建築史的モンダイ 藤森照信

建築史的モンダイ (ちくま新書)

建築史的モンダイ (ちくま新書)

  • 作者:藤森 照信
  • 発売日: 2008/09/01
  • メディア: 新書
 

 泥の大モスク

 泥を干して日干し煉瓦を作り、それを積み上げた上に泥を塗って仕上げる土と泥の建築のことを“アドベ”というが、アドべは世界中の乾燥地帯にある。インドや中国はむろん中近東に広く分布(略)

でもなんといっても土と泥の建築といえばアフリカが独壇場(略)

中でも群を抜いてひときわ高くそびえるのがジェンネの泥の大モスクなのである。

(略)

裸足の子供が通りすぎ、ヤギがウロつく土の広場の向うに、幅五十メートル、高さ二十メートルの泥の壁が、そびえ立ち、空は青く、日は輝き、すべては乾く。驚きと暑さの両方で頭はクラクラ。

(略)

ニジェール川流域の金と象牙を集め、それをトンブクツー経由でサハラ砂漠を越えてモロッコに送り、代りにモロッコからは綿織物が届いた。地中海世界ブラックアフリカ世界をラクダの背でつなぐアフリカ最大の交易都市として、大いに栄えた。

 金と象牙が泥に化けたのだ。

(略)

[中に入れば]

これははたして建物というべきか土のカタマリか、空いてる空間より土の柱の占める体積のほうが大きいのだ。柱といっても断面が畳一枚分の面積のが九十本もあって、上へ上へと伸びている。その暗いスキ間の土の上に座って、メッカの方向に向って祈るのである。

(略)

まず原料の調達から。大モスクから数分も歩くと、ニジェール川の氾濫原に出る。(略)

[雨季には]日本列島の半分ほども氾濫原が広がり、微粒子の泥を沈澱させる。乾季がきて、河底が現れるとその泥で日干し煉瓦を作る。煉瓦という言い方はよくない。強度を強めるため牛のフンを混ぜたりするが、根本は煉瓦のような四角な形のただの土の塊り。その小さな塊りを、泥を接着剤として積み重ねて壁を作り、柱を作り表面に泥をぬりたくって仕上げる。その上に屋根をかけるわけだが、屋根といっても壁と柱の間に木の枝を差し渡し、枝の上に牛フンたっぷりの土を置き、泥を塗っておしまい。

(略)

 こんな作りだから、壊すのは簡単

(略)

屋上の雨樋に泥を詰めただけ。雨の多い日、屋上はプールとなり、どっと落ちてしまい、あとは雨のたび、壁と柱が少しずつ崩れて、やがて土に還ってしまった。そんなこんなで、ジェンネの泥の大モスクは、何度か土に還り、その土の盛りあがりを基礎としてまた作るのを繰り返し、現在のは、フランス植民地になってから、一九〇七年に作られたもの。

 和館と洋館の併置という謎

[明治になり西洋館を真似て官庁や学校などは]洋風に造った。ここに謎はない。謎は住宅で起こった。洋風を積極的に受け入れた時の有力者たち(略)は、昔ながらの立派な和風の御殿の脇に洋館を建てる、という受け入れ方をしたのである。

(略)

 和館と洋館の併置、のようなことは、明治から昭和戦前にかけての日本にだけ起った現象で、日本以外にはない。たとえば、隣の中国でも、上海などでは民族資本家たちが成長し、洋風の生活を受け入れているが、その時、彼らは中国風の屋根の一郭に洋館を建てるようなことはせず、家全体を洋風化して、中に中国趣味を加える。彼らの目には日本のやり方は姑息に映るだろう。東南アジアでもインドでも、伝統の住いの脇に洋館を建てて済ますような行いは、 これまでの長いフィールドワークのなかでも目撃したことはない。

 アジアだけではない。イギリスでもルネッサンス期に、イタリアからのルネッサンス様式が海を越えて上陸してきた時、保守的で鳴らす英国紳士の振る舞いを見ると、伝統のゴシック様式の隣りに新式のルネッサンス様式を並べるなんてことはせず、ゴシックとルネッサンスをかき混ぜたヘンなスタイルを作っている。

(略)

日本の建築史の研究は、ヨーロッパの建築史を手本にスタートしているが、結局、時代ごとの様式の変遷として歴史を書くことはできなかった。 (略)

日本の建築に様式がなかったのならしかたないが、そんなことはない。

(略)

茶室もあれば城もある。書院造や数寄屋造もある。

 建築の基本要素である構造、平面、造形について一つの独得の形式が認められる時、スタイルが成立していると判断するわけだが、日本の建築もヨーロッパに負けずに立派なスタイルを持ってはいる。(略)

 なのにどうして、歴史をスタイルの変遷として語ることができないのか。

 スタイルはあるけれども、そのスタイルが時代の変遷とともに変遷してくれないのだからしかたがない。たとえば、唯一神明造を例にとると、古墳時代の建築スタイルをとるあの造りは、二十年に一ぺん、式年造営を繰り返しながら、えんえん千数百年後の今までそのままの形で造られ続けている。時代を超えてしまった。春日造も同じ。

 茶室だって、千利休が今の型の基本を決めた後、守りつづけて四百年。造りつづけて四百年。戦国時代末期に成立した型が、江戸、明治、大正、昭和と生きつづけて平成にいたってなお元気。

 別に利休が定型を決めようとしたわけではないだろう。同時代の弟子たちは、小堀遠州にせよ織田有楽斎にせよ利休とはそうとうちがう独自の茶室を作っているのだから。それがいつしか、型として固まったのは、後継者たちの知恵というか怠惰というか。

 時代に応じて新しいスタイルはもちろん成立する。茶室もそうだし、茶室の影響によって書院造は変化して数寄屋造が成立する。それまでのものが変化して新しいものが成立するところまではヨーロッパ建築と同じだが、その先で異なる。ヨーロッパ建築ならさらにまた変るのに、日本では一度成立してしまうと生き続けるのだ。次に新しく生れたスタイルと併行して古いものも生き続ける。数寄屋が生れても、書院はあいかわらず元気。時には、一軒の家の中に、書院造、数寄屋造、茶室が順に並んでいたりする。

 スタイルが、ヨーロッパのように時代に従属しない。では何に従うかというと、用途に従う。唯一神明造は天皇家の神社という用途に従い、数寄屋造はちょっと遊び心の入った住いや料亭という用途にかぎって採用される。時代が変っても、ちょっと軽く明るい住いや遊び心を満たす料亭が求められるかぎり数寄屋造は消えない。

 というとお城の造りはどうかという反論があるかもしれない。城は戦国時代、江戸時代と生きたスタイルで、武士の時代に従っている。たしかにそう見えるが、本当に時代に従属していたかというと、ちがうと私は考える。やはり、用途なのだ。その証拠に、明治になって城という用途が必要なくなったら、消滅したではないか。城は、時代と用途がたまたまきれいに一致しただけなのである。

 ヨーロッパは、用途には従わない。キリスト教会が好例だが、帝政ローマ時代にはローマ建築のスタイルをとり、中世に入り、一一、一二世紀にはロマネスク、一三、一四世紀にはゴシックに変り、そして一五世紀のルネッサンスにいたると、古代ローマに範をとったルネッサンス様式へと変る。その後は、マニエリスムバロック、と続く。

 日本の古墳時代ローマ帝国末期に当る。伊勢神宮は今でも平然と当時のスタイルで造られつづけているが、現在のキリスト教会が古代ローマの様式を造り続けるなんてヨーロッパの人は想像できないだろう。

 話を元にもどす。

 明治時代、どうして日本人は、伝統の和館の脇に新来の洋館を平気で並べるという世界的には異例な行いを平然と敢行したのか。

 答は、スタイルは時代ではなく用途に従う、と考えていたからではあるまいか。日常生活は昔ながらのものだから、生活部分は和館でいい。しかし、公的な世界は、学校にせよ役所にせよ会社にせよヨーロッパ化してしまったから、公との接点である接客空間は洋館にしよう。私的生活という用途には和で、対外的用途には洋で、そういう用途に従ったスタイルの使い分けをしただけのことなのである。

横長は悪魔の形式!?

 タイは日本以上の仏教国、世界で数少ない仏教を国教とする国だから、町のいたるところにお寺があり、静かなオープンスペースがひそんでいる、と期待したのだが、いざ行ってみると……。

 町の随所に仏教寺院はあるのだが、日本のお寺の境内とは様子が違う。まず、静かじゃない。国民の仏教への帰依は日本とはくらべもんにならないほど熱烈で、参拝する人が押し合いへし合い状態。正月の成田山浅草寺を毎日やってるようなもの。仏様の前に座り込み、全身全霊をうちふるわせて拝む女の人の姿なんかを見ると、ちょっと引く。

 仏像が金ピカで、負けずに寺の建物もド派手。(略)

私が強い違和感を覚えたのは、そこではない。

(略)

 お寺が縦長なのだ。

 日本はむろん、韓国でも中国でもべトナムでも、縦長はキリスト教会、横長は仏教寺院と決まっていた。例外はなかった。なのに、タイに入ったとたん、お寺は、大砲みたいにこっちに向って縦長に構えている。

(略)

 私の建築史の知識は目まいを起した。かつて、南蛮時代、キリスト教会がはじめて東アジアに流入したとき、この地の布教の最高責任者だったイエズス会大巡察師ヴァリニアーノは、教会建築のあり方について(略)

現地順応の基本路線を打ち出し、イスがなくてもいいとか、男女の間についたてを立ててもいいとか、屋根も壁も現地の材料と技術で作って構わないとか決めたのだが、その中でこれだけは絶対にしてはならないと戒めたのが、縦長、横長の一件で、

“横長は悪魔の形式”

とまで非難した。お寺をはじめとする東アジアの伝統的な宗教建築がことごとく横長であることを知り、また僧たちときつい宗教論議を重ねてきたヴァリニアーノの目に、仏教をはじめとするアジアの邪教と自分たちの聖なるキリスト教の建築的なギリギリの差は、縦長・横長の一点にあると見えていたのである。

 こうした建築史的な知識が私の頭には浸みていたから、縦長のタイ式寺院にはたまげた。

 そして、あわてて、仏教建築の祖国インドの様子を資料で確かめた。インドの仏教は、ヒンズー教イスラム教にやられ(略)すべて、廃墟化、遺跡化しているのだが、それらを確かめると、例外なく(略)

 縦長です。正方形もあるが、縦長が多数を占め、横長は皆無。正方形が古く、しだいに縦長に伸びていったらしい。

(略)

あの日本のお寺の横長は、本家からの直伝じゃなかったのだ。タイの方が原型に近いのだ。

 その気であらためて調べてみると、仏教寺院の縦長、横長問題は、ベトナムカンボジアの境で線が引かれ、それよりインド側は縦長、それより中国側は横長となる。

(略)

 イスラムは正方形が基本、ヒンズーも同じだが、正方形を並べて縦長に発展している。

 ユダヤ教は正方形。

(略)

 調べてみてはじめて知ったのだが、宗教建築というものは、基本的に、正方形か円形か、縦長になる。

(略)

 なのにどうして、神社の本殿も、寺院の本堂も、建物だけは横長なんだろうか。

(略)

 インドの縦長の仏教寺院は、どうして中国に入ったとき、横長に変ってしまったんだろう。

 建築史的タテヨコ問題

  孔子廟、道観、宗廟の三つは、成立した時点から横長の建物となっていた。理由は明快で、祭られる対象が孔子老子も先祖や実在の人間だからである。神の子キリストというような絶対的超越的な存在ではない。自分たちと基本的には同じ人間を祭るのだから、建物の形式は住宅でなければならない。孔子様も老子様も御先祖様も、死後も生前同様に住宅に住んで、生きつづけてほしい。生きつづけるのだから、毎日、水も食事も差し上げます。そういうようにして中国の宗教建築は住宅を基本とし、横長となったのだった。

(略)

 さて、仏教が中国に入ってきた時、仏像は、孔子老子、先祖と同じように住宅形式の中に安置されたのだった。遺骨を納める仏塔も作られたけれど、仏像の置かれた仏堂ほど重視されず、伽藍の脇の方によけられてしまう。

(略)

 そうして中国で成立した世俗的仏教建築が日本へ韓国へべトナムへと伝わったのだった。 

 日本のモクゾウ 

日本は木造建築の国と言うけれど、柱も壁も土台も垂木も木材は外からはけっして見えないのである。

(略)

 日本の木造は、家の中のことだけで、外目には見えないように法令で決められているのである。中は木造のまま、外だけ木造をやめる。これを奇手と呼ばずして……。

 外だけ木造をやめる奇手は“準防火”と名づけられている。

(略)

 この奇手を編み出したのは、建築家の内田祥三であった。といって知らない人の方が多いかもしれないが、東大の安田講堂の設計者

(略)

建築界では、辰野金吾地震学の佐野利器につづく三代目の“ボス”として知られ、昭和戦前をリードしている。もう少し社会的な広がりのある仕事を紹介すれば、かの同潤会アパートメントを設計している。

 そういうエライ建築家がどうして木造住宅の防火対策なんかに取り組んだかというと(略)

[都市災害防備という社会的使命だけでなく]

 内田祥三は子供の時分から火事が大好きで半鐘がジャンと鳴れば、すぐ下駄をつっかけて飛び出してゆくような少年だった。

(略)

明治一八年、深川の米屋の息子に生れ落ち、深川に息づく江戸文化の中で育ったのだから仕方がない。ジャンを聞くと、彼の体の中の江戸がうずきだす。

(略)

同潤会による住宅改良事業でまっさきに取り組まれ、一番大きな成果をあげたのは、裏猿江町の広大なスラム街を鉄筋コンクリート造アパートメントに建て替えることだった。

(略)

父は幼い頃に死んでいたし。それを、小学校の先生が、内田の優秀さを惜しみ、親を口説いて上の中学に進ませたのだという。おそらく思うに、エラクなってからも、川向こうの深川のことは忘れることなく、スラムの改良を念じていたにちがいない。その証拠に、東京都公文書館に蔵される大量の内田文書をひもとくと、大震災の前から裏猿江町に入り、一軒一軒についてカードを作り、畳何枚の部屋に何人家族で暮しているかなど克明な調査をしていたことが分る。

(略)

 話をもどして準防火である。大正九年に発令される日本初の建築法である市街地建築物法(現在の建築基準法)の起草を内務省からまかされていた佐野利器は、防火の項を内田にまかせた。

(略)

ここで内田の永年の火事場体験が生きてくる。

 木造でも、壁の表面に鉄板などの不燃材が張ってあると、結局は燃えるにしても延焼がそうとう遅れる。ちょっとした不燃材一枚でも、意外に効果がある。(略)

内田は起草した。木造家屋の外側には、鉄板や鋼板やタイルやモルタルなどの不燃材を、軒先までぐるりと張るべし、と。

(略)

神田や芝や日本橋の下町商店街には銅板張りや色モルタル塗りの“看板建築”がぞくぞくと建ち並んでゆくのだが、そうした自分の成果について、内田は学術的裏付けに不安があったらしい。なんせ、体験しかないのだ。で、昭和七年、本格的な実験に取りかかり、準防火の有効性が確かめられる。

(略)

先の神戸の大地震の時、有効性はどうだったのか。木造地帯で火が出て、えんえんと何日も燃えつづけ、死んだ人も多かった。(略)

もし内田のことを知っていたら、ちっとも役にたたないじゃないかと思ったことだろう。しかし、私は別の見方をしていた。延焼はしてゆくけれど、周囲で見ている人がいるくらいに、遅いのだ。遅ければ、人は逃げることができる。これこそが、内田の準防火の肝所だった。

 なお焼死者のほとんどは、倒れた建物にはさまれて逃げられなかったことによる。

 準防火は有効だった。しかし、仕事場のマン ション の窓から住宅地を眺めるたびに、「有効にはちがいないのだが……」とつぶやかざるをえない光景がえんえんと広がっているのだ。これが本当に木造の住宅といえるのか。

焼いて作る!? 

 杉の国日本に生れながら、どうして私は杉嫌いになったのか。(略)

 どうも木目が原因と思い当った。広葉樹にくらべはるかに鮮明でよく筋の通っているところがダメらしい。

(略)

 線というものが嫌いらしいのである。線よりは面が、面よりは塊りが好き。

(略)

ル・コルビュジエが上野の国立西洋美術館の設計のため初来日した時、前川國男や坂倉準三といった弟子たちは(略)喜んで桂離宮に案内した。

 戦後すぐグロピウスが来た時、案内して大受けし、感動のあまりグロピウスは丹下健三と共同で執筆して本まで出しているし、戦前のタウトは、桂離宮の門前の竹垣(桂垣)を見ただけで涙を流し、中に入っては「泣きたくなるほど美しい」と一文をしたためた。

(略)

結果は意外で、二〇世紀建築最大の巨匠の気持はピクリとも動かなかった。あまつさえコルビュジエは、桂より日光の方がいいとまで言った。

(略)

[好きにはなれない]理由として、

「線が多すぎる」

と言ったというのである。このような思いもかけない評価をした人は前にも後にもいない。すごい眼力の持ち主だと思う。たしかにその通りで、畳の床にはタテヨコに黒い細線が走り、壁に目をやると柱や長押が太い線となって壁面を分画し、とりわけ障子ときたら線だらけ。

(略)

 このエピソードを聞いた時、私は、自分の日頃の数寄屋嫌いの真因が分かったと思った。

城は建築史上出自不明の突然変異

私は知り合いの建築家が、戦前育ちの大家から若手まで、お城についてあれが良かったとか何とか語るのを聞いたことがない。(略)

城が建築家のデザイン上の関心の的になったことがない。わずかに建築史家が歴史の対象としただけ。

 日本の歴史的建築は、種類からいうと、住宅、寺院、神社、城郭、商店、劇場などと分けられ、それぞれについて明治以後の建築家がデザイン上の栄養を摂取してきた。たとえば明治の建築家は寺院に関心を寄せ、和洋折衷を試みたし、大正の青年建築家は能舞台に魅せられている。昭和のモダニスト桂離宮伊勢神宮にぞっこんだったのは記憶に新しい

(略)

国内だけでは足りず、欧米へさらにアジアへと日本の建築家は足を伸ばし、さまざまな歴史的建築に想を得ているのだが、しかし、なぜか城だけは例外。

(略)

 読者の皆さんにも、姫路城なり松本城を頭に思い浮べてほしいのだが、なんかヘンな存在って気がしませんか。日本のものではないような。国籍不明というか来歴不詳というか、世界のどの国のどの建築にもルーツがないような、それでいてイジケたりせずに威風堂々、威はあたりを払い、白く明るく輝いたりして。

(略)

“高くそびえるくせに白く塗られている”

せいではあるまいか。屋根が層をなして高くそびえるだけなら五重塔と同じで(略)しっくりくるのだが、漆喰で白く塗りくるめられているのがいけない。

(略)

加えてもう一つ、お城には成立事情がはっきりしないという出生の不幸がある。天守閣はある日突然、あの高さあの姿で出現したのだ。織田信長安土城である。

次回に続く。