていたのがジョン・ピールで、そこから出てきた3大アンダーグラウンド・バンドが、ピンク・フロイド、インクレディブル・ストリング・バンド、そしてティラノザウルス・レックスだった。

(略)

 この頃、サイモン・ネピア=ベルは、マーク・ボランのマネージメントから正式に手を引いている。サイモンはマークに「契約を白紙に戻し、陰ながら応援しよう」と言った。マークも、「これからは反商業的なヒッピー・ムーブメントの中でがんばるよ」と言って、彼の意見に同意した。その会見の数時間後、マークは新しいマネージャーと契約した。その男ブライアン・モリソンは、反商業的でもヒッピー的でもない、決まりきったマネージャー・タイプの男だった。

トニー・ヴィスコンティ

 ともあれティラノザウルス・レックスは、"音楽は世界を変えることができる"と思われていた時代にマッチしてうけた。評論家の中には、それをうさんくさがり、皮肉を言う者もいたが、ファンはマークの独特なボーカル・スタイルにまいっていた。パーティでマークの物真似をするのが流行したりした。

 後に、マーク・ボランが通いつめることになるキングス・ロードのブティック「グラニー・テイクス・ア・トリップ」のオーナーだったジーン・クレイル(略)

によれば、当時のロンドン・ファッション・シーンや若者文化はこんなようすだ。

「ちょうど、当時は"こういうことをやっちゃいけない"という先入観や固定観念が取り払われはじめた時期でね。僕らもそういう意味であらゆる方面からファッションにアプローチできた。とにかく、50年代っていうのは男は男らしく女は女らしくの時代だったけど、60年代に入ってその概念が取り払われていったというわけだ。"男だって、今まで女しか身につけていなかったようなアクセサリーとか、派手な色の服を着たりしてもいいじゃないか""髪を伸ばしたからって女っぽいわけじゃない"というような概念が、ヒッピー・ムーブメントの影響もあって出てきたんだ。性別で分けられた区分けがないってのが一番ナウな時代だった」

 好調なスタートを切った新生ティラノザウルス・レックスを、マークは当時、自分達と同じくアンダーグラウンドのトップ・グループと見なされていたインクレディブル・ストリング・バンドやピンク・フロイドを手がけていたプロデューサーのジョー・ボイドに売り込み、デモ・テープをレコーディングすることになった。(略)

[しかし納得のいくデモはできず]

自分の狙い通りの音楽を作るため、別のプロデューサーとやってみることにした。それが、「ミドル・アース」で知りあった当時20歳の新進エンジニア、トニー・ヴィスコンティだ。ムーブのプロデューサー、デニー・コーデルの下で働いていたトニーをプロデューサーに迎えたレコーディングでは、まさしくマークが望んでいた通りの音がテープに録音された。この時、マークとトニーのゴールデン・コンビは生まれたのだ。トニーは、早速そのテープをEMIに持ち込み、EMⅠ傘下のリーガル・ソノフォーンとの契約に成功する。そして、1968年4月1日に、ティラノザウルス・レックスは、記念すべきシングル"デボラ/チャイルド・スター"で念願のレコード・デビューを果たした。

(略)

 この曲はチャートの34位まで上がるヒットとなり、7週間にもわたってチャート・インし続けるという、アンダーグラウンドながらなかなかのヒットを記録した。これは当然、ジョン・ピールの後押しが効を奏している。再びラジオDJに戻ったジョンは、この曲を何度もオンエアして売り出しに一役買ったのだ。ジョンはBBCに職を持つとすぐに、マークにラジオ・セッションの機会を与えるほど彼に入れ込んでいた。そんなことからマークも、デビュー・アルバム『マイ・ピープル・ワー・フェアー』の"インカの恋"や、サード・アルバム『ユニコーン』の"ロマニー・スーフ"で、ジョンに詩を朗読してもらっている。

初のアメリカ・ツアー

[『ユニコーン』ではセカンドアルバムの]印税でハーモニウム・リップ・オルガンやフォノフィドル(略)を導入して、エレクトリックなものへの再挑戦(略)

トニー・ヴィスコンティの提案を受け入れ[ベースを入れた](略)

1969年6月29日に(略)"キング・オブ・ザ・ランブリング・スパイアーズ"が本国でリリースされていた頃(略)初のアメリカ・ツアーにトライしていた。当時のアメリカは、イギリスのロック・バンドにとってはひとつの救いだった。国内である程度の人気を得たブリティッシュ・バンドは、成功への突破口を求めてアメリカへ行くか、あとは落ちぶれて忘れられるかのふたつにひとつしかなかった。(略)

 マークとスティーブに、[恋人の]ジューン、そしてローディのロニーの4人だけ、という少数精鋭で行なったこのツアーは、アンダーグラウンド・スターの名に恥じない低予算ツアーだった。人が雇えなかったために、ジューンがミキサーをやった

(略)

彼らの陰影に富んだ美学は、太陽の多すぎるアメリカには不向きなものだった。

(略)

[NYの]小さなクラブでギグを行っていた同じ時刻(略)目と鼻の先の(略)ウッドストックでは、あの歴史的なフェスティバルが開催されていた(略)

 マークとスティーブの決別は、このUSツアー中に起きた。(略)

[スティーブはクスリのやりすぎでギグの最中にストリップ]

ミッキー・フィン

ロンドンに戻り、再び「メロディ・メイカー」にパートナー募集の広告を出した。ただし、そこには"おとなしいボンゴ奏者求む"と、ただし書きが添えられていた。

 しかし、新聞広告では良いパートナーを見つけることができなかったマークは、結局、ジューンの友人であったジョン・ロイドに、ある若者を紹介してもらう。(略)

ハプシャシュ・アンド・カラード・コートというバンド(後にグラウンドホッグスを結成するトニー・マクフィーも在籍していた)で、2枚のレコードを出していたパーカッション奏者のマイケル・ノーマン・フィン、すなわちミッキー・フィンだった。彼はミュージシャンであるとともに、ビートルズのアップル・ビルの壁画を描いたことでも知られるペインター・グループ"ザ・フール"の一員でもあった。

アメリカ・ツアーから帰ってきたマークは、音楽性やイメージといったあらゆる意味で、すべてを新しく変えたがっていた。スティーブ・トゥックは、それまでやってたヒッピー文化にそのまま引きずられていったけど、マークは違った。それは多分ミッキーの影響もあると思う。ミッキーは当時、作詞もしていたし音楽もやってたけど、基本的にはペインターだったし、いわゆるトータル・コーディネートされたアーティストで、キングス・ロード界隈ではセカンド・ウエーブの代表選手として知られてたんだ。その後のT・レックスは、もちろんマークのアイデアでもあったけど、ミッキーがいなかったらできなかっただろうね。彼はミュージシャンとしては物足りなかったけど、ビジュアル面に関しては、すごく才能があってアイデアもいっぱい持ってた」(ジーン・クレイル)

 マークはミッキー・フィンの第一印象をこう述べている。

「彼は歌えないし、コンガもあまり上手ではない。でも美しかった。見栄えがした」

 バイ・セクシュアルだったと言われるマークは完璧にミッキーに惚れていた、というよりも、失った恋人スティーブの幻影をミッキーに求めていた、といった方が正しいかもしれない。ジャンキーになる前の、思慮深かった頃のスティーブの幻影を、である。

 実際、ジューンが初めてミッキー・フィンに会った時、スティーブ・トゥックと見分けがつかなかったくらいで、背が高く髭を生やし、芸術家肌で物静かなミッキーは、スティーブに実によく似ていた。

(略)

 1969年10月に、エレクトリック・ギターの練習の必要性を感じたマークは、フェンダーストラトキャスターを買い、当時、ブラインド・フェイスのリハーサルに余念がなかったエリック・クラプトンの家に滞在し、彼のギター奏法を伝授してもらった。マークが本格的にエレクトリック・ギターの奏法を学んだのは、この時が初めてだったと言われている。(しかし、この時マークはギター・コードを6つ憶えただけでクラプトンのように弾けると思い込んでしまい、これがその後のT・レックスのライブ評価を低める要因となる。マークはそれを「自分に取り憑いたジミ・ヘンドリックスの霊のせいだ」と、述べている。)

 1970年1月20日、マークとミッキーによる新生ティラノザウルス・レックスのニュー・シングル"バイ・ザ・ライト・オブ・ア・マジカル・ムーン/ファインド・ア・リトル・ウッド"がリリースされた[が不発]

(略)

怒ったマークは、この頃、こんな発言をしている。

「シングルにはあきあきした、この国ではシングルはもう望みがない。これからはアルバムしか作らない」

 恩人ジョン・ピールでさえも、この曲をラジオでかけなかった。(略)

[怒ったマークはジョンからの電話に居留守を使い二人の仲は完全に壊れた]

デビッド・ボウイ

 この頃、マーク・ボランは、デビッド・ボウイと初めて会い、親交を深めている。

(略)

「マークはいつもスターだった」という後の発言を見てもわかるように、ボウイはマークを尊敬していた。マークはすでに確固たる自分の世界を作り上げていたが、ボウイはその頃まだ模索中だったからである。そんなボウイの部屋を、マークは始終訪れ、彼を勇気づけるとともに音楽について話しあった。マークはボウイに、今のマネージャーから離れ、別の人間を見つけるよう勧めた。マークが始終マネージャーを変えていたように、だ。

 マークは、マーキュリーから1970年3月にリリースされたボウイのシングル"冷たい炎(プリティエスト・スター)"のレコーディングに参加することになった。レコーディング・メンバーは、ドラムスにウッディ・ウッドマンジー、ベースにトニー・ヴィスコンティ、ピアノにリック・ウェイクマン、そしてギターにミック・ロンソンとマーク・ボラン(この曲は、後にアルバム『アラジン・セイン』でリメイクされているが、ミック・ロンソンはマークの弾き方を忠実に守っている)。ボウイはこの時点で、マークに正式にバンド加入してもらいたがっていたが、マークは、レコーディング・セッション以外に他人のバンドに参加するのはジョンズ・チルドレンでもう懲りていた。

(略)

 マークは、ボウイに多大な影響を与えた。模倣の天才、ボウイの"ホリー・ホリー"は、マークの完璧なコピーだった。実際、ほとんどの人がその曲をマークのオリジナルだと思っていた。

(略)

マークが新たなエレクトリック音楽へと脱皮を試みはじめた時期に、初めてデビッド・ボウイと出会っていた、というのは実に興味深い事実だ。ボウイとのセッションをこなしながら暗中模索していたマーク・ボランにとって、真のポップ・スターとしての始まりは、もうすぐそこまで来ていた。ポップ・スターとして有名になる前にマークが出版した唯一のオリジナル詩集『ザ・ワーロック・オブ・ラブ』には、マークお気に入りの魔術的でシュールな詩に混じって、こんな詩の一節がある。

 

僕は古代エジプトからやって来た、

ロックン・ロールをやるために

グラム・ファッション

「グラニー・テイクス・ア・トリップ」のオーナーだったジーン・クレイルは、当時のグラム・ファッションについて、次のように語っている。

「『グラニー』のファッションは、ヒッピー的な文化とバイ・セクシュアルなセンスが結びついて生まれたものなんだけど、ギンギラギンのスーツ自体は、1950年代に流行したキッチリとしたスーツのパロディだったんだ。スクエアーなものをパロディ化して、パッと見た目に笑えるっていうセンス・オブ・ヒューモアで作りはじめたものだったんだよ。ラメとかサテンのフラッシュなヒカリモノは、オープン当初から取り入れてたけど、始めたばかりの頃はまったく新しいものだったからね。通りをそのテの服を着て歩いてるだけで、ものすごい非難を浴びたもんだ。

 そんな中で、仲間同士のコミュニティは、より強く結ばれていった。特に、精神的な部分でね。たとえば、外に出ると叩かれるわけで、そういう中で僕ら自身も強くなっていった。それが、新しい僕達の文化の証しが生まれてくる土壌となったんだ。逆に言えば、外から叩かれることによって、内部から出てきたのが僕らの文化だった。僕らだけで、新しい文化を守っていかなければならなかったわけさ」

(略)

「僕が思うに、オリジナル・グラムは、マークも憧れてたジミ・ヘンドリックスだろうね。ハイヒール・ブーツにドレープ・シャツ。いかしてたよ。その後の最初のグラム・ロッカーは、なんといってもエルトン・ジョンだろうな。彼はグラムのオリジネーターのひとりだよ。マークも取り入れてたトップ・ハットやビッグ・スーツ、それから彼のトレード・マークだったビッグ・サングラスなどなど、オリジナルなアイデアをたくさん僕らの店に持ってきた」

「当時は、ストーンズロッド・スチュワートも、皆ライン・ストーン・スーツを着て、メイク・アップ・アーティストもちゃんとつけて、グラム・ロッカーになっていった。ビッグ・スターだったストーンズに、僕らが影響を与えたってのは、かなり気分が良かったよ。特に、キース・リチャードのためにラメのカントリー&ウエスタン・スーツを作った時は、彼がツアーでそれを着たもので、それを見た客がみんな欲しがってね。面白かったよ。今じゃ誰も、ストーンズやフェイセスのことをグラム・ロックだなんて言う人はいないけど、当時のステージの雰囲気は実にフラッシュでグラムだった」

「グラムといえば、スレイドのデイブ・ヒルとかスウィートのブライアン・コノリーとか、グリッター・バンドの連中とか、みんなメイクする前はアグリー(醜い)そのものだった。悲惨だったのはゲイリーグリッター(笑)。(略)どの服もみんな欲しがるんだけど、超デブで、服がぜんぜん着れないんだ。結局、彼のために特別に服を作ったんだけど、ヒットを飛ばしはじめテレビに出るようになってからは、けっこうスリムになってたね。たぶん当時のマネージャーが相当強引なダイエットをやらせたんだろうな」

「他にもエヴァリー・ブラザースからダイアナ・ロスまで、いろんなミュージシャンが洋服を買いに来たけど、そんな中で、ジョン・アマトレーディングは、自分のポリシーを持ってて良かったよ。当時、彼女のマネージメントは、エルトンと同じところがやっていた関係から、彼女とマネージャーが店にやって来て、ステージ用のスーツをいっぱい作ったんだけど、最後まで彼女はそれを気に入らなくてステージで一度も着なかったんだ。ごく普通のセーターでステージに上がったりしてた。僕はそういう方が自分のファッション・ポリシーを持ってて、いいことだと思ったね。だって当時は、猫もしゃくしもグラム・スタイルだったから……。なにしろトニー・K(元イエスのキーボード・プレイヤー)のいたバジャーなんていうプログレッシブ・ロック・バンドの連中まで、スーツをオーダーしにきたんだ。笑っちゃうよ」

オリジネーターとしての自負

 T・レックスが引き金となって、イギリスのポップ・シーンには次々と、グラム・ロックのシンガー、グループが登場した。

(略)

ローリング・ストーンズとかが、あまり演奏活動をしなくなって、これといった進展のない今、皆、僕らのやっていることを真似している。いわゆるグラム・ロックという言葉は、たくさんのグループをむりやりひとまとめにするためにつけられたもので、今では新しいロック・バンドはみんなグラム・ロックと呼ばれている。僕らが演奏活動を始めた時は、こんなグループはひとつもなかったし、グラム・ロックなんていう称号もなかった。むしろ僕は、逆にグラム・ロックがなにを意味する言葉なのか、聞きたいくらいだ」

「今のロックが、すべて本当にロックしているものなのか、僕にはわからない。僕は僕なりのものをやっきてるし、ロッド・スチュワートも彼なりのものをやってると思う。ストーンズは、ある意味では非常にすごい連中だと思うけど、明らかにいろんな問題があるね。(略)フーもそれなりに頑張ってるが、若い連中はもう彼らをすごいとは思ってないよ。誰かを特に嫌ったり、軽蔑したりはしたくないけど、優れたロック・ミュージシャンは少ないね」(略)

「いくらビジュアルが主体といったって、音楽自体が優れていることが第一条件なのは言うまでもないことだ。これを忘れているグループもあるけどね」

「(T・レックスがいつまで続くと思うか、という問いに答えて)この種のグループが続くのと同じくらいは続くんじゃないかな(笑)。(略)

それに、僕らが1発のヒット・ソングを出しただけで、あとはオジャンというようなグループだとも思えない。そういう意味じゃ、一時的な流行を追っかけてるロック・グループとは違うよ。例えば、ビートルズの歌はいろんな人に歌われたよね。結局はそれによって、彼らが食いちぎられて壊れていった。逆にローリング・ストーンズの歌は、彼ら以外には歌えない。メロディをコピーできても、あの感じを真似できやしない、完全にコピーなんかできない。僕の歌もそうなんだよ。誰にもちゃんとこなせはしないと思うよ。僕の友人達はおいといてね」

「僕の中にあるすべてのものを、残らず表現して吐きだしたいと思ってるよ。だから、これからはアーティスティックな路線を狙っていくつもりだ。ロック界全体はどうなるかわからないけど、ただひとつ言えるのは、性的なモチーフが重要になってくると思うよ。このふたつをビジュアルに表現していくのが、Tレックスの音楽なんだ」

初来日

初日の武道館公演。(略)

「これがグラム・ロックか!という感じのライブだったね。(略)

よく、派手そうな人で、そういうの期待してライブに行っても、やらない人いるじゃない。押さえちゃってさ。でも、マークは目いっぱいで出てきた。ピッカピッカで出て欲しい、と思ったらその通り。唇はすごい色だし、目のまわりにはパンダみたいにホクロがついてるし、ライトが当たると、眩しくて姿が一瞬見えなくなるほど光ってた」(石坂敬一氏)(略)

『ザ・スライダー』が、当時の洋楽アルバムにしては珍しく30万枚も売る大ヒットとなっていたので、コンサートは大いに盛り上がった。(略)

 T・レックスの人気は、アメリカより日本の方が高かった。その大歓迎を受けて気をよくしたマーク・ボランは、突然、日本でレコーディングをしたいと言い出した。

「今でも残っている東芝EMIスタジオで行なわれたんだ。(略)トニー・ヴィスコンティは来てなかったから、プロデュースはマーク自身。マークは例のレスポールでね、音色がもろにマーク・ボランしてた。チャック・ベリーが好きとか言って、ああいうブギーを弾くんだけど、マークがやるとマーク・ボラン以外の何者でもない音なんだよ。ビブラートとかチョーキング、ブルース・テクニックとか使って独特の境地。メロディを弾くんだけど、高音は弾かないしね。ほとんど5番線、6番線あたりのリフ。で、それをもとにして作るから、みんなユニゾン。ベースもギターと同じフレーズ弾いてるし。(略)」

 オフはあまり外にも出なかったマークは、ホテルで終始テレビを見ていたようで(略)『仮面ライダー』を見て気に入り、後のアルバムタイトルにつけたことは有名なエピソードとして知られている。

疑心暗鬼

 1973年3月2日、日本でレコーディングされたシングル"20センチュリー・ボーイ/フリー・エンジェル"がリリースされた。

(略)

[人気の下降から]

マークは、誰かが、やっと手に入れた彼の成功を奪うのではないか、と疑心暗鬼になり(略)誰とも名声を分けあいたくないと思うようになった。

 マークは、トニー・ヴィスコンティのレコーディング作業をじっくり観察し、これからはプロデュース・ワークも自分でやろうと、ひとり決意をかためていた。この思いが、マークをレコード業界に売り込んでくれた恩人ヴィスコンティとの仲を壊す、という結果を招くことになるのである。

(略)

 とはいえマークも、ひとりですべてをコントロールできるほどプロデュース・ワークに長けていたわけではなかった。そこで、1年ほどの間、ヴィスコンティとの共同プロデュースという形でレコーディングを進めることになるのだが、このことでヴィスコンティが面白くない気分を味わったことはまず間違いない。

(略)

[ジューン談]

「もう、誰も彼に言いきかすことのできないところまで来ていたわ。彼に"ノー"と言えるのは私だけ。彼は信用という気持ちを失くしてしまったの。最も悲しかったことは、ずっと父親のように接してきたリンゴ・スターとの関係も壊してしまったことね」

ボウイとの最後の収録

[75年、グロリアとの間にローラン誕生]

[77年]ダムドをサポートに従え、ツアーに出た。ダムドのドラマー、ラット・スキャビースは後にこう語っている。

「マークは、ツアーで僕らを大いに助けてくれた。多くのパンク・ロッカーにとって、マークの影響は大きいよ」

 マークの晩年に彼と活動したミュージシャンは、皆一様にマークの援助に感謝し、その献身ぶりに感心さえしている。(略)ベースのハービー・フラワーズ(略)いわく、マークはおごり高ぶったところがいっさいなかったと言う。純粋なローランの影響は、マークの邪悪な心をすべて消し去ったようだ。

(略)

 ニュー・バンドを率いたマークの前途は、ようようたるものだった。別居中だったジューンも、そんなマークに安心していた。

「彼は本当に幸福そうで、私も、これならまたうまくいくだろうと思ってました」

 1977年の夏には、毎週水曜日4時15分からの、グラナダTVスペシャル・プログラム『マーク』のホストとして、レギュラー・シリーズを持つことになった。この番組のプロデューサーは、マークが15歳の頃入りびたっていたTVショー『ファイブ・オクロック・クラブ』を手がけていたミュリエル・ヤングという女性であった。(略)

「初めて会った時のマークは、小さくてハンサムで可愛らしい顔をしてたわ。ちょっと生意気でクールなところもあったけど、その頃から彼のまわりにはいつも霊気が漂ってた」

 彼女は『マーク』の始まったきっかけについて、こう話す。

「ロンドンのレストランでマイク・マンスフィールドと食事をした時、彼に、新しい子供向けのポップ・プログラムにどんなタレントを使えばいいかって相談してたの。そしたらそこへ偶然にもマークが入って来て、思わず『彼だわ!』って思ったんだけど、その場ではすぐに決めなかった。だってマークは、もう今さらティニー・バッパーをやる感じでもなかったから。でも、その後マイクにそれを電話で話したら、そのアイデアに大賛成してくれて、すぐに彼を使うことを決めたの。

 マークは私をよく助けてくれたわ。彼がいたおかげで、たくさんの新しいグループが初めてTVに出てくれた。ジャムにエディ&ザ・ホット・ロッズ、ジェネレーションX、ブームタウン・ラッツ。みんな『マーク』なら出るって言ってくれたわ。当時、マークは『パンク・ロックはやたら騒々しいけど、あと3年間は大きな威力を持つだろう。それからは実力のあるものだけが残るはずだ』と言ってたけど、まさしくその通りになった」

 マークはこのTV番組のために、7本のショーを撮った。不本意ながら最終回となってしまう7回目のゲストは、スイスからこの番組のためにわざわざ飛んで来たデビッド・ボウイだった。(略)

2人が揃うと、スタジオ中に一種独特の不思議な雰囲気が漂いはじめた。縦縞のシャツを着たボウイはまっすぐにマークの横に立ち、まるで別の空間にいるようだった(略)

 ボウイは、空中をじっと見つめてから、「ショーに関係ない人間は出てけ!」と怒鳴った。2人のスーパー・スターのスケジュールに合わせて2日も待機していたホット・ロッズや他のバンドも、スタジオから追い出された。

 ボウイがまずひとりで"ヒーローズ"を歌い、それからマークとのジョイントが始まった。ボウイは固い決心を顔にあらわし、マークは心配そうにフロア・マネージャーに聞いた。

「僕は前かい?それとも後ろかい?」

全盛期にはあれほど自信家で自意識のかたまりだったマークとは、まるで別人のようだった。

居残りをきめたホット・ロッズのメンバーのひとりが叫んだ。

「マーク!地に足着いてさえいりゃいいのさ」

マークとボウイは歌い出した。突然ステージ上で騒動が起こり、演奏が途切れた。単なる電気事故にしかすぎなかったが、時が時だっただけに周囲はあわてた。(略)

演奏が再開し、ボウイが"1、2、3、4!"とシャウトすると、マークは興奮してステージを落ちてしまった。またも、演奏中断。

 アクシデントが多発したために、時間は押され、本番はほんの数分しか残されなかった。7時になると、技術関係者は電源を切って帰ってしまうのだ。(略)

[ミュリエル・ヤング談]

「(略)とにかく最後は1分半しかマークとボウイのための時間は残されていなかった。それで、7時になって電源は切られてしまい、おしまい。マークはひどく残念がっていたわ。デビッドはそうでもなかったけど」

次の週、マークとミュリエルはもう1度会い、編集作業をした。

「それが、私がマークに会った最後だった。その2日後の金曜の朝、彼は死んでしまったの。あとになって、彼らの演奏を1分半で打ち切った番組に対する非難は相当なものだった。『ジェネレーションXなんていらない。マークとボウイにもっとやらせるべきだ』ってね。でも、あの時はしかたなかった。本当は5分用意されてたんだけど……」

加藤和彦

(略)

 なんでボクがT・レックスを好きなのかなぁーと必死に考えているんだけれどもこれがわからないのでありまして困ってしまうのです。ボランちゃんにかかわり出したのは、インクレディブル・ストリング・バンドてのがあって、それの真似をしていたみたいな頃のティラノザウルスの頃だからして、もうかれこれ3~4年にはなるのです。今でこそ、昔のアルバムが続々と出されているけれども、いきなりあの当時のを聞くと、これはもう趣味のバンド以外の何物でもなかったんだけれども、なんとなくひっかかる所があったのです。それが今じゃ、コロッと変わりやがって大人気となり果てたのです。

 そもそもあの人は2つか3つのコードで曲を作り上げる名人なのでありまして、そういう点は昔と全然違わないんだけれども、最近のT・レックスになってからのエコーの使い方とか、音の重ね方がすごく進歩したのです。こういうのはイギリスの連中の全部に言えることでありまして、ギターの音はこきたなく、ドラムはペンペコ、声は4重に、エコーで包むというのが一般的手法なのであります。その中でもとりわけバカチョン・リズムの強いのがT・レックスでありまして、このバカチョン・リズムというのが好きな原因ではないかと思うのであります。一口にバカチョン・リズムと言っても、ストーンズ風ひねり型バカチョン・リズムもあれば、スレイド風テッテイ的バカチョン型まで色々ありまして、T・レックスのは人呼んでジルバ風バカチョン・リズムなのでありまして、全員がバラバラなリズムなのにまとめて聞くとこれになる、といった風になっているのであります。

 加うるにボランちゃんの動き方というのがこれまたみっともないくらいに動きまわるので、人間的にもバカチョン天下タイ平なのでありまして、そういう所がバカの拙者にもヒシヒシと伝わってくる所が不思議なのであります。

(ミュージック・ライフ 72年12月増刊号)