バタフライ・エフェクト ケンドリック・ラマー伝

コンプトン、ギャング

 コンプトンは、昔から現在知られているようなコンプトンだったわけではなかった。第二次世界大戦の以前のこの街の人口は、黒人が引っ越してくることを禁じた人種差別政策があったため、過半数が白人だった。一九八四年にアメリカ合衆国最高裁判所がこれらの法律に違憲判決を下し、一九五〇年代初期までに黒人の家族が家を買い始めると、既に郊外の居留地に住んでいた白人たちは大いに落胆した。白人は人種統合によって彼らの資産価値が急落することを恐れ、この街から逃げ去った。コンプトンの黒人人口は、一九六〇年には四〇パーセントまで増加し、一〇年後には六五パーセントを占めるまでになった。失業の増大によって犯罪が増え、一九七一年にクリップスと呼ばれるギャングが結成された。これは、高校生のレイモンド・ワシントンとスタンリー・“トゥーキー”・ウィリアムズが、自分たちを悩ませていたサウスLAのギャングと闘うために、個別に存在したギャングたちをまとめようと決意し、結成したものだ。クリップスは間もなく、この街最大のストリートギャングになった。シルヴェスター・スコットとヴィンセント・オーエンズが、一九七二年にコンプトンのパイルー・ストリートに沿ってブラッズを結成し、すぐにクリップスのライバルギャングとしての地位を確立した。他の地元のグループのメンバーたちは、クリップスに襲われていて、その復讐のためにブラッズに参加したのだ。

(略)

コンプトンは南カリフォルニアにおける暴力犯罪とギャング活動の中心地となった。

 アロンゾ・ウィリアムズは、ワールド・クラス・レッキン・クルー(ドクター・ドレーギャングスタ・ラップの顔となる前にメンバーだった)を作った、DJ兼ナイトクラブのオーナーであり、今とは違う時代のコンプトンを覚えている。彼はこの街で育ち、今では危険と見なされている地域を、何の問題もなく歩いたものだった。それは一九七〇年代の、コカインがストリートを襲う前のことで、ギャングは存在していたが、彼らとの付き合いはそれほど危険なものではなかった。人びとは近所のギャングと関係を持たずに暮らすことができたし、まだ安全だと感じることができた。「コンプトンは他のどの街とも何ら変わりはなかったんだよ。落ち着いたもんさ」とウィリアムズは思い出す。「ギャングバンガーは常にいたんだ。ダンスに行けばそこにいた、でも通り過ぎるだけのことでさ。ほとんどの人びとはヤツらと一緒に野球をやったり、一緒に学校に通ったりしていたし、ギャングバンガーには一般市民には手を出さないっていう掟があった。ギャングバンガーはギャングバンガーとしか争わなかった。ヤツらは厄介ごとを起こそうとはしなかったし、人びとはヤツらに手を出したりもしないんだ」。

 しかし、クラック・コカインがすべてを変えてしまった。ギャングたちの活動は制御不能になり、金銭が新たなモチベーションになった。ウィリアムズはまた、彼のナイトクラブで状況が大きく変わるのを目の当たりにしている。彼が名高いイヴズ・アフター・ダークというパーティー会場を開いた一九七九年には、ギャングと関わっている常連客はほんのわずかしかいなかった。しかしクラックが真っ盛りの一九九〇年頃までには、彼の観客の大半はギャングと関わるようになっていた。「俺は自分の態度やドレスコードを変えなくちゃならなかった。誰もがサグになりたがり、誰もがドープを売りたがっていたんだ」とウィリアムズは言う。「誰もがタフを演じていた。誰かが怒った途端、自分たちのセット[従属するギャングの派閥]を主張した。そうやって人を追い払っていたのさ。ギャンスタになることがファッショナブルになったんだ。単に自分が住んでいる場所を理由にそうしていたし、それが主張できたのさ(略)

最近は、多くの若いヤツらがフッド[地元]出身だと主張している。(略)

多くのヤツらは別にギャングの一員じゃないのに、ギャングに惹かれていたんだ。(略)

昔は、自分がなぜ特定のセットに入ったか分かっていた。今じゃ多くのヤツらは強さを見せつけるためにやっている。ホットなことをやってるように見えるからさ」。

アンソニー・“トップ・ドッグ”・ティフィス

ケンドリックはティフィスのためにフリースタイルを披露して、その場で彼をあっと言わせなければならなかった。(略)

「トップは言ったんだ、『これが本当にお前かどうか見せてもらおうか』ってね。それから俺は二時間、頭に浮かんだことをひたすらフリースタイルでラップして、汗水垂らしてがんばったんだ」。ティフィスはケンドリックの能力に心底感服した。わずか一六歳という年齢で、まだ曲の書き方すら具体的に知らないのに、ラッパーとして十分に成長していたからだ。(略)

「俺は彼をブースに入れて、倍速のビートをかけたんだ。動揺させようと思ってね。そしたら彼はとんでもないフリースタイルを始めてさ!俺は全然気にしてないって風を装ったんだけど、それに気付いた彼は更にラップのスピードを上げたんだ。俺は『畜生、お前はモンスターだぜ』って感じで顔を上げたよ。翌日には契約書を用意したんだ」。

(略)

 二〇〇四年の時点で、ウェストコースト・ラップにはかつてのような真のキングがいなかった。アイス・キュープは俳優業にフォーカスしていた。ドクター・ドレーは音楽をリリースすることより、彼のレコード・レーベル、アフターマス・エンターテイメントを経営することにより大きな関心があった。

(略)

ウェストコースト・ラップの中心地は北へ――ロサンゼルスから、ベイエリアのサンフランシスコやオークランドヘ――と移動していた。そこではハイフィー、あるいは“クランク”・ムーブメントが真っ盛りだった。ヒップホップのトレンドは、ファンクや、激しいダンスを目的にひたすらピッチを速めた“クランク・ミュージック”など、ダンス志向の楽曲に重心が移っていた。

(略)

ゆったりとした攻撃性のあるLAギャンスタ・ラップは、ウェストコーストでは一九九〇年代以来初めて、二番手に甘んじることになった。

(略)

 ケンドリックは完全に無料で利用できるその拠点で、自身が抱える不安に向きあう時間を確保し、結果的に彼とジェイ・ロックは様々な発想を言葉にすることができた。(略)

ティファスはアーティストたちと誠実な関係を築いていた。それはビジネス上の関係というよりは、家族のようだった。トップ・ドッグは愛のむち、公平さ、揺るぎないリスペクトを通して、このスタジオに一帝国の種を蒔いたのだった。

 期を同じくして、ティフィスはもうひとりの前途有望な人物、サウンウェイヴという名でビートを作っていたコンプトン高校を卒業したばかりのプロデューサー、マーク・スピアーズにスタジオの扉を開いた。彼は、長年家族の友人だったパンチ・ヘンダーソンによって迎え入れられた。パンチはサウンウェイヴの兄と裏庭でよくバスケをしていたが、試合の合間に、当時一三歳だったサウンウェイヴが自分の部屋でソニープレイステーションのMTVミュージック・ジェネレイターをを使ってビートを作っているのを耳にした。「彼は、『おい、お前ビート作るのか?俺の従兄弟はトップ・ドッグなんだよ』って感じだった」とスピアーズ

(略)

一年後、サウンウェイヴが見覚えのある顔に再会したのは、ティフィスのスタジオにいるときだった。ケンドリックがソファーに座って、TDEのオーディションを待っていたのだ。

(略)

 ティフィスのスタジオはすぐに、キャリアに活を入れようとする他の若者たちにとっての聖域になった。二〇〇六年に、テラス・マーティンという名の男がこのスタジオを訪れるようになった。彼はロック高校で偉大なるレジー・アンドリュースからジャズを学んだ、自力でビートを作る並外れた才能の持ち主だった。

(略)

彼がティフィスの家の中を通って奥の部屋に行くと、ジェイ・ロックとケンドリックがスタジオのブースでラップしている声が聴こえてきたことを覚えている。「楽しかったね、毎日が創造性に溢れる共同体だったよ」とマーティンは思い起こす。

ドクター・ドレー

ドレーとケンドリックは単なるコラボレイターではなく、まるで家族のように親密な関係になった。「むしろおじと甥のような雰囲気だったよ(略)俺たちはスタジオに腰を下ろすと、お互いが暮らしてきたストリートの事情を話し合ったり、彼からは二世代若い俺でも共感できる経験談を聞かせてもらったんだ」。(略)

ケンドリックから50セント、エミネムまで、共に仕事をした者は誰もが先生[ドック]の素晴らしさを褒め讃えている。彼らはみな、ドレーは完璧主義者であり、気分が乗ればスタジオセッションが七〇時間以上にも及ぶこともあると公言している。ドレーはまた、とりわけ言葉にこだわる人物で、彼が仕事をするラップの抑揚について何百回も細かいことをうるさく言い、何百テイクもレコーディングするのだった。(略)

彼は自らリリックを書くことはなかったものの、スタジオの中でラッパーたちが彼のために書いたライムのなかに、彼の求める抑揚を反映させる指導方法を熟知していた。

「Sing About Me, I'm Dying of Thirst」

この二部構成の一二分にわたる壮大な大作で、このラッパーは、目の前で友人の弟(または兄)の死を看取った怒りと、ある年上の女性との偶然の口論がいかに彼の人生を永遠に変えてしまったかを解き明かす。最初のヴァースは、間違いなく最もハッとさせられる内容だ。ケンドリックは彼の友人で、殺されたデイヴの兄(または弟)の視点からライムをする。デイヴは殺され、ケンドリックはその現場を目にしていた。デイヴの兄(または弟)はストリートに深く関わっていたが、その生活から脱け出すための、新たな情熱を今なお探し求めている。しかし彼は、その時点であまりにストリートに深入りし過ぎていたため、どうしても方向を変えることができなかった。彼はケンドリックに懇願する。もし自分が死んだら、自分と弟(または兄)のデイヴのことを曲の中で追悼してくれ、と。そして案の定、その友人は『good kid, m.A.A.d city』が出る前に撃ち殺されてしまう。二つ目のヴァースは、二〇一〇年にリリースした『Section.80』に収録した「Keisha's Song (Her Pain)」の再訪だ。この曲は、熱心すぎる客に強姦され、殺されてしまったキーシャという売春婦のことを歌っていた。しかし再訪してみると、キーシャの妹からは、姉の話は人に明かして欲しくなかったと責められる。キーシャの妹にとって、それは悲劇的な事件だったからだ。

(略)

キーシャの妹の要求に逆らい、ケンドリックは彼女の視座から二つ目のヴァースをラップし、挑戦的だった彼の声は次第に消えていく。三つ目のヴァースでは、ケンドリックは自分の死や、それが死後の世界で何を意味することになるのかを理解しようと、彼自身の視点からラップする。その時点で、彼は探し求めていた神をまだ見つけていなかったが、死が着実に彼を追い掛けている中で、自身の抱える重荷をイエス・キリストの手の中にゆだね、手遅れになる前に比喩的な聖水を浴びていた。

(略)

三つ目のヴァースは信心深く、ケンドリックが抱える劣等感コンプレックスを知る。彼は「俺にはそれだけの価値があるのだろうか?」と自問する。「俺は十分な労力を注いだだろうか?」。ところが、曲の後半部「I'm Dying of Thirst」では、ケンドリックが求めていたカタルシスが与えられる。魅惑的なゴスペルにフォーカスしたこの曲は、心に残るコーラスのうめき声と、連鎖するベースドラムと一体になって、最初は復讐心に燃え、戦うか逃げるかの反応を差迫られる瞬間を描き出す。ケンドリックは全身で俺の友達を殺したヤツらを殺してやると主張している。しかし、ある年配者との偶然の出会いがそのすべてを変えてしまう。「彼女は信心深いとは言わないけど、人生の意味を俺たちに分かりやすく説明してくれる、スピリチュアルな女性だった」

(略)

「(略)最終的に、俺たちはある女性にばったり出会って、彼女は俺たちに、神やポジティブさ、人生、自由になること、そしてありのままの自分でいることについて、かみ砕いて説明してくれたんだ。彼女は本当にリアルなものとは何なのかを教えてくれた。なぜなら人はこの地球を離れて、崇高なる力を持つ者と話さなければならないからだ。あの曲は、洗礼を受けること、実際の水、聖水に浸されることを描いている。俺のスピリットのすべてが変わったとき、俺の人生が始まるときを描いたんだ―――誰もが今知っている俺の人生、それが始まるときをね」。

炎上発言

[ファーガソン事件について訊かれたケンドリックの返答は]

攻撃者ではなく犠牲者をせめた「オール・ライヴズ・マター」の支持者のように聞こえるものだったのだ。(略)

「マイケル・ブラウンに起こったことは、決してあってはならないことだった。絶対にね。でも俺たちが自分自身をリスペクトもしてないのに、どうやって人に俺たちをリスペクトしてもらうことを期待できる?変化は内面から始まるんだ。単に決起集会をやったってダメだ、略奪をしたってダメなんだ――それは内面から始まるものなんだよ」。この返答は、ファーガソンで起こっている苦闘というよりも、トラウマを抱えた黒人少年としての自分に話し掛けていた。

(略)

 この返答は、ソーシャル・メディアでちょっとした炎上を起こし(略)アーティスト仲間からの辛辣な批判を生んだ。(略)

キッド・カディ(略)は黒人アーティストたちに「すべての黒人たちに対して自分は神の贈り物だみたいな、黒人コミュニティを見下すこと」はしないで欲しいと求め、ケンドリックをサブツイートで間接的に批判した。さらに「The Blacker the Berry」の三ヴァース目も批判の的になった。(略)

自分たちが受けている不当な扱い――字面だけを読むと、ギャングに加入している黒人が四六時中お互いを撃ち殺しているのに、自分たちは警察の射撃に腹を立てることはできないと言っていた――について黒人を非難しているように聴こえた。ケンドリックはこの曲の最後で、こうラップする。「じゃあ、なんで俺は、トレイヴォン・マーティンがストリートで殺されたときに涙を流したのか/俺はギャングバンギンのせいでより肌の黒いヤツを殺すのに/偽善者が!」。このラインもまた、一部のリスナーの感情を爆発させた。

(略)

 ケンドリックはMTVニュースのジャーナリスト、ロブ・マークマンからのインタビューで、黒人コミュニティをこき下ろそうとしていたわけではないと述べた。「これは俺の経験なんだ」とケンドリックは言った。「俺は俺の人生について語っているんだ。コミュニティに向かって語りかけているわけじゃないし、コミュニティのことを話しているわけでもない。俺はコミュニティそのものなんだよ。俺だって今でも衝動を感じるし、今でも隣に住むヤツに怒りや憎しみを……どうにかしてやりたくなる悪意が芽生えることもある。だから、音楽を作ることは俺自身にとって癒やしの効果があるんだ」。

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