ジョニー・マー自伝 ザ・スミスとギターと僕の音楽

一族

 幼少期の僕は、何をするにも、ほぼ常にキルデアからやってきた親戚と一緒だった。父方の親戚が5人、母方が14人。つまり、何人ものおじとおば、そして増え続ける一方のいとこがいたというわけだ。

(略)

これだけの数がいると、僕ら親戚の中だけで一種のコミュニティが形成される。同じバックグラウンドと歴史を共有する大家族。

(略)

 その朝(略)母がメイおばさんと慌てた様子で部屋に入ってきた。(略)母が45回転盤レコードをターンテーブルに乗せた。赤いレーベルのやつだ。針が落とされ、流れてきたのはエヴァリー・ブラザーズの"ウォーク・ライト・バック"のシンプルなギター。それに聴き入る2人の様子を見ながら、母は音楽が大好きなんだな、とわかった。(略)2人が心から楽しんでいる様子を見ながら、良いなと僕は思っていた。

(略)

母たちは何度も曲をかけ直しては、ここはこうだとか言いながら、曲に合わせて歌っていた。あまりに何度もそうするもんだから、僕もしまいには曲を覚えてしまったほどだ。(略)

あの時、何よりも僕が惹かれたのは大音量のギター・フックだ。それ以来、どんな曲を聴いても、僕の耳は自然とギター・フックを探すようになった。

(略)

 僕らの家では常に音楽が流れていた。(略)母はしょっちゅうレコードを買っていた。自分の予想ポップ・チャートをまとめては、本物のトップ20と比べるなんていうことをしていた。

アイルランド、ミス・コケイン、色彩

僕の一家がアードウィックから8マイル(約13キロ)離れたウィゼンショウに引っ越した時、気分はまるでビヴァリーヒルズに引っ越したかのようだった。僕は8歳。(略)インナーシティ問題の解決策として打ち出された行政のクリアランス計画の一環として、僕らは古い家から立ち退きを 命じられたと。でも僕にしてみれば、新世界を開拓しに行く気分だった。

(略)

ウィゼンショウはサウス・マンチェスター郊外の労働者階級の街で、ヨーロッパ最大の公営集合住宅だ。

(略)

セントラル・ヒーティング完備な上、何よりも嬉しかったのは家の中にトイレと本物のバスタブを備えた風呂場があったことだ。これまでのように 、金属のたらいにお湯を張って行水をする必要もない。

(略)

人種のるつぼだという点は新たなコミュニティでも変わらなかった。イギリス人、東洋系、ジャマイカ移民、アイルランド移民がすべてそこに放り込まれていた。70年代初頭、イギリスでは暴力と人種差別が過激さを増していたが、本国での爆弾やテロ騒ぎが報道されたことはアイルランド移民の状況を悪化させた。ある日の午後、僕は友人の家にいた。するとその友人の母親が近所に住む、とある家族のことを大声で非難し始めたのだ。(略)最後に「アイリッシュの豚どもめ」と吐き捨てた時、その言葉が僕に向けられていることに気づいた。家族が悪質な攻撃を受けたようでショックだった。

(略)

 新たな担任はミス・コケインという20代後半の女性教師だった。放課後に教室で煙草を吸うような、現代的で、皮肉にもその名の通りに印象的な女性だった。非常に厳しい一面がある一方で、僕には興味を示してくれ、ギターはどのくらい上達した?と、時々聞いてくれたりした。僕にクリエイティヴな一面があることを見抜いてくれたのも、彼女だけだったかもしれない。ある午後、教室を出ようとした時、僕は呼びとめられ、教室に戻った。(略)

「君には気づくべき才能があるわ。アーティストになるっていうのはどう?」。そう言われた僕は嫌な気はしなかった。「道は2つ。退屈して、面倒に巻き込まれるか、好きなことを見つけ、それを極め、アーティストになるか、そのどちらかよ」。彼女の口調は優しかったが、本気で僕を心配してくれていることがわかった。「でもそれは簡単なことではないわ。本気で頑張らないと」。(略)

「君はギターが弾きたいのよね?でもこの学校ではギターは教えていない」。(略)

「でも、ギター以外にも君にはできることがあるはずよ。それを頑張ったことを見せてくれたなら、学校にギターを持って来ても良いことにしましょう。どう?他に君が好きなものは何?」(略)

しばらく考えたのち、僕は答えた。「色、かな」

「色?(略)どんな色?木とか?自然?どういう意味?」。彼女は興味をそそられたようだった。僕はどう答えたら良いものかとまたしばらく考えた。「自転車」。さらにこう付け加えた。「それと、服」

その答えに彼女は笑った。でも僕は真剣だった。

「わかったわ、ええ、そうよね」

家に歩いて帰る途中、僕はさっきの会話を思い返していた。アーティストか。悪い響きじゃない。そう言われて悪い気もしない。まるでドアが僕の前に示されたようだった。しかもそのドアは大きく開いている。

(略)

実際、僕は色に夢中だった。緑は緑でも、青は青でも、その細かい色合い1つにまで、僕にはこだわりがあった。音楽に対して感じていたのと同じくらいに。

(略)

[中古自転車]を分解し、色を塗り直すやり方を教えてくれたのはマイクおじさんだった。もともとは古ぼけたパープルだったオンボロ自転車が、目を見張るようなメタリック・ブロンズ(略)の新品に変身したのだ。その数週間後、今度はメタリック・ゴールドに、その次はダーク・レッドがかったシルバーに、その次はと、どんどん僕は色を塗り替えた。自転車の色を塗るのが楽しかったのだ。近づいては色を確かめ、その色の中に吸い込まれていった。不思議だったのだ。なぜある色ではこう感じるのに、別の色だとまた違う感覚になるのだろう。

 服に関しては、これ以上ないというくらいの環境が僕には揃っていた。労働者階級の人間はファッションにこだわる。なぜなら服装は自分自身、そしてなりたい自分の表現手段だからだ。(略)

オックスフォード・バッグスと呼ばれる、靴まで隠れる幅広ズボン(略)

僕は派手な「エレクトリック・ブルー」や美しい「ボトル・グリーン」がお気に入りだった。(略)でも一番は何と言っても「ペトロール(ガソリン)・ブルー」と呼ばれる絶妙な色だった。それは完璧と呼べる色合いで、僕が生涯好きな色になった。モス・サイドにあるジャスティンズに行き、ただその色を眺め続けていたほどだ。しかし、そのさらに上を行く色という点では、トニック・スーツの色に勝るものはなかった。(略)

グラデーションで色が変わる「玉虫色」の生地のジャケット&パンツ。その崇高さは自然をも超えていた。

マーク・ボラン

[T・レックス]"ジープスター"は僕が自分のお小遣いで始めて買ったレコードだ。

(略)

ドラムのビート、すぐにギターと手拍子。まるで誰かがそこらへんの部屋で演奏しているみたいだった。その頃のポップ・ソングがオーケストラやピアノやボーイ・バンド・ハーモニーをバックにつけていたのとは違う。この曲は何かが変わってる。面白い。ちょっと変だ。するとシンガーが歌い出した。「優しい君 きれいな君」。(略)数秒もすると、曲はフックに到達した。「ガール 僕は君の愛のジープスター」。すると次の瞬間、予想もしなかった奇妙で暗いコードが飛び出した。曲が始まってたったの45秒。僕はもう一度聴こうと心に決めていた。旅に乗り出してしまったのだ。初めて聴く"ジープスター"は曲を聴くというよりは、サウンドの発見だった。男が歌う内容はどうでも良かった。というか、サウンドに合っているからそれで良かった。どうせ飛び出してくるのは「君の髪にもたれかかる宇宙」といったフレーズで、9歳の僕には意味はわからない。でも心に引っかかる。どういうわけか、それで良いんだと思えた。

 その時からマーク・ボランがアイドルとなった。僕は見つけられる限りのポスターや写真を集めた。(略)映画館に出かけ、彼の映画『ボーン・トゥ・ブギー』も観た。(略)

そのわずかあとに、T・レックスはシングル"メタル・グルー"をリリースした。それは別世界からの音かと思えるほどに美しい曲だった。「トップ・オブ・ザ・ポップス」で演奏するボランを観たあと、僕は興奮状態のまま自転車を乗り回していたのだろう。気づくと道に迷い、我に戻ってからようやく家に帰れたのだった。この出来事の直後、僕はボランがマークのスペルをMarkからMarcに変えたことを考えていた。そして良いことを思いついた。発音しづらい僕の苗字 Maher、を(略)Marr のスペルにするのが良い。

(略)

  あの時、あの年齢で、あのレコードを初めて手にしたことの意味は大きかった。なぜなら僕が初めて聴いてギターを弾けるようになったのが"ジープスター"とB面曲"ライフズ・ア・ガス"で、そこから自分で曲を書く道のりが始まったからだ。

(略)

[色々な]レコードを聴き込むうちに、アレンジやプロダクションに関することにも気づくようになった。例えば違う楽器が入ったり出たりすることで、ある種の効果を生み出せること、もしくはヴォーカルを力強くしたければ、ギターやオルガンでユニゾンで弾けば良いこととか。70年代初めのレコードはどれも型にはまらず、奇抜だった。僕はギター・パートだけをコピーするのではなく、曲から聴こえてくるサウンド全部をギターで弾こうとした。それは偶然ながらも、1人ですべてをこなすワンマン・バンド的なアプローチだったわけだ。

(略)

[同じ集合住宅で一番仲が良かったクリス・ミルン]

2人でグループを作ろうと言い出したのがどっちだったか、覚えていない。(略)

僕はどうすればクリスが歌える曲が書けるようになるのか、考え始めた。そうやって書いた初めての曲は、基本、ボランのパクリだった。ボランの歌の内容を何もわかっていなかったことを考えると、自分でも驚いてしまう。ボラン自身、わかっていたとは思えないが。曲を書くこと自体はそれほど難しいことではなかった。パクリではない曲も何曲か書けたし、それを歌ってくれる友達もいる。あと何人か同じ11歳をみつければ、バンドができ上がる。しかしその実現を前に、クリスと僕の世界征服計画はいったん保留せねばならなかった。僕らには向かうべき場所があったのだ。マンチェスター・シティFCのホームグラウンド、メイン・ロードだ。

恐怖のフットボール観戦

 70年代初めのイギリスにおけるフットボール観戦。子供にとってそれは恐怖を伴う、他の何事にも例えようがない体験だった。種族意識と粗暴さと敵意のオンパレード。ブーツとサスペンダーにフェザーカットやスキンヘッドの男や少年が、手首やベルトにスカーフを巻き、罵声を上げ、徒党を組んでいる。誰もどいつが何歳かなんて気にしていない。この中にいる限り、みんな一緒。いったん小競り合いになったなら(それはいつもなるのだった)100歳だろうと11歳だろうと、年齢は関係なく、とにかく走る。そして構わず誰かに蹴りを入れるか、入れられるか。でなければ、フェンスにしがみついているかだ。テラスの中、大声を上げる年上の男たちに混じってもみくちゃになるのは、大人になる試練のようなものだった。テラスと呼ばれる立見席にはイアリングをし、髪を染め、眉を剃り落した男たちがいた。皆、スキナーズと呼ばれるパンツを向こうずねのあたりまで折り返し、24穴のドクターマーチンを履き、針と墨を使った自作タトゥーを入れている。そのすべてが僕には驚きだった。

 僕はホーム戦にはすべて行き、たまにアウェイ戦に行くこともあった。アウェイの試合に出かけるのは自殺行為だった(略)

何百という血に飢えたミドルズブラ・ファンが僕らを取り囲んでいた。(略)

モンスターの大群が突進してきた。大パニックだ。僕はシティ・ファンの波に飲み込まれ、気づくと通りに掃き出されていた。(略)通りを猛ダッシュで渡り、死に物狂いで走り続けた。どこをどう走ったか覚えてもいない。たどり着いた横道で、完全に迷って、独りぼっちになったことに気づいた。すると、通りの向こうから若いミドルズブラ・ファンが駆け込んできて、僕の目の前で止まったのだ。鉢合わせのまま、僕らは数秒立ち尽くした。叩きのめされるのは嫌だ。かといって、僕も誰かを叩きのめしたいわけじゃない。目の前にいる敵を見定めた。年齢は僕と同じくらいだ。怯えている。どちらも同じような苦境に立たされているのだ。僕はとっさに両手を挙げ、喧嘩したいわけじゃないと態度で示した。相手は手を伸ばし、握手をした。そして手首に巻いていた赤と白のシルクのスカーフを外し、言った。「スカーフ、交換しないか?」。アウェイ戦で、敵チームのスカーフを手に入れるのは、戦利品を手に入れることを意味している。僕はそれをもらうと、自分のを外して渡した。肩をポンと軽く叩かれ、僕らは別れた。僕はそのまま無我夢中で走り続け、最終的にはヒッチハイクでシティ・ファンの車に乗せてもらい、家に帰ったのだった。

グラマー・スクール

 75年の夏季休暇[初日、険しい丘を走り降りる途中、前輪に足が絡まり]

ハンドルの上を飛び越えるように回転して、放り出された。(略)立ち上がった僕の手首が手からだらりと逆方向に垂れ下がっている

(略)

6週間もすればギプスが取れるということだった。つまり夏休み中、新しい学校に通い始める寸前まで、ずっとギプス生活を送らねばならない(略)

僕の脳裏に浮かんだのは「この腕でどうやってギターを弾けば良いんだ!?」ということだった。

 夏季休暇は拷問となった。ギターが弾けないだけでなく、自転車にも乗れない。僕はレコード・プレイヤーの脇に座って7インチ・シングルの山を聴き続けた(略)

その夏、僕がひっきりなしに聴いていたのが、ハミルトン・ボハノンという何とも興味をそそられる名前のアーティストの曲、"ディスコ・ストンプ"だった。催眠的なギターは聴けば聴くほどクセになる。この腕が治ったらすぐにコピーしよう。僕は待ちきれなかった。ギターが弾けないなら別のことに気持ちを集中するしかないわけで、僕はザ・ホリーズの『グレイテスト・ヒッツ』に合わせて歌ううちに、ヴォーカル・ハーモニーを独学でマスターした。

(略)

 セント・オーガスティン校に通うことに対して、僕の気持ちはまだぐらついていた。一方でここに通えることの特権を僕は感じるべきだった。それは僕の成績が良かったからであり、学校もすぐさま、生徒にエリート意識を植え付けるようになるわけだった

(略)

 グラマー・スクールの現状をしっかり受け止め、僕は順応しようとした。中流者階級や上流者階級の子と一緒になるのは生まれて初めてだ。良い家に住み、休暇は外国に出かけるような生活は聞こえは良いが、特権意識はともすると人を小心者にするのだとわかった。両親が離婚した子に会うのも初めてだった。労働者階級の人の集まりでは、離婚という言葉は一度も聞いたことがなかった。

(略)

 英語と美術、それとなぜか得意だった数学以外で、僕が学校で夢中になれたのはフットボールと音楽だけだ。学校のフットボール・チームに入部した僕は小さくて足が速かったのでライト・ウィングになった。ウィングというポジションが僕は好きだった。僕のメンタルにも合っていた。スピーディに動いたり、切り返したり、相手に追われたり、追い返したりするのは楽しかった。

フーリガンの暴力、トニーのキス

 ウィゼンショウ出身であることのマイナス点は、噂通りの暴力を受けるに値する点だ。地下鉄構内を歩く時も、公園を横切る時も、間違って悪い相手に出くわさぬよう、万全の注意を払う。(略)ギターを持っている時はなおさらだ。ある晩、友人宅からの帰宅中(略)遠くに2人のフーリガンが見えた。どちらも知った顔だ。日によっては親しげに接してくるが、別の日には理由もなく襲いかかってくるような連中だ。今日がその前者であることを願いながら、彼らの脇を通り過ぎようとした時、後頭部にレンガの破片が投げつけられたのを感じた。さらに石が頬のあたりに投げつけられ、鈍いブーンという音が耳のあたりにした。でもどうしても僕はそこから走って逃げることができなかった。何かが、僕をそうさせなかったのだ。というか、もし僕が走れば、きっと彼らは追いかけてきて、僕を蹴り回したに違いない。頭からの出血で家に帰る頃には両手いっぱい血だらけだったので、母にまた病院に連れて行かれ、何針縫った。その後も、僕に石を投げつけた連中と顔を合わすことはあったが、彼らは何もなかったかのようだった。それが日常だったのだ。

 友達のトニーは実に美形だった。ボウイ・ファンの彼はブロンドのジギー・ヘアカット、高い頬骨、シャム猫のようなグリーンの瞳

(略)

3歳年上だったが、僕が初めて会った、自分がゲイであることを隠さなかったやつだ。

(略)

ゲイと言っても女っぽいわけではなく、辛辣で、穏やかで冷静沈着。(略)猫のような身のこなし(略)

 僕とトニーはよく一緒にいた。そのことで色々と噂をされたが、僕はまるで気にしていなかった。(略)

ノース・マンチェスター訛りの2人の大柄の醜男が近づいてきて、あやすように何かを言い、投げキスをしてきた。トニーは知らんぷり(略)

「お嬢ちゃんたちはホモなのかな?」。間違いなく、彼らは喧嘩がしたいのだ。(略)トニーは2人に背を向けたまま相手にせず、僕に話しかけ続けている。痺れを切らした1人がトニーの背中を小突き、こう言った。「おい、ホモ野郎」。その瞬間、トニーは僕の頭をぐいっと鷲掴みにすると、唇にキスをしたのだ。僕にはうんと長い時間だったように感じられた。すると今度は男たちの方を振り返り、でかい方の顔にパンチを喰らわした。何発も。ついにそいつは膝からガクンと落ちた。次に、後ずさりしかけていたもう1人に重たい顔面パンチを喰らわすと、車が往来する通りに体ごと放り投げた。車に轢かれて死んじゃうんじゃないかと僕は思ったが、そのまま電車の駅を目指して走り始めた。途中、トニーがくるりと振り向き、こう言った。「あのキスは良かった」。そして笑いながら言い加えた。「心配するなって。もうしないよ」

(略)

僕は、横にいるトニーに目をやり、"すべての若き野郎ども"の歌詞を思い出していた。「ルーシーは女王のように素敵な着こなし でも相手を蹴らせたらラバみたいで まじにやばいチームだぜ俺たち」

初めてのエレキ、ロリー・ギャラガー、ストゥージズ

1日2回の新聞配達のバイト代すべてと両親からのカンパを合わせた32ポンドで、僕は初めてのエレクトリック・ギターを購入した。

(略)

[ロブ・オールマンの家に集うミュージシャン]全員が共通して好きだったギタリストはニルス・ロフグレンピート・タウンゼント、そしてビル・ネルソン。僕はキース・リチャーズが大好きだった。ウエスト・ウィジーのジュークボックスで60年代のデッカからのシングルを聴いて以来の、ローリング・ストーンズ信奉者だった。キースの第一印象を決定づけたのは、誰かの家で見た『スルー・ザ・パスト・ダークリー』でのイメージだ。レコードで耳にしたギターの音を鳴らしていたのが、写真のこの人物なのだと知り、僕は心奪われた。ルックスもヒーローそのものだったし、クールなリフでバンドを駆り立てる役割は僕にとっての灯台のように思えた。60年代後半から70年代初めにかけてのキースのギターのフリーキーっぷりを皆、忘れてやしないか。実にフリーキーで危険なギタリストだったのだ、キースは。彼の編み出すリフは誰よりもカッコよかった。

 もう1人、当時の僕が影響を受けたのはロリー・ギャラガーだ。レコード店で彼のアルバムを見つけた時、きっと僕が好きな音楽だな、とわかった。当時のバンドがどこかよそよそしく、トールキン風の華美なイメージを纏うか、オルガンを変に多用したり、意味のないことをサウンドに盛り込んだりする中、アイリッシュのロリー・ギャラガーには大いに共感できた。彼がおんぼろギターでかき鳴らす、無駄を削ぎ落としたローファイなロックは完璧な音楽の見本そのもの。ギターを演奏するために生きているかのようであり、もしそうしたいなら、一生、ギターとアンプのある部屋でギターを弾いて生きることもできる、それが永遠の世界になるのだ、と彼の存在そのものが物語っているようだった。

(略)

前の晩、ロンドン出身のセックス・ピストルズという新人バンドのギグが行なわれ、何人かが観に出かけていた(略)ビリーはこのバンドを大絶賛していた。彼らはでかい音で短い曲を演奏し、めちゃめちゃ若いんだ、とビリーは言った。「すごく良かったよ、ジョン。すごくね」。(略)次には前座を務めたバズコックスというバンドの話でもちきりになった。マンチェスター出身で、壊れたギターを使っていたという。僕は気づいた。たった1日のうちに、何かが明らかに変わったと。その後、友人の兄貴が買ったバズコックスの7インチEP『スパイラル・スクラッチ』に入っていた"ボアダム”が、僕が初めて聴いたパンク・ソングとなった。

(略)

 その間に僕のギター・プレイも進歩していた。これは良いな、これは僕らしいんじゃないか、そう自分でも思えるスタイルができつつあった。アコースティックとエレクトリックはどちらも弾くようにしていた。それができてこそ、ギタリストとして完成する。どちらも同じくらい上手くなる必要がある、そう思ったのだ。ある時、ロブの家でリフを弾いていると、ビリーが入ってきて、こう僕に聞いた。「それってジェイムズ・ウィリアムソン?」。(略)

誰なのか、僕は知りたくなった。「イギー&ザ・ストゥージズの『ロー・パワー』の中の曲に似てたんだ」とビリーは言った。「きっと君もすごく好きじゃないかな」

(略)

[ヴァージン・レコードで]『ロー・パワー』を探した。わお!なんてジャケットだ!?そこに写っているのはそれまで僕が見たこともないような、信じられないほど強烈で不気味な生き物。(略)

"サーチ・アンド・デストロイ"を初めて聴いた時の衝撃はすごかった。なぜ誰も僕に教えてくれなかったのだ?次の曲"ギミ・デンジャー”が流れた。そのアコースティック・ギターサウンドは僕がやってたことと同じだった。どうすれば一体?それまでに聴いた中で最もヘヴィでセクシーでダーティで、僕みたいな人間に探せる限り最高の兄貴といったところだ。ジェイムズ・ウィリアムソンの演奏も完璧。アルバムを一度聴き終えると、それから何度も聴き返した。聴きながら、僕の進むべきはこれで良いんだ、と思った。

(略)

僕、クリス、ケヴィン、ボビーのラインナップが揃い、ついにバンドができた。(略)パリス・ヴァレンティノズ(略)が僕らの名前となった。

 パンクの到来により、ファッションも変わった。(略)

僕らはスーパーから髪染め液を万引きし、ほぼ毎週のように違う色の髪になった。ジョニー・サンダースニューヨーク・ドールズに夢中になり、自分で髪を切り、目にはアイライナーを引くようになった。(略)

名簿の名前をMaherからMarrに変えてほしいと言い張ったが却下されたため、教科書にはMarrと書き、出欠をとる際、〈マーハー〉とか〈メイヤー〉と呼ばれたなら、答えるのを拒んだ。

(略)

初めてのギグは77年夏、エリザベス女王即位25年祝典で行われた路上パーティ(略)

太陽が照りつける中、テーブルに登ってまず演奏したのはシン・リジィの"甘い言葉に気をつけろ"のちょっと不安定なヴァージョン。(略)"ジャンピン・ジャック・フラッシュ"、トム・ペティの"アメリカン・ガール"と演奏

(略)

 ある日、父がリヴァプールでの1週間の仕事に付き合う気はないか?と聞いてきた。ジョン・レノンが通ったクオリー・バンク高校近くの道路が現場だったので、ポップ・カルチャー絡みで僕が興味を持つんじゃないかと思ったのだ。さらには学校の休暇中、何かまともな仕事を経験させるのも僕のためになると思ったのだ。

(略)

月曜の朝5時半(略)なんで俺はこんな時間に起きてるんだ?と思いながら父のバンに乗り込んだ。(略)

「先が見えるか?」と父が言った。(略)「これからあの先まで掘る。先までずっとだ。そして金曜日にはここに俺たちがいたことすら、誰も気づかんだろう」

(略)

それは長く続く道だった。バンから重機を引きずり出し、まだ何も始めてないというのにすでに泥だらけだ。あとはひたすら頭を垂れ、道を掘り続けた。(略)

毎日僕は堀に入り、ガス管を設置。(略)

1週間後、道は最初の姿に戻っていた。父から渡されたのは125ポンド。悪くない。こんな大金を手にしたことは一度もない。体を張って得た金だ。これを父は毎日やってきたのだ。そのことが何より僕を感心させた。

アンディ・ルーク

[学校では]誰とでもわりとすぐ友達になれたが、共通の趣味を持つ者は誰もいなかった。そんなある日、授業の合間の休憩時間、1人の少年が近づいて来て、僕がつけていたニール・ヤングのバッジを見て言った。「『今宵その夜』」。いや、もっと正確に言うのなら、そう歌ったのだ。ニール・ヤングと同じ歌声で。感心すると同時に、笑わずにはいられなかった。そいつの名前はアンディ・ルークといって、僕とは違うクラスで、僕らの学年で唯一、規則の髪型にしていないやつだった。レコードの話をしているうちに、2人ともギターを弾くことがわかり、もっと話をしようということになった。明日、うちへ来ないかとアンディが誘った。彼の母親が僕をピック・アップしてくれるという。

 僕はギターを持って、家の外で待っていた。すると大きな白い車がやってきた。出てきたアンディの母親はエリザベス・テイラーマンチェスター人にしたような顔つきだった。電動で車のトランクが魔法のように開き、僕はギターをトランクに入れ、後部席に乗り込み、アンディにやぁ、と言った。エグゼクティヴ用の社用車に乗るのは初めてだったが、その瞬間、アンディの家庭環境は僕とはどこか違うのだということがわかった。

(略)

 部屋に入ってすぐ目についたのは壁の絵だった。アンディの母親が描いたというそれはクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのアルバム・カヴァー。そのアルバムを彼が知っていたこともだが、息子の部屋の壁に母親がそのジャケットの絵を描いたということに、僕は感心させられた。

ニール・ヤングナイル・ロジャース

 友人の何人かはヘヴィなロックやプログレに夢中だったが、僕はどうしても好きになれなかった。そこにももちろんギターは入っていたのだが、僕には年寄りみたいなフルート奏者がいるのも、ドラゴンも、ローブも、興味が持てなかったのだ。レコードは一応はチェックしたが、クラシカルなキーボード奏者がとりとめもなく即興演奏しているだけ。ギターもあるにはあるが、同じことを繰り返しているだけで、これという何かがないように思えた。あるとしたら、そのミュージシャンがよほど練習しているんだということがわかる、というくらいだ。もう1つ、ヘヴィ・ロックのシーンには女の子がいなかった。まさに女子禁制の世界。そんなものが良いはずがない。

(略)

 ある晩、僕は部屋の赤い電球をつけ、友人たちとニール・ヤングに聴き入っていた。すると隣の妹の部屋からはいつものようにズンズンと低音を響かせたディスコ・ミュージックが聴こえてきた。(略)『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』の内省的な瞑想の世界に浸り続けようとしていたその時、妹がドアをガバッと開けて入ってきた。部屋の中を見回し、呆れたように「あなたたち、楽しんでるんでしょうねぇ」とそれだけを言うと、ダンスをしながら自分の部屋に戻っていった。僕は妹の後を追い、隣のディスコについていった。そこでかかっていた音楽のすばらしいことと言ったら!高揚感があって、メロディがあって、何よりもギターがすぐに耳に飛び込んできた。それはシックというバンドで、ギタリストはナイル・ロジャースだった。すっかり虜になってしまった僕は、それからシックを聴きまくった。どの一音も覚えてしまうくらいに。そこで聴こえる、癖になるようなギターのリズムと同じくらい、ハーモニックなコード・チェンジが好きだった。ナイル・ロジャースのプレイには、片手に彼のハートが、もう片手に彼のソウルが感じられるのだと僕は思った。

パティ・スミスモリッシー

 ライヴ会場でも集合住宅でも、たむろしているやつらはほぼ全員ドラッグをやっていた。(略)メインだったのはハッシュかドローと呼ばれる大麻で、人生の内在的な一部と言えるほどだった。マジック・マッシュルームも界隈では好まれていた。ブルックウェイ・フィールズにわんさと生えていたので、僕らはそれを沸騰させたサイケデリック・ドリンクを作り、幻覚を起こしながらウィゼンショウをさまよい歩いた。

(略)

幻覚症状や、いわゆるオルタード・ステイト(注:日常的意識状態以外の意識状態)が僕は好きだった。だからパティ・スミスを知り、彼女が読むランボーウィリアム・ブレイクを引用した超越的なポエトリーを知った時、受け入れる準備はできていた。アポロでパティ・スミスを観たのは14歳の時。(略)『ホーセズ』の反響は大きく、"ビコーズ・ザ・ナイト"はチャートに入るヒットになった。僕は『ラジオ・エチオピア』での彼女が歌うピュアなロックンロールの奔放さが大好きで、それこそ毎日のようにアルバムを聴き返した。パティ・スミスのファンになったことでCBGBのことも、ニューヨーク・シーンのことも知ることができた。ザ・ヴォイドイズもトーキング・ヘッズも、テレヴィジョンも、そのギタリストのリチャード・ロイドもとにかく最高だったのだ。

 パティ・スミスのライヴへは1人で出かけた。会場に入り、バーに行くと、そこにはビリー・ダフィと何人かがいた。ビリーから紹介されたのは、スローター&ザ・ドッグスのハワード・ベイツ(略)それと眼鏡をかけたスティーヴン・モリッシーという男。新しくなったザ・ノーズブリーズでビリーと一緒だということで、彼の名前だけは知っていた。僕は軽く挨拶だけをして、会場内に入った。

 パティ・スミスとバンドがステージに登場した。(略)それは呪いの儀式を目撃するようで、彼女はまったく別レヴェルにいるように思えた。ライヴは電気が走るロックンロールな儀式で、ステージそのものが別次元のようだった。こここそが僕の生きる次元だ。翌日、僕の世界はそれまでとは違って感じられた。また1つ道標が見つかった瞬間だった。

フットボール、ドラッグ

フットボールは好きだった。(略)マンチェスター・ボーイズの選抜選考会が開催されていて、僕は学校の推薦でそこに参加したのだ。トライアルの結果、僕は選考に受かった。次はマン・シティのユース・チームの選考会だ。練習グラウンドに行けたこと、そこで選手の姿を見られたことは大事件だったが、同時にフットボール選手になりたい少年たちのひたむきな献身ぶりを目の当たりにし、自分はミュージシャンなのだということに気づかされたのだった。

(略)

[教師に呼び出され]行ってみるとアンディ・ルークも呼ばれている。何か僕ら、まずいことをしただろうか。すると要は、アンディが僕のクラスに移ってくるので、僕にアンディの近くにいてもらえないかという話だった。何でも彼の両親が離婚し、大量のドラッグを摂って、ヘロヘロな状態で学校に来るようになっていたらしい。アンディには辛い時期だった。でも学校は、ドラッグを断ち切れなければ退学にすると言う。僕のずる休みも見逃すわけにはいかなくなってきたと言われた。そこで教師は、僕とアンディが常に行動を共にすることが、互いのために一番良いのではないかという型破りな推論を下したのだ。

 アンディも僕もその提案に大喜びだった。朝、彼はバスで僕の家まで来る。しかしそこからバスを乗り継ぐのではなく、母が仕事に出るのを隠れて待って、そのまま昼まで僕の家でぶらぶらして過ごす。学校へは一緒に遅れて登校し、同じクラスで授業を受け、一緒に下校し、夜はアンディの家へ行く。そんな毎日が始まった。彼の生活環境は特殊だった。彼と3人の兄弟はまだ全員ティーンエイジャーだったがそれぞれに自立していた。父親はほとんど家を空けていて、母親はスペインに住んでいた。弟のジョンが12歳、アンディと僕は14歳、次男のフィルが15歳、長男クリスは17歳。居心地良い家に子供だけで住み、何でもやりたいことをやれる自由を与えられていたわけだ。で、僕らがやりたかったのは音楽をプレイし、ドラッグを試すこと。

アンジー

[生協スーパー]バイト初日の夜から、僕に与えられたのは最も屈辱的な仕事。僕が何かヘマでもやらかして、一からやり直さねばならなくなることを期待していたのだ。一番上の棚にハシゴをかけて登り、200缶のドッグフードを積み上げる。

(略)

 大雪が1週間降り続いた1月の終わり、バス運転手がストライキを起こした。ということはつまり、生協まで8マイルを歩くしかない。凍える寒さの中を歩き始め、ブルックウェイ高校近くのバス停を過ぎた時だ。何人かの女の子に声をかけられた。「ジョニー、ジルの家のパーティに行く?」(略)「もしかしたらね」とだけ答え、シフトに間に合うようにと雪道をまた歩き始めた。

 歩くうちに辺りはどんどん暗くなり、点灯したナトリウム灯の薄いオレンジ色に雪が照らされた。通りには誰も歩いていない。車もほとんど走ってない。その中を歩き続けているうちにひどく寂しくなってきた。僕は15歳になったばかり。ただ成功したい、そしてどこかに行きたい、それだけだった。なのに夢を隠さず追うことを理由に、恥をかかされ、見下される。そんな場所に行くため、雪の中を何マイルも1人で歩いてるなんて。その間、僕の頭の中ではジ・オンリー・ワンズのアルバムがずっと鳴っていた。僕は彼らが大好きだった。一音残らず、曲も歌詞も知っていた。まるで世界には僕1人しかいない気分だった。

 バイト先に着くと(略)10分遅刻したのでクビだ、ということだった。

(略)

生協では誰かが辞める時、建物の裏にある搬入口で、ずらっと並んだ全職員に生卵を投げつけられるという送別の儀式があったのだ。かなり大きなスーパーだったので職員の数も、卵の数もハンパない。搬入口を出た僕めがけて一斉に生卵が投げつけられた。(略)

全身卵まみれの僕はそのまま帰るしかなかった。(略)家まであと数マイルというところで、僕はあまりの寒さと気持ちの悪さに耐えられず、友達ダニー・パットンの家に寄らせてもらおうと決めた。(略)シャワーに直行し、服を借りて、さっぱりした僕にダニーが言った。

「ジルの家のパーティに行く?女の子も来てるはずだぜ」

(略)

雰囲気はおとなしめだったが、僕たちが来たことに不満な連中もいたようだった。

(略)

酔いが回った連中は僕をやっつけるチャンスを窺うことだろう。(略)以前にも、見知らぬ男がシンクに叩きつけて割ったボトルを手にゆっくりと近づいてきたことがあった(略)

当時はバンドをやっているというだけで、そんな目に遭うこともあったのだ。

(略)

ブロンディの新しいLP『恋の平行線』がかかる居間のソファに座った。(略)

部屋の向こう、横を向いて立っている女の子が目に入った。何てきれいな子なんだ。よく映画で見るみたいに、部屋全体の動きが止まり、彼女の周りだけが光り輝いて見えた。僕には「ついに見つけた」ということしか考えられなかった。彼女こそが、僕が探していた子だ。僕はすぐさまボビーに言った。「あの子と僕は結婚する」

(略)

彼女は本当に美しくて、毅然としていて、とにかくクールだった。(略)僕は誕生日をたずねた。(略)

「31日。ハロウィンの日」。彼女が答えた。

「え?僕ら誕生日が一緒だよ」

 僕は思った。これは男と女ということを越えた、魂と魂の関係だ。すぐにでも僕のことを彼女に好きになってもらわなきゃ。(略)

あとでわかったことだが、彼女は僕のことを知っていて、実は僕に気があったのだという。でもそれをまるで表に出さなかったのだ、アンジーは。

 それからの数週間、彼女の行く所にはなぜか必ず僕も現れた。朝、僕の家の前を通って登校する彼女を待ち、僕は窓辺に座り、上を向いてくれ、と願った。すると毎回、彼女は上を向き、僕らは手を振り合った。昼食時間、外に買い出しに行く彼女が通る校門近くに僕は必ず立っていた。(略)

でも彼女は僕がいることを期待してたし、僕も彼女が期待してくれてるのを知っていた。

(略)

 出会ったばかりの、互いを知り合う時間。(略)それは魔法の時間だった。(略)

「2人でここを出よう。僕はバンドを組んで、レコードを出す。2人でロンドンに行き、世界中を回ろう。僕はギタリストで、君はギタリストのガールフレンド。それが僕らの将来だ」。

ジョイ・ディヴィジョンイアン・ブラウン

 もし本気で成功したいと思うなら、僕のバンドももっと真剣にならなくてはダメだ。(略)

僕がイメージするバンドのレヴェルに達するには、もっと真剣にならねばならない。そのための1つの方法は、アンディにベースを弾かせることだった。実際、ケヴのベースを弾かせるとアンディはいつだって最高で、そのアプローチのしかたは実にユニークだった。最初、アンディは躊躇していたが、数週間もするとすごくうまいベーシストになっていた。

(略) 

 ある日、下校して帰宅すると電話が鳴った。相手はロンドン訛りで聞いてきた。「ジョニー・マーかい?ジェイク・リヴィエラエルヴィス・コステロのマネージャーなんだが(略)

送ってくれた君のバンドのテープ、聴いたけどすごく良かったよ。スタジオに来てくれないかな」(略)

ロンドンまでの交通費を持つので1日スタジオでやってみろ、というのだ。本物のレコーディング・スタジオでやれるというだけで心が躍った。しかもそれがニック・ロウの自宅だというのだから。

(略)

ドアが開くと、眠そうな顔のカーリーン・カーターがそこにいた。(略)ネグリジェ姿の美しいロックの女神に出迎えられた経験などない。(略)

プロデューサーに6曲聴かせたところ、そのうちの4曲を仕上げてみようと言われた。エルヴィス・コステロリッケンバッカーが廊下に置いてあったので、僕はそれを弾いた。

(略)

君たちのマネージャーになりたい、という連絡がいつ来るかと心待ちにしたが、そんな電話はかかってくることはなかった。

(略)

 僕らはマンチェスター界隈でリハを続けた。(略)

[スタジオの]上の階ではジョイ・ディヴィジョンがリハをしていた。(略)彼らはとても変わっていて、他のどんなバンドとも違っていた。着てる服はオヤジの服みたいで、髪も30年代から出て来たみたいだった。

(略)

 フリーク・パーティは(略)シンガー探しを始め、何人かオーディションを行った。

(略)

 サイが一緒にバンドをやっていたイアン・ブラウンという友人の名前も挙がった。年齢は僕らと一緒。音楽の趣味も良い。イアンに来て歌ってもらえないかとサイに頼んだが、彼もちょうど自分のバンドをスタートさせようとしていた。それからすぐイアンとは知り合いになった。大いにリスペクトできる男で、僕らはすぐに友達になった。

(略)

 [ケイヴを辞め]Xクローズという新しいショップ[へ](略)

オルタナティヴ・ファッションを愛する若者中心に着実にファンを増やしてきた会社

(略)

[働きながら]新しい曲をいっぱい書き、磨けるだけ腕を磨いておこう。僕は実家に戻り、メロディやリフに専念し始めた。曲のストラクチャーは、ガール・グループのレコードやモータウンのシングルから学んだ。フィル・スペクターのレコードを聴き倒しては、どうやって作られているのかを研究した。

 店でかける音楽は交替で選んだ。ラスはキリング・ジョークやファド・ガジェット(略)キャバレー・ヴォルテール、ヒューマン・リーグ、クロックDVAなどのシェフィールド勢、そこにスロッビング・グリッスルがたまに混じる、という選曲だった。ジュールスはザ・ストゥージズ、ザ・フォール、あとはヴェルヴェット・アンダーグラウンド。リーがジ・アソシエイツが好きだったのには感心したものだ。あとクラフトワークも。

(略)

 ファクトリー・レコードに所属するバンドも店にやって来た。トニー・ウィルソンからセクション25というバンドに入る気はないか?と誘われたことがあった。聴かせてもらったテープは良かったが、自分のバンドがやりたかったのでその旨を伝えて断った。この頃、グラフィック・デザイナーのピーター・サヴィルも、ファクトリーのマイク・ピカリングと連れ立ってやって来た。新しく建てられるナイトクラブのミーティングの帰りだと言っていた。(略)

何ていう名前になるのかと尋ねると、彼らは「ハシエンダだ」と教えてくれた。

 仕事は順調だった。となると、そろそろ家から出て住む家を探す時期だ。

(略)

大学時代の知り合いだったオリー・メイが店に来るようになった。(略)彼はスイス人。家庭は裕福で(略)祖父は著名な哲学者だった。(略)

「だったら僕が住んでるとこに越してくれば良いじゃないか」と彼は言った。「上に部屋がある。週2ポンドでどうだ。シェリー・ロードの家なんだ」。シェリー・ロードはジャーナリスト兼テレビ・プレゼンター

(略)

オリーは陽気な性格で、毎日ジャズ・ファンクのレコードを(略)大音量で聴いていた。(略)

[僕は]だいたい1人で部屋でシャングリラスやクリスタルズを聴いて、ブリル・ビルディングのレコードを分析していた。それはポップスに今よりも希望がある時代からやって来た音楽で、巷にあるたいていの音楽よりもユニークで、優れていた。

(略)

ティアックのカセット・マシン(略)を使って僕は納得行くコード進行をまず録音。その上に2つめのギター・パートを録音。バランスを見ながら実験を進め、さらにギターを重ねた。そうやってアイディアをぶつけ合わせたり、多重録音することで自分なりの〈音の壁〉を作った。最終的に、ギターで弾いたコード・パターンやリフを録音したテープが何本もでき上がった。僕とオリーはそれを何度も聴き返した。

次回に続く。

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