デヴィッド・ボウイ 無を歌った男 田中純

デヴィッド・ボウイ 無を歌った男

デヴィッド・ボウイ 無を歌った男

  • 作者:田中 純
  • 発売日: 2021/02/18
  • メディア: 単行本
 

〈フリー・フェスティヴァルの思い出〉と〈白鳥の雛委員会〉

 〈フリー・フェスティヴァルの思い出〉のオプティミズムには、アーツ・ラボの活動にボウイが託したであろう夢や理想が投影されている。しかし、秋にこの歌がレコーディングされたとき、そこにはすでに深い幻滅が伴っていた。同じアルバムのなかでその幻滅を如実に表している曲が〈白鳥の雛委員会 Cygnet Committee〉である。

(略)

 ボウイは対抗文化や反体制活動の政治的信条を信じていない。その意味で彼は左翼的な政治革命を志向してはいない。「いったいきみは何を信じたいというのだい?」と問われて彼は、「ぼくは人びとが自分たちが何のために闘っているのか、なぜ自分たちが革命を望んでいるのかわかっていたと信じたいよ」と答えている。

(略)

しかし、このひとたち――彼らはとても無感動で無気力だ。ぼくの人生で出会ったもっとも怠惰な連中さ。彼らは自分たち自身で何をやったらいいかわからない。年がら年中、どうすればいいか彼らに教えて面倒を見てやらなければならない。彼らは言われた通りの格好をして、言われた通りの音楽を何でも聴くんだ。

 

 これはベッケナム・アーツ・ラボでのボウイ自身の苦い経験の吐露だろう。そこは結局、共同的で相互啓発的な芸術・文化創造の場ではなく、ボウイのファンなど、受け身の追従者たちの集まりにしかならなかった。この22歳の青年は、自分が関わった活動から身に沁みた教訓を伝えるように、「音楽を選ぶ能力のない人びとを教育することなど不可能だ。他人にしてやれることなどない。彼らは自分でどうにかしなければならない」と語っている。〈白鳥の雛委員会〉の疲弊した辛辣な「思想家」の姿には、ボウイみずからが味わった徒労感もまた反映しているに違いない。

(略)

同時代、同世代の大衆に絶望して、その絶望の果てにボウイが見てしまうものは、子供たちの亡骸が路上に散らばる「荒れ果てた通り」の血塗られたディストピアという破局的な光景である。そこにヒッピー的な弛緩した楽天主義は皆無であり、左右いずれの政治イデオロギーへの信仰もない。しかし、通常の意味での政治革命を退けながらも、彼が何らかの「革命」をどこかで希求していることも事実なのである

『世界を売った男』 

   この時期のボウイはアンジーと過ごす時間が多く、スタジオにはしばしば不在だったため、曲のコード進行をヴィスコンティとロンソンがまず決めてしまい、ボウイがあとからそれに歌詞とメロディを付ける場合が多かったという。したがって、スタジオでの即興による部分もまた増えることとなった。

(略)

ボウイが繰り返し唱える「ぼくはコントロールをけっして失わなかった」という言葉は、ボウイとジョーンズという分身同士の相互的な「コントロール」に関わっているに違いない。言うまでもなく、それはトム少佐から開始されたボウイにおけるキャラクター・イメージのコントロールにも及ぶ。そしてこのコントロールは「売ること」のビジネスと切り離しえない。

 ボウイにおいてキャラクター・イメージの戦略は二重化している。ドゲットが指摘しているように、すでに「デヴィッド・ボウイ」そのものが「デヴィッド・ジョーンズ」とは区別される架空のキャラクターである。「ボウイ」はさらにこのキャラクターが演じる複数のキャラクターを発明してゆく。それは付け替えられる仮面である。『世界を売った男』発売後にアメリカでなされたインタヴューで、ボウイはこんな発言をしている――

 

音楽が言っていることはシリアスかもしれないけれど、ひとつのメディアとしてはあまりシリアスに問われたり、分析されたり、受け取られたりすべきじゃない。それは安っぽく着飾り、娼婦になって、それ自身のパロディと化すべきなんだ。それは道化であり、ピエロ的メディアであるべきだ。音楽とはメッセージが付ける仮面だ――音楽とはピエロで、パフォーマーであるぼくがメッセージだ。 

『ジギー・スターダスト』

 ボウイにとってジギーというキャラクターは本来、ロック・イデオロギーに対して距離を確保するための虚構だった。彼はこう述べている――

 

要は虚構という発想、しかもそれがポピュラー・カルチャーの中でどれほど巨大に膨れ上がったかっていうことだったんだ。リアリズムだとか誠実さなどといった60年代後半に出現した物事が、70年代に入っていくにつれて、多くのすれっからしの人たちにとってはまったくうんざりするようなものでしかなくなってしまったわけでね。(略)とにかく、まったくこの世のものとも思えない非現実的な虚構を作り上げ、そしてそれを更に生きる偶像として奉ってしまったら本当に面白いだろうなと思ったんだ。ジギーのストーリーはだから、元はそういう発想から生まれたものだったわけさ。

 

 ところが、ボウイ自身がこれに先立つ『ハンキー・ドリー』で歌っていたように、銀幕としての虚構であるジギーと現実のボウイとは区別がつかない。ジギーとボウイ、虚構と現実のあいだのアイロニカルあるいはシニカルな距離は維持しえない。その差は実際には無なのである。その結果、ボウイが演じるジギー・スターダストという分身とボウイ自身とのあいだには著しい混乱が生じる。ロック・イデオロギーを信じることなくロック・スターを演じようとするボウイは、その演技によって逆にロック・イデオロギーに囚われてゆく。「自分の自我とセックスして/自分の魂のなかへと吸い込まれた」ジギーのように、ボウイはジギーという分身と自己自身との境界を見失い、両者が無限に反射し合う悪循環のなかに閉ざされてしまう。のちに語られたところでは、ジギーに夢中になったボウイはこのキャラクターに取り憑かれ、とりわけ最初の全米公演では「自分はメシアなのだ」と確信させられるまでになったという。

 1990年に行なわれたインタヴューでボウイは1970年頃を回想し、当時自分には何の実体もないように、自分を透明に感じていたと述べた――「とくに「自分」という感覚がまったくなくて。周りから部分部分を引っ張り集めては、それを自分に貼りつけていかないと自分という人間が作れないように思えてしょうがなかったんだよ」。彼はさまざまな分身をブリコラージュによって構成し、その分身という他者に同一化してゆくことで、ようやく自己同一性を獲得することができた。したがって、ジギーという可塑的な分身イメージに埋没することは、ボウイにとってむしろ避けがたい過程だったのかもしれない。

 1947年生まれのボウイは、ビートルズのメンバーと比べれば4~7歳、ザ・フーピート・タウンゼントよりは2歳若いにすぎない。しかし、ミュージシャンとして広く認知されるまでにかかった時間からすれば遅咲きと言うべきだろう。

(略)

ボウイは遅れてやってきてしまったロック・スターである。(略)『ジギー・スターダスト』はこの遅れゆえに可能になった、メタ・ロック的なロック・アルバムであり、ロック・スターをめぐる神話の構造を意識的に活用した口ック・スター創造の実験である。

(略)

 必ずしも明確なコンセプト・アルバムではない『ジギー・スターダスト』が暗示していたジギー神話を、ボウイはのちのインタヴューで或る程度整合的に語り直している。そのような自己解説としては、1974年2月に『ローリング・ストーン』誌に掲載されたウィリアム・バロウズとの対談における発言がとくに詳しい。

(略)

 天然資源の枯渇によって、地球があと5年で終わりを迎えるという報道がなされる。ロックンロール・バンドの一員であるジギーは夢のなかで、宇宙を旅する「無限者たち」から、スターマンの到来を歌にするよう命じられる。無限者たちは〈ロックンロールの自殺者〉が演奏されているあいだにステージ上のジギーをばらばらに引き裂き、その断片を摂取することにより、元来は非物質的な自分たちの軀を実体化させ眼に見えるようにする――。

 ここで注目したいのは、この構想のなかで無限者たちがジギーに「ニュースを集めて歌え」という命令を与えている点である。ボウイはこう語っている――「〈すべての若き野郎ども〉はこのニュースをめぐる歌です。それは、人びとが思っているような、若さの讃歌ではありません。そのまったく逆です」

アラジン・セイン』 

 1972年9月、ボウイとアンジーはクイーン・エリザベス二世号でニューヨークに向かう。7月の飛行機による移動で乱気流に巻き込まれて以来、ボウイは死への恐怖から飛行機に乗ることをきっぱりと止めていた。9月下旬からはジギー・スターダストとそのバンドの全米ツアーが始まる。

(略)

ボウイと少人数の同行者は北米大陸をグレイハウンド・バスや列車、車で移動した。この旅のあいだ、時間的な余裕を得たボウイは、行く先々で曲の着想に恵まれ、次々と作品を生み出していった。たとえば、〈あの男に注意しろ〉はニューヨークでニューヨーク・ドールズのコンサートを観たあとに書かれ、〈ジーン・ジニー〉はクリーブランドからニューヨークへの移動の過程で書き始められたのち、ニューヨークで完成された。〈デトロイトでのパニック〉とはタイトルにある都市を舞台とし、〈気のふれた男優〉はロサンゼルスで書かれ、〈ドライヴインの土曜日〉はシアトルからフェニックスに移動する際に眼にした光景を着想源にしている。アルバム『アラジン・セイン』に収められたこれらの曲は、異邦人によるアメリ旅行記なのである。

(略)

1972年の11月、シアトルからフェニックスへ向かう夜行列車(略)寝付けなかった彼は、荒涼とした土地を走る列車の車窓から、月の光に照らされている17、8の銀色の巨大なドームを眼にした。それはボウイに、核攻撃によるカタストロフィののちのアメリカやイギリス、あるいは中国の光景を想像させたという。そこでは放射線が人びとの精神や生殖器官に作用した結果、彼らはもはや性の営みをもたず、セックスについて学ぶ唯一の方法は、かつてそれがどんなふうに行なわれていたのかを記録した映画(つまり、ポルノ映画)を観ることだけになっている。そこに残されているのは、〈火星に生命?〉や〈流砂〉で語られていたような、すでに繰り返し上映された映画としての現実を生きるしかない退屈な日常である。

 この歌を初披露したライヴで、ボウイはその舞台となる時代は2033年であると観客たちに告げている。

(略)

 1993年のインタヴューでボウイは、アメリカとは自分が思い描いてきた「もうひとつの世界」そのものだったのであり、彼がその世界に夢見た暴力や奇妙さ、突拍子もなさといったもののすべてを備えていた、と語っている――

 

突如として、ぼくの歌の数々がそれほど場違いには思えなくなった。ぼくらが遭遇した状況のすべて、ぼくが聞いた意見のすべて、ぼくの耳を捕らえたリアルなアメリカらしさといったものをちゃんと書き留めておいた。デトロイトのような場所の光景がまさにぼくの想像力を心底捕らえた。なぜなら、あそこはあんなふうに荒っぽい街だったし、ぼくが書き綴ってきたたぐいの場所に、ほぼそっくりだったのだから。ぼくは思った、「なんてことだ、こんな場所がほんとうにあって、ひとがそこで暮らしているなんて!」とね。「キューブリックはこの町を見たことがあるのかな」とも思った。そこは彼の『時計じかけのオレンジ』の世界を一種ヤワなものに感じさせるんだ!

(略)

「誰がアラジン・セインを愛するのだろう?」とボウイは問いかける。1920年代の「陽気な若者たち」ではなく、1970年代の「気のふれた若者(ア・ラッド・インセイン)」を愛することになるのは誰なのか、と。

(略)

ボウイが歌い始めるとともに、ガーソンのピアノもまた、グリッサンドを交えながら、より自由で華麗な展開を開始する。それが最高潮に達するのが、ほとんど1分半に及ぶ圧倒的なピアノ・ソロである。

(略)

 スタジオでこの曲を録音する際、ガーソンはボウイからとくに何の指示もないまま、まずブルース風に弾いてみたという。それはボウイに却下されてしまう。ラテン風に弾いても駄目だった。ボウイは、1960年代のアヴァンギャルド・ジャズ・シーンで弾いていたものを演奏してみてくれ、と告げる。そのスタイルで演奏したソロが〈アラジン・セイン〉に使われており、それは一音も変えることなく、まったく編集もされていないという。ガーソンはこのソロ演奏についてみずから「不協和音的、叛乱的、無調で、かつ、とても「外部的(アウトサイド)」であると語っている。

『ダイアモンドの犬たち』 

 1976年のラジオ・インタヴューでヴィスコンティは、ボウイの考えていたダイアモンドの犬たちとはこの世で最後のロックンロール・グループであり、同名の歌の映像化にあたっての或るヴァージョンでは、この犬たちが現実に人びとを喰らうか、舞台上で彼らを殺戮するか、あるいは、観客目がけてマシンガンを乱射することになっていたと語っている。「これはロックンロールじゃない――これは大量虐殺だ」という叫びの文字通りの実現である。

(略)

ボウイは1976年に、アドルフ・ヒトラーは最初のロック・スターのひとりだと語っている――

 

彼が映っている映画を見て、彼がどんな動きをしているかに注目してごらん。まったくミック・ジャガー並に素晴らしいと思うよ。(略)

政治と演出技術を駆使して、12年間もショーを支配掌握していくだけのものを創造したんだ。二度とああいう人間は現れないだろう。彼は一国を演出したんだ。

 

 これはボウイが「自分はファシズムを信奉している」と語り、「ロック・スターはファシストだ」と断言しているインタヴューにおける発言である。

(略)

「ダイアモンドの犬たち」ツアーのステージ・セットのキーワードのひとつがナチの党大会が開かれた都市の名「ニュルンベルク」であったことは、ヒトラーによる演出をボウイがコンサートに利用できると考えたことを示している。ジーバーベルクにとって映画がそうであったように、当時のボウイにとってロック・コンサートは、20世紀のヴァーグナー的総合芸術作品だったのではないか。そして、『ダイアモンドの犬たち』とそのツアーの構想においてボウイは、そうした総合芸術作品の理念におそらくもっとも接近していた。

 『ダイアモンドの犬たち』はそもそも『1984年』における社会主義体制下の政治的抑圧の告発から出発していた。しかし、ボウイが自分のオブセッショナルなポスト黙示録的イメージを追求しているうちに、それはナチにおける「政治の美学」に近づいてしまうような、政治的暴力や恐怖をめぐる審美的ヴィジョンを志向するようになる。

(略)

 ボウイが『ダイアモンドの犬たち』で辿り着きつつあったのは、ロックンロールには本質的にナチズム、ファシズム的な要素があるという認識だったように思われる。

(略)

「これはロックンロールじゃない――これは大量虐殺だ」というボウイの叫びは

(略)

ボウイみずからのオブセッションの内奥に潜んで蠢いている政治的情動を感じ取ったがゆえの、アルバムの内側から発せられた警告だったのかもしれない。

 だがそれは同時に、ロックンロールがロックンロールでしかないことに対する苛立ちの表現でもあったように思われる。

(略)

「ロックンロールになどまるで関心がない」と言い切るボウイという非ロック的ないしメタ・ロック的なロック・スターが「ロックンロール」なるものと取り結んできた矛盾と葛藤に満ちた関係を知るわれわれには、これがその二者間の尋常ならざる緊張関係のなかから生まれた、ロックがロックならざるものになろうとする運動を指し示す徴候であるように思われてならない。

 〈ヤング・アメリカンズ〉、フィリー・ソウル

[オレアリーは]当時のボウイにとってフィリー・ソウルは大衆の欲望に訴えかける(略)「ひとのもっとも深く激しい願望を弄ぶ野心的な都会の音楽」だったのではないかと指摘している。

(略)

ボウイが魅せられたのは、1970年代初頭の全盛をきわめていたフィリー・ソウルの、サウンドのみならず、ファッションまで含めた総合的なイメージ戦略だった。その時代背景は、黒人たちの音楽がブラック・パワーを可視化する強力なメディアとなった1960年代とはまったく異なっていた。ドゲットはその点について次のように述べている――

 

黒人解放運動が政府の秘かな干渉(ニクソン政権の悪名高いコインテルプロ活動)によって崩壊させられてはじめて、アメリカ各都市のゲットーには安物のヘロインやコカインが溢れかえり、1970年の革命は『黒いジャガー』や『スーパーフライ』といった映画におけるシックな「ブラックスプロイテイション」に再パッケージ化され、合衆国のソウル文化は現実逃避や享楽主義に後退してしまい、ファンクの正当な爆発はダンス・フロアでリズムを刻むディスコのメトロノームに取って代わられたのである。

 

 それはポスト革命期の時代性であり、そこに孕まれているニヒリズムはボウイにとっておのれの問題でもあった。そして、フィラデルフィア・ソウルがそうした革命後の文化的空虚ゆえの産物であったとして、ボウイが強く反応したのは、まさにその虚無ゆえの「輝き」であったように思われる。ボウイは自分の歌うソウルが、真正で正当なファンクの革命的爆発からはほど遠い、まがい物でしかありえず、作り物のソウルにとどまることを、その魅力ゆえの危険性を含めて自覚している。しかし、虚無から出発して虚無に帰るような、徹底した作り物として組み立てられた歌であるからこそ表わせる時代の表情を、ボウイはフィリー・ソウルの形式を通じてとらえようとしているのである。

 その成果がアルバムのタイトル・トラック〈ヤング・アメリカンズ〉である。

『地球に落ちて来た男』

ボウイ自身がそのつもりで、撮影終了後の9月以降、次のアルバム『ステイション・トゥ・ステイション』のレコーディングと並行し、映画用の音楽作りに取り組んでいる。パートナーとなったのは〈スペース・オディティ〉でチェロの演奏とストリングスのアレンジを担当したポール・バックマスターだった。12月にはそのレコーディングが行なわれ、数曲のテープが作られた。だが、ローグがこの映画のためにいかにもアメリカ的なポピュラー音楽を使いたいと考えたことを大きな理由とし、契約上のいざこざがあってボウイの側も手を引くことにしたため、彼の作曲した曲が用いられることはなかった。

 ボウイが映画のために作った曲はそのままのかたちでは公開されていない。ボウイや関係者たちによれば、『ステイション・トゥ・ステイション』や『ロウ』の〈地下の人びと〉などにその一部が用いられているという。バックマスターによれば、ボウイが歌も歌った優しく哀愁を帯びた曲があり、〈ホイールズ〉というその題名は異星の砂漠を走るモノレールの列車を意味していた。なお、のちに『ロウ』が完成したとき、ボウイはローグにこのアルバムを送り、「これが映画用に自分の考えていた音楽だ」と伝えたと言われる。

 『ステイション・トゥ・ステイション』と『ロウ』のジャケットにこの映画のスティル写真が使われていることも表わすように、『地球に落ちて来た男』はボウイの創作活動に多大な影響を与えた。

 『ステイション・トゥ・ステイション』 

あのアルバム(『ステイション・トゥ・ステイション』)と『ヤング・アメリカンズ』の大部分は、どうにも陰鬱な気持ちになるばかりだっていうのに。(略)

ぼくの精神状態はほんとうに悲惨だった。自分がまだ ロックンロールの世界にいることに、とにかく頭に来ていたんだ。

 しかも、ただそこにいるだけじゃなく、いつの間にかその中心に巻き込まれていることに対してもね。ぼくはあそこを離れなきゃいけなかったんだよ。こんなにもロックンロールに深入りする気なんていっさいなかったんだから――それなのにぼくはロサンゼルスみたいな、その真っ只中にいたんだ。

「ロックンロールが本来の約束を果たしていないことは明白だ」

『地球に落ちて来た男』の撮影中と思われる時期のインタビューで彼は、ロックの社会的役割とその終焉、ロックそのものの老化と死について明晰かつ辛辣な診断を下している。「ロックンロールが本来の約束を果たしていないことは明白だ」と彼は言う。この「本来の約束」とは何か――

 

この世に登場した当時のロックンロールの本来の目的は、他のメディアに入り込んだり、影響力をもったりするための権力や利点をもたない人びとのためのオルタナティヴなメディアの声となることだった。そしてまったくダサいことに、人びとは本気でロックンロールを必要としていた。そしてぼくらが言ったのは、自分たちが置かれている状況に対抗して自分たちの強い主張を言い表わすために、ぼくらはロックンロールを利用していただけだった、ということだ。

 

 ロックンロールをスプリングボードにして、「ぼくら」は世のなかをいまの状態から変えるために何かしようと「約束」したのだ、と彼は言う。しかし、ロックンロールはもはや、あらたな「回転し続ける神」と化してしまったとボウイは断言する。それは商業的なサイクルのなかで自閉して、巨大なビジネスと化したロック産業を指す比喩であろう。いずれにしても、「ロックンロールは死んだ」

(略)

 イギリスの政治・社会状況全般においても、ロックにおいても、大きな転回点となる1975年から翌年にかけて、ボウイはいわばロックに内在する矛盾を一挙に解消することを求め、政治とロックとを半ば意図的に短絡させていた。コカインの常習による肉体的・精神的衰弱やナチへの関心と結びついたオカルトへの惑溺がボウイの挑発的発言の背景にあったことは否めない。

 

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