調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝 その2

前回の続き。

タレントになるか葛藤

 やっぱり人情として、たとえタレントとしてでも売れるのはうれしいわけ。ただ、その反面、これを続けてると、本当に自分のやりたいことに戻ってこれないんじゃないかという危惧が頭をもたげてきた。

 すごく優秀なプレイヤーだった人がコメディアンとして売れちゃったために、ミュージシャンには復帰できなくなったケースがあるじゃん。例えば、フランキー堺とかさ。

 自分の場合、少なくとも司会みたいな仕事に関してはやっていけることは分かったんだ。ボケもツッコミも両方できるから。だけど、ミュージシャンとしての道を完全に断ってまでそっちに行くべきかといえば、それは選択肢に入っていなかった。

 分かりやすく言えば、中堅どころのミュージシャン上がりでしゃべりにも長けたタレントとして、ユースケ・サンタマリア赤坂泰彦を足して2で割ったような存在になるかどうかを迫られていたわけよ。

 当時は、俺みたいに何でも小器用にこなせる隙間産業的な人間が少なかったから、結構重宝されたんだ。タレント兼ミュージシャンという肩書があるから、懐メロ番組の司会とか、そういう中途半端な仕事にはちょうどフィットするのよ。今で言えば、民放BSの番組のような感じだね。

 そういう場所で地盤を固めてやっていけば、そこそこ安定した立場のタレントさんにはなれたと思うんだ。だけど、そういう状況にありながらたまに思い出したように音楽活動を行ったとしても、世間は趣味や余技としてしか受け取ってくれない。すべてが冗談にしか見えなくなる。それが一番怖かった。

 つまり、腹をくくらなきゃいけないわけ。一度腹をくくりさえすれば、後はもう楽なのよ。だけど、果たしてそれでいいのかという葛藤は、ずーっと心の中でくすぶっていた。

人種熱

 近田春夫事務所が間借りしていたアミューズには、アマチュアのミュージシャンから膨大な数のデモテープが送られてきていた。(略)

でも、アミューズ のスタッフは忙しいからか、それらのカセットは段ボール箱に入ったまま放置されていた。俺は、ヒカシューのデモテープに衝撃を受けた経験から、ひょっとすると、こういうところに宝が埋まっているんじゃないかと感じていたんだ。

 80年のある日、ふとその箱の中に視線を向けたら、「人種熱」というバンド名が目に飛び込んできた。まずは、その造語のセンスに惹かれたんだよね。曲名もユニークだった。例えば、「さて」とかいうんだから。

 いざデモテープを聴いてみると、音楽そのものもすごく面白かった。アース・ウィンド&ファイアーとウェザー・リポートとジャパンが混ざったようなもんでさ。あの段階で、すでにリズムボックスの音源を曲の一要素として生楽器の演奏にプラスしている。そこに乗る日本語の歌詞も、バンド名や曲名同様、今まで聴いたことのない新鮮なものだった。

 ということで、興味を持った俺は、人種熱のメンバーに会う手配をつけた。

 どこかのスタジオに呼び寄せて会ってみたら、リーダーでギターの窪田晴男がすっごい偉そうなのよ。あの頃、あいつは二十歳そこそこだったんだけど、「タレントやってるチャラチャラした人がちゃんと演奏なんかできるんですか?」って態度で俺に接していた。(略)

タレントと化していた数年間、プレイヤーとしての俺は、キーボードにほとんど触れていなかった。BEEFではヴォーカルだけだったし。だからといって、さすがにアマチュアバンドの楽曲がそんなに難しいわけはないとは思うじゃん。

 高をくくってる俺に、人種熱の譜面が手渡されたんだけど、驚いたよ。おたまじゃくしで隈なく埋め尽くされた書き譜なのよ。当時のロックバンドは、たとえプロであっても現場で編曲を進めるヘッドアレンジが当たり前。せいぜいコードが決まってるぐらいでさ。

 真っ青になって、「ちょっと譜面借りて、今晩練習してくるわ」と言い残してそそくさと帰ったよ。窪田は、別にアカデミックな音楽教育を受けてきたわけじゃないんだけど、純邦楽や沖縄民謡に通じた山屋清という音楽家の甥に当たるんだ。そこから、いろいろと知識を吸収したらしい。

 そして俺は、頭を下げて、人種熱に加入させてほしいと頼んだんだ。

 ただ、人種熱単体では知名度に欠け、商売にはならない。若いメンバーたちを食わせなきゃならないから、俺が一介のキーボード奏者として参加する際には「人種熱+ 近田春夫」名義、俺がヴォーカルとして前面に立つ場合は「近田春夫&ビブラトーンズ」名義でそれぞれ活動しようということになった。

(略)

人種熱に入れてもらった時、窪田に「俺、新しくキーボード買おうと思うけど、何がいい?」って聞いたわけ。そしたら、「ローランドのジュピターがいい」って言うから、すぐにそれを買ったのよ。あれが、俺の入手した最初のシンセだったな。

(略)

ミュージシャンに専念することを心に決めた俺は、この年の夏、タレント廃業を宣言する。

(略)

『ミッドナイト・ピアニスト』では売れ線を狙った歌謡ポップ色の濃い曲が結構多かったかなという反省があったから、[平山みきの]『鬼ヶ島』では、スケベ根性を起こさずそういう甘口なものはやらないようにしようとは思った。

 だから、『鬼ヶ島』はビブラトーンズというよりは人種熱の作品に仕上がっている。

(略)

当初の約束通り(略)「人種熱+近田春夫」と「近田春夫&ビブラトーンズ」の名義を使い分けていた。

 ところが、当時の俺にはタレントさん的な意味での知名度がまだそこそこ残っていたから、やっぱりビブラトーンズ の方が需要は大きいわけよ。もともと人種熱のリーダーだった窪田が、それについて快く感じていなかったことは気づいていたんだ。今思えば、俺も内心、「その代わり、収入を保障しているからいいだろう」と驕り高ぶっていたのかもしれない。

 ある日、人種熱名義のライブの壇上で窪田は、「実は金のために嫌々ビブラトーンズをやってるんです」みたいなことを放言しちゃったんだよ。それを聞いた俺は、「俺としてはそういうつもりじゃなかったけど、自分のやっていることは本当に失礼なことだったんだな」と反省したんだ。

 だけどライブが終わったら、他のメンバーが楽屋で「あれは近田さんに対して失礼だろ」って怒り出しちゃった。しまいには、本当は仲のよかったエンちゃんと窪田が口も聞かない状態になっちゃってさ。

 俺としては、本心から窪田に謝って事を収めたかったものの、それではエンちゃんの顔が立たない。本当に悩みに悩んだ末、泣いて馬謖を斬るみたいな気持ちで、あいつが練習するスタジオまで行って、「いろいろ考えた上で言うけれど、やっぱりお前に言われたことは失礼だと思うから、今日限りで俺はお前と絶交する」と告げたわけ。

 その後、窪田とは関係を断っていたんだけど、あいつがパール兄弟としてデビューする前後の時期に、たまたま出席した共通の知人の結婚披露宴で隣り合わせちゃってさ。「おめでたい席でめぐり合ったわけだし、今日から元の仲に戻さないか」って俺から提案したのよ。そしたらあいつもブスッとした顔で「いいっすよ」と答えてくれてさ。

 そこでいったん過去がリセットされて、今日に至るまで、ずっと深い付き合いになっていると思う。

「東京フリークス」、「PINK」

 ビブラトーンズが『VIBRA-ROCK』を発売した82年11月から、毎回10組以上のバンドが登場する定例イベント「東京フリークス」がスタートした。(略)

遠藤賢司S-KEN、東京ブラボー、サニー久保田とクリスタル・バカンス、有頂天、ポータブル・ロック、そして岸野雄一加藤賢崇のいた東京タワーズなんかが登場してくれた。

 主目的はビブラトーンズの販促だったんだけど、いろんなバンドがいたらお客さんも楽しんでくれるかなと思ったんだよね。

(略)

 「東京フリークス」を触媒としてバンド同士の交流が盛んになって、新しいユニットが生まれることもあった。そのひとつが、ビブラトーンズのエンちゃんを中心とする「おピンク兄弟」。この名前は、『星くず兄弟の伝説』から採ってるんだよ。

(略)

このグループは、「PINK」に発展し、84年にデビューすることになる。おピンク兄弟の段階じゃメンバーはまだ流動的で、ジューシィ・フルーツ沖山優司や、天才ギター少年として知られていた鈴木賢司が参加していたこともあった。

ロックからディスコへ 

 この当時の俺は、ロックという表現形態の行く末について悲観的な考えを抱いていた。縮小するのか拡大するのかはともかく、今後は再生産しか道はないと思えたわけ。

 実際、ロックと称する音楽が、いわゆる売れ線のポップスと変わらないスタンスでヒットを狙う例が増えてきていたんだ。

 ひとつは、ピーター・フランプトンみたいに、テクニックのみならずルックスにも恵まれたミュージシャンを積極的に売り出すパターン。(略)

 もうひとつは、外見としてはお洒落からほど遠いんだけど、とにかく技術には長けているというパターン。その代表が、トム・ショルツのやっていたボストンだよ。

 俺がイメージしていたロックというジャンルは、もっとリアルな心情を表出するものだったわけ。ところが、それはいつしか、スタジアム規模の興行にうってつけのコンテンツとしての見世物へと変わっていった。その最たるものが、キッスだったと思うんだ。

 80年代を迎えると、「産業ロック」と揶揄されるようになったその類の音楽が、ロックのメインストリームとして定着してしまう。

 そこで気づいた。自分の中では「ロックンロール」と「ロック」は違うものなんだと。

 ロックは、次第に無難な商業音楽の分野のひとつとして受け入れられ、他のジャンル同様、技術の向上が尊重されることとなった。それに比べると、ロックンロールは、上手とか下手とか一切関係なしに、ハッタリが効きさえすればそれでいいじゃん。その究極の例が裕也さんなわけよ。

 やっぱり、最近のストーンズのライブの映像観ても、ミック・ジャガーはいまだに歌上手くなってないもんね。うれしくなっちゃうよ(笑)。

 非アカデミックなものがアカデミックなものに勝つというその瞬間こそ、「ロックンロール」の醍醐味である。俺は昔からそう定義してきた。パンクやヒップホップに形を変えながら、その精神はずっと受け継がれていったと思うんだ。

 ロックに関する幻想から覚め始めた時、ディスコというジャンルが自分の中で存在感を増してきた。ディスコは、最初っから人を踊らせるための商業音楽という目的がはっきりしてるじゃない?その機能性がいっそ潔いなと思ってさ。

実はディスコって、ちゃんとした楽典的素養がないとアレンジできないジャンルなんだよ。結構、弦とか管とかが入るからさ。

 歴史をたどれば、ディスコというサウンドは、MFSBの「ソウル・トレインのテーマ」が元祖。あそこで、ドラマーのアール・ヤングが四つ打ちというものを発明したんだ。

 少し遡るけど、当時、ディスコに関する考え方としてものすごく共鳴したのが、元ニューヨーク・ドールズデヴィッド・ヨハンセンが78年にリリースした「Funky But Chic」。パンクとディスコを融合させた試みだよね。もうひとつが、同じ78年にエドガー・ウィンター・グループを脱退したダン・ハートマンが発表した「Instant Replay」。これ、アメリカのダンスチャートで1位を獲っちゃったんだ。

 自分が気にかけていたミュージシャンが、こぞってダンスミュージック的な方向に舵を切った。その事実には刺激を受けたね。そして心の底には、ロックはもう遊び人の音楽じゃなくなっちゃったなという淋しい気持ちがあったんだと思う。

 ただ、アメリカと日本では、ディスコという音楽のとらえ方が決定的に違ってたのよ。六本木の「ソウル・エンバシー」とか、ああいう店でかかっているのはモータウンかスタックスかJBって感じで、サルソウルみたいな音楽はあんまりウケてなかった。

 その後、日本では、78年に公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の余熱がずっと続いていたわけ。つまり、白人っぽい甘口なものが受け入れられていた。

 一方では、「ジンギスカン」を始めとするノベルティソングや、ハービー・マンやジョージ・ベンソンみたいなジャズの人がお手軽にこしらえた曲がヒットしたりしてさ。キャメオとかリック・ジェームスとか、テレビ映えするタイプも人気があったよね。

 あと、何と言ってもアースよ。アース・ウィンド&ファイアー。日本中のディスコをアースが席巻しちゃった。つい最近まで、歌謡曲・ポップス系のアレンジャーが作るディスコはみんなアース調だったもん。そういった日本独自の感覚が、後のユーロビートのブームまで脈々とつながってると思う。

 まあ、そもそも自分は長らくハコバンやってたぐらいだし、ロックよりディスコが好きだったことは事実なんだよね。この時期の俺は、バンドの作る音楽よりも、DJが発信する音楽の面白さに大きく惹かれていた。

(略)

 確かに、当時、六本木や新宿のディスコなんかに行っても、いいDJは観てるだけで楽しかったんだよ。宇治田みのるとか松本みつぐとかさ。

『クラッシュ・グルーブ』を観てラッパーに

[86年のある日、高木完藤原ヒロシが事務所に『クラッシュ・グルーブ』のビデオを持ってきた]

 俺はちょうどその頃、日本語の歌詞を作る上での新しい方法論を模索してたの。

(略)

 日本語で複雑なことを伝えようとするがため、俺の書く歌詞は、どうしても16分の符割りばかりになっていった。ただ、日本語の単語は強弱じゃなくて高低でアクセントを効かせるから、1番と同じメロディに2番の歌詞を乗せると、意味が通じなくなる場合がある。

 ということで、正確に内容を伝えることを優先するため、自分が作る曲は、歌うというよりはしゃべるようなイントネーションに変わっていった。(略)

 その矢先に『クラッシュ・グルーブ』を観たもんだから、衝撃を受けたわけよ。それまで、シュガーヒル・ギャングみたいなパーティラップは耳にしたことがあったけど、あれは日本に置き換えるなら七五調の言葉遊びみたいなもんじゃん。ところが、デフ・ジャムをはじめとする一連の新しいラップは、特に韻も踏まずに、ビートに載せてとにかく言いたいことを無骨に畳みかけている印象があった。

 これは、当時の自分が試みていたことと近いかもしれないなと思ったの。俺がやっていたことは、ロックというアートフォームの中で理解するより、ヒップホップとして捉え直した方がいいんじゃないかと。

(略)

天啓を受けたように「そうだ、俺はラッパーになろう」と心に決めたのよ。

ビブラストーンズ、ハウス

 ビブラストーンを始める時に思ったのは、ジェームス・ブラウンフランク・ザッパを足して二で割ったようなものを作ろうってこと。

 よくフェラ・クティの影響も指摘されるんだけど、そこはOTOの趣味なんだ。俺さ、アフロファンクとレゲエはあんまり好きじゃないのよ。何というか埃っぽくてさ。

 OTOに関して言えば、俺、じゃがたらからは相当刺激を受けたんだよ。アングラ嫌いの俺がじゃがたらのことを好きだなんて意外だと驚かれるんだけど、俺の考えでは、じゃがたらはとにかくモダンだったんだ。特に、日本語とリズムとの関係において、それまでにはなかった新しいものを感じた。

(略)

 この時期の自分は、俄然、ハウスに興味を引かれるようになっていた。

 日本にヒップホップが入ってきてから、ハウスが入ってくるまでの間って、大してタイムラグはなかったと思うんだ。だから、こっちじゃどちらも黒人発のダンスミュージックとして一緒くたにとらえてたけど、実際にアメリカに調査に行った人間の話を聞くと、その両者に接点はまったくなかったという。

 確かにそうでさ、まったく違う文化なんだよね。ハウスはゲイカルチャーから生まれたけど、ヒップホップの世界にはゲイがいなかった。ヒップホップ側の人間って、ゲイっぽい価値観をあからさまに嫌うじゃん。

 技術的なことを言うと、ヒップホップよりも、ハウスみたいな四つ打ちの方がビートを作るのは難しいんだよ。四つ打ちって、拍の頭に必ずキックが鳴るじゃん。ベースも一緒に鳴るじゃん。そこだけ突出して低音が膨らんじゃう。それが厄介なんだ。全体をミキシングする際、そこに圧縮を施すと、ハウスっぽい感じが出ない。

 ヒップホップの場合は、シンコペーションが多いから音圧を分散させることが可能なのよ。でもハウスにはシンコペーション、つまりリズムのずれがないから、グルーヴというものを生み出すことがものすごく難しい。

 ハウスの祖に当たるディスコは基本的に生演奏だから、バランスを取りやすい。でも、ハウスみたいに全部機械で打ち込むとなると、音のバランスが取りづらいんだ。

 ということで、ここはいっそハウスを極めてやろうと思ってさ、機材を使いこなすことに関心が向いてきた。

『Vibra is Back』

 マネージャーのKに去られた俺は、当時、SFC音楽出版(現ウルトラ・ヴァイヴ)という会社を経営していた高護さんにお願いして、ビブラストーンのマネジメントを引き受けてもらうことにした。(略)

 そして、89年12月、SFCが手がけていたインディレーベルであるソリッドから、近田春夫&ビブラストーンのデビューアルバム『Vibra is Back』がリリースされる。

 このアルバムは、高さんの提案で、全曲DAT一発録りのライブ音源を集めたものとなった。

(略)

 俺はそれまで、レコーディングとライブは別物だと思っていて、ライブ盤を出した経験がなかったから、これはちょっとした挑戦と言ってもよかった。

 でも、結果として本当にいいものができた。この時点で、もうバンドとしてほぼ出来上がっちゃってるんだよね。実は、この後にポニーキャニオンから出るアルバムより、ずっといいと思ってるぐらい。ひょっとすると、近田春夫の全キャリアを通しても、一番好きなアルバムかもしれない。

プロデューサー業

 81年には、サンタクララという夫婦デュオのシングル2枚をプロデュースした。

 このふたりを知ったのは、NHKのオーディション。たまたま足を運んだら、「男と女」って曲を歌っててさ、それが本当にカッコよかったのよ。まあ、エスター・フィリップスの「What a Difference Day Makes」そのままなんだけど(笑)。下世話な水商売の匂いに衝撃を受けたよ。

 その印象を「POPEYE」の連載に書いたら、向こうからプロデュースを頼まれたってわけ。それで、「人に言えないラブシーン」というシングルを提供した。B面の「ふるさとトワイライト」ともども俺の作詞・作曲。編曲は、当時ビブラトーンズを一緒に始めたばかりの窪田晴男に任せている。

(略)

 82年にビブラトーンズとしてアレンジと演奏に参加したのが、三上寛の『このレコードを盗め』というアルバム。

 このレコードは、一応キャリア初のベストアルバムを謳ってるんだけど、全曲、オリジナルとはアレンジが変わってるのよ。

 俺たちは「なかなか~なんてひどい唄なんだ」という曲をリメイクしている。初めて聞いた時に、あまりにも前衛的な歌だったので驚いてさ。これもまた、「POPEYE」で紹介したら、それが先方の目に入ってオファーが来たんじゃなかったかな。

 三上寛という人は、一般には情念的なフォークの歌い手だととらえられているけれど、その一方で、非常にモダンな感覚を持っている人ですよ。

 

 80年代にプロデュースを行ったアルバムで、一番自信を持っているのが、85年にリリースされた風見りつ子のアルバム『Kiss of Fire』。

(略)

 この頃、自分の中では、作詞・作曲・編曲・演奏のすべてを自分で手がけたいという気持ちが強まってきていた。そんなところに舞い込んできた仕事だったんだよ。

 ここでは、まず徹底的に打ち込みだけで作り込んで、そこにギターをはじめとするいくつかの楽器の音を挿した。そして、有機的なコーラスを過剰なまでに多用したんだ。

 このアルバムを作るに当たって影響を受けたのは、スイスのテクノポップグループ、イエローの「Pinball Cha Cha」という曲と、マット・ビアンコのファーストアルバム『Whose Side Are You On?』