Bowie's Books デヴィッド・ボウイの人生を変えた100冊

Awopbopaloobop Alopbamboom

ニック・コーン|1969年

 ジャーナリストのニック・コーンは、22歳になったばかりのときに(略)ポップミュージックに関する最初の本格的な評論(略)を短期間で執筆した。コーンが見ていた時代をいま振り返ると――1968年、ビートルズの『ホワイト・アルバム』、ローリング・ストーンズの『ベガーズ・バンケット』(略)

しかしコーンにとっては、もはや楽しみは消え失せてしまったかのように感じられていた。

 この本はそんな気持ちを映し出している。悲観的で、あきらめを見せている――愛するビートルズでさえ、後年の作品はLSDまみれの傲慢で尊大なものだと彼は感じている。もはや、エルヴィスの「偉大なリーゼントと口元を歪めた笑み」、フィル・スペクターの「美しいノイズ」、そしてもちろん、彼がこれまで見たなかで最もエキサイティングなライヴパフォーマー――コーンにとってもボウイにとってもそうだった――リトル・リチャードのような素晴らしIいものは現れない。悲しい話だ。(略)

コーンが忌み嫌う荘厳なプログレッシヴ・ロック――ピンク・フロイドのことは「信じられないほど退屈」だと思っていた――は決して主流にはならなかった。

(略)

ディスコがそのエクスタシーを引き延ばすと、そこでコーンは図らずも重要人物になった。(略)『サタデー・ナィト・フィーバー』は、コーン が 1976年に『ニューヨーク・マガジン』誌に書いたニューヨークのディスコシーンに関する記事、'Tribal Rites of the New Saturday Night' (新しい土曜の夜の部族儀式)がもとになっているのである。コーンはのちに、その記事はほとんどがでっち上げであり、主人公のヴィンセントは60年代に出会ったシェパーズ・ブッシュのモッズをモデルにしたと認めているが。

(略)

Awopbopaloobop は容赦のない鋭い意見に満ちている。たとえば、詩人のアレン・ギンズバーグは「ちょっとした冗談だが、悪くない冗談」、ドアーズは「セクシーだが器用ではない」というように。ボウイのお気に入りのバンド(略)プリティ・シングズについてのコメントも面白い。「やれやれ、彼らは醜かった。つまり、本当に醜かった――シンガーのフィル・メイは太った顔で、それを髪ですっかり隠し、不具のゴリラのようにステージ上でドタドタやっていた」。こうした具合でも、人は彼の推薦を得ようと必死になるのをやめなかった。ザ・フーの『トミー』を制作中だったピート・タウンゼンドは、コーンにそのアルバムのラフミックスを真面目くさっていると批判されると、土壇場で「ピンボールの魔術師」を書いた。コーンがピンボールに熱狂していたからだ。

 おそらく、ボウイは Awopbopaloobop を出てすぐに読んだだけでなく、マニュアルとして研究してもいただろう。ジギーのモデルと言われる人物のひとりに、自己破壊的なロックスターを描いたコーンの1967年の小説 I Am Still the Greatest Says Johnny Angelo(オレはいまだに最も偉大だとジョニー・アンジェロは言う)の主人公ジョニーがいる。60年代半ばのスター、P・J・プロビーをモデルにしたジョニーは、「同時にすべてのものになり、男性的で女性的で中性的、能動的で受動的、動物で野菜、そして悪魔的、救世主的、キッチュ、キャンプで、精神病で、殉教者ぶっていて、ただ単純に汚らしい」。

 コーンとボウイの歩んでいた道は1974年にぼんやりと交差したが、そこで得をしたのはコーンではなかった。コーンはベストセラーとなった Rock Dreams――歌詞や世間のイメージに着想を得た場面を背景にロックスターたちを描いた絵画集――で、ベルギーのアーティストのギィ・ペラートと一緒に仕事をしたところだった。それを大いに気に入ったボウイは(略)ミック・ジャガーを出し抜いて、ペラートに『ダイヤモンドの犬』のジャケットのデザインを依頼したのである。

荒地|T・S・エリオット|1922年

『ローリング・ストーン』誌でボウイにインタヴューしたバロウズは、『ハンキー・ドリー』の「8行詩」はエリオットの1925年の詩「空ろな人間たち」から影響を受けたものかと尋ねた。ボウイは、何も知らないと答えた。「エリオットを読んだことはない」。

 これは奇妙だ。ボウイは間違いなくエリオットに影響を受けていたのだから。ボウイがプロデュースしたルー・リードの1972年のアルバム『トランスフォーマー』の「グッドナイト・レイディズ」は、エリオットの1922年の革新的な詩『荒地』の第2部「チェス遊び」の終わりに出てくるフレーズである。(エリオット自身は『ハムレット』のオフィーリアのセリフを引用している)。

(略)

ボウイがバロウズに真実を語っていたとすると、彼はいつ『荒地』を読んだのだろうか?

(略)

 パスティーシュ、パロディ、引喩の氾濫である『荒地』は、キュビスムが視覚芸術で行ったことを詩で行った。その頑なな難解さは、見事だとも、不快だとも思われる。

(略)

 エリオットが『荒地』で用いたアプローチはブリコラージュだった。さまざまな断片――ふと耳にした話、ジャズのリズム、ポピュラーソング、ほかの作家の引用――を集め、つなぎ合わせることで、驚くほどモダンであると同時に、第一次世界大戦後のヨーロッパの精神的破綻を映し出した詩を創造した。エリオットにとって、現代の都市は汚らしく、やかましかった。真に現代的な詩はこれを映し出さなければならず、そのためにエリオットは、下劣なものと魅惑的なものの融合を試みた――これはまさにボウイが『ダイアモンドの犬』とそれに伴う壮大なステージで目指したことだ。

(略)

 エリオットの手法は、芸術的窃盗の新たなしきたりを定めた。(略)

「未熟な詩人は真似をし、成熟した詩人は盗む。よくない詩人は取ってきたものを傷つけ、よい詩人はそれをより優れたものに、あるいは少なくとも違ったものに変える」とエリオットは書いている。(ボウイは、自分がほかのアーティストたちからどれほどのものを取ってきているかについて、しばしば率直に語っていた。LCDサウンド システムのジェームズ・マーフィーがボウイの曲から盗んだと告白したときは、「泥棒から盗むことはできない」と言って安心させた)。

(略)

 トマス・スターンズ・エリオットは、ミシシッピ川岸のセントルイスで生まれ育ち、1914年にロンドンにやって来た。若いころの彼は、1970年代半ばのボウイのように、オカルトに手を出し、民主政に疑いを抱いていた。

いかさま師ノリス

クリストファー・イシャウッド|1935年

 1970年代ベルリン。いまだナチスの過去がつきまとう、荒涼とした、分断された街。いかがわしく恐ろしげなこの街(略)

 ボウイは29歳で、ほとんど破産していた。名声に溺れながら、その虚飾にうんざりしていた。ベルリンは彼にとって、避難所、創造力を充電できる場所になりそうだった。都合のいいことに、彼はこの街の隠された秘密を案内してくれる精神的ガイドを知っていた。クリストファー・イシャウッドである。

 イシャウッドの二つの半自伝的「ベルリン小説」――『いかさま師ノリス』と『さらばベルリン』――は、有名なケンダー&エブのブロードウェイミュージカル『キャバレー』など、さまざまな脚色版を通してボウイの目に触れていたのだろう。

(略)

1972年の映画版はジギー・スターダストのステージに強い影響を与えた。しかしボウイがイシャウッドを再発見したのは1970年代半ばのLA時代で、1976年3月のボウイのロサンゼルス公演を見たイシャウッドは、画家のディヴィッド・ホックニーと一緒に楽屋に挨拶しに行ったのだという。(略)

 やせ細ったコカイン中毒のボウイは、ヴァイマル期のベルリンにロマンティックな執着を抱くようになった。そこは、イシャウッドいわく、憎悪が突如どこからともなく噴き出る場所だった。この憎悪の源を察知したボウイは、オカルト狂いでニーチェ信奉者の大君主シン・ホワイト・デュークをアルバム『スティション・トゥ・スティション』で生み出し、自分とポップが空騒ぎから逃れるための避難経路を策定した。(略)

イシャウッドは、イギリスでの医学の勉強をやめて1928年にベルリンに移り、輝かしい退廃と慇懃な若い男娼で名高いその街で、長期のセックスツーリストになった。『いかさま師ノリス』は、ナチスによる支配が強まりはじめたその街での彼の冒険を、少しためらいがちに綴ったもの

オン・ザ・ロード

ジャック・ケルアック|1957年

 ボウイの異父兄のテリーはボウイにあらゆるヒップなものを紹介した――ジョン・コルトレーンエリック・ドルフィートニー・ベネット、ジャマイカの「ブルービート」。(略)

12歳のボウイにこのケルアックのビートの代表作を渡したテリーは、そうして若いデヴィッドの世界観を変え、文化的に自分に合うものが何もないと感じていた地元の町ブロムリーへの欲求不満を強めさせた。読み終わったあと、ボウイは絵を描きはじめ、サックスを習っていいかと父親に訊いた。

オン・ザ・ロード』は、自由、逃避、衝動、創造性(そしてドラッグ、セックス)の話だ。それはアメリカの可能性、少なくともアメリカの理想であり、ボウイが子どものころに想像した豊かで多様なアメリカだった。この魔法の国と、批評家たちが言うところの冷戦期アメリカ――閉鎖的で、偏執病的で、戦争を挑発する――との拮抗は、ボウイを惹きつけてやまなかった。それゆえ、ボウイのリストにはアメリカの作家が多く含まれている。特に多いのはロスト・ジェネレーションの小説家や詩人(F・スコット・フィッツジェラルド、ジョン・ドス・パソスウィリアム・フォークナー、ハート・クレインなど)だ。第一次世界大戦中に成人した彼らは、ジョン・ファンテやダシール・ハメットなどのより明白なビートの祖先と同じくらい、ビートの作品が好意的に受け入れられる土壌をつくるのに貢献した。

(略)

 ケルアックの手法の芯にあるのは、「最初の考えが最良の考え」という、禅に由来するビートの金言だ。修正や推敲は感情を殺してしまう、瞬間を殺してしまう。

(略)

 ボウイが生々しさを大事にしていたのは、ケルアックからの直接の影響だ。そしてそれは、なぜ彼はミュージシャンの技巧に懐疑的だったのか(技巧に優れたプレイヤーを適宜使ってはいたが)、なぜ歌詞を最後に一気に書くのが好きで、しばしばカットアップを用いたのか、なぜ曲をレコーディングするとき、できるかぎりヴォーカルのテイクを二つ以内に収めたのか、ということを説明している。

ザノーニ

エドワード・ブルワー = リットン|1842年

 エドワード・ブルワー=リットンは、ロックスターという言葉が生まれる前のロックスターだった。貴族的で、バイセクシュアルで、アヘン中毒で、超常現象に心を奪われたオリエンタリストの伊達男であり、バイロンの型破りな愛人のキャロライン・ラムとも首相のベンジャミン・ディズレーリとも関係を持っていると噂されていた。

(略)

彼はほとんどすべてのジャンルに挑戦し、チャールズ・ディケンズウォルター・スコット卿よりも多くの読者を獲得したが、後年は幽霊物語やオカルトじみたSFを量産するのが最もしっくりきたようである。たとえば1871年の『来るべき種族』は、地下世界に住み、そこを使い果たしたら私たちの地上世界を侵略しようと考えている、「ヴリル = ヤ」という非常に知的なエイリアンの話である。ボウイは、『ハンキー・ドリー』をレコーディングするまでにこの本を読んでいた(略)ようで、「ユー・プリティ・シングス」の歌詞にそのタイトル(The Coming Race)を引用している。この曲は、うわベは陽気ながら、まもなく非常に知的なエイリアンの子どもたちに取って代わられると親たちに警告するものである。

(略)

 『ザノーニ』は薔薇十字団の話だ。このスピリチュアルな組織によれば、世界は古代文明から引き継がれた特別な知識を持つ錬金術師と賢人の秘密のネットワークによって動かされている。(略)

この考えは、コカイン漬けだった1970年代半ばのボウイのUFO、神秘的魔術、ナチズムのオカルト的ルーツへの執着につながった。

鯨の腹のなかで

ジョージ・オーウェル|1940年

[「鯨の腹のなかで」]は、両大戦間のパリでふしだらな生活を送るボミアンの異邦人たちを描いたヘンリー・ミラーの小説『北回帰線』を鋭く分析したものである。

 オーウェルはあるパラドックスに興味を抱いていた。発禁になったこのミラーの小説の卑猥で放蕩な内容は道徳的な読者を遠ざけるはずなのに、どういうわけかそうはなっていないということだ。これは、ミラーの手腕によって読者が登場人物たちの世界に引きずり込まれるからであり、その人物たちは実に馴染み深く、そこで起きていることは自分の身にも起こるのではないかと感じられるのである

(略)

 政治的な理由で、『一九八四年』の作者はミラーをほとんど読んでいなかった。1936年にパリで二人が少しだけ顔を合わせたとき――オーウェルはスペイン内戦の戦線に向かうところだった――ミラーはオーウェルに親善の証としてコーデュロイジャケットをあげたが、面と向かって、「君は自分のやることでファシズムを止められると思っている愚か者だ」と言った。それでもオーウェル は、『北回帰線』は誰もが読むべき本だと考えた。なぜなら、その見事な下劣さは、たとえ文明が崩壊しようと――オーウェルは来たる第二次世界大戦中にそうなると考えていた――大した問題ではないというミラーの信念を反映しているからだ。そのためにこの作品は20世紀後半の文学、特に(オーウェルは明らかに予見できていなかったとはいえ) 生々しいビートへ進んでいく方向性を示している。

(略)

オーウェルが『北回帰線』を気に入っていたのは、その市井の日常と身体的な行動――吐く、糞をする、ファックする――への容赦ない注目ゆえだ。その率直さが、作者と読者のあいだに強い共感の結びつきを生み出す。(略)

ミラーは自分のことをすべて知っていて、自分のために、自分だけのために書いてくれているのだという気がするのだ。

グレート・ギャツビー

「ボウイは意図されたものではなかった。彼はレゴのキットのようなものだ。僕は彼を好きにならないと確信している。彼はあまりにも空っぽで、節度がないから。決定的なデヴィッド・ボウイというのは存在しない」

『ピープル誌』(1976年)

イングランド紀行

J・B・プリーストリー|1934年

 最新式のバスでイングランドを巡った『夜の来訪者』の作者は、分断された国を見る。南部にはサウサンプトンの港のように栄えている地点があり、そこから旅をはじめたプリーストリーはここは悪くない町だと感じる。ブリストルも同様で、タバコ工場を訪れた彼はその工場の人間味の感じられる運営をほめそやす。そこでは人々が効率的に働き、誰も辞めたいとは思っていない。

 しかし、ブラッドフォードで育ったプリーストリーがよく知る北部の産業地帯は、大恐慌で荒れ果てていた。無感情と幻滅の支配だ。かつては政府が暮らしをよくしてくれると考えていたが、いまや多くの人が何も信じなくなっている。これはプリーストリーをぞっとさせる。というのも、彼はドイツで何が起ころうとしているかがわかっていて、政治への無関心は「独裁制が栄え、自由が死ぬ土壌」だと理解していたからだ。

(略)

プリーストリーによれば、スウィンドンのハイストリートは残念な状況で、低俗な店や安物のバザーばかりだという。ニューカッスル・アポン・タインで彼に何より衝撃を与えるのは、沈黙だ。船をつくる男たちのやかましい騒ぎは消えてしまった。

ミス・ブロウディの青春

ミュリエル・スパーク|1961年

 表面上、このミュリエル・スパークの傑作は、インスピレーションを与えてくれる教師についての短く面白い小説だ。(略)

ボウイの場合は、ギタリストのピーター・フランプトンの父親で、ブロムリー・テクニカル・ハイスクールで美術を教えていた、オーウェン・フランプトンがそうだった。

(略)

ミス・ブロウディと同じように、フランプトンは、教育とは「詰め込む」というよりも、すでにあるものを「引き出す」ことだと考えていた。ピーター・フランプトンは『インディペンデント』紙にこう語っている。「父は、生徒たちのなかにあるアートへの情熱を見つけるのがとてもうまかった」。ミス・ブロウディと同じように、彼は型にはまらない方法で「引き出し」た。「美術棟のドアを開けっぱなしにしていたから、ギターを持ち込んでバディ・ホリーの曲を演奏したりできた」という。

A People's Tragedy

オーランドー・ファイジズ|1996年

 ボウイはソ連を直に体験している。(略)1973年4月、ジギー・スターダスト・ツアーの日本レグの帰りだ。幼馴染でバッキングシンガーのジェフ・マコーマックとともに、港湾都市のナホトカからモスクワまでシベリア鉄道に乗り、明るい赤色の髪と厚底ブーツで滑稽なほどに異彩を放った。

(略)

一般の乗客は混み合ったコンパートメントの木製の長椅子の上で寝ていた。ボウイー行は、きれいな寝具のある「ソフトクラス」に乗ったが、そこも洗面設備は不十分だった。着物姿のボウィは、世話役のがっしりしたロシア人女性二人、ドニャとネリャに付き添われて列車内を歩きまわった。

 自分の(比較的)贅沢な状況と、列車が通過するシベリアの村々の貧困とのギャップは、ボウィの頭にこびりついた。「彼らがどうやって冬を越しているのかわからない」と、ボウイは繰り返し言っていたという。のちに、ファイジズの本を読んだ彼は、1921~22年の飢饉のひどかった時期、多くのロシアの農民は共食いをしなければ冬を越せなかったと知った。子どもたちになんとか食べ物を与えたい母親たちは、死んだ人の手足を切り落として鍋に入れた。人々は自分の親族を、さらには先に逝くことの多い(そして肉が甘くていちばん美味しい)小さな子どもまでをも食べるようになった。

(略)

ボウイは8日にわたる5750マイルの旅を楽しんだ。「実際にこの目で見ることがなかったら、あれほど広大な自然のままの風景を想像することはできなかっただろう」と、彼は『ミラベル』誌に書いている。その後、一行はモスクワに3日間滞在し、クレムリンを訪れ、グム百貨店で買い物をしたが、土産物として売られていたのは石鹸と下着だけで、ボウイはがっかりした。グムのカフェテリアでランチも頼んだが、ボウイとしてはそのミートボールは食べられたものではなかったという。

 1976年4月の二度目の旅――ィギー・ポップを含め、より大人数で連れ立った――は、さらに問題が多かった。ワルシャワ - モスクワ鉄道に乗った一行は、国境でKGBの警備員に列車の外に連れ出された。ボウイとポップは裸にして調べられたが、KGBに疑念を抱かせたのは、ボウイが携帯書庫に入れていたゲッベルスアルベルト・シュペーアに関する本だった。ボウイは、これは計画中の映画のための資料だと主張した。

終わりなき闇

ルーパート・トムソン|1996年

 一度読んだら忘れられないルーパート・トムソンの4作目の小説は、夢や統合失調症の妄想のなかに生きる感覚を説得力をもって伝えている。

(略)

マーティン・ブロムという人物が、スーパーマーケットの駐車場で頭を撃たれ、視力を失う。病院で目を覚ましたマーティンは、これから自分は一生盲目なのだと知る。そして、実際に見えているのではないかと思うほどのリアルな幻覚に襲われやすくなるだろうと告げられる。(略)

彼の状態の真実とは何だろうか?ことによると、マーティンは死んでいるのかもしれない。筋の通ること、論理的なこと、確かなことはほとんどない。

(略)

 1990年代半ば、『アウトサイド』のころ、ボウイは伝統的な物語の形式にうんざりしていると話していた。自分の作品に一貫して流れているのは、「分裂しているという感覚こそが、少なくとも僕にとってはいちばんしっくりくるということ」だと『ミュージシャン』誌に言っている。「整然とした結末やはじまりというのは絶対的すぎるように思える」。ボウイも知っていただろうが、フランスの批評家ロラン・バルトは、1970年の著書『S/Z』のなかで(略)

 読み得るテクストは、明白でシンプルなプロットを持ち、現実的な登場人物が住む現実的な環境で話が展開する。これは飲み込みやすいものだが、バルトにとっては、欺瞞的なものでもある。読みながら本の現実を構築する読者の役割を認めていないからだ。一方、『終わりなき闇』のような書き得る本はこれを認めている。これは読者にジグソーパズルの箱を渡してこう言う。「さあ、どうぞ。あなたがやるんです。そして私に教えてください。舞台はどこか、ジャンルは何か、なぜ途中で語り手が変わるのか、随所に見つかるボウイとの関連(略)はたしかに存在しているのか、それとも想像力の働かせすぎなのか、ということを」。

 トムソンは1997年、ローマに住んでいたときに、『インタヴュー』誌から電話をもらった。有名人がそれほど有名ではない人にインタヴューするという新連載に参加しないかということだった。自分がどちらの側かすぐにわかった彼は、インタヴュアーは誰なのかと訊いた。「デヴィッド・ボウイ」がその答えだった。ボウイは『終わりなき闇』を非常に気に入っていて、著者に会いたいと思ったのだ。「編集部からまた電話すると言われたから、それを待った」と、トムソンは『ガーディアン』紙に書いたユーモラスな文章のなかで振り返っている。「しかし数日が過ぎ、数週間が過ぎ、電話は鳴らなかった。インタヴューは行われなかった。私はボウイに会うことはおろか、話すこともなかった」。

Nowhere to Run

ジェリー・ハーシー|1984

 ロックスターのお気に入りといったところのある――ミック・ジャガーは二度死んだという――ジェリー・ハーシーの Nowhere to Run: The Story of Soul Music は、その2年後に発売されるピーター・グラルニックの『スウィート・ソウル・ミュージック』と同じような分野を取り上げている。(略)

グラルニックは格式張ったところがあり、モータウンを軽蔑している。一方でハーシーは、ベリー・ゴーディデトロイトのヒット工場がブルーズ、ソウル、ゴスペルを洗練させ、黒人と白人の双方に愛されるマスマーケット向けの商品を生み出したことに魅力を感じている。

 ハーシーは女性として初めて『ローリング・ストーン』誌のコントリビューティングエディターになったが、そこでのあだ名は「くるみ割り」だった。厄介なインタヴュー相手も苦にしなかったからである。彼女のコミュニケーション力は、多くの歌手やミュージシャンからたくさんの印象的な回想を引き出した。

(略)

 ステージで縞模様の棺から出てくるホーキンズは、ベン・E・キングドリフターズのメンバーが蓋を完全に閉めてしまったせいで息ができなかった夜のことを思い出す。ジェームズ・ブラウンは、刑務所で櫛をいじくったり洗濯だらいでベースをつくったりして多くの技を覚えたと振り返る。シシー・ヒューストンは、ハーシーに娘が歌うところを見せた――10代のホイットニーはほっそりとして可愛らしく、まるで津波をも食い止められるような強い肺を持っていたと、ハーシーは伝えている。

ブルックリン最終出口

ヒューバート・セルビー・ジュニア |1964年

 ザ・スミスはアルバムのタイトル(『ザ・クイーン・イズ・デッド』)を『ブルックリン最終出口』の第2部のタイトルからとった。都会の脅威と不幸を映し出した6編の痛烈な物語からなるこの小説は、1950年代後半のブルックリンの貧民街を舞台に、そこにの街を出没する薬物中毒者やごろつき、社会不適応者たちを描いている。たとえば、ゲイであることを隠している機械工のハリーや、セックスワーカーのトゥラララなどで、彼女がひどい輪姦に遭う場面はこの小説で最も物議を醸すところだ。

(略)

 ボウイのこの小説との関わりは、もしかしたら本人が気づいていないうちから育まれていたのかもしれない。というのも、彼が影響を受け、のちに友人、共同制作者となったルー・リードは、これを聖典とみなしていたからだ。リードはこの小説の、表音的な、句読点の打ち方が粗っぽい文章と、疑問符を使うのではなく微妙なトーンの変化で会話を表すやり方が大好きだった。

「つまり、セルビーがいなけりゃ、誰もいない――そんなふうに思う」と、リードは2013年に『テレグラフ』紙のミック・ブラウンに言っている。「彼は2点間の直線だったんだから。回り道なんかない。多音節のものなんかない――とにかく、神だ……それがロックンロールじゃなかったら、何なんだ?」。

 セルビーの物語の音楽版と言えるリードの「僕は待ち人」は、ボウイを驚愕させた。彼がそれを初めて聴いたのは1966年2月で、マネージャーのケネス・ピットが『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』の発売前のアセテート盤をニューヨークから持ち帰ってきたのだった。ボウィはすぐに当時のバンド(ザ・バズ)にこれを覚えるように言い、1週間たらずのうちにステージで演奏するようになった。「愉快なことに、僕はヴェルヴェッツの曲を世界中の誰よりも早くカバーしただけじゃない」と、ボウィは2003年に『ヴァニティ・フェア』誌に語っている。「アルバムが出る前にやったんだ。それはモッズの真髄だね」。

Tadanori Yokoo

横尾忠則|1997年

 ボウイは1972年秋にジギー・スターダストをアメリカへ連れていったが、ニューヨーク近代美術館で開催されていた横尾忠則の個展は一足違いで見逃した。とはいえ、情報通だった彼は、ピーター・ブレイクや1960年代後半のサイケデリックなポスターアートを思わせる横尾の挑発的なコラージュについてあれこれ聞いていただろうし、この日本のグラフィックデザイナーが1967年に初めてニューヨークを訪れたときに、アンディ・ウォーホルジャスパー・ジョーンズ、トム・ウェッセルマンといったポップアートの第一人者たちから温かく迎えられたことも知っていただろう。

 ボウイの日本文化への興味――ダンスのクラスで武満徹作曲の日本の現代音楽を使っていたマイムの師、リンゼイ・ケンプによってかき立てられた――は、日本ツアーを行った1973年春には親日家と言えるまでに高まっていた。異世界のメタファーとしての日本の大きな可能性に、はたと気づいたようだった。「イングランド以外で、僕が住める唯一の場所だと思う」と、その年に彼は『メロディ・メイカー』誌に語っている。

(略)

 ボウィは日本の美意識に夢中になった。自身のステージにも歌舞伎の要素を取り入れた。日本滞在中には、最も名高い女形のひとりである坂東玉三郎から歌舞伎の化粧法を学んだ。山本寛斎の服を着て、鋤田正義に撮影された。

(略)

横尾の親友である三島由紀夫の小説にも惚れ込んだ。

 三島にとって、横尾忠則のアートは日本人が内に閉じ込め続けている耐えがたいものすべてを表象していた。それはつまり、伝統的な日本のしきたり(略)とポップアートの消費主義のあいだの緊張関係ということだ。性、死、暴力も大きな関心事である。

スウィート・ソウル・ミュージック

ピーター・グラルニック|1986年

 10代のころからソウルミュージックの大ファンだったボウイは、『ダイアモンドの犬』で初めて自身の音楽にソウルの要素を取り入れた。このアルバムに伴う米国ツアーは、次第に黒っぽくなっていき、やがてルーサー・ヴァンドロスやボウイの当時のガールフレンドのエイヴァ・チェリーなどの黒人シンガーを加えた完全なソウルレヴューに変わった。ボウイのバンドのギタリストを長年務めたカルロス・アロマーは、ボウイのアフリカンアメリカン音楽に関する膨大な知識に驚いたという。ボウイはジェームズ・ブラウンの『ライヴ・アット・ジ・アポロ』がお気に入りだったから(略)[アロマー]にアポロへ連れていってもらって興奮した。

(略)

 『ヤング・アメリカンズ』はボウイを米国でスターにした。当時のインタヴューで彼はこのアルバムについて複雑な感情を示していて、「プラスティック・ソウル」だと自己嫌悪的に言う一方で、過去の作品にはなかった正直な感情があるとも言っている。『メロディ・メイカー』誌に語っているところによれば、『ヤング・アメリカンズ』以前は「サイエンスフィクションの様式」を用いていた。「概念や観念、理論を示そうとしていたから」だ。しかし『ヤング・アメリカンズ』は違う―― 「感情的な衝動だけ」なのだ。

 この感情的な衝動の源泉は、音楽史家のピーター・グラルニックが『スウィート・ソウル・ミュージック――リズム・アンド・ブルースと南部の自由への夢』で追い求めたものだ。深い調査にもとづいたこの魅惑的な本は、ソウルを生んだ時代と環境を描き出したもので、グラルニックはその音楽をこう厳密に定義している。すなわちそれは、ゴスペルを世俗的にしたもので、主にメンフィス、メイコン、マッスル・ショールズの「サザン・ソウル・トライアングル」で制作され、レイ・チャールズの成功を受けて1954年以降人気になった。その後、公民権運動とともに、1960年代前半にピークに達した。そして1970年代になると、スタックスなどのレーベルの原動力になっていた無邪気で混沌とした熱狂が薄らぎ、ひとつの創造的な勢力として消費されるようになった。

Writers at Work

マルカム・カウリー (編)|1958年

 インタヴューを受けるとき、ボウイはたいてい相手に歓迎された。チャーミングで、話がしっかりしていて、インタヴュアーを手なずける術を知っていたからだろう。数十年のあいだに磨き上げたお気に入りのトリックは、ライターには45分と言っておいて、1時間のインタヴューを行うことだった。「時間切れ」になると、ボウイはライターを退出させるためにやって来た広報担当者のほうを見て、こう言う。「あのさあ、いますごくいい感じなんだ。もう少し続けをてもいいかな……?」。そうしてライターは誇らしげに顔を赤らめるのだ。

 心臓発作に襲われたあと、ボウイは沈黙し、トニー・ヴィスコンティなどの共同制作者に代わりに話してもらうようになった。(略)

The Sound of the City

チャーリー・ジレット|1970年

 一部のアーティストは、批評家のやることに無関心なふりをする。だから、ボウイが音楽ジャーナリストの意見に進んで興味を示していたのは面白い。ロックについて書かれたもののなかで彼が好きだったのは、主に学問的なもの、さらに言えばクソ真面目なものだった。彼のリストには(略)馬鹿げたゴシップ本(略)は含まれていない。

 その代わりに彼がリストに入れているのは、自分が最も多くを学んだ本 ――10代のころに自分が夢中になったものについて高尚に説明してくれた本――であるようだ。チャーリー・ジレットランカシャー生まれの作家・DJで、ニック・コーンと並んで誰よりも早くロックを真剣にとらえ、1965年にはイングランドを離れてニューヨークのコロンビア大学に行き、ロックをテーマに修士研究を行った。そこから発展したのが、1970年に出版された最初の著書 The Sound of the City: The Rise of Rock'n' Roll(街の音――ロックンロールの興隆)である。コーンの Awopbopaloobop Alopbamboom と同じように、ボウイはこれをマニュアルとして読んだのかもしれない。そうだとしたら、それは優れた判断だった。ジレットはのちにマネージャー、スカウトとしても成功し、イアン・デューリーエルヴィス・コステロダイアー・ストレイツなどの未来のスターを発掘、宣伝しているから、彼の意見は信頼できたわけだ。

 避けられないこととして、この本の人名録のような細部の多くは、いまとなっては骨董品のようで、意味を持たない。しかし、より視野の広い洞察は新鮮なままだ。特に面白いのは、ロックンロールが1960年代後半――コーンが興味を失いはじめたころ――に「シニカル」なポップ (モンキーズ)と「シリアス」なロック(ザ・バンド)に分かれたという話である。ボウイは自分が柵のどちら側にいたいのかしばらく悩んでいたことだろう。まったく異なる柵を思い描いていたかのようなときもあった。「ラフィング・ノーム」を書いた人物が『ロウ』をつくったというのはなかなか理解しがたい。しかもそのどちらも素晴らしいということは。

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バタフライ・エフェクト ケンドリック・ラマー伝

コンプトン、ギャング

 コンプトンは、昔から現在知られているようなコンプトンだったわけではなかった。第二次世界大戦の以前のこの街の人口は、黒人が引っ越してくることを禁じた人種差別政策があったため、過半数が白人だった。一九八四年にアメリカ合衆国最高裁判所がこれらの法律に違憲判決を下し、一九五〇年代初期までに黒人の家族が家を買い始めると、既に郊外の居留地に住んでいた白人たちは大いに落胆した。白人は人種統合によって彼らの資産価値が急落することを恐れ、この街から逃げ去った。コンプトンの黒人人口は、一九六〇年には四〇パーセントまで増加し、一〇年後には六五パーセントを占めるまでになった。失業の増大によって犯罪が増え、一九七一年にクリップスと呼ばれるギャングが結成された。これは、高校生のレイモンド・ワシントンとスタンリー・“トゥーキー”・ウィリアムズが、自分たちを悩ませていたサウスLAのギャングと闘うために、個別に存在したギャングたちをまとめようと決意し、結成したものだ。クリップスは間もなく、この街最大のストリートギャングになった。シルヴェスター・スコットとヴィンセント・オーエンズが、一九七二年にコンプトンのパイルー・ストリートに沿ってブラッズを結成し、すぐにクリップスのライバルギャングとしての地位を確立した。他の地元のグループのメンバーたちは、クリップスに襲われていて、その復讐のためにブラッズに参加したのだ。

(略)

コンプトンは南カリフォルニアにおける暴力犯罪とギャング活動の中心地となった。

 アロンゾ・ウィリアムズは、ワールド・クラス・レッキン・クルー(ドクター・ドレーギャングスタ・ラップの顔となる前にメンバーだった)を作った、DJ兼ナイトクラブのオーナーであり、今とは違う時代のコンプトンを覚えている。彼はこの街で育ち、今では危険と見なされている地域を、何の問題もなく歩いたものだった。それは一九七〇年代の、コカインがストリートを襲う前のことで、ギャングは存在していたが、彼らとの付き合いはそれほど危険なものではなかった。人びとは近所のギャングと関係を持たずに暮らすことができたし、まだ安全だと感じることができた。「コンプトンは他のどの街とも何ら変わりはなかったんだよ。落ち着いたもんさ」とウィリアムズは思い出す。「ギャングバンガーは常にいたんだ。ダンスに行けばそこにいた、でも通り過ぎるだけのことでさ。ほとんどの人びとはヤツらと一緒に野球をやったり、一緒に学校に通ったりしていたし、ギャングバンガーには一般市民には手を出さないっていう掟があった。ギャングバンガーはギャングバンガーとしか争わなかった。ヤツらは厄介ごとを起こそうとはしなかったし、人びとはヤツらに手を出したりもしないんだ」。

 しかし、クラック・コカインがすべてを変えてしまった。ギャングたちの活動は制御不能になり、金銭が新たなモチベーションになった。ウィリアムズはまた、彼のナイトクラブで状況が大きく変わるのを目の当たりにしている。彼が名高いイヴズ・アフター・ダークというパーティー会場を開いた一九七九年には、ギャングと関わっている常連客はほんのわずかしかいなかった。しかしクラックが真っ盛りの一九九〇年頃までには、彼の観客の大半はギャングと関わるようになっていた。「俺は自分の態度やドレスコードを変えなくちゃならなかった。誰もがサグになりたがり、誰もがドープを売りたがっていたんだ」とウィリアムズは言う。「誰もがタフを演じていた。誰かが怒った途端、自分たちのセット[従属するギャングの派閥]を主張した。そうやって人を追い払っていたのさ。ギャンスタになることがファッショナブルになったんだ。単に自分が住んでいる場所を理由にそうしていたし、それが主張できたのさ(略)

最近は、多くの若いヤツらがフッド[地元]出身だと主張している。(略)

多くのヤツらは別にギャングの一員じゃないのに、ギャングに惹かれていたんだ。(略)

昔は、自分がなぜ特定のセットに入ったか分かっていた。今じゃ多くのヤツらは強さを見せつけるためにやっている。ホットなことをやってるように見えるからさ」。

アンソニー・“トップ・ドッグ”・ティフィス

ケンドリックはティフィスのためにフリースタイルを披露して、その場で彼をあっと言わせなければならなかった。(略)

「トップは言ったんだ、『これが本当にお前かどうか見せてもらおうか』ってね。それから俺は二時間、頭に浮かんだことをひたすらフリースタイルでラップして、汗水垂らしてがんばったんだ」。ティフィスはケンドリックの能力に心底感服した。わずか一六歳という年齢で、まだ曲の書き方すら具体的に知らないのに、ラッパーとして十分に成長していたからだ。(略)

「俺は彼をブースに入れて、倍速のビートをかけたんだ。動揺させようと思ってね。そしたら彼はとんでもないフリースタイルを始めてさ!俺は全然気にしてないって風を装ったんだけど、それに気付いた彼は更にラップのスピードを上げたんだ。俺は『畜生、お前はモンスターだぜ』って感じで顔を上げたよ。翌日には契約書を用意したんだ」。

(略)

 二〇〇四年の時点で、ウェストコースト・ラップにはかつてのような真のキングがいなかった。アイス・キュープは俳優業にフォーカスしていた。ドクター・ドレーは音楽をリリースすることより、彼のレコード・レーベル、アフターマス・エンターテイメントを経営することにより大きな関心があった。

(略)

ウェストコースト・ラップの中心地は北へ――ロサンゼルスから、ベイエリアのサンフランシスコやオークランドヘ――と移動していた。そこではハイフィー、あるいは“クランク”・ムーブメントが真っ盛りだった。ヒップホップのトレンドは、ファンクや、激しいダンスを目的にひたすらピッチを速めた“クランク・ミュージック”など、ダンス志向の楽曲に重心が移っていた。

(略)

ゆったりとした攻撃性のあるLAギャンスタ・ラップは、ウェストコーストでは一九九〇年代以来初めて、二番手に甘んじることになった。

(略)

 ケンドリックは完全に無料で利用できるその拠点で、自身が抱える不安に向きあう時間を確保し、結果的に彼とジェイ・ロックは様々な発想を言葉にすることができた。(略)

ティファスはアーティストたちと誠実な関係を築いていた。それはビジネス上の関係というよりは、家族のようだった。トップ・ドッグは愛のむち、公平さ、揺るぎないリスペクトを通して、このスタジオに一帝国の種を蒔いたのだった。

 期を同じくして、ティフィスはもうひとりの前途有望な人物、サウンウェイヴという名でビートを作っていたコンプトン高校を卒業したばかりのプロデューサー、マーク・スピアーズにスタジオの扉を開いた。彼は、長年家族の友人だったパンチ・ヘンダーソンによって迎え入れられた。パンチはサウンウェイヴの兄と裏庭でよくバスケをしていたが、試合の合間に、当時一三歳だったサウンウェイヴが自分の部屋でソニープレイステーションのMTVミュージック・ジェネレイターをを使ってビートを作っているのを耳にした。「彼は、『おい、お前ビート作るのか?俺の従兄弟はトップ・ドッグなんだよ』って感じだった」とスピアーズ

(略)

一年後、サウンウェイヴが見覚えのある顔に再会したのは、ティフィスのスタジオにいるときだった。ケンドリックがソファーに座って、TDEのオーディションを待っていたのだ。

(略)

 ティフィスのスタジオはすぐに、キャリアに活を入れようとする他の若者たちにとっての聖域になった。二〇〇六年に、テラス・マーティンという名の男がこのスタジオを訪れるようになった。彼はロック高校で偉大なるレジー・アンドリュースからジャズを学んだ、自力でビートを作る並外れた才能の持ち主だった。

(略)

彼がティフィスの家の中を通って奥の部屋に行くと、ジェイ・ロックとケンドリックがスタジオのブースでラップしている声が聴こえてきたことを覚えている。「楽しかったね、毎日が創造性に溢れる共同体だったよ」とマーティンは思い起こす。

ドクター・ドレー

ドレーとケンドリックは単なるコラボレイターではなく、まるで家族のように親密な関係になった。「むしろおじと甥のような雰囲気だったよ(略)俺たちはスタジオに腰を下ろすと、お互いが暮らしてきたストリートの事情を話し合ったり、彼からは二世代若い俺でも共感できる経験談を聞かせてもらったんだ」。(略)

ケンドリックから50セント、エミネムまで、共に仕事をした者は誰もが先生[ドック]の素晴らしさを褒め讃えている。彼らはみな、ドレーは完璧主義者であり、気分が乗ればスタジオセッションが七〇時間以上にも及ぶこともあると公言している。ドレーはまた、とりわけ言葉にこだわる人物で、彼が仕事をするラップの抑揚について何百回も細かいことをうるさく言い、何百テイクもレコーディングするのだった。(略)

彼は自らリリックを書くことはなかったものの、スタジオの中でラッパーたちが彼のために書いたライムのなかに、彼の求める抑揚を反映させる指導方法を熟知していた。

「Sing About Me, I'm Dying of Thirst」

この二部構成の一二分にわたる壮大な大作で、このラッパーは、目の前で友人の弟(または兄)の死を看取った怒りと、ある年上の女性との偶然の口論がいかに彼の人生を永遠に変えてしまったかを解き明かす。最初のヴァースは、間違いなく最もハッとさせられる内容だ。ケンドリックは彼の友人で、殺されたデイヴの兄(または弟)の視点からライムをする。デイヴは殺され、ケンドリックはその現場を目にしていた。デイヴの兄(または弟)はストリートに深く関わっていたが、その生活から脱け出すための、新たな情熱を今なお探し求めている。しかし彼は、その時点であまりにストリートに深入りし過ぎていたため、どうしても方向を変えることができなかった。彼はケンドリックに懇願する。もし自分が死んだら、自分と弟(または兄)のデイヴのことを曲の中で追悼してくれ、と。そして案の定、その友人は『good kid, m.A.A.d city』が出る前に撃ち殺されてしまう。二つ目のヴァースは、二〇一〇年にリリースした『Section.80』に収録した「Keisha's Song (Her Pain)」の再訪だ。この曲は、熱心すぎる客に強姦され、殺されてしまったキーシャという売春婦のことを歌っていた。しかし再訪してみると、キーシャの妹からは、姉の話は人に明かして欲しくなかったと責められる。キーシャの妹にとって、それは悲劇的な事件だったからだ。

(略)

キーシャの妹の要求に逆らい、ケンドリックは彼女の視座から二つ目のヴァースをラップし、挑戦的だった彼の声は次第に消えていく。三つ目のヴァースでは、ケンドリックは自分の死や、それが死後の世界で何を意味することになるのかを理解しようと、彼自身の視点からラップする。その時点で、彼は探し求めていた神をまだ見つけていなかったが、死が着実に彼を追い掛けている中で、自身の抱える重荷をイエス・キリストの手の中にゆだね、手遅れになる前に比喩的な聖水を浴びていた。

(略)

三つ目のヴァースは信心深く、ケンドリックが抱える劣等感コンプレックスを知る。彼は「俺にはそれだけの価値があるのだろうか?」と自問する。「俺は十分な労力を注いだだろうか?」。ところが、曲の後半部「I'm Dying of Thirst」では、ケンドリックが求めていたカタルシスが与えられる。魅惑的なゴスペルにフォーカスしたこの曲は、心に残るコーラスのうめき声と、連鎖するベースドラムと一体になって、最初は復讐心に燃え、戦うか逃げるかの反応を差迫られる瞬間を描き出す。ケンドリックは全身で俺の友達を殺したヤツらを殺してやると主張している。しかし、ある年配者との偶然の出会いがそのすべてを変えてしまう。「彼女は信心深いとは言わないけど、人生の意味を俺たちに分かりやすく説明してくれる、スピリチュアルな女性だった」

(略)

「(略)最終的に、俺たちはある女性にばったり出会って、彼女は俺たちに、神やポジティブさ、人生、自由になること、そしてありのままの自分でいることについて、かみ砕いて説明してくれたんだ。彼女は本当にリアルなものとは何なのかを教えてくれた。なぜなら人はこの地球を離れて、崇高なる力を持つ者と話さなければならないからだ。あの曲は、洗礼を受けること、実際の水、聖水に浸されることを描いている。俺のスピリットのすべてが変わったとき、俺の人生が始まるときを描いたんだ―――誰もが今知っている俺の人生、それが始まるときをね」。

炎上発言

[ファーガソン事件について訊かれたケンドリックの返答は]

攻撃者ではなく犠牲者をせめた「オール・ライヴズ・マター」の支持者のように聞こえるものだったのだ。(略)

「マイケル・ブラウンに起こったことは、決してあってはならないことだった。絶対にね。でも俺たちが自分自身をリスペクトもしてないのに、どうやって人に俺たちをリスペクトしてもらうことを期待できる?変化は内面から始まるんだ。単に決起集会をやったってダメだ、略奪をしたってダメなんだ――それは内面から始まるものなんだよ」。この返答は、ファーガソンで起こっている苦闘というよりも、トラウマを抱えた黒人少年としての自分に話し掛けていた。

(略)

 この返答は、ソーシャル・メディアでちょっとした炎上を起こし(略)アーティスト仲間からの辛辣な批判を生んだ。(略)

キッド・カディ(略)は黒人アーティストたちに「すべての黒人たちに対して自分は神の贈り物だみたいな、黒人コミュニティを見下すこと」はしないで欲しいと求め、ケンドリックをサブツイートで間接的に批判した。さらに「The Blacker the Berry」の三ヴァース目も批判の的になった。(略)

自分たちが受けている不当な扱い――字面だけを読むと、ギャングに加入している黒人が四六時中お互いを撃ち殺しているのに、自分たちは警察の射撃に腹を立てることはできないと言っていた――について黒人を非難しているように聴こえた。ケンドリックはこの曲の最後で、こうラップする。「じゃあ、なんで俺は、トレイヴォン・マーティンがストリートで殺されたときに涙を流したのか/俺はギャングバンギンのせいでより肌の黒いヤツを殺すのに/偽善者が!」。このラインもまた、一部のリスナーの感情を爆発させた。

(略)

 ケンドリックはMTVニュースのジャーナリスト、ロブ・マークマンからのインタビューで、黒人コミュニティをこき下ろそうとしていたわけではないと述べた。「これは俺の経験なんだ」とケンドリックは言った。「俺は俺の人生について語っているんだ。コミュニティに向かって語りかけているわけじゃないし、コミュニティのことを話しているわけでもない。俺はコミュニティそのものなんだよ。俺だって今でも衝動を感じるし、今でも隣に住むヤツに怒りや憎しみを……どうにかしてやりたくなる悪意が芽生えることもある。だから、音楽を作ることは俺自身にとって癒やしの効果があるんだ」。

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調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝 その2

前回の続き。

タレントになるか葛藤

 やっぱり人情として、たとえタレントとしてでも売れるのはうれしいわけ。ただ、その反面、これを続けてると、本当に自分のやりたいことに戻ってこれないんじゃないかという危惧が頭をもたげてきた。

 すごく優秀なプレイヤーだった人がコメディアンとして売れちゃったために、ミュージシャンには復帰できなくなったケースがあるじゃん。例えば、フランキー堺とかさ。

 自分の場合、少なくとも司会みたいな仕事に関してはやっていけることは分かったんだ。ボケもツッコミも両方できるから。だけど、ミュージシャンとしての道を完全に断ってまでそっちに行くべきかといえば、それは選択肢に入っていなかった。

 分かりやすく言えば、中堅どころのミュージシャン上がりでしゃべりにも長けたタレントとして、ユースケ・サンタマリア赤坂泰彦を足して2で割ったような存在になるかどうかを迫られていたわけよ。

 当時は、俺みたいに何でも小器用にこなせる隙間産業的な人間が少なかったから、結構重宝されたんだ。タレント兼ミュージシャンという肩書があるから、懐メロ番組の司会とか、そういう中途半端な仕事にはちょうどフィットするのよ。今で言えば、民放BSの番組のような感じだね。

 そういう場所で地盤を固めてやっていけば、そこそこ安定した立場のタレントさんにはなれたと思うんだ。だけど、そういう状況にありながらたまに思い出したように音楽活動を行ったとしても、世間は趣味や余技としてしか受け取ってくれない。すべてが冗談にしか見えなくなる。それが一番怖かった。

 つまり、腹をくくらなきゃいけないわけ。一度腹をくくりさえすれば、後はもう楽なのよ。だけど、果たしてそれでいいのかという葛藤は、ずーっと心の中でくすぶっていた。

人種熱

 近田春夫事務所が間借りしていたアミューズには、アマチュアのミュージシャンから膨大な数のデモテープが送られてきていた。(略)

でも、アミューズ のスタッフは忙しいからか、それらのカセットは段ボール箱に入ったまま放置されていた。俺は、ヒカシューのデモテープに衝撃を受けた経験から、ひょっとすると、こういうところに宝が埋まっているんじゃないかと感じていたんだ。

 80年のある日、ふとその箱の中に視線を向けたら、「人種熱」というバンド名が目に飛び込んできた。まずは、その造語のセンスに惹かれたんだよね。曲名もユニークだった。例えば、「さて」とかいうんだから。

 いざデモテープを聴いてみると、音楽そのものもすごく面白かった。アース・ウィンド&ファイアーとウェザー・リポートとジャパンが混ざったようなもんでさ。あの段階で、すでにリズムボックスの音源を曲の一要素として生楽器の演奏にプラスしている。そこに乗る日本語の歌詞も、バンド名や曲名同様、今まで聴いたことのない新鮮なものだった。

 ということで、興味を持った俺は、人種熱のメンバーに会う手配をつけた。

 どこかのスタジオに呼び寄せて会ってみたら、リーダーでギターの窪田晴男がすっごい偉そうなのよ。あの頃、あいつは二十歳そこそこだったんだけど、「タレントやってるチャラチャラした人がちゃんと演奏なんかできるんですか?」って態度で俺に接していた。(略)

タレントと化していた数年間、プレイヤーとしての俺は、キーボードにほとんど触れていなかった。BEEFではヴォーカルだけだったし。だからといって、さすがにアマチュアバンドの楽曲がそんなに難しいわけはないとは思うじゃん。

 高をくくってる俺に、人種熱の譜面が手渡されたんだけど、驚いたよ。おたまじゃくしで隈なく埋め尽くされた書き譜なのよ。当時のロックバンドは、たとえプロであっても現場で編曲を進めるヘッドアレンジが当たり前。せいぜいコードが決まってるぐらいでさ。

 真っ青になって、「ちょっと譜面借りて、今晩練習してくるわ」と言い残してそそくさと帰ったよ。窪田は、別にアカデミックな音楽教育を受けてきたわけじゃないんだけど、純邦楽や沖縄民謡に通じた山屋清という音楽家の甥に当たるんだ。そこから、いろいろと知識を吸収したらしい。

 そして俺は、頭を下げて、人種熱に加入させてほしいと頼んだんだ。

 ただ、人種熱単体では知名度に欠け、商売にはならない。若いメンバーたちを食わせなきゃならないから、俺が一介のキーボード奏者として参加する際には「人種熱+ 近田春夫」名義、俺がヴォーカルとして前面に立つ場合は「近田春夫&ビブラトーンズ」名義でそれぞれ活動しようということになった。

(略)

人種熱に入れてもらった時、窪田に「俺、新しくキーボード買おうと思うけど、何がいい?」って聞いたわけ。そしたら、「ローランドのジュピターがいい」って言うから、すぐにそれを買ったのよ。あれが、俺の入手した最初のシンセだったな。

(略)

ミュージシャンに専念することを心に決めた俺は、この年の夏、タレント廃業を宣言する。

(略)

『ミッドナイト・ピアニスト』では売れ線を狙った歌謡ポップ色の濃い曲が結構多かったかなという反省があったから、[平山みきの]『鬼ヶ島』では、スケベ根性を起こさずそういう甘口なものはやらないようにしようとは思った。

 だから、『鬼ヶ島』はビブラトーンズというよりは人種熱の作品に仕上がっている。

(略)

当初の約束通り(略)「人種熱+近田春夫」と「近田春夫&ビブラトーンズ」の名義を使い分けていた。

 ところが、当時の俺にはタレントさん的な意味での知名度がまだそこそこ残っていたから、やっぱりビブラトーンズ の方が需要は大きいわけよ。もともと人種熱のリーダーだった窪田が、それについて快く感じていなかったことは気づいていたんだ。今思えば、俺も内心、「その代わり、収入を保障しているからいいだろう」と驕り高ぶっていたのかもしれない。

 ある日、人種熱名義のライブの壇上で窪田は、「実は金のために嫌々ビブラトーンズをやってるんです」みたいなことを放言しちゃったんだよ。それを聞いた俺は、「俺としてはそういうつもりじゃなかったけど、自分のやっていることは本当に失礼なことだったんだな」と反省したんだ。

 だけどライブが終わったら、他のメンバーが楽屋で「あれは近田さんに対して失礼だろ」って怒り出しちゃった。しまいには、本当は仲のよかったエンちゃんと窪田が口も聞かない状態になっちゃってさ。

 俺としては、本心から窪田に謝って事を収めたかったものの、それではエンちゃんの顔が立たない。本当に悩みに悩んだ末、泣いて馬謖を斬るみたいな気持ちで、あいつが練習するスタジオまで行って、「いろいろ考えた上で言うけれど、やっぱりお前に言われたことは失礼だと思うから、今日限りで俺はお前と絶交する」と告げたわけ。

 その後、窪田とは関係を断っていたんだけど、あいつがパール兄弟としてデビューする前後の時期に、たまたま出席した共通の知人の結婚披露宴で隣り合わせちゃってさ。「おめでたい席でめぐり合ったわけだし、今日から元の仲に戻さないか」って俺から提案したのよ。そしたらあいつもブスッとした顔で「いいっすよ」と答えてくれてさ。

 そこでいったん過去がリセットされて、今日に至るまで、ずっと深い付き合いになっていると思う。

「東京フリークス」、「PINK」

 ビブラトーンズが『VIBRA-ROCK』を発売した82年11月から、毎回10組以上のバンドが登場する定例イベント「東京フリークス」がスタートした。(略)

遠藤賢司S-KEN、東京ブラボー、サニー久保田とクリスタル・バカンス、有頂天、ポータブル・ロック、そして岸野雄一加藤賢崇のいた東京タワーズなんかが登場してくれた。

 主目的はビブラトーンズの販促だったんだけど、いろんなバンドがいたらお客さんも楽しんでくれるかなと思ったんだよね。

(略)

 「東京フリークス」を触媒としてバンド同士の交流が盛んになって、新しいユニットが生まれることもあった。そのひとつが、ビブラトーンズのエンちゃんを中心とする「おピンク兄弟」。この名前は、『星くず兄弟の伝説』から採ってるんだよ。

(略)

このグループは、「PINK」に発展し、84年にデビューすることになる。おピンク兄弟の段階じゃメンバーはまだ流動的で、ジューシィ・フルーツ沖山優司や、天才ギター少年として知られていた鈴木賢司が参加していたこともあった。

ロックからディスコへ 

 この当時の俺は、ロックという表現形態の行く末について悲観的な考えを抱いていた。縮小するのか拡大するのかはともかく、今後は再生産しか道はないと思えたわけ。

 実際、ロックと称する音楽が、いわゆる売れ線のポップスと変わらないスタンスでヒットを狙う例が増えてきていたんだ。

 ひとつは、ピーター・フランプトンみたいに、テクニックのみならずルックスにも恵まれたミュージシャンを積極的に売り出すパターン。(略)

 もうひとつは、外見としてはお洒落からほど遠いんだけど、とにかく技術には長けているというパターン。その代表が、トム・ショルツのやっていたボストンだよ。

 俺がイメージしていたロックというジャンルは、もっとリアルな心情を表出するものだったわけ。ところが、それはいつしか、スタジアム規模の興行にうってつけのコンテンツとしての見世物へと変わっていった。その最たるものが、キッスだったと思うんだ。

 80年代を迎えると、「産業ロック」と揶揄されるようになったその類の音楽が、ロックのメインストリームとして定着してしまう。

 そこで気づいた。自分の中では「ロックンロール」と「ロック」は違うものなんだと。

 ロックは、次第に無難な商業音楽の分野のひとつとして受け入れられ、他のジャンル同様、技術の向上が尊重されることとなった。それに比べると、ロックンロールは、上手とか下手とか一切関係なしに、ハッタリが効きさえすればそれでいいじゃん。その究極の例が裕也さんなわけよ。

 やっぱり、最近のストーンズのライブの映像観ても、ミック・ジャガーはいまだに歌上手くなってないもんね。うれしくなっちゃうよ(笑)。

 非アカデミックなものがアカデミックなものに勝つというその瞬間こそ、「ロックンロール」の醍醐味である。俺は昔からそう定義してきた。パンクやヒップホップに形を変えながら、その精神はずっと受け継がれていったと思うんだ。

 ロックに関する幻想から覚め始めた時、ディスコというジャンルが自分の中で存在感を増してきた。ディスコは、最初っから人を踊らせるための商業音楽という目的がはっきりしてるじゃない?その機能性がいっそ潔いなと思ってさ。

実はディスコって、ちゃんとした楽典的素養がないとアレンジできないジャンルなんだよ。結構、弦とか管とかが入るからさ。

 歴史をたどれば、ディスコというサウンドは、MFSBの「ソウル・トレインのテーマ」が元祖。あそこで、ドラマーのアール・ヤングが四つ打ちというものを発明したんだ。

 少し遡るけど、当時、ディスコに関する考え方としてものすごく共鳴したのが、元ニューヨーク・ドールズデヴィッド・ヨハンセンが78年にリリースした「Funky But Chic」。パンクとディスコを融合させた試みだよね。もうひとつが、同じ78年にエドガー・ウィンター・グループを脱退したダン・ハートマンが発表した「Instant Replay」。これ、アメリカのダンスチャートで1位を獲っちゃったんだ。

 自分が気にかけていたミュージシャンが、こぞってダンスミュージック的な方向に舵を切った。その事実には刺激を受けたね。そして心の底には、ロックはもう遊び人の音楽じゃなくなっちゃったなという淋しい気持ちがあったんだと思う。

 ただ、アメリカと日本では、ディスコという音楽のとらえ方が決定的に違ってたのよ。六本木の「ソウル・エンバシー」とか、ああいう店でかかっているのはモータウンかスタックスかJBって感じで、サルソウルみたいな音楽はあんまりウケてなかった。

 その後、日本では、78年に公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の余熱がずっと続いていたわけ。つまり、白人っぽい甘口なものが受け入れられていた。

 一方では、「ジンギスカン」を始めとするノベルティソングや、ハービー・マンやジョージ・ベンソンみたいなジャズの人がお手軽にこしらえた曲がヒットしたりしてさ。キャメオとかリック・ジェームスとか、テレビ映えするタイプも人気があったよね。

 あと、何と言ってもアースよ。アース・ウィンド&ファイアー。日本中のディスコをアースが席巻しちゃった。つい最近まで、歌謡曲・ポップス系のアレンジャーが作るディスコはみんなアース調だったもん。そういった日本独自の感覚が、後のユーロビートのブームまで脈々とつながってると思う。

 まあ、そもそも自分は長らくハコバンやってたぐらいだし、ロックよりディスコが好きだったことは事実なんだよね。この時期の俺は、バンドの作る音楽よりも、DJが発信する音楽の面白さに大きく惹かれていた。

(略)

 確かに、当時、六本木や新宿のディスコなんかに行っても、いいDJは観てるだけで楽しかったんだよ。宇治田みのるとか松本みつぐとかさ。

『クラッシュ・グルーブ』を観てラッパーに

[86年のある日、高木完藤原ヒロシが事務所に『クラッシュ・グルーブ』のビデオを持ってきた]

 俺はちょうどその頃、日本語の歌詞を作る上での新しい方法論を模索してたの。

(略)

 日本語で複雑なことを伝えようとするがため、俺の書く歌詞は、どうしても16分の符割りばかりになっていった。ただ、日本語の単語は強弱じゃなくて高低でアクセントを効かせるから、1番と同じメロディに2番の歌詞を乗せると、意味が通じなくなる場合がある。

 ということで、正確に内容を伝えることを優先するため、自分が作る曲は、歌うというよりはしゃべるようなイントネーションに変わっていった。(略)

 その矢先に『クラッシュ・グルーブ』を観たもんだから、衝撃を受けたわけよ。それまで、シュガーヒル・ギャングみたいなパーティラップは耳にしたことがあったけど、あれは日本に置き換えるなら七五調の言葉遊びみたいなもんじゃん。ところが、デフ・ジャムをはじめとする一連の新しいラップは、特に韻も踏まずに、ビートに載せてとにかく言いたいことを無骨に畳みかけている印象があった。

 これは、当時の自分が試みていたことと近いかもしれないなと思ったの。俺がやっていたことは、ロックというアートフォームの中で理解するより、ヒップホップとして捉え直した方がいいんじゃないかと。

(略)

天啓を受けたように「そうだ、俺はラッパーになろう」と心に決めたのよ。

ビブラストーンズ、ハウス

 ビブラストーンを始める時に思ったのは、ジェームス・ブラウンフランク・ザッパを足して二で割ったようなものを作ろうってこと。

 よくフェラ・クティの影響も指摘されるんだけど、そこはOTOの趣味なんだ。俺さ、アフロファンクとレゲエはあんまり好きじゃないのよ。何というか埃っぽくてさ。

 OTOに関して言えば、俺、じゃがたらからは相当刺激を受けたんだよ。アングラ嫌いの俺がじゃがたらのことを好きだなんて意外だと驚かれるんだけど、俺の考えでは、じゃがたらはとにかくモダンだったんだ。特に、日本語とリズムとの関係において、それまでにはなかった新しいものを感じた。

(略)

 この時期の自分は、俄然、ハウスに興味を引かれるようになっていた。

 日本にヒップホップが入ってきてから、ハウスが入ってくるまでの間って、大してタイムラグはなかったと思うんだ。だから、こっちじゃどちらも黒人発のダンスミュージックとして一緒くたにとらえてたけど、実際にアメリカに調査に行った人間の話を聞くと、その両者に接点はまったくなかったという。

 確かにそうでさ、まったく違う文化なんだよね。ハウスはゲイカルチャーから生まれたけど、ヒップホップの世界にはゲイがいなかった。ヒップホップ側の人間って、ゲイっぽい価値観をあからさまに嫌うじゃん。

 技術的なことを言うと、ヒップホップよりも、ハウスみたいな四つ打ちの方がビートを作るのは難しいんだよ。四つ打ちって、拍の頭に必ずキックが鳴るじゃん。ベースも一緒に鳴るじゃん。そこだけ突出して低音が膨らんじゃう。それが厄介なんだ。全体をミキシングする際、そこに圧縮を施すと、ハウスっぽい感じが出ない。

 ヒップホップの場合は、シンコペーションが多いから音圧を分散させることが可能なのよ。でもハウスにはシンコペーション、つまりリズムのずれがないから、グルーヴというものを生み出すことがものすごく難しい。

 ハウスの祖に当たるディスコは基本的に生演奏だから、バランスを取りやすい。でも、ハウスみたいに全部機械で打ち込むとなると、音のバランスが取りづらいんだ。

 ということで、ここはいっそハウスを極めてやろうと思ってさ、機材を使いこなすことに関心が向いてきた。

『Vibra is Back』

 マネージャーのKに去られた俺は、当時、SFC音楽出版(現ウルトラ・ヴァイヴ)という会社を経営していた高護さんにお願いして、ビブラストーンのマネジメントを引き受けてもらうことにした。(略)

 そして、89年12月、SFCが手がけていたインディレーベルであるソリッドから、近田春夫&ビブラストーンのデビューアルバム『Vibra is Back』がリリースされる。

 このアルバムは、高さんの提案で、全曲DAT一発録りのライブ音源を集めたものとなった。

(略)

 俺はそれまで、レコーディングとライブは別物だと思っていて、ライブ盤を出した経験がなかったから、これはちょっとした挑戦と言ってもよかった。

 でも、結果として本当にいいものができた。この時点で、もうバンドとしてほぼ出来上がっちゃってるんだよね。実は、この後にポニーキャニオンから出るアルバムより、ずっといいと思ってるぐらい。ひょっとすると、近田春夫の全キャリアを通しても、一番好きなアルバムかもしれない。

プロデューサー業

 81年には、サンタクララという夫婦デュオのシングル2枚をプロデュースした。

 このふたりを知ったのは、NHKのオーディション。たまたま足を運んだら、「男と女」って曲を歌っててさ、それが本当にカッコよかったのよ。まあ、エスター・フィリップスの「What a Difference Day Makes」そのままなんだけど(笑)。下世話な水商売の匂いに衝撃を受けたよ。

 その印象を「POPEYE」の連載に書いたら、向こうからプロデュースを頼まれたってわけ。それで、「人に言えないラブシーン」というシングルを提供した。B面の「ふるさとトワイライト」ともども俺の作詞・作曲。編曲は、当時ビブラトーンズを一緒に始めたばかりの窪田晴男に任せている。

(略)

 82年にビブラトーンズとしてアレンジと演奏に参加したのが、三上寛の『このレコードを盗め』というアルバム。

 このレコードは、一応キャリア初のベストアルバムを謳ってるんだけど、全曲、オリジナルとはアレンジが変わってるのよ。

 俺たちは「なかなか~なんてひどい唄なんだ」という曲をリメイクしている。初めて聞いた時に、あまりにも前衛的な歌だったので驚いてさ。これもまた、「POPEYE」で紹介したら、それが先方の目に入ってオファーが来たんじゃなかったかな。

 三上寛という人は、一般には情念的なフォークの歌い手だととらえられているけれど、その一方で、非常にモダンな感覚を持っている人ですよ。

 

 80年代にプロデュースを行ったアルバムで、一番自信を持っているのが、85年にリリースされた風見りつ子のアルバム『Kiss of Fire』。

(略)

 この頃、自分の中では、作詞・作曲・編曲・演奏のすべてを自分で手がけたいという気持ちが強まってきていた。そんなところに舞い込んできた仕事だったんだよ。

 ここでは、まず徹底的に打ち込みだけで作り込んで、そこにギターをはじめとするいくつかの楽器の音を挿した。そして、有機的なコーラスを過剰なまでに多用したんだ。

 このアルバムを作るに当たって影響を受けたのは、スイスのテクノポップグループ、イエローの「Pinball Cha Cha」という曲と、マット・ビアンコのファーストアルバム『Whose Side Are You On?』