建築史的モンダイ 藤森照信

建築史的モンダイ (ちくま新書)

建築史的モンダイ (ちくま新書)

  • 作者:藤森 照信
  • 発売日: 2008/09/01
  • メディア: 新書
 

 泥の大モスク

 泥を干して日干し煉瓦を作り、それを積み上げた上に泥を塗って仕上げる土と泥の建築のことを“アドベ”というが、アドべは世界中の乾燥地帯にある。インドや中国はむろん中近東に広く分布(略)

でもなんといっても土と泥の建築といえばアフリカが独壇場(略)

中でも群を抜いてひときわ高くそびえるのがジェンネの泥の大モスクなのである。

(略)

裸足の子供が通りすぎ、ヤギがウロつく土の広場の向うに、幅五十メートル、高さ二十メートルの泥の壁が、そびえ立ち、空は青く、日は輝き、すべては乾く。驚きと暑さの両方で頭はクラクラ。

(略)

ニジェール川流域の金と象牙を集め、それをトンブクツー経由でサハラ砂漠を越えてモロッコに送り、代りにモロッコからは綿織物が届いた。地中海世界ブラックアフリカ世界をラクダの背でつなぐアフリカ最大の交易都市として、大いに栄えた。

 金と象牙が泥に化けたのだ。

(略)

[中に入れば]

これははたして建物というべきか土のカタマリか、空いてる空間より土の柱の占める体積のほうが大きいのだ。柱といっても断面が畳一枚分の面積のが九十本もあって、上へ上へと伸びている。その暗いスキ間の土の上に座って、メッカの方向に向って祈るのである。

(略)

まず原料の調達から。大モスクから数分も歩くと、ニジェール川の氾濫原に出る。(略)

[雨季には]日本列島の半分ほども氾濫原が広がり、微粒子の泥を沈澱させる。乾季がきて、河底が現れるとその泥で日干し煉瓦を作る。煉瓦という言い方はよくない。強度を強めるため牛のフンを混ぜたりするが、根本は煉瓦のような四角な形のただの土の塊り。その小さな塊りを、泥を接着剤として積み重ねて壁を作り、柱を作り表面に泥をぬりたくって仕上げる。その上に屋根をかけるわけだが、屋根といっても壁と柱の間に木の枝を差し渡し、枝の上に牛フンたっぷりの土を置き、泥を塗っておしまい。

(略)

 こんな作りだから、壊すのは簡単

(略)

屋上の雨樋に泥を詰めただけ。雨の多い日、屋上はプールとなり、どっと落ちてしまい、あとは雨のたび、壁と柱が少しずつ崩れて、やがて土に還ってしまった。そんなこんなで、ジェンネの泥の大モスクは、何度か土に還り、その土の盛りあがりを基礎としてまた作るのを繰り返し、現在のは、フランス植民地になってから、一九〇七年に作られたもの。

 和館と洋館の併置という謎

[明治になり西洋館を真似て官庁や学校などは]洋風に造った。ここに謎はない。謎は住宅で起こった。洋風を積極的に受け入れた時の有力者たち(略)は、昔ながらの立派な和風の御殿の脇に洋館を建てる、という受け入れ方をしたのである。

(略)

 和館と洋館の併置、のようなことは、明治から昭和戦前にかけての日本にだけ起った現象で、日本以外にはない。たとえば、隣の中国でも、上海などでは民族資本家たちが成長し、洋風の生活を受け入れているが、その時、彼らは中国風の屋根の一郭に洋館を建てるようなことはせず、家全体を洋風化して、中に中国趣味を加える。彼らの目には日本のやり方は姑息に映るだろう。東南アジアでもインドでも、伝統の住いの脇に洋館を建てて済ますような行いは、 これまでの長いフィールドワークのなかでも目撃したことはない。

 アジアだけではない。イギリスでもルネッサンス期に、イタリアからのルネッサンス様式が海を越えて上陸してきた時、保守的で鳴らす英国紳士の振る舞いを見ると、伝統のゴシック様式の隣りに新式のルネッサンス様式を並べるなんてことはせず、ゴシックとルネッサンスをかき混ぜたヘンなスタイルを作っている。

(略)

日本の建築史の研究は、ヨーロッパの建築史を手本にスタートしているが、結局、時代ごとの様式の変遷として歴史を書くことはできなかった。 (略)

日本の建築に様式がなかったのならしかたないが、そんなことはない。

(略)

茶室もあれば城もある。書院造や数寄屋造もある。

 建築の基本要素である構造、平面、造形について一つの独得の形式が認められる時、スタイルが成立していると判断するわけだが、日本の建築もヨーロッパに負けずに立派なスタイルを持ってはいる。(略)

 なのにどうして、歴史をスタイルの変遷として語ることができないのか。

 スタイルはあるけれども、そのスタイルが時代の変遷とともに変遷してくれないのだからしかたがない。たとえば、唯一神明造を例にとると、古墳時代の建築スタイルをとるあの造りは、二十年に一ぺん、式年造営を繰り返しながら、えんえん千数百年後の今までそのままの形で造られ続けている。時代を超えてしまった。春日造も同じ。

 茶室だって、千利休が今の型の基本を決めた後、守りつづけて四百年。造りつづけて四百年。戦国時代末期に成立した型が、江戸、明治、大正、昭和と生きつづけて平成にいたってなお元気。

 別に利休が定型を決めようとしたわけではないだろう。同時代の弟子たちは、小堀遠州にせよ織田有楽斎にせよ利休とはそうとうちがう独自の茶室を作っているのだから。それがいつしか、型として固まったのは、後継者たちの知恵というか怠惰というか。

 時代に応じて新しいスタイルはもちろん成立する。茶室もそうだし、茶室の影響によって書院造は変化して数寄屋造が成立する。それまでのものが変化して新しいものが成立するところまではヨーロッパ建築と同じだが、その先で異なる。ヨーロッパ建築ならさらにまた変るのに、日本では一度成立してしまうと生き続けるのだ。次に新しく生れたスタイルと併行して古いものも生き続ける。数寄屋が生れても、書院はあいかわらず元気。時には、一軒の家の中に、書院造、数寄屋造、茶室が順に並んでいたりする。

 スタイルが、ヨーロッパのように時代に従属しない。では何に従うかというと、用途に従う。唯一神明造は天皇家の神社という用途に従い、数寄屋造はちょっと遊び心の入った住いや料亭という用途にかぎって採用される。時代が変っても、ちょっと軽く明るい住いや遊び心を満たす料亭が求められるかぎり数寄屋造は消えない。

 というとお城の造りはどうかという反論があるかもしれない。城は戦国時代、江戸時代と生きたスタイルで、武士の時代に従っている。たしかにそう見えるが、本当に時代に従属していたかというと、ちがうと私は考える。やはり、用途なのだ。その証拠に、明治になって城という用途が必要なくなったら、消滅したではないか。城は、時代と用途がたまたまきれいに一致しただけなのである。

 ヨーロッパは、用途には従わない。キリスト教会が好例だが、帝政ローマ時代にはローマ建築のスタイルをとり、中世に入り、一一、一二世紀にはロマネスク、一三、一四世紀にはゴシックに変り、そして一五世紀のルネッサンスにいたると、古代ローマに範をとったルネッサンス様式へと変る。その後は、マニエリスムバロック、と続く。

 日本の古墳時代ローマ帝国末期に当る。伊勢神宮は今でも平然と当時のスタイルで造られつづけているが、現在のキリスト教会が古代ローマの様式を造り続けるなんてヨーロッパの人は想像できないだろう。

 話を元にもどす。

 明治時代、どうして日本人は、伝統の和館の脇に新来の洋館を平気で並べるという世界的には異例な行いを平然と敢行したのか。

 答は、スタイルは時代ではなく用途に従う、と考えていたからではあるまいか。日常生活は昔ながらのものだから、生活部分は和館でいい。しかし、公的な世界は、学校にせよ役所にせよ会社にせよヨーロッパ化してしまったから、公との接点である接客空間は洋館にしよう。私的生活という用途には和で、対外的用途には洋で、そういう用途に従ったスタイルの使い分けをしただけのことなのである。

横長は悪魔の形式!?

 タイは日本以上の仏教国、世界で数少ない仏教を国教とする国だから、町のいたるところにお寺があり、静かなオープンスペースがひそんでいる、と期待したのだが、いざ行ってみると……。

 町の随所に仏教寺院はあるのだが、日本のお寺の境内とは様子が違う。まず、静かじゃない。国民の仏教への帰依は日本とはくらべもんにならないほど熱烈で、参拝する人が押し合いへし合い状態。正月の成田山浅草寺を毎日やってるようなもの。仏様の前に座り込み、全身全霊をうちふるわせて拝む女の人の姿なんかを見ると、ちょっと引く。

 仏像が金ピカで、負けずに寺の建物もド派手。(略)

私が強い違和感を覚えたのは、そこではない。

(略)

 お寺が縦長なのだ。

 日本はむろん、韓国でも中国でもべトナムでも、縦長はキリスト教会、横長は仏教寺院と決まっていた。例外はなかった。なのに、タイに入ったとたん、お寺は、大砲みたいにこっちに向って縦長に構えている。

(略)

 私の建築史の知識は目まいを起した。かつて、南蛮時代、キリスト教会がはじめて東アジアに流入したとき、この地の布教の最高責任者だったイエズス会大巡察師ヴァリニアーノは、教会建築のあり方について(略)

現地順応の基本路線を打ち出し、イスがなくてもいいとか、男女の間についたてを立ててもいいとか、屋根も壁も現地の材料と技術で作って構わないとか決めたのだが、その中でこれだけは絶対にしてはならないと戒めたのが、縦長、横長の一件で、

“横長は悪魔の形式”

とまで非難した。お寺をはじめとする東アジアの伝統的な宗教建築がことごとく横長であることを知り、また僧たちときつい宗教論議を重ねてきたヴァリニアーノの目に、仏教をはじめとするアジアの邪教と自分たちの聖なるキリスト教の建築的なギリギリの差は、縦長・横長の一点にあると見えていたのである。

 こうした建築史的な知識が私の頭には浸みていたから、縦長のタイ式寺院にはたまげた。

 そして、あわてて、仏教建築の祖国インドの様子を資料で確かめた。インドの仏教は、ヒンズー教イスラム教にやられ(略)すべて、廃墟化、遺跡化しているのだが、それらを確かめると、例外なく(略)

 縦長です。正方形もあるが、縦長が多数を占め、横長は皆無。正方形が古く、しだいに縦長に伸びていったらしい。

(略)

あの日本のお寺の横長は、本家からの直伝じゃなかったのだ。タイの方が原型に近いのだ。

 その気であらためて調べてみると、仏教寺院の縦長、横長問題は、ベトナムカンボジアの境で線が引かれ、それよりインド側は縦長、それより中国側は横長となる。

(略)

 イスラムは正方形が基本、ヒンズーも同じだが、正方形を並べて縦長に発展している。

 ユダヤ教は正方形。

(略)

 調べてみてはじめて知ったのだが、宗教建築というものは、基本的に、正方形か円形か、縦長になる。

(略)

 なのにどうして、神社の本殿も、寺院の本堂も、建物だけは横長なんだろうか。

(略)

 インドの縦長の仏教寺院は、どうして中国に入ったとき、横長に変ってしまったんだろう。

 建築史的タテヨコ問題

  孔子廟、道観、宗廟の三つは、成立した時点から横長の建物となっていた。理由は明快で、祭られる対象が孔子老子も先祖や実在の人間だからである。神の子キリストというような絶対的超越的な存在ではない。自分たちと基本的には同じ人間を祭るのだから、建物の形式は住宅でなければならない。孔子様も老子様も御先祖様も、死後も生前同様に住宅に住んで、生きつづけてほしい。生きつづけるのだから、毎日、水も食事も差し上げます。そういうようにして中国の宗教建築は住宅を基本とし、横長となったのだった。

(略)

 さて、仏教が中国に入ってきた時、仏像は、孔子老子、先祖と同じように住宅形式の中に安置されたのだった。遺骨を納める仏塔も作られたけれど、仏像の置かれた仏堂ほど重視されず、伽藍の脇の方によけられてしまう。

(略)

 そうして中国で成立した世俗的仏教建築が日本へ韓国へべトナムへと伝わったのだった。 

 日本のモクゾウ 

日本は木造建築の国と言うけれど、柱も壁も土台も垂木も木材は外からはけっして見えないのである。

(略)

 日本の木造は、家の中のことだけで、外目には見えないように法令で決められているのである。中は木造のまま、外だけ木造をやめる。これを奇手と呼ばずして……。

 外だけ木造をやめる奇手は“準防火”と名づけられている。

(略)

 この奇手を編み出したのは、建築家の内田祥三であった。といって知らない人の方が多いかもしれないが、東大の安田講堂の設計者

(略)

建築界では、辰野金吾地震学の佐野利器につづく三代目の“ボス”として知られ、昭和戦前をリードしている。もう少し社会的な広がりのある仕事を紹介すれば、かの同潤会アパートメントを設計している。

 そういうエライ建築家がどうして木造住宅の防火対策なんかに取り組んだかというと(略)

[都市災害防備という社会的使命だけでなく]

 内田祥三は子供の時分から火事が大好きで半鐘がジャンと鳴れば、すぐ下駄をつっかけて飛び出してゆくような少年だった。

(略)

明治一八年、深川の米屋の息子に生れ落ち、深川に息づく江戸文化の中で育ったのだから仕方がない。ジャンを聞くと、彼の体の中の江戸がうずきだす。

(略)

同潤会による住宅改良事業でまっさきに取り組まれ、一番大きな成果をあげたのは、裏猿江町の広大なスラム街を鉄筋コンクリート造アパートメントに建て替えることだった。

(略)

父は幼い頃に死んでいたし。それを、小学校の先生が、内田の優秀さを惜しみ、親を口説いて上の中学に進ませたのだという。おそらく思うに、エラクなってからも、川向こうの深川のことは忘れることなく、スラムの改良を念じていたにちがいない。その証拠に、東京都公文書館に蔵される大量の内田文書をひもとくと、大震災の前から裏猿江町に入り、一軒一軒についてカードを作り、畳何枚の部屋に何人家族で暮しているかなど克明な調査をしていたことが分る。

(略)

 話をもどして準防火である。大正九年に発令される日本初の建築法である市街地建築物法(現在の建築基準法)の起草を内務省からまかされていた佐野利器は、防火の項を内田にまかせた。

(略)

ここで内田の永年の火事場体験が生きてくる。

 木造でも、壁の表面に鉄板などの不燃材が張ってあると、結局は燃えるにしても延焼がそうとう遅れる。ちょっとした不燃材一枚でも、意外に効果がある。(略)

内田は起草した。木造家屋の外側には、鉄板や鋼板やタイルやモルタルなどの不燃材を、軒先までぐるりと張るべし、と。

(略)

神田や芝や日本橋の下町商店街には銅板張りや色モルタル塗りの“看板建築”がぞくぞくと建ち並んでゆくのだが、そうした自分の成果について、内田は学術的裏付けに不安があったらしい。なんせ、体験しかないのだ。で、昭和七年、本格的な実験に取りかかり、準防火の有効性が確かめられる。

(略)

先の神戸の大地震の時、有効性はどうだったのか。木造地帯で火が出て、えんえんと何日も燃えつづけ、死んだ人も多かった。(略)

もし内田のことを知っていたら、ちっとも役にたたないじゃないかと思ったことだろう。しかし、私は別の見方をしていた。延焼はしてゆくけれど、周囲で見ている人がいるくらいに、遅いのだ。遅ければ、人は逃げることができる。これこそが、内田の準防火の肝所だった。

 なお焼死者のほとんどは、倒れた建物にはさまれて逃げられなかったことによる。

 準防火は有効だった。しかし、仕事場のマン ション の窓から住宅地を眺めるたびに、「有効にはちがいないのだが……」とつぶやかざるをえない光景がえんえんと広がっているのだ。これが本当に木造の住宅といえるのか。

焼いて作る!? 

 杉の国日本に生れながら、どうして私は杉嫌いになったのか。(略)

 どうも木目が原因と思い当った。広葉樹にくらべはるかに鮮明でよく筋の通っているところがダメらしい。

(略)

 線というものが嫌いらしいのである。線よりは面が、面よりは塊りが好き。

(略)

ル・コルビュジエが上野の国立西洋美術館の設計のため初来日した時、前川國男や坂倉準三といった弟子たちは(略)喜んで桂離宮に案内した。

 戦後すぐグロピウスが来た時、案内して大受けし、感動のあまりグロピウスは丹下健三と共同で執筆して本まで出しているし、戦前のタウトは、桂離宮の門前の竹垣(桂垣)を見ただけで涙を流し、中に入っては「泣きたくなるほど美しい」と一文をしたためた。

(略)

結果は意外で、二〇世紀建築最大の巨匠の気持はピクリとも動かなかった。あまつさえコルビュジエは、桂より日光の方がいいとまで言った。

(略)

[好きにはなれない]理由として、

「線が多すぎる」

と言ったというのである。このような思いもかけない評価をした人は前にも後にもいない。すごい眼力の持ち主だと思う。たしかにその通りで、畳の床にはタテヨコに黒い細線が走り、壁に目をやると柱や長押が太い線となって壁面を分画し、とりわけ障子ときたら線だらけ。

(略)

 このエピソードを聞いた時、私は、自分の日頃の数寄屋嫌いの真因が分かったと思った。

城は建築史上出自不明の突然変異

私は知り合いの建築家が、戦前育ちの大家から若手まで、お城についてあれが良かったとか何とか語るのを聞いたことがない。(略)

城が建築家のデザイン上の関心の的になったことがない。わずかに建築史家が歴史の対象としただけ。

 日本の歴史的建築は、種類からいうと、住宅、寺院、神社、城郭、商店、劇場などと分けられ、それぞれについて明治以後の建築家がデザイン上の栄養を摂取してきた。たとえば明治の建築家は寺院に関心を寄せ、和洋折衷を試みたし、大正の青年建築家は能舞台に魅せられている。昭和のモダニスト桂離宮伊勢神宮にぞっこんだったのは記憶に新しい

(略)

国内だけでは足りず、欧米へさらにアジアへと日本の建築家は足を伸ばし、さまざまな歴史的建築に想を得ているのだが、しかし、なぜか城だけは例外。

(略)

 読者の皆さんにも、姫路城なり松本城を頭に思い浮べてほしいのだが、なんかヘンな存在って気がしませんか。日本のものではないような。国籍不明というか来歴不詳というか、世界のどの国のどの建築にもルーツがないような、それでいてイジケたりせずに威風堂々、威はあたりを払い、白く明るく輝いたりして。

(略)

“高くそびえるくせに白く塗られている”

せいではあるまいか。屋根が層をなして高くそびえるだけなら五重塔と同じで(略)しっくりくるのだが、漆喰で白く塗りくるめられているのがいけない。

(略)

加えてもう一つ、お城には成立事情がはっきりしないという出生の不幸がある。天守閣はある日突然、あの高さあの姿で出現したのだ。織田信長安土城である。

次回に続く。

カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話

制限節は同一化したがる 

 The year that just ended was bad for crops と This year, which has been dry, was bad for crops の違いはわかるだろうか?文が This year と始まれば、著者がどの年のことを話しているのかはすでに特定されている。まったくの曖昧さなしに、This year was bad for crops と書くことができる。一方、The year was bad for crops と書くと、どの年の話なのか文脈で判断しなければならない。that just ended 〈終わったばかりの〉を加えれば、年を特定できる。

(略)

「制限的」という言葉はちょっと考えてからでないと使えない。(略)

カンマで節は制限され、封鎖され、隔離されているのだろう、とつい思ってしまう。しかし、まったく正反対なのである。制限節は、修飾する名詞の一部になりきっているので、みずからの領土を主張するためのいかなる句読記号も必要としない。カンマの本来の目的は分離することであり、制限節は修飾する相手から隔てられるのをきらう。制限節は「相手と一緒にいたい、必要とされたい、完全に同一化したい」と思っている。「制限的」にどんなものが入るのかさえ理解すれば(She was a graduate of a school that had very high standards〈彼女は入るのがとても難しい学校の卒業生だった〉)、ほかはぜんぶ「非制限的」に入る(He graduated from another school, which would admit anyone with a pulse〈彼は別の学校の卒業生で、そこは心臓が動いていれば誰でも入れる〉)。

 ひとは緊張すると、that でいいときに which を使う。政治家はよく that の代わりに which を使って立派な雰囲気を出そうとする。作家も that の代わりに which を使うかもしれない――騒ぐほどのことではない。which の代わりに that を使うほうがずっと変だ。言うまでもなく、イギリス人は which をたくさん使っていて、それを変だと思っていない。アメリカ人は一致して、節が制限的なときには that を使い、節が非制限的でカンマに区切られているときには which を使う。それで万事うまくいっている。

〈天にまします我らの父よ〉は制限節か、非制限節か?

 誰もが知っていて、かつ制限的にも非制限的にもなりうる節の格好の例は、「主の祈り」である。Our Father, who art in Heaven〈天にまします我らの父よ〉。who art in Heaven は制限節か、非制限節か? いったい神はどこにいるのか? who の前のカンマがほのめかすように、これは非制限的だろう。つまり、who art in Heaven というフレーズには Father を特定する働きはなく、彼の居場所をただ教えている。 by the way 〈ところで〉を入れてもよさそうだ。Our Father, who, by the way, resides in Heaven〈我らの父よ、ところで、彼は天に住んでいるんだけど〉

(略)

もとの文脈では、キリストがこの祈りの言葉を弟子たちに教えている。カンマがなければ、祈り手にもうひとり父がいることが暗示される(ヨセフ?)。ということは、キリストの意図としては、who art in Heaven のフレーズはおそらく制限節で、地上の父と対照することで天の父を特定しようとしたのだろう。

(略) 

英訳は聖公会祈祷書 (1662年)以来、Our Father, which art in Heaven としている。非制限用法だ。イギリス聖公会のみなさん、which を選んでくれてありがとう、あとで who に変更なさったのはさておき。ここでの神は創造者で、比喩的な父であり、一神教の伝統では唯一のものなのだ。しかし、現代聖公会訳では、1988年から、シンプルな Our Father in heaven になっており、制限用法である。地にいるほうの父ではなく、天にいるほうの父、ということだ。1928年からカトリック聖公会の両方で使われている現代英語版はカンマがない。Our Father who art in heaven。ちょっと変だと言わざるをえない。この制限用法(カンマなし)はかなり馴れ馴れしくて、天なる父にわざと冷たい態度をとったりしそうだ。非制限用法(カンマあり)は、彼がわたしたちみんなの父だと認めたうえで、居場所を付け足している。

 わたしは信心深くない。でも、これってかなり神秘的じゃないだろうか?

ぶらさがり分詞

ぶらさがった分詞句を直すには、センテンスの主語を変えて分詞に合わせる方法と、分詞を動詞化して分詞の句を節にする方法がある。

 わたしの好きなぶらさがり分詞の例は、車の重量計測所にある標識だ。Trucks Enter When Flashing.〈トラック進入、点灯中。〉分詞句はふつう主語にかかることになっている。だから、Trucks Enter When Flashing は明らかに「トラックが入るのは、ライトが点灯しているときでなければならない」という意味だが、文法的にいえば光っているのはトラックということになる。分詞が正しく使われている例を釣り上げようとしていると、釣り針につけられた小魚が、獲物が近づいてきたときに言いそうなセリフが思いついた。Looking up, I noticed I was bait.〈見あげると、自分が餌だとわかった。〉ほうら。分詞句の Looking up は主語の I にかかっている。

 多くのひとは、ぶらさがり分詞なんてどうでもいいと思っているし、優れた書き手でさえしくじることがある。その優れた書き手が頑固だったら、わざとだと言い張ってぶらさがり構文にしがみつくかもしれない。自分の書きたいことはわかっているし、このセンテンスでちゃんと意味が伝わっている、と。その書き手がぶらさがっているロープでは、となりの枝には飛びうつれない。

(略)

 かつて Over tea in the greenhouse, her mood turned dark.〈温室のお茶越しに、彼女の気持ちは暗くなっていった。〉という文に反対したことがある。編集者はぶっきらぼうに言った。「このままじゃだめ?」わたしは、her mood〈彼女の気持ち〉がお茶の上空を飛びまわるわけではないと言い張った(略)。それで文はこう変わった。As we drank tea in the greenhouse, her mood turned dark.

(略)

 いい書き手になればなるほど、ぶらさがり分詞はややこしくなる。素晴らしい書き手である小説家のエドワード・セント・オービンに、こんなセンテンスがある。

Walking down the long, easily washed corridors of his grand-mother's nursing home, the squeak of the nurse's rubber soles made his family's silence seem more hysterical than it was.

〈彼の祖母の介護施設の水洗いしやすい長い廊下を歩いている、看護師のゴムの靴底のキュッキュッと鳴る音が、家族の沈黙を実際よりもヒステリカルに思わせた。〉

(略)

「水洗いしやすい長い廊下を歩いている」のは squeak〈キュッキュッという音〉ではないし(略)、ましてや the nurse's rubber soles〈看護師のゴムの靴底〉でもなく(恐ろしく病院っぽい)、所有格に埋めこまれた nurse〈看護師〉だ。

(略)

指摘されていたら著者は書き直してしまったかもしれないし、変だとは思わないと答えていたかもしれない。というわけで、第3の選択肢が見つかる。何もしない、だ。ときには、ぶらさがり句と折り合いをつけるほうが、調整するより簡単なことがある。この例ではおそらく、ぶらさがり句がもたらす落ち着かない不安定さによって、介護施設の不気味な廊下を歩く感覚が表現されている。

 わりと最近、稀代の作家ジョージ・ソーンダーズの短編で、ぶらさがり句に取り組むことになった。ソーンダーズは小説家で、語り手は教養がなさそうなしゃべり方なことが多い。

(略)

While picking kids up at school, bumper fell off Park Avenue. 〈子どもたちを迎えに行ってて、バンパーがパーク・アベニューから落っこちた。〉厳密に言えば、ソーンダーズの文ではバンパーが子どもを迎えに行っていることになる。(「パーク・アベニュー」は昔のビュイックの車種。)しかし修正すれば声が台無しになる――この語り手の日記は走り書きふうで、主語はしばしば抜けている(Stood looing up at house, sad〈立って家を見て悲しかった〉)。このバンパーの文を直すいちばん簡単なやり方は、出だしのフレーズに主語を与え、適切な節にすることだ――While I was picking the kids up at school〈わたしが子どもたちを迎えに行っているときに〉しかし、これではこの文の個性が失われる。

 betwenn you and me と「友&愛」

 ここだけの話 betwenn you and me 、わたしが最悪な気分になり、英語という言語の土台が揺らぐのは、靴のセールスマンが信頼を得ようと身を乗り出し、こう言うときだ。「ここだけの話ですが betwenn you and I ……。」あるいは、

(略)

アカデミー主演女優賞の受賞者が、友達にこう感謝するとき。「サリーとわたしを出会わせてくれました getting Sally and I together 。(略)

たぶん、me は家みたいな気楽な場所なら許されるけれど、フォーマルな場にはふさわしくないのでは、と考えるのだろう。

 うるさ型たちはこの用法について何世紀も文句を垂れつづけてきたのだけれども、ここではドワイト・マクドナルドまでさかのぼるだけにしておこう。彼は『ウェブスター第3版』について書いた1961年のエッセイで、between you and I を、世にはびこる、おなじみの破格だと言った

(略)

 まず、これらのドジの背後にある心の動きを褒めたたえよう(略)

セールスマンも(略)映画スターも、みんな謙遜するために、別のひとを先に言っているのだから。それから優しく指摘しよう。(略)

自分を先に言っていれば、間違いに気づけたはずだ、と。(略)

自分を先に出して言えば、 me が正しいと耳でわかり、 I でなく me を使うだろう。

(略) 

リュセットという友人は、わたしがすごく尊敬しているラブリーで自信に満ちた文学的な姉妹の片方なのだが、これまでずっと自分たち姉妹のことを Kate and I と恭しく言ってきた。(略)

わたしは皮膚と内臓のあいだにある裏地か何かがぎゅっと縮み上がる。(略)

[一度指摘した]

彼女は世界レベルの大学の英文科長だし、恥をかいてほしくなかった――彼女は答えた。「会話でしょ!」

イパネマの娘』not at he

イパネマの娘』という歌を考えてみよう。(略)

アストラッド・ジルベルトが歌った有名な英語版では、ある代名詞がいつもわたしの気を散らせてしまう。美しい娘が毎日、海の方向に歩いて通るのを、ひとりの男が見ている。彼は彼女を好いているが、「彼女はまっすぐ前を見ている――彼ではなく not at he 」。アウチ!どこで間違ったのだろうか?(略)

たくさんのひとたちが腹を立てたりせず、この曲を楽しんできた。言語学者に尋ねると、「冗談なのでは?」と言われた。それで調べてみると、この部分に腹を立てたひとはほかにもいた。それは英語版の作者のノーマン・ギンベルで、彼自身は not at me と書いたのだった。歌手だったのである、me を he に変えたのは。たぶん、自分の性(女性)に歌詞を合わせようとしたためで(男性が歌うように書かれていたのだ)、そして彼女は英語を完全には習得していなかった。まあ、いずれにせよ、イパネマの娘の魅力は何があってもなくならないことには誰もがうなずくだろうけれど。Those are they や not at he に笑っていられるひともいるのかもしれないが、わたしは気になる(略)

代名詞をちゃんと使えないと大統領になれませんよと子供を脅すことも、もはやできない。というのも、ここ数十年のアメリカでもっとも弁が立つ大統領のバラク・オバマでさえ、a very personal decision for Michelle and I とか graciously invited Michelle and I と言っているのだ。

I は me のフォーマル版?――屈折変化 

他動詞 transitive verb と呼ばれるものがある。(略)

英単語のなかにラテン語に由来するものがたくさんあるので、trans-は「向こう側へ」「通り抜けて」という意味だろうと推理できる。たとえば発送する transmit の語源は「向こうへ送る」だし、透明な translucent は「光を通す」からきている。

(略)

この種類の動詞は、ある動作を主語となる名詞からもう1つの名詞へ運んでいく。受け取る側の名詞は、主語とイコールではなく、目的語と呼ばれる。The mechanic inspects the car. 〈修理工が車を調べる。〉 The car fails inspection.〈その車は検査に落ちた。〉

(略)

他動詞が指し示す先にはほかの何かがあり、その何かが他動詞を補完する。修理工が調べる目的物は何か?車だ。では車は何に落ちた?――検査だ。

(略)

これらの名詞は動詞の直接目的語で、目的語として機能するときの名詞の格を「目的格」という。ラテン語文法でこれにあたるのは「対格」 accusative case だ。この accusative は、I accused the mechanic of overcharging me 〈わたしは高値をふっかけてきた修理工を訴えた〉というときに使う accuse〈~を訴える〉と同じ単語だ。

(略)

なぜこんな話をしたかというと、英語以外の言語、たとえばドイツ語、ギリシャ語、ラテン語には対格があり、これらの言語のなかには (ギリシャ語、ドイツ語、ラテン語アイルランド語が有名だが)、主語か目的語かによって、名詞の形が変わる言語がある。文法学者はこうした変化した形を屈折形と呼ぶ。

(略)

英語はこのやっかいごとをほぼまぬがれている。いにしえより伝わりし代名詞だけがさまざまに屈折して、アングロ・サクソン族とわたしたちのつながりを残している。

(略)

 ところで、目的語もとらず連結もしない動詞もある。自動詞はうしろに戻って主語に影響を及ぼす。他動詞が主語の活動を目的語へ向ける一方、自動詞は純粋に主語それ自体だけの活動を表現する。

(略)

連結動詞は自動詞(目的語をとらない動詞)のうち、特別に高性能なカテゴリに属している。『吸血鬼の英文法』で、カレン・エリザベス・ゴードンは連結動詞のリストを挙げている。be動詞のほかに、「感覚動詞 (look, sound, taste, smell)、それから、appear, seem, become, grow, prove, remainといった動詞。」これらの動詞は、ふつうの自動詞とは違って連結力を持っているから、taste good というときに、副詞の well ではなく形容詞の good を使うのだ。動詞が意味を名詞に投げ返し、名詞は副詞ではなく形容詞に修飾される。「気分が悪い」ときに、I felt badly ではなく I felt bad というのは、to feel badly だと「やみくもに手探りする」という意味になるからだ。felt という動詞は――ゴードンのリストにはないが、感覚動詞の1つに違いない――みずからを修飾する副詞をしたがえるのではなく、形容詞の bad を主語にくっつけるのだ。

(略)

I  は me をフォーマルにしたものではない。me はどことなく親密な感じがする――おそらく、この打ち解けた雰囲気こそ、ひとが公の場で話すときに避けようとするものだ。I, he, she, we, they は、それぞれの目的格よりも硬く響く。me, him, her, us, them はより柔らかく、従順で、どこにでもすっと収まりそうだ。

(略)

who と whom の区別である。われわれの多くがこれに苦しめられているが、なかには気に病む価値などないと思っているひともいる。スティーヴン・ピンカーは書いている。「who と whom の区別は消えつつある。アメリカだと、whom は、慎重な書き手と気取った話し手しか使わない。」これに反論するひとはいないだろう。

ケネディはストリッパー――シリアル・カンマ

 カンマを発明したのは、アルド・マヌッツィオという、1490年ごろにベネツィアで働いていた印刷業者である。物事を分割することで混乱を防ぐのがねらいだった。

(略)

ざっくり分けると、2つの流派がある。1つめの流派は耳で聞いたとおり、休止するところに音楽のフレージングのようカンマを打ち、音読するときにカンマで息継ぎの場所がわかるようにする。もう1つの流派はセンテンスの意味を明確にするためにカンマを打ち、センテンスを裏から支える構造に光をあてる。いずれの流派も、相手が図に乗っていると考えている。

(略)

シリアル・カンマとは、3つ以上のものを連続して挙げるときに and の前に打つカンマのことだ。シリアル・カンマを打つと、My favorite cereals are Cheerios, Raisin Bran, and Shredded Wheat. 〈わたしの好きなシリアル食品チェリオス、レーズン・ブラン、そしてシュレッディッド・ウィートだ。〉シリアル・カンマなしだと、 I used to like Kix, Trix and Wheat Chex. 〈わたしはかつてキックス、トリックスそしてウィート・チェックスが好きだった。〉

(略)

わたしはなまけ者なので、項目の列挙に出くわすたびに立ち止まって、最後の項目の前の and の前にカンマがあるほうが曖昧さが減るかいちいち考えるより、シリアル・カンマをつねに使うほうが楽だ。

(略)

 We invited the strippers, JFK and Starlin. 〈われわれはストリッパーたち、J・F・ケネディスターリンを招待した。〉

[脚註:シリアル・カンマがないせいで、「ストリッパーたちとケネディスターリンを招待した」とも「ストリッパーたち、すなわちケネディスターリンを招待した」とも読める。以下に続く例も同様](略)

 This book is dedicated to my parents, Ayn Rand and God. 〈この本はわたしの両親、アイン・ランドと神に捧げる。〉

プレゼントにわたしを買った――ディケンズのカンマ

 チャールズ・ディケンズは耳で句読記号を打った作家の典型である。

(略)

ディケンズは特に主部と述部のあいだにカンマを入れるのが好きだったが、これは現代の句読法2流派ともが間違いだと意見を同じくする稀有な例である。

(略)

次はディケンズが1856年に書いた手紙の一節だ。She brought me for a present, the most hideous Ostrich's Egg ever laid. 〈彼女はわたしにプレゼントとして、史上最悪に醜いダチョウの卵を買ってくれた。〉カンマのせいで、途中まで読んだ段階では代名詞が直接目的語だと誤読させられる――She brought me for a present〈彼女はプレゼントとしてわたしを買った〉――けれどそのあとに、ほんとうの直接目的語にいたる。the most hideous Ostrich's Egg ever laid.  〈史上最悪に醜いダチョウの卵〉だ。

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ピーター・バラカンのわが青春のサウンドトラック

「レディ・ステディ・ゴー!」 

63年の夏に放送が始まった「レディ・ステディ・ゴー!」は、僕たちの世代にとっては決して忘れることのできない番組でした。(略)

複数の歌手、あるいはバンドをゲストに迎えて進行する点は既存の音楽番組と変わらなかったものの、(略)「サンク・ユア・ラキー・スターズ」「ジューク・ボックス・ジューリー」といった番組と違っていたのは、明らかに僕たちの世代に向けて作られた番組であり、実際、絶大な支持を得たという点です。若者文化が猛烈なスピードで変化を続けていたあの時代、音楽はもちろんのこと、新しいダンスや流行のファッションの紹介など、十代の若者が求める最新の情報が詰め込まれたこの番組は、僕たちにとって“見ないわけにはいかない番組”でした。月曜日になると学校ではきまって番組の話題が出たものです。64年1月には「トップ・オヴ・ザ・ポップス」も始まりますが、あの番組はあくまでもヒット曲にこだわったものです。この点、ヒット・チャートに縛られることのない「レディ・ステディ・ゴー!」には、ビートルズを筆頭とする人気グループだけでなく、噂すら聞いたことのない新人や、コンサート・ツアーでイギリスを訪れた海外のミュージシャンなども登場しました。

モッズの極致、ザ・フー

ユニオン・ジャックのジャケットや幾何学模様のシャツといった最先端のファッションを身に着け、シャープなサウンドを奏でるザ・フーの面々は、そのモッズの極致ともいうべき存在だったわけで、気にならないはずはありません。さらにいえば、ザ・フーには視覚的にも音楽的にも、ほかのどんなバンドより“危ない”イメージがありました。キース・ムーンがドラムズを蹴倒す場面を(おそらくは「レディ・ステディ・ゴー!」で)初めて見たときも、恐怖感にも似たショックを受けました。

 思春期に特有の説明できない。感情を巧みに表現した歌詞といい、洗練された服装といい、あの番組の雰囲気にぴったりくるバンドはザ・フーのほかにいなかったわけですから当然といえばそれまでですが、デビュー曲「アイ・キャント・エクスプレイン」からプロモーション・フィルムでの登場となった66年の「ハピー・ジャック」まで、彼らのシングルはほぼ例外なく「レディ・ステディ・ゴー!」で放送され、僕はその大半を気に入り、発売から間もなく買った記憶があります。「アイ・キャント・エクスプレイン」のイントロにはキンクスの「ユー・リアリー・ゴット・ミー」に匹敵するスリルを感じましたし、ベース・ソロも特徴的なあの「マイ・ジェネレイション」には、自分に代わって日頃の鬱憤を晴らしてもらったような痛快な気分を味わったものです。

(略)

[大好きなバンドだが]

実をいえば、ザ・フーに関してもキンクス同様アルバムは一枚も買ったことがありません。唯一馴染みがあるのは友人の家でたびたび聴いた『セル・アウト』で、このアルバムに関しては曲間のジングルを歌えるほどでした。 

チャック・ベリー 

 カントリー・ミュージックに通じる雰囲気もあるチャックのロックンロールには、モータウンの一連のレコードがそうであるように、ブラック・ミュージックに馴染みのない白人の若者にもすんなり受け入れられる音楽的な魅力があり、またアメリカの若者の心境を上手に表現した歌詞にも、その音楽に劣らない魅力がありました。

 意外に思われるかもしれませんが、当時のイギリスで見ることができるアメリカのテレビ番組といえば西部劇くらいで、現代劇はめったに紹介されませんでした(例外は日本でも放送された「奥さまは魔女」で、イギリスでも大変な人気番組でした)。この点は映画にしても同様で、結果、僕たちには同時代のアメリカの文化や風俗にまつわる知識を得る機会がほとんどなかったのです。それだけに、放課後にカフェに立ち寄り、ジュークボックスにコインを入れてダンスを楽しむといった高校生の日常が歌われる「スクール・デイ」の歌詞などはとても新鮮で、どこか異国情緒のようなものを感じたのです。

 チャックはときに早口でまくし立てるように歌うので、中には歌詞が聞き取れない曲もありました。(略)

「ブラウン・アイド・ハンサム・マン」のように、歌詞はわかっても内容が理解できない曲もありました。この曲にはブラウン・アイド・ハンサム・マンを奪い合って両手を失ったミロのヴィーナスや、打球をスタンドに叩き込みホームに向かって走る主人公が描かれていますが、そもそも当時の僕はまだミロのヴィーナスを知りませんでしたし、(イギリス人が一般にそうであるように)野球にも疎かったのです。 

『ポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド』

[66年15歳の著者]

背伸びしたい年頃です。(略)

特に憧れたのはアマチュア・バンドを組んでいた2級上の先輩たちでした。

(略)

いずれもブルーズを演奏しており(略)放課後になると彼らは小さなアンプや楽器を教室に持ち込みリハーサルを行なっていました。そして、それを見に行くのが僕の楽しみのひとつになっていたのです。僕が本格的にブルーズにのめりこむようになったきっかけは、その先輩たちが教えてくれたポール・バターフィールド・ブルーズ・バンドの「ポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド」でした。

(略)

1曲目の「ボーン・イン・シカゴ」に圧倒され、それで決まりでした。未知の世界に踏み込んでしまったようなスリルを感じたといえばいいのでしょうか。バターフィールドのハープもマイク・ブルームフィールドのどこか危険な匂いのするギターも、ドライヴ感のあるリズムも、とにかくカッコよかった!また、それまで聴いていたポップやロックのレコードにはない緊迫感のあるヴォーカルも、“大人の歌”という感じで実に魅力的でした。その日からしばらくのあいだはこのレコードばかり聴いていたように思います。ライナー・ノーツも何度も読み返しましたし、薬草屋の前に並んだ不良っぽい佇まいのメンバー写真も繰り返し眺めたものでした。

(略)

ストーンズとの出会いは時代的に当たり前だったと思いますが、このレコードがなければ僕の人生がどうなっていたかと考えると、運命的なものさえ感じます。それまで耳にしていたイギリスの“R&B”とはあまりにも力量が違って、愕然としました。それぞれのミュージシャンの巧さもそうですが、バンドとしてのものすごいパワーにも、のけぞるような衝撃を受けました。もし学校の同窓会などでこのアルバムのことを教えてくれたあの先輩たちに会うことがあったら、映画『ウェインズ・ワールド』で主人公がアリス・クーパに会うあのシーンのように、きっと土下座してしまうでしょう。

BBCライヴ

あのころのBBCが、放送用に特別に録音した“ライヴ・ヴァージョン”を、現在以上に頻繁にオン・エアしていたことはよく知られる通りです。ビートルズのような人気バンドの、レコードとは異なる演奏が日常的に流れるというのはとても贅沢なことに思えるかもしれませんが、これは何も聴取者への特別なサーヴィスとして行なわれていたわけではなく、“ニードル・タイム・リストリクション”という規制の結果に過ぎませんでした。“ニードル”はレコード針のこと。“ニードル・タイム・リストリクション”とは、平たく言えばレコードをかけることのできる時間的な制約ということになるでしょう。当時、イギリスではミュージシャンの組合が強い力を持っており、彼らの仕事を奪う“レコード” の出番が厳しく制限されていたのです。

 それでもヒット曲を無視するわけにはいかないBBCは、当初、組合に所属するミュージシャンで構成された専属のオーケストラに流行歌のインストルメンタル・ヴァージョンを演奏させていましたが、僕たちのような若者がそんなもので満足するはずもありません。そこでビートルズのような自作自演のグループの場合には、オーケストラに替えてバンド・メンバー自身に演奏してもらおうということになったわけです。

(略)

 もっとも僕を含め、当時のリスナーの多くは“ニードル・タイム・リストリクション”というものが存在することさえ意識していませんでしたし、レコードとちがう演奏だからといってことさら喜ぶことも不満を感じることもありませんでした。当のミュージシャンたちも――たとえばビートルズの『ライヴ・アット・ザ・BBC』のように後にこれらの音源が掘り起こされ、アルバム化されることになるとは思っていなかったはずです。

 イーグルスニール・ヤング

 皮肉なことに、CSN&Yの4人のうち初めて生で観ることができたのは(略)

苦手だったニール・ヤングでした。(略)

たしか73年だったと思います。しかし、僕は今も昔も興味のないコンサートを観に行くようなことはしません。お目当ては前座として出演することになっていたイーグルズでした。

(略)

 ニール・ヤングとイーグルズの競演というと今ではちょっと考えられない贅沢な組み合わせですが、当時は両者の人気の差は歴然としていました。もちろん、音楽好きの仲間うちではイーグルズはデビュー当時からそれなりに評判になっていましたし、実際、僕がこのバンドに興味を持ったきっかけも、口コミか音楽雑誌の記事か、そのどちらかでした。とはいえ、その人気が一般的なものになるのは『呪われた夜』以降のこと。73年といえば、ようやく2枚目のアルバム『ならず者』が発表された年ですから、まだまだ知る人ぞ知る存在です。(略)

僕のようにイーグルズ“だけ”を目当てにレインボウに足を運んだ人はめずらしかったにちがいありません。

 肝心のステージですが、予想していた通りの展開で、僕は大満足でした。

(略)

休憩を挟んでニール・ヤングのステージが始まったわけですが、あの声にはどうしても抵抗を覚えるもので、結局は途中で席を立ってしまいました。(略)当時も今も、僕はコンサートの途中で帰るなんていうことはめったにしません。ニール・ヤングというアーティストがそのくらい苦手だった!要するにそういうことです。

 ロッド・スチュワート

70年の秋に発表になった『ガソリン・アリー』には、イギリスにこんな歌をうたえるやつがいたのかと本当にゾクゾクするような感動を覚えました。

(略)

翌1971年の『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』と、そこからシングル・カットされた「マギー・メイ」の大ヒットで、ロッドは一気に世界的な人気歌手になるわけですが、たしかに「マギー・メイ」にはそれだけの魅力がありました。歌詞が明瞭に聴き取れる点は「マギー・メイ」の特徴のひとつです。そしてポイントはその歌詞で、「俺は駄目な男」といった自嘲的な内容は、いかにもロッドらしく、またイギリス人の の琴線に触れるのです。実際、カヴァー曲でも自作曲でも、あのころロッドが歌っていた曲は、どれも歌詞が秀抜でした。

 『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』は僕もすぐに買いました。カヴァー曲やミュージシャンの選択の妙、マンドリンフィドルといったアクースティックな楽器をうまく取り入れた新鮮なアンサンブル、ロッド自身の魅力的な歌唱……。『エヴリ・ピクチャー……』と『ガソリン・アリー』はどこをとっても甲乙つけがたいすばらしさでした。

 僕にティム・ハーディンというシンガー・ソングライターの存在を教えてくれたのは、『エヴリ・ピクチャー……』で取り上げられていた「リーズン・トゥ・ビリーヴ」でしたし、ボブ・ディランの「トゥモロウ・イズ・ア・ロング・タイム」もこのLPで初めて聴きました。

(略)

僕が繰り返し聴いたのは『ネヴァー・ア・ダル・モーメント』くらいまで。それまでのロッドのレコードには、歌に対する真摯な態度が感じられたのですが、『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』が売れすぎてしまったせいでしょうか、『ネヴァー・ア・ダル・モーメント』あたりを境にそうした姿勢が希薄になったように感じました。

(略)

ロッド・ステュワートのコンサートを初めて観たのも、皮肉なことに、やはり日本に来てからのことでしたが、ブランデーをラッパ飲みしながらサッカー・ボールをステージから蹴飛ばすという能天気なパフォーマンスには、正直なところ辟易しました。つまるところ僕にとってのロッド・ステュワートは『ガソリン・アリー』と『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』、それと『アン・オールド・レインコート・ウォント・エヴァー・レット・ユー・ダウン』。そういうことになるのでしょう。

(略)

FACES

『A NOD IS AS GOOD AS A WINK...TO A BLIND HORSE』

日本人にはこのアルバムタイトルはチンプンカンブンでしょう。かつてのイギリスでは(今はどうかな)わりとよく使ったイディオムで、相手がはっきりと言わずに伝えようとする内容を、うまく汲み取れたときに使う表現です。「へへへ、わかったよ…」という感じかな。つまり、頷きの合図も、めくばせするのも同じようなものだ……盲馬にはな!最後のオチはいかにもイギリス的な味です。このアルバムが出るちょっと前に、この表現を使って流行語にしたモンティ・パイスンのコント(エリック・アイドルの傑作)があったので、覚えている方がいるかもしれません。

チャーリー・ギャレット

 僕の大好きなDJ、チャーリー・ギャレットがホストを務めた番組「ホンキ・トンク」が始まったのも大学時代のことでした。

(略)

とても一般向けとはいえないこの番組がそれでもかなり長く続いたのは、ひとつにはロンドン・ローカルだったからでしょう。僕がチャーリーのファンになったのは、一般的なDJより柔らかい独特な語り口を聴いてからでした。また彼の著作『サウンド・オヴ・ザ・シティ』も、そのちょっと前に読んでいたかもしれません。

 彼はイギリス人ですが、イギリスの大学を出たあとアメリカに渡り、コロンビア大学修士号を取得(略)その際の修士論文を本にしたのが『サウンド・オヴ・ザ・シティ』で、これは「ホンキ・トンク」の放送開始より2年前に出版されました。残念なことに日本では出版されていませんが、これはブラック・ミュージックがロックンロールの時代に果たした役割の大きさを非常に真面目に検証した、きわめて中身の濃い本です。出版当時、チャーリ・ギレットの存在を知らしめるきっかけになりましたし、僕もまた大いに感銘を受けました。

(略)

当時、あんなに渋い音楽をかける人はほかに見当たりませんでしたし、彼の選ぶ曲の100パーセント……とは言わないまでも95パーセントくらいは僕好みでした。

 それほど頻繁にというわけではなかったものの、「ホンキ・トンク」にはゲストも出演し、ときにはスタジオで演奏を披露することもありました。(略)

特に印象的だったのはドクター・ジョンです。ちょうど彼があの『ガンボウ』を発表した72年のことでした。(略)

[『ガンボウ』の]最大の功績は、黄金時代のニュー・オーリンズのリズム&ブルーズの魅力を、僕を含むたくさんの音楽ファンに教えてくれたことでしょう。チャーリーは、もちろんそのあたりをよく心得ていました。ドクター・ジョンをゲストに招いたその日、彼はスタジオにピアノを1台用意していました。そして軽いやり取りを交わしたあと、ニュー・オーリンズを代表するピアニストたちのスタイルを、実演を交えて紹介してほしいとリクエストしたのです。ピアノの前に腰を下ろしたドクター・ジョンは「これはプロフェサ・ロングヘア、これがジェイムズ・ブカ」といった具合に注釈を加えながら、見事な演奏を披露しました。これが最高に面白かった!

 それから何年も経って、僕が「ポッパーズMTV」をやっていたころ、ドクター・ジョンがスタジオに来てくれました。たしか初来日のときだったと思います。「ホンキ・トンク」で聴いたあのパフォーマンスが忘れられなかった僕は、同じことをテレビでやってもらわない手はないと考えました。「昔、ロンドンのラジオ番組でこんなことをしましたよね。それをまたやってもらいたいんだけど」(略)

彼もおそらく覚えていたのでしょう。僕の頼みを聞き入れ、期待通りの演奏を聴かせてくれました。

(略)

60年代後半あたりから、たとえばジョン・ピールのように飾らない調子で語りかけるDJが活躍し始めてはいましたが、チャーリー・ギレットの場合、本当に普通の人という感じで、そこがこの上なく新鮮だったのです。友だちの家でその人の好きなレコードを聴かせてもらっているような感じといえばいいでしょうか。こんな番組ができるならDJという仕事をしたいな――。「ホンキ・トンク」はそんな気分にさせる番組でした。