「君」はいったい誰なんだい?

「ニホン語、話せますか?」

ニホン語、話せますか?

ニホン語、話せますか?

野崎訳に不満があった著者マーク・ピーターセンは、村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に期待していたのだが。やっぱり春樹も一般論のyou*1を「君」と訳していた。これがどんなに気持ちが悪いかを春樹の文を例に説明。「歳を取るにしたがって、ひとり旅は退屈なものになる」の英訳文は
The older you get,the less fun it is to travel by yourself.
これを春樹方式で訳すと「君が歳を取るにしたがって、たぶん君だってひとり旅が退屈なものになるだろう」となる。自分の小説ならそんなヘンな書き方はしないのに、
なぜ訳す場合にはそうしてしまうのか不思議でしょうがない。
[念のために書いておくと、著者は別の項で柴田元幸や高見浩といった優れた才能によって正しい翻訳が増えていると評価しているし、村上春樹の小説にも好意的である]
   
肝心の村上春樹はどう言っているかというと
https://www.hakusuisha.co.jp/topics/rye2.html

村上 僕はそれとは逆に、この小説におけるyouという架空の「語りかけられ手」は、作品にとって意外に大きな意味を持っているんじゃないかなと、テキストを読んでみてあらためて感じたんです。じゃあこの「君」っていったい誰なんだ、というのも小説のひとつの仕掛けみたいになっている部分もあるし。
(中略)
村上 そういうことですね。ひとつの考え方としては、「君」というのが自分自身の純粋な投影であってもおかしくないということです。それがオルターエゴ(もうひとつの自我)的なものであってもおかしくない。そうじゃないかもしれないけど、いずれにせよ、そのへんの感触は大事なんじゃないかと。

   
さてこれから書くことはなんだか春樹を擁護してるように
読めてしまうかもしれないけど、そうではありません。
ネイティヴである著者の主張が正しいと思うのです。
ただ、なんていうんだろう、
英語の歌詞カードを睨みながら勝手に誤訳して
妄想をひろげてしまったことってありません。
そして正確な訳を知って、なんとなく自分の妄想訳の方が
なにやら深い世界に到達してるように思えて
釈然としないというか少しガッカリというか。
   
訳比較(後に行くほど著者は低評価)

昭和27年橋本福夫訳
「ひとに話しなんかするもんじゃないね。
ひとに話してみると誰もかれもがなつかしくなってくるからね」
昭和39年野崎孝
「誰にもなんにも話さない方がいいぜ。話せば、話しに出てきた連中が
現に身近にいないのが、物足りなくなって来るんだから」
平成15年村上春樹
「だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしないほうがいいぜ。
そんなことをしたらたぶん君だって、
誰彼かまわず懐かしく思い出したりするだろうからさ」

*1:youは誰でもない。強いて言えば漠然と「読者」を指している