トニー・ヴィスコンティ自伝

ボウイのいい人エピソードとは対照的に、ボランの人間性はボロクソであります。

渡英の理由

50年代後半から60年代初頭まで、イギリスのポップスはアメリカの音楽よりさらに退屈だった。しかしビートルズアメリカを“抱きしめたい”と言ったとき、私の身に何かが起こったことを直感した。頭と身体が、この魅力的なブリティッシュ・ポップの最初の波に反応したのだ。それ以来、自分が生まれた町よりもリヴァプールやロンドン、マンチェスターのほうがずっと重要なところになった。あらゆることが起こっているイギリスに比べてニューヨークで何も起こっていないように思えた。ようやく1965年にラヴィン・スプーンフルが、続いてヤング・ラスカルズが登場した。彼らは才能の面では負けていなかったが、イギリスのグループが持つミステリアスな部分が欠けていた。ニューヨークではどんなに頑張っても、なぜかイギリス人にはいつも敵わなかった。彼らには“英知”があるように思えた。現地に行って、彼らがどうやって音楽を作っているのか見るべきだと、頭の中で声がした。イギリス人だけが知る、奥義を極めたスタジオの秘密を知る必要があった。

英国

 食事はひどかった。ウィンピーのハンバーガーは犬の肉のような味がしたし、コーヒーは薄くて味がなかった。(略)
 イギリスの通貨システムは、まったくワケがわからなかった。最初の数週間は、釣りをごまかされていたと思う。(略)
どこに住んでもシャワーにはありつけなかった。洗髪は試練だった。小さな鍋1〜2杯のお湯で十分に髪を洗い流せるとは到底思えなかった。
 テレビとラジオには、大いに期待を裏切られた。ラジオでロックやポップスがかかることはないに等しかったので、夜、1時間くらい、その類の音楽をかけているレディオ・ルクセンブルクを聴くしかなかった。レディオ・キャロライン[海賊放送局]は電波が弱かったが、選曲は悪くはなかった。しかしDJがひどかった。時代遅れで、地方巡業のコメディアンのようなしゃべり方をしていたのだ。
(略)
 イギリス人は打ち解けるまでに時間がかかる、ということはハッキリわかった。1960年代のニューヨークでは、15分も話せば仲の良い友達になれた。
(略)
『トップ・オブ・ザ・ポップス』に毎週登場するバラバラな音楽には面食らった。ロンドンに来た当初、どうしても理解できなかったのは、英国の一般大衆が好む音楽の趣味の悪さだ。歴史に名を残す偉大なロックスターをあれほど輩出しているというのに……私から見るとまさに両極端で理解不能だった。

キット・ランバート

私は大好きなザ・フーの“ハッピー・ジャック”のプロデューサー、キット・ランバートの隣に座り、彼がどうやってあのサウンドを作り出したのか聞きたくてうずうずしていた。あの曲は“ノット・フェイド・アウェイ”に似ている。壁に当たって跳ね返った音を数本のマイクで拾ったとしか思えないような、小さい部屋でのリヴァーブが聞こえるのだ。(略)
[だが]キットは“ハッピー・ジャック”のレコーディングについて何も覚えていなかった。その夜の彼の目は[ハイになって]うつろだった。かなり危ない状態だったのだ。

ブライアン・ジョーンズ

[デニー・レインとオリンピック・スタジオの廊下を歩いていると『サタニック・マジェスティーズ』録音中のブライアン・ジョーンズに遭遇]
フランス貴族のような青っぽいビロードのジャケットを着て、フリルのついたレースの袖口をのぞかせ、化粧までしていた。(略)
「やあ、プロコル・ハルムのシングルはいいね。レディオ・キャロラインで聴いたよ。運転手に買いに行かせたところなんだ」。あまりの上品な話し方に感動した。

ティラノザウルス・レックス

[クラブで目撃しその場でプロデュースを申し出ると]
「君は、今週俺たちに会いに来た8人目のレコード・プロデューサーだ。ジョン・レノンも昨夜ここに来て、彼のレーベル、グレープフルーツでプロデュースしたがっていたよ」(略)
[レノンが相手じゃ勝ち目がないなと落胆したが]
あとになって知ったのだが、マークはこのとき、私をだましたのだ。例のレノンの話は嘘で、私をじらそうともくろんだわけだ(初めて会ったときから、マークのほうが一枚上手だった。彼は心からの愛情とペテン師まがいの脅しを交互に使いながら一緒に働く人たちをコントロールした。(略)彼の横暴さは、人気に陰りが出てくるとさらにひどくなっていった)。

デヴィッド・ボウイ

 マークとスティーヴに会った直後、私は自分の人生を変えることになるもう一人の人間に出会った。(略)
 1967年秋のある日、デヴィッド・プラッツからオフィスに呼ばれた。「君は変わり者のミュージシャンとうまくやる能力があるようだね。ちょっと曲をかけるから考えてみてくれないか」(略)「彼にはミュージカルが合っていると思っていたが、このレコードを作ってから、まったく別物になってしまった」。スピーカーからは、予想外に成熟した声が流れてきた。表現力があり、繊細な歌は、ベテランのステージ俳優かキャバレーの歌手すら思わせるものだった。楽曲はユーモラスで暗く、バッキングの演奏は独創的だった。だが、プラッツは正しかった。これは何だ?アルバムを半分聴いたが、一貫性はなかった。しかし、気に入った。「彼の名は、デヴィッド・ボウイ。19歳だ。彼に会うかい?」
(略)
 私たちは、パーティで気が合った同士のように、いろいろなことを、延々と話した。デヴィッドは、私がイギリスの音楽に夢中だったように、アメリカの音楽に取りつかれていた。アメリカのレコードは可能な限り買ったらしい。リトル・リチャードを絶賛し、アメリカのジャズ、特にサックス・プレイヤーのジェリー・マリガンも好きで、自分でもバリトン・サックスを吹くと話していた。また、フランク・ザッパやザ・ファグスのようなアンダーグラウンド・ミュージックも大好きだと言い、私と同じレコードを特っていた。他に二人とも好きなアルバムが、ケン・ノーディンの『ワード・ジャズ』だった。彼はアメリカ中西部出身の、太くて低い声のラジオ・アナウンサーだった。ジャズと効果音をバックに彼がしゃべっているアルバムも出していた。それは私がアメリカにいた頃買ったアルバムで、デヴィッドも持っていた。私たちは、それを買った数少ない人のうちの二人だったに違いない。

Word Jazz

Word Jazz

  • Ken Nordine
  • ジャズ
  • ¥1200
Word Jazz: the Complete 1950s Recordings

Word Jazz: the Complete 1950s Recordings

ジョン・ピール

 ジョン・ピールはマークの最大の支後者で、ティラノザウルス・レックスに惚れ込んでいた。彼らの曲を定期的に流してくれるのはピールだけで、クラブでDJをするときも彼らの楽曲を持ち込んでいた。マークのことを、とてもスピリチュアルな人物で、彼らの音楽は何から何まで神秘的だと思っていたらしい。ジョン・ピールが[『ティラノザウルス・レックス登場!』の]レコーディングの現場に現れたとき、私は畏れ多い気持ちでいっぱいになった。なぜなら彼は文句なしに素晴らしいアンダーグラウンド・ミュージック(どれもクールで最先端の曲だ)をかけてくれる、唯一のDJだったからだ。それに実に誠実な人で、取って付けたようなことは言わず、すごくシャイで、話すときも痛々しいほどモゾモゾとしゃべった。
(略)
アルバムのアートワークは、デヴィッド・ボウイが紹介してくれた彼の学生時代の友人、ジョージ・アンダーウッドに依頼した。彼がデニーに請求したのは75ポンド。

メリー・ホプキン

1968年最大のニュースの一つは、ビートルズが自分たちのレコードレーベルを設立したことだ。(略)
[最初の2枚は“ヘイ・ジュード”と]メリー・ホプキンの“悲しき天使”だった。英国中の誰もそうだったように、私もメリーが出演したテレビのオーディション番組『オポチュニティ・ノックス』(何と7週連続で勝ち抜いた)を見てすっかり彼女に恋していた。18歳になったばかりで、可愛くて、しかも素晴らしい声の持ち主だった。ポール・マッカートニーが彼女と契約したと知った時は嬉しかった。あれはまるで、国中の人たちが注目する中で展開されているシンデレラ・ストーリーみたいだった。

スペイス・オディティ

 6月、デヴィッド・ボウイは“スペイス・オディティ”をガス・ダッジョンとレコーディングした。私には、人類初の月面着陸に乗じたお手軽なヒット狙いに思えたのだ。それに、ジョン・レノンサイモン&ガーファンクルの両方のヴォーカル・スタイルを模倣しているようにも思えた。(略)楽曲の根底にフォーク・ロックが脈々と流れているのが彼の持ち味だと考えていた。そういう観点からして“スペイス・オディティ”はまるでそぐわない曲だった。(略)
僕はやらない。残念だが、君のためになるとは思えないから」(当時の私は確固たる信念を持ったヒッピーだったのだ)。(略)
[そこでガスに聴かせるとすごい惚れ込みよう]
 「トニー、本気でパスするつもりなのか?」とガスが尋ねた(略)
レコーディングは大成功だった。それを聞き、デヴィッドは当然その先もダッジョンと仕事をしていくものだとばかり思っていた。仰天したのは、その後デヴィッドが私のところにきてこう言ったことだ。「さて、ちょっと寄り道したけど、アルバムの残りを片付けちまおう」
 こんな形で忠誠心を示してくれるとは思いもよらなかったが、念を押されなくても、私は続けるつもりだった。皮肉にも、“スペイス・オディティ”はシングルとしてすぐにヒットに結びつかなかったが、その後の再リリースによって大当たりした。私のミスは、外面的にこの楽曲を捉えて、悪いと決めつけたことである。つまり巧妙なパクリだと考えたのだ。この曲の音楽はさらに繊細なテーマである“疎外感”を装飾する見せかけに過ぎず、その背景がたまたま宇宙だったことなど、当時は気づきもしなかった。

ボランのエレクトリック化の要因

 アーティストの大半は自分がどの程度の才能の持ち主で、どのくらい成功できるか、多少なりとも疑問を抱いているものだが、もっと現実的に考えて、それは自分たちの個性なのだと開き直ったりする傾向がある。マークはまさに個性的で、ポップ・スターを熱望する者を決まってねたむという特殊な才能を持ち合わせていた。ところが頭の中では、彼もまた自分以外の別人にならないと気が済まなかった。自分がT・レックスのマーク・ボランというだけでは飽き足らず、デヴィットがジギー・スターダスト思いついたときには、彼を小バカにしながら、はらわたが煮えくり返る思いを抱いていた。ボウイのアルバムがリリースされると、ひどく狭量で、意地の悪いコメントを口にしていたのだ。
 『ユニコーン』の制作に取り組んでいた最中から(マークがよく、うちの風呂を使いに来ていた頃だ)、いろいろと状況が変わり始めた。うちにはフェンダーストラトキャスターが置いてあり、マークはよくそれをヒョイと手に取っては、小さなアンプにつなぎ、何時間も弾いていた。(略)
[それはひとつの要因にすぎず、元々アコギでロックぽいリフを弾いていた。さらに]
ジューンは以前、エリック・クラプトンと付き合っていて、いい関係を保っていた。アコースティックからエレクトリックへと移行するこの時期のある週末、彼女はカントリーサイドに住むエリックのところへマークを連れて行った。マークは床に足を組んで座りながら、クラプトンのプレイを黙ってじっと見ていたらしい。(略)この体験がマークをポップ・ギターのウィザードに一歩近づけたわけだ。

ユニコーン

ユニコーン

グラム・ロック誕生

ステージ上で見栄えがするまともな衣装が何一つない、という話になった。その問題を解決してくれたのは、演劇を学んだ経験を持つアンジェラと、裁縫が得意でクリエイティヴなリズだ。彼女たちが素晴らしく斬新なステージ衣装をデザインしてくれた。そして私たちは自分たちにアニメのキャラクター風の名前を付けた。
 私は漫画本から抜け出てきたスーパーヒーローの衣装を着た“ハイプ・マン”(略)私の衣装は白のレオタードに銀のブリーフ、それにグリーンのマントを羽織り、胸の部分には赤でHのマークが入っていた。(略)
デヴィッドはそのシャツの下にレオタードを着て“レインボー・マン”になった。サウンド的には最高にかっこいいギグだったのに、当初はさんざんヤジられ、ホモセクシャルを連想させる様々な口汚い言葉で呼ばれたのだ。
 あの時代はロッカーといえば、むさ苦しい長髪が定番で(略)フランネルのチェック柄のシャツに、破れたジーンズ(略)それとはまったく対照的に、私たちはギンギンに派手だった。私にとって、この夜はグラム・ロック誕生の瞬間として永遠に記憶されるだろう。あのときは気づかなかったが、この日の私たちを撮影したレイ・スティーヴンソンの写真を見てみたら、ステージの端で腕に頭をのせたマークの姿が写っていた。彼は最初から最後まですべてを目撃したわけだ。ボランはギグに行ったことすら、絶対に認めようとしなかった。ショウを終えて楽屋に戻ると、何と、会場に来るときに着ていた服と冬用のジャケットが全部盗まれていた。(略)
[“プリティエスト・スター”セッション]
二人はすごくウマがあうだろうと思っていたのに、セッションの最後にジューンが、マークはデヴィッドにはもったいない、とコメントし、その可能性を閉じてしまった。私は見定めていたのだ……デヴィッドの悪口を並べ立てるマークと、かたやマークのことをいつも我が事のように喜ぶデヴィッドを。

マーク・ボランの人柄

マークは架空の世界を作り出そうとしていて、そこでは(略)彼が全能の神だった。(略)
プライヴェートでは私を褒めちぎりながら、異常なほど自己宣伝をする必要があると考えると、でっちあげを織り交ぜながら、自分のほうに注目を集めようとした。(略)
[ジャーナリストたちを]あまりにも見くびりすぎたせいで、イギリスのロック系のマスコミは彼が虚栄心のかたまりだとすぐに見破った。あのジョン・ピールでさえ、マークの長ったらしい自己中心的な話に幻滅を覚え始めていたのだ。
(略)
マークはスティーヴ・カーリーという男にステージの横から、私のプレイを観察するように言い含めていた。
 「スティーヴをバンドに加入させるかどうか、オーディション中でね」と彼が私に説明した。「だから彼には“名人”のプレイをよく見ておいて欲しいんだ」(ほらね、わかるだろ? マークはその気になれば、私をすごく喜ばせることを言うのだ)。その後、カーリーはT・レックスの正式メンバーになった。(略)
個人的には私を正しく評価していたマークだが、取材となると、相変わらず私の名前を出すまでには至らず、“ダイアモンドの牧場”で使ったストリングスについて話すときでさえ、私に言及しなかった。あれは私が完全に一人でアレンジしたのだ。マークはあの曲を書いている最中に、頭の中でストリングスが“聞こえてきた”と言い、ストリングスのパートを作ったのが、あたかも自分であるかのようにほのめかした。これから長く続くことになる、何でもかんでも“僕の考えでやった”時代の始まりだった。

悪徳マネージャー、トニー・デフリーズ

デヴィッドはマネージャーになりたがっているトニー・デフリーズという男に、“熱烈に”口説かれていた。(略)
『世界を売った男』は、どの方面からも、プロモーション・プランをまったく立ててもらえず、デヴィッドのキャリアは棚ざらし状態のように思われた。デフリーズは何の見通しも立っていないのに魅力的な約束をして、デヴィッドはそれを信じた。まずデフリーズはデヴィッドにハイプと組むのをやめるよう要求し、彼はそれに従った。その結果、ミックとウッディはハルヘ帰って行った(永遠にというわけではなかったが)。
 また、デフリーズはプロデューサーとしての私をマネージメントしたいと言い出した。(略)
[試しに]支払期限がとっくに過ぎたアレンジャー代を回収する仕事を彼に任せてみた。するとその仕事に手を付けもしなかったくせに、請求書だけは送ってきた。(略)この話をデヴィッドに伝え、もしもデフリーズが実権を握るなら、彼と運命を共にすることに対して、極めて慎重にならざるを得ないと言った。
 デフリーズの登場がボウイのキャリアにとって、強力なカンフル剤になったことは、歴史が証明している。ところがメインマン陣営の財政構造がクローズアップされると、デヴィッドは後悔の念を抱くことになった。大小を問わず、経費のすべてはデヴィッドに請求され、一方デフリーズには一切の支払い義務がなかったのだ。

“ゲット・イット・オン”は一位になったが

デヴィッド・プラッツと私の関係に終止符を打った曲でもある。デニー・コーデルはとっくに彼と決別してアメリカヘ渡り、シェルター・レコードを設立していた。ガス・ダッジョンはプラッツのエース・プロデューサーとして、デニーの後釜に収まり、私はと言えば、数々の実績をあげてきたにもかかわらず、チーム内では相変わらず下っ端扱いだった。私の契約も残すところあと1年という頃、彼のオフィスに呼び出された。てっきり、制作会社で彼のパートナーにならないかとオファーされるものだと思っていたのに、[君はフリーでもやっていけると]いきなり解雇を言い渡された。(略)
デニーが残していったアナーキーなヒッピーかぶれのアメリカ人をやっと追い出すことが出来て、彼がホッとしているのがわかった。(略)いささかショックではあったが、鳥のように自由な気分だった。

暴君ボラン

 1972年の初め、T・レクスタシーはさらなる絶頂期を迎えた。(略)マークはすでにデヴィッド・ブラッツの下を離れ、当時としては珍しく自分のレーベルを立ち上げていた。(略)
 イギリス国内でナンバー・ワンを3曲叩きだし(略)
マーク・ボランが“暴君”として振舞うようになったのはこの頃からだ。(略)
[彼の弁護士からランチに誘われ]
 「いまやマークは彼のキャリアにおいて、自分のレコードのプロデューサーに印税を払う必要のない段階に達した」
 この言葉は衝撃的だった。「マークは僕に約束したんだ。今までプラッツがいくら支払っていたとしても、新しいレーベルを設立したら自分はその倍は払うと。それなのに印税を4%にアップするどころか、僕の取り分はゼロになると言うのか?」
 「トニー、もちろんそんなことはない」と弁護士が言った。「君にはコンサルタント料という名目で、年間1万ポンドをきっちり支払うと保証する」
 そんなもの、4%の印税に比べたら微々たる金額だ。(略)“ゲット・イット・オン”は1日に3万5千〜5万枚を売り上げていた。(略)2%の印税は350〜500ポンドほどになる。(略)
私は「じゃあ、僕は辞めるから」と言って席を立ち[家に戻ると](略)
ジューン・ボランが泣きながら電話をしてきて、[弁護士にそうしろと言われたの]許してくれと懇願した。
[会社の資金繰りが苦しく印税は1%支払うのがやっとなのだと説明され、結局、その申し出を呑んだ]
(略)
それでも傷ついたプライドが癒えることはなく、私とマークの“友情”はもはやうわべだけのものでしかなかった。

『スライダー』

T・レックスはツアーの鬼と化していた。この期間中、私はまたもや移動しながら[7月にリリースされる『スライダー』の]レコーディングを続ける必要に迫られた。(略)
マークは、どこへ行っても追い回される生活と殺人的なツア・スケジュールのせいで、発狂寸前だった、オルリー空港からスタジオまで移動するリムジンの車内の雰囲気はこれ以上ないほど最悪だった。マークはクルボアジェをラッパ飲みしながら、いい加減なブルース・ソングを作り、間延びした歌い方で「オレはスケベじじい〜」というフレーズを何度も何度も繰り返し始めた。(略)「さあ、みんな歌うんだ。“オレはスケベじじい〜”。おい、歌えったら歌いよ、おまえらタマついてんのか!」全員がもじもじしながら窓から外の景色に目をやった。するとマークはミッキー・フィンにどうしても歌えと迫った。彼はひどくおびえた様子で、“リーダー”の要求に従った。これほどグループとしてのやる気をくじかせる行為は他にないだろう。とりわけミッキーがかわいそうでならなかった。私は今にも自分がキレそうだと思いながら、しかめ面をしてじっと耐えた。
(略)
ミキシング・エンジニアとストリングスのアレンジャーも務めたというのに、私の名はプロデューサーとしてのクレジットだけだった。マークにその理由を尋ねると、「トニー、君がやった仕事を全部クレジットしたら君の名前のほうが僕の名前より多くなっちゃうじゃないか。そんなこと出来るわけがない、そうだろう?」と言った。もし当時の私に言い返す根性があったなら、こう答えていたはずだ。「だったら何?」
(略)
『スライダー』のジャケット写真を撮ったのは私である。(略)[映画撮影で散々待たされている合間に、当時マークが盛んに弄っていたニコンFで]
昔から私の写真の腕を高く買っていたマークから(略)[アルバム・ジャケットに使うかもしれないからと]写真を撮るように頼まれた。(略)
[だがクレジットされたのはリンゴ・スターだった]
いかにもマークらしい策略だった。とことん宣伝効果を追求した彼は、手っ取り早い方法としてまたまたウソをつくことにしたのだ。

『ダイアモンドの犬』

 私は『ダイアモンドの犬』の共同プロデューサーとしてクレジットされてはいるが、テープをミックスしてくれと渡された時点で、デヴィッドはスタジオで途方もなくすごい仕事をやり終えていた(事実、アルバムの大部分が出来上がっていた)。そうは言っても、ミックスのそこかしこに私の特徴的な音使いが残されてはいるが。(略)
デヴィッドのクレジットに対する扱い方は公正で、決して度量が広いとは言えないマークのやり方を見てきたあとだけに、興味深かった。(略)かたや初めて私抜きで制作されたマーク・ボランの『ジップ・ガン・ブギー』は、話題にもならなかった。

エディ・クレイマー

 初のライヴ・アルバムのミキシングのためにエレクトリック・レディ・スタジオヘ行ったデヴィッドと私の前に立ちはだかったのは、スタジオお抱えのエンジニア、エディ・クレイマーだった。
 「うちのスタジオの複雑なコンソールの扱い方がわかっているのは僕だけだ」
 私は初めてロンドンに到着した時にクレイマーに会っていて、彼に対しては懐疑的な見方をしていた。デニー・コーデルは絶対に彼を使いたがらず、それゆえに私も使ったことがなかった。クレイマーがジミ・ヘンドリックスと制作した作品は1973年の時点でさえ既に名盤となっていたが、ヘンドリックスのライヴを何度も聴くという光栄に浴した私に言わせれば、クレイマーのレコーディングのやり方はまったくいいとは思えなかった。(略)
もっとヘヴィなサウンドが出せたはずなのに、それを引き出せていなかった。クレイマーの功績は、ヘンドリックスにパンニング、リヴァーブ、テープ・ディレイといったあの時代ならではのサウンドのフレイヴァーを教え、そして彼がそういったものを極めて独創的に使いこなしたことだろう。

次回に続く。