彼らを書く 片岡義男 ビートルズ、ディラン

片岡義男ビートルズ、ディラン、プレスリー関係のDVDを観て色々書く。

彼らを書く

彼らを書く

  • 作者:片岡 義男
  • 発売日: 2020/04/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
愛しのフリーダ ブルーレイ [Blu-ray]

愛しのフリーダ ブルーレイ [Blu-ray]

  • 発売日: 2014/05/30
  • メディア: Blu-ray
 

『愛しのフリーダ』

Please don't write anymore. 

 [レノンは色んなバンド名を考え]

そのなかにはJAPAG3というのもあった、とフリーダは語っている。ジョン・アンド・ポール・アンド・ジョージ・スリーだ。

(略)

フリーダ・ケリーは一九六一年には十七歳でリヴァプールの高校を卒業して会社に勤め、働いていた。同僚に誘われてある日の昼休み、ザ・キャヴァンを彼女は初めて訪れた。地下にある煉瓦造りの空間で、おもての道の向かい側には果物店があり、腐った果物の匂いは常にザ・キャヴァンに立ちこめ、ザ・キャヴァンじたいの人の汗や流れないトイレットなどの匂いと混じり合い、ザ・キャヴァンは臭いところだったという。

 フリーダはドラムスがピート・ベストだった頃のザ・ビートルズを見た人の一人だ。彼はハンサムで多くの人に好かれていた、とフリーダは語っている。(略)

フリーダは、ひと目でザ・ビートルズが好きになり、それ以後、毎日のようにザ・キャヴァンへかよったという。

 彼女がブライアン・エプスタインに誘われてザ・ビートルズの秘書になったのは一九六二年のとだ。エプスタインは多くの人たちから、エピーという愛称で呼ばれていた。このことを僕は初めて知った。

(略)

 フリーダ・ケリーは多忙をきわめたようだ。ありとあらゆる用事や仕事を、彼女はエプスタインから受けとめた。一九六三年にザ・ビートルズはザ・キャヴァンに最後の出演をし、一九六四年にはファン・レターが一日に三〇〇〇通は届くようになった。エプスタインの父親が営んでいたネムズという家電の販売店があった建物の二階の一室で、フリーダは仕事をした。そこにエプスタインの事務所もあったからだ。

 一九六五年のザ・ビートルズはMBE勲章を授けられた。六七年にはエプスタインが死去し、七○年にザ・ビートルズは解散した。七二年にはフリーダは結婚して男の子供を産み、エプスタインの事務所を退職した。フリーダが深くかかわっていたザ・ビートルズ・ファン・クラブも正式に解散した。この項目の題名として僕が使った短い英文は、ファン・クラブの会報もかねて定期的に刊行されていた雑誌の、いちばん最後にフリーダが書いたひと言だ。

 この映画の途中でLove Lettersという歌が画面に重なる。この歌がなぜここで、と僕は思った。最後にもう一度、おなじ歌があらわれる。ケティ・レスターという女性歌手が歌っている。なぜこの歌が、と僕はふたたび思った。十代だった頃のフリーダ・ケリーは毎日のようにザ・キャヴァンの客となった。店が一日の営業を終えるとき、この歌がかならずレコードから再生され、店内に流されたという。フリーダはこの歌が大好きなのだそうだ。 

ニューポート・フォーク・フェスティバル 1963~1965 [DVD]
 

ニューポート・フォーク・フェスティバル 1963~1965』 

そこは去らなければならない楽園だった

 ジョージ・ウェインとアルバートグロスマンが考え出して実現させたニューポート・ジャズ・フェスティヴァルは一九五四年から始まった。裕福な人たちが夏を過ごす避暑地でジャズをライヴで提供する、という試みは成功した。このジャズ・フェスティヴァルから派生して一九五九年に始まったのが、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルだ。

(略)

 ポピュラー・ソングではないフォーク・ソングは、ただ単に文化的なものであるだけではなく、始まったときからポリティカルなものだった。フォーク・ソングはそもそもポリティカルなものだった、という言いかたをしたほうがいいかもしれない。みんなでいっしょに歌い、そのことをとおして連帯感をつちかい、人々の気持ちがひとつの社会的な力のようになると、その力は社会のありかたを正しい方向へ持っていく、という夢が前方にあった。ごく普通の人たちの気持ちを、フォーク・ソングはひとつにまとめる表現力となった。伝統的な歌の歌詞を変更して歌うと、人々の気持ちは過去とつながると同時に、その過去は現在に生きることにもなった。フォーク・ソングは、したがって、トピカルな歌だった。トピカルな歌は、現在のシステムを批判すると同時に、未来における理想を描く力も発揮した。

 一九六三年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルに登場したとき、ボブ・ディランはすでにフォーク・ソングの世界の新しいスターだった。

(略)

社会正義をより多くの聴衆に向けて発する人として、もっとも期待されていたのがボブ・ディランだ。

(略)

あの髪、顔立ち、表情、声、喋りかた、歌いかた、ステージでの動き、短い語りなど、あらゆる点において、フォーク・ソングに興味のある人たちにとっての政治的な関心事が、ディランから強力に発散され、それは彼らに届いてもいた。彼が自作の歌を歌えば、その歌詞は予言的だと評された。予言的とは、前方のどこかへ向けて進んでいく力、と解釈しておくといい。

(略)

歌うディランと彼を受けとめる観客を、十七曲にわたって、再生したDVDの画面で観ることが出来る。観ていると次第にわかってくることがある。彼の歌はどれも長いけれど、その長さはストーリーを語るための長さではない、ということだ。

(略)

必ずしも平明ではない歌詞を歌として受けとめながら、それを歌うボブ・ディランその人を見ている人たちがおこなうのは、それぞれにイメージを描いていくことだ。イメージには出来ばえの差があって当然だが、ディランの歌う歌詞が発端になっていることは明らかであり、聴衆のひとりひとりにとって、自分で自分のなかに作ったイメージがある程度以上にまとまるなら、その人にとってディランの歌は came across した、ということになるのではないか。

(略)

 一九五〇年代のなかばに出来始めていたフォーク・ソングの世界は、一九六一年の一月にディランがニューヨークに出て来たときには、すでに完成していた。完成していたとは、それ以上の展開の可能性はもはやどこにもなかったということであり、あったのは思いのほか早くに下降していく時間だけだった。

(略)

フォーク・ソングの歌手として人々からとらえられるのは当然だとしても、自分はそうではないし、ましてやプロテスト・ソングの歌い手ではないのだと、彼は何度も言っていた。自分の歌にメッセージはない、とも言った。

(略)

ひとつの歌が長く続く。歌詞が長いからだ。聴いている人たちは、じっと聴いていなくてはいけない。その様子が存分にフィルムにとらえてある。 

 聴くしかない人たちに、ディランは聴かせている。そのことに向けて、ディランは力を発揮している。その力は半端ではない。彼はなにを聴かせているのか。

(略)

自分の歌にメッセージはない、と当人が言っている。しかしフェスティヴァルの夏の観客は、聴いている。受けとめている。ディランの歌の歌詞、つまり詩を。ディランの言葉を彼らは音声として受けとめ、頭のなかで次々に追っている。

 受けとめるディランの言葉をきっかけのように使って、足がかりのようにして、誰もがそれぞれに、ほぼ自動的に、イメージを作っていく。歌うディランの歌詞の言葉に触発されて、聴いている人たちの頭のなかに、ディランによって歌われた歌詞に添いながらも、それとは別にもうひとつ、イメージが作られていく。 

ノー・ディレクション・ホーム

意味のつながりなどまったくない配列のなかに 

[英国の街角で目にした広告文から詩を作っていくディラン]

 この広告のぜんたいを引用しておこう。次のとおりだ。

 

We will collect clip bath and return your dogs.

Cigarettes and tobacco.

Animals and birds bought or sold on commission.

 

日本語に仮に翻訳するなら、次のようにもなるだろうか。

 

あたなの飼い犬を迎えにいって毛を刈り体を洗ってお返しします。

紙煙草に煙草。

小動物や小鳥の売買を手数料つきでおこないます。

(略)

広告文はディランによってまず次のようになった。

I'm looking for a place that will collect, clip, bath, and return my dog.

KNY|7227, cigarettes and tobacco.

Animals and birds bought or sold on commission.

 

これがさらに次のように変化した。

 

I want a dog that's going to collect and clean my bath, return my cigarettes, and give tobacco to my animals, and then give my birds a commission.

 

さらに、ディランは続けた。三とおりに変化した文章を、その順番で書いておこう。

 

I'm looking for somebody to sell my dog, collect my clip, buy my animal, and straighten my bird.

 

I'm looking for a place that's going to bath my bird, buy my dog, collect my clip, sell me to the cigarettes, and commission my bath.

 

I'm looking for a place that's going to collect my commission, sell my dog, burn my bird, and sell me to the cigarettes.

 

以上の三とおりのあと、次のような短い文章をディランは作った。

 

Going to bird my buy, collect my will, and bathe my commission. 

Don't Look Back [Blu-ray] [Import]

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  • 発売日: 2011/04/26
  • メディア: Blu-ray
 

『ドント・ルック・バック』

頭を明晰にして常に電球を持ち歩く 

 ロンドンに到着してすぐ、ディランは空港でインタヴューを受けた。なにかの工場で使うような巨大な電球が、なぜだかテーブルの上にあった。“What's your real message?” と、ディランは中年の記者に訊かれた。(略)

ボブ・ ディランの返答は次のようなものだった。“Keep a good head and always carry a lightbulb”

 既成のもので満ちている社会のなかに生きる自分は、そのような既製品のひとつだという自覚は、一九六五年のイギリスにはまったくなかったようだ。当時は二十代なかばの青年だったボブ・ディランとその一行と、そのようなイギリスとのあいだにあったすさまじく大きなへだたりを、画面に感じないわけにはいかない。 

 

アメリカの政党政治 建国から250年の軌跡

 はしがき

日本を含む多くの国では、政党はある程度統率された一個の組織と見られていよう。

(略)

 ところが、アメリカでは大きく様相が異なる。(略)

 第一に、民主党共和党も、それぞれが州を始めとする地域単位の政党組織の連合体であり、単一の組織とは言いがたい。

 第二に、各地の政党組織にしても、連邦議会や州議会の各議院で党所属議員が作る組織にしても、その指導部(執行部)が強制力を伴う指示を出せないことのほうが多い。(略)

 第三に、政党の内外の境目もはっきりしない。そもそも、誰が党の構成員なのかについて明確なルールが存在しないのである。

(略)

それぞれの勢力が自律的に行動するため、党が一丸となって動くことはまずない。二大政党の全面対決のイメージがアメリカに当てはまらないのは、こうした事情による。

 しかし、二大政党はまとまりを欠く一方で政治のすみずみまで浸透している。(略)

州や地方レベルでも二大政党制がほぼ貫徹している。また、アメリカでは行政機関の高官や裁判官の大半が実質的に政党に所属している。他国ではしばしば党派性になじまないとされる政府機関にも政党が入り込んでいるのである。

 さらに今日の二大政党は、選挙への候補者選出や資金の管理の仕方など、もともとは党内で決めていた重要事項が法律で管理されている。

立法過程

 アメリ連邦議会の立法過程には、重要な特徴が二つある。

 第一は、どんな法案でも審議過程で徹底的に修正されることである。日本の国会では、内閣提出法案の約八割が実質的な修正を経ずに成立するといわれるが、連邦議会では委員会でも本会議でも、法案の質を向上させ、また採決時に必要な支持を得られるようにすべく修正が行われる。アメリカで、利益団体などが法案の内容や採否について議員などに働きかけるロビイングが盛んなのは、働きかけが立法に影響を及ぼしうるからである。

 第二の特徴は、議員たちが所属政党から自律的に行動することである。アメリカの議会では、日本の国会における党議拘束のような、党指導部による議員の投票行動の統制が難しい。すでに見たように、議員たちは当選までに政党組織の恩恵をほとんど受けないため、院内の政党指導部が法案などの賛否について働きかけてきても、それに従う必要がない。

 そのため、法案や各種の決議といった議案を通すには、その都度院内で多数派を形成することになる。採決に際して、同じ党の議員で賛否が割れるのはごく当たり前である。二大政党の分極化が進んだ今日でも、各政党の議員たちが一致団結して投票することはほとんどない。 

政党議会内政党の意義

 では、まとまって投票しないのなら議会内の政党組織には何の意味があるのだろうか。(略)

多数党の指導部は院内の審議手続きに大きな影響力を持ち、とくに下院の多数党のトップは下院議長となる。また多数党は、院内の全委員会の委員長職を独占する。委員長は委員会での審議で、どの法案を取り上げるかなど大きな権限を持つ。そのため(略)審議手続きをかなりの程度支配できる。(略)

党所属議員の多くが支持するであろう法案を取り上げ、それ以外の法案を廃案に追い込んで、立法が自党の有利に進むよう計らう。

(略)

党指導部がこうして一定の影響力を発揮できる。また近年では、重要法案を起草するようにもなっている。

実は権力の限られたアメリカ大統領

日本の首相など他国の政策執行責任者と比べると、アメリカの大統領の権力はかなり限定されている。それには、二つの理由がある。

 第一に、大統領は単独で政策を動かすのに使える具体的な権限をほとんど持たない。合衆国憲法は大統領を執行権の担い手に位置づけているが、この執行権が具体的に何を含むのかは明らかでない。大統領は、アメリカ軍の最高司令官であることもあって、外交上は大きな裁量を持つ。ところが内政については、立法への拒否権や、行政官や裁判官の指名・任命権といった重要だが限られた権限しかなく、法案も提出できない。アメリカ大統領の憲法上の権限は、多くの大統領制諸国の大統領よりも弱いといってよい。

 第二に、アメリカの大統領は統治にあたって所属政党の助けをほとんどあてにできない。

(略)

大統領制では大統領と議会が別々に選出される。(略)

大統領は所属政党の一有力者にすぎない。議会内政党を含む党内の諸組織に指示を出す権限はないし、党内の規律が弱いので、働きかけても政治家たちに影響が及びにくい。そのため大統領から見ると、統一政府でも同じ政党の議員が全員支持に回るわけではないし、逆に分割政府だから望む立法ができないとも限らない。

影響力行使のための三つの手段

 大統領は強力な権限を欠くものの、影響力行使のための手段を大きく三つ持つ。

 第一は、政策課題の設定である。(略)

演説などを通じ(略)重要な政治課題と政策案を提示し、自分の重視する政策を議会に優先的に検討させられる。

 第二は、議会への直接的働きかけである。(略)

その際、立法への拒否権は交渉の道具として大きな役割を果たす。議員たちは、法案を通しても大統領に拒否権を行使されて廃案になっては無意味なので、審議過程で一定程度大統領の意向を法案に反映させようとするためである。

 第三は、法執行の責任者としての役割である。(略)法解釈には必ず裁量の余地がある。大統領はそれを利用して、行政機関がなるべく大統領の望む形で法律を執行するよう、大統領令などの形式で指示を出す。時には、それを通じて実質的に新しい政策が作られることもある。

 その際、大統領の役に立つのが連邦政府の官職の人事権である。アメリカでは今日でも行政機関の高官、日本の官職でいえば局長級以上がキャリア官僚でなく政治任用者で占められる。大統領は、閣僚を始め三〇〇〇を超えるポストの人事を行うが、有能なだけでなく政策への見方を共有する人物を充てて、自らの意向に沿った政策を実現しようとする。

(略)

 同様のことは、司法にもいえる。(略)

大統領は、自分の政策方針がなるべく司法に支持されるように裁判官の人事を行う。

 法曹一元制をとるアメリカでは、裁判官は法律家としてのキャリアの途中で任官される。行政官の人事と同様、法律家としての能力、大統領との考えの近さ以前に、候補者の政党支持や所属が重要な前提となる。連邦レベルの裁判官は、任命した大統領の政党に属するとみなされる。

(略)

 このようにアメリカの政治過程では、官僚制や裁判所といった、日本などでは党派性が排除されている政府機関にまで政党が入り込んでいる。しかし、そこでの政党の働きは独特である。

(略)

アメリカ政治には、政府内にも政党内にも、日本の首相のように政治全体を見渡し、指示を出せば他の主体が従うような、権力核を構成する主体が存在しない。アメリカの政党は、まさにテントのように政治全体を緩やかに広く覆うだけなのである。

 では、なぜアメリカでは、このような政党が生み出されたのだろうか。

再建期 、堅固なる南部

南北戦争の戦後処理を「再建」といい、終戦から連邦軍が南部から撤収する一八七七年までを「再建期」と呼ぶ。

 共和党内では、南部連合の指導者や支持者に政治参加を認めないという点で一致を見ていた。そのうえで、解放民に最低限の権利保障がなされれば連邦に復帰させてよいと考える保守派や、逆に白人プランターが支配する南部の社会構造を解体してでも人種間の平等を実現しようとする急進派があったが、両者の間の立場をとる穏健派が最も多かった。

 党内の意見対立に加え、終戦直後に観劇中のリンカンが[暗殺され](略)再建の政治を複雑にする。大統領に昇格したジョンソンは南部の民主党出身の州権論者で、元奴隷主でもあり、共和党への忠誠心はなかった。(略)

共和党内の保守派よりもさらに寛大に、南部諸州が奴隷制の廃止さえ受け入れれば連邦復帰を進めていった。(略)

 共和党がこれに強く反発した一方、南部に寛大な民主党はジョンソンに喝采を送った。(略)

[ジョンソンの狙いは]南部の支配層や民主党、そして共和党の保守派を糾合して新たな全国政党を生み出すことにあった。しかし、同年の選挙に候補者を立てたものの惨敗に終わり、共和党の保守派の参加者が一部民主党に移動するにとどまった。

(略)

一八六七年には一連の再建法を成立させて南部諸州を再び軍事占領下に置き、再建のやり直しに踏み切る。

 議会共和党は再建法で、連邦と共和党を支持するであろう南部の黒人(男性)に選挙権を与え、連邦支持派の白人とともに政治に参加させた。それにより、南部が内戦の結果を実質的に受け入れ、共和党を支持するようになると期待したのである。

 ジョンソンがこれにも抵抗すると、議会共和党は一八六八年に彼を大統領として史上初の弾劾裁判にかけた。(略)

[下院では弾劾決議が採択]

共和党は、上院で大統領の罷免に必要な数の議席を持っていたが、権力分立のあり方を変える危険な先例になると恐れる共和党議員も多く、失敗に終わった。

 議会共和党の推進した急進的な「議会による再建」は、ある副作用を持っていた。(略)

南部で黒人に参政権が認められたため、北部の白人はそれが北部にも導入されるのではないかと恐れるようになったのである。

 その結果、共和党は一八六〇年代末にかけて連邦と州の両レベルの選挙で後退していく。

(略)

南部では、南北戦争と再建を進めた共和党への反発から民主党が多数派を占めるようになっていく。その過程で、黒人や共和党支持者の投票が妨害されるようになった。結局再建は、黒人を置き去りに、南北の白人が和解する形で幕を閉じることになる。

 一八七六年の大統領選挙は、大接戦となった。民主党のサミュエル・ティルデンが共和党ラザフォード・ヘイズを一般投票の得票でわずかに上回ったものの、四州で票の集計に疑義が出、その結果で勝者が決まる異例の事態となった。(略)

両党の間で、連邦軍の南部からの撤収と引き換えにヘイズ の当選を認めるという取引が成立する。

 この「一八七七年の妥協」を経て、以後一世紀にわたり民主党の一党支配の続く「堅固なる南部(ソリッド・サウス)」が現れることとなった。その結果、北部で圧倒的な多数派を占める共和党と南部を独占的に支配する民主党が、全国規模で拮抗していく。

戦後秩序の模索 

終戦奴隷制の廃止によって、共和党は結成時の目的を十二分に達成し目標を失い、他方で民主党は反逆の党の烙印を押され停滞していた。そのため、排外主義や奴隷制をめぐって一八五○年代にホイッグ党が消滅したように、政党制の再編が起きてもおかしくない状況だった。しかし、実際には民主・共和の二大政党は、第三党の挑戦も退けてその地位を維持し、両者による二大政党制が二一世紀まで続いている。

(略)

南部の再建が一段落した一八七〇年代から一九世紀末までは、奴隷制と内戦というそれまでの対立軸が意味を失っていくなか、各政党が新たなアイデンティティを模索していく時期であった。

 民主党は戦争に非協力的な「反逆の党」のイメージから、北部では少数派に転落していた。そのため共和党に対抗できるだけの勢力の再構築が課題となる。そのなかで戦後の一時期に共和党が支配した南部が、民主党による一党支配の地となっていく。

 アジアを含む西欧以外の地域から非WASPの移民が多く流入し、人々の関心も南北戦争から目の前の問題に移っていった。時間の経過は民主党の有利に働いたのだ。

 一方の共和党では、奴隷制廃止の実現後、党がそれに代わる新たな改革を追求すべきだとする改革重視の立場と、手段を選ばず党勢の維持に努めるべきだという立場の溝が深まっていく。後者は、南北戦争起爆剤に産業化の進む北部で強い共和党の政治家に、財界が手を差し伸べていったことも大きい。

 共和党は「自由な土地、自由な労働、自由な人」をスローガンに、南部の支配層に対抗する庶民の党として登場したが、これ以降財界寄りの党としての性格を強めていく。

南部での民主党支配 

 連邦軍の占領下にあった一八七〇年代初頭までは、多くの州で共和党が解放民と連邦支持派の支持を得て多数派を占め、連邦議会にも黒人の議員が選出された。ところが、連邦に復帰を認められて連邦政府の監視が弱まると、クー・クラックス・クランやライフル・クラブといった白人至上主義者団体などが共和党支持者の政治参加を妨害するようになる。一八七七年の連邦軍の撤収を前後して、共和党は南部から姿を消していき、民主党の一党支配が成立する。

(略)

 白人の支配層はさらに、黒人の諸権利を制約していく。といっても、人種による選挙権の差別は一八七〇年に成立した憲法第一五修正によって禁じられていた。そこで、祖父が自由人だったことや、人頭税の支払いなどを要件とすることで選挙権の行使を制限したのである。他にも識字テストを課して、読解力があっても不合格として投票させないといったことも行った。連邦議会では、共和党の主導で南部の選挙を連邦政府に監視させる立法も試みられたものの、南部選出の議員の抵抗で失敗に終わる。

(略)

 なお、南部のようなあからさまな法制化こそされなかったものの、人種隔離は北部でも行われた。

拮抗する二大政党間の競争

[大統領候補選出には全代議員の2/3が必要という規定は]

南部の意に沿わない候補決定を防ぐためであった。南北戦争後、一九世紀末まで民主党の大統領候補はすべて北部出身者だったものの、彼らは南部のお墨つきであった。

 民主党が南部を独占し、新しい移民の支持を多く集めたこともあり、一八七〇年代以降、二大政党は全国規模で拮抗していく。州の数が多い北部で優位を維持した共和党は、連邦議会上院でほぼ恒常的に多数派を占め、大統領選挙でも有利であった。対して南部を独占する民主党は、連邦議会下院で過半数を占める時期が長かった。

 移民の流入民主党の有利に働いたが、共和党は自党を支持する西部の地域を積極的に州に昇格させ、議会の議席や大統領選挙人を増やすことで対抗した。この結果、一九世紀末まで、民主党が大統領選挙に勝利したのは一八八四年と一八九二年の二度だけで、いずれも勝者はグローヴァー・クリーヴランドだった。

第三党の挑戦と挫折

新たな改革に乗り出さない共和党は歴史的役割を終えたとして、各地で新たな第三党を組織

(略)

酒類の製造と販売の禁止を目指す「禁酒党」、八時間労の導入など労働者の待遇改善を目指す「労働改革党」や「連合労働党」といった労働者政党、農産物の輸送コスト軽減のために鉄道運賃の規制を掲げた「反独占党」などの農民政党などが挙げられる。とくに農民政党は(略)一八七〇年代半ばの一時期中西部で州議会の多数派を握り、鉄道規制にも成功する。

 また農民政党を基に、南北戦争時に財務省が発行した不換紙幣(偽造防止のため裏面が特殊インクの緑一色で、「グリーンバック」と呼ばれた)の増刷を掲げる「グリーンバック党」が一八七四年に組織されている。当時農民の多くが借金に苦しんでいたため、通貨量を増やしてインフレを起こすことで負債を目減りさせるのがそのねらいであった。グリーンバック党は一八七〇年代末から八〇年代前半にかけて、連邦議会の上下両院で合わせて二桁の議席を獲得している。

 とはいえ、この時期の第三党は農民政党を除いて選挙にほとんど勝てなかった。大半の有権者は、すでに二大政党の一方に強い一体感を抱いていた。(略)

第三党は一時的に選挙に勝利しても、大統領選挙になると二大政党の前に存在がかすむのが常であった。

人民党の挑戦

 グリーンバック党の活動が停滞した後、二大政党の枠内で活動していた農民運動は、一八八〇年代末に農民の互助組織である「農民連合」を基盤に第三党運動を立ち上げる。(略)

政財界のエリートから権力を人々の手に取り戻すべく「人民党」と命名されたこの政党は、今日広く知られる「ポピュリズム」の語源の一つである。

 人民党は、農業を主産業とする西部や南部を中心に人気を集めた。その最大の主張は、銀貨の鋳造によるインフレの実現であった。かつてグリーンバック党は不換紙幣の増刷を掲げたが、まだ通貨が金や銀といった貴金属のカネ(正貨)に裏打ちされることが常識であったため、支持が広がらなかった。それに対して、人民党は銀を金と並ぶ正貨にし、金銀複本位制とすることで通貨の発行量を増やそうとしたのである。

 実は、アメリカでは一八七三年まで銀が金と並ぶ正貨であり、この主張はすでに国内で支持を広げつつあった。人民党は一八九二年の選挙で連邦議会下院に二桁の議員を送り込み、大統領選挙でも六州で選挙人を獲得する健闘を見せる。一方民主党は、一八九三年からの恐慌の責任を問われ守勢に立たされた。そして、これが政党制全体の再編につながっていく。

共和党の多数党化

 次の一八九六年大統領選挙では、南部で人民党と競合する民主党が人民党の主張を取り入れて銀貨鋳造への支持を打ち出した。さらに大統領候補には(略)金本位制を攻撃した西部のネブラスカ州のウィリアム・ジェニングス・ブライアンを据える。(略)民主党キリスト教に基づく社会的伝統の重要性や、農業を守るための関税引き下げも強調して、農民に徹底的にアピールした。

 自分たちの主張を民主党に乗っ取られる形となった人民党は、検討の末に大統領候補としてはブライアンを候補に指名する。ただし、副大統領には自党のトム・ワトソンを独自候補に立てて存在感を維持しようとした。

 対する共和党は(略)工業と金融を発展させてヨーロッパの列強と競争していくことの重要性を訴え、保護関税と国際標準である金本位制を堅持すべきだという従来からの主張を繰り返して、財界や都市住民の支持を求めた。

 結局、この年の選挙は共和党の圧勝に終わる。人民党は解体し、支持者の多くは民主党に移っていく。この選挙以降、共和党が東西両海岸と中西部の都市部を、民主党が南部および西部の内陸部の農村地域を押さえた。この時期までに西部の開拓が一段落し、都市部の人口が農村部を上回るようになっていたことが共和党の優位につながった。

 この新たな政党制を第四次政党制といい、財界と都市住民の支持を背景とした共和党の優位を特徴に、一九二〇年代まで続くことになる。

保守連合

 民主党内では、北部ではリベラルが圧倒的に優位となったが、南部はニューディール以降も連邦政府の役割の拡大に反対し続けた。連邦議会では、共和党と南部の民主党議員が手を組んでリベラルな内容の法案に修正を迫ったり、廃案に追い込んだりすることが目立つようになり、「保守連合」と呼ばれるようになる。

(略)

 このように民主党内では政策的に相容れない勢力が対立していた。だがその分、共和党に対して圧倒的な優位を誇った。(略)

[支持政党調査では]

一九六○年頃に約半数が民主党、約三割が共和党と答え、民主党への支持率が二〇世紀を通じて最高潮に達する。

(略)

共和党は大統領選挙ではまだ勝ち目があったものの、それは候補者が非常に魅力的か、民主党が弱みを抱えるときに限られた。

(略)

 一九五二年大統領選挙で、共和党第二次世界大戦の英雄であるドワイト・アイゼンハワーを擁立し、ほぼ四半世紀ぶりに勝利した。しかし、アイゼンハワーはリベラル路線から転換しようとせず、二期続いた政権で、老齢年金などの福祉国家的な政策についてむしろ拡充を図った。

(略)

ニューディールを期に民主党支持に転じていく前、北部の黒人は「リンカンの党」である共和党を支持していた。

共和党の保守へのめざめ

 民主党の混乱の一方、共和党でも新たな展開が起こる。それは前回の一九六四年大統領選挙に遡る。この年、共和党ではリベラルなネルソン・ロックフェラー・ニューヨーク州知事など複数の候補者がいたが、候補指名を得たのはきわめて保守的なバリー・ゴールドウォーター上院議員であった。ただし、ジョンソンを相手に勝ち目はないとされ、実際彼は大敗する。

 ところがゴールドウォーターは、地元である南西部のアリゾナ州以外に、国民的人気を誇るアイゼンハワーでも勝てなかった、南部でも最も保守的な深南部の五州――アラバマジョージアルイジアナミシシッピサウスカロライナを制する。この年成立した市民的権利法に反発した白人が、ゴールドウォーターの保守性に期待して支持したのは明らかだった。真偽は定かでないが、市民的権利法の成立時、それを主導したジョンソン自身が、民主党は長い間南部を手放すことになるだろう、と述べたとされるのはこの点示唆的である。

 ゴールドウォーターの選挙戦では、ある応援演説が注目を集めた。それは、この選挙がさまざまな限界を抱えるリベラルな諸政策と訣別するかどうかの「選択の時」だと訴えるものだった。この演説で政治家として知られるようになったロナルド・レーガンはもともとリベラルで、共和党支持に回ったばかりであったが、以後保守派の旗手となり一九八〇年に大統領に当選することとなる。

 一九六四年選挙を経て、共和党では南部を含む反リベラル勢力を糾合すれば万年少数党の地位を脱却できるという希望が生まれた。

(略)

[大統領候補に指名されたニクソンは]南部の保守的な白人を取り込む「南部戦略」を進めていく。

(略)

 とはいえ、ニクソン政権の政策方針は全体的には穏健であった。(略)

[アファーマティヴ・アクション]をジョンソン政権よりも進めるなど、リベラルな面も目立った。

反リベラル勢力の共和党への結集

 また、分極化は各党の支持者のイデオロギー化によって起きたのでもない。二〇世紀末まで、両党の支持者には目立ったイデオロギー的な違いが見られない。それにもかかわらず、なぜ二大政党が分極化したのかという問いは、長年政治学者を悩ませてきた。(略)

 分極化は、共和党側で先行した。共和党ニューディール以来、民主党に比べて政府の市場への関与に消極的であったが、党内ではリベラルも有力であった。共和党は、人種間関係など人々の生き方に関わる社会文化的争点では、民主党よりリベラルだったほどである。だが、一九六〇年代後半以降、民主党の主導したリベラルな政策に反発するさまざまな勢力が結集し、変化が始まる。

 これらの勢力は、共通に保守派を標榜して連携していったが、とくに重要なのが次の三つである。

 第一は、個人の政府からの自由と市場の自己調整能力を重視して、二〇世紀に拡大した規制政策や福祉国家的政策を有害と考えるオールド・ライト (旧右派)である。

 第二は、人種間関係や性的役割分業などについての伝統的規範が蔑ろにされ、社会秩序が乱れたと考える伝統主義者である。

 そして第三に、冷戦外交について強硬路線を主張する反共主義者が挙げられる。

 共和党の保守化の動きは、さまざまな保守的な社会運動や利益団体が、時に手を組んで共和党の政治家に政策的に働きかけ、有権者共和党に動員する形で進んだ。これらの組織の多くは、一九六〇年代の市民的権利運動などのリベラルな社会運動や利益団体の成功に反発しつつも触発され、それを真似て対抗組織化を進めて頭角を現した。

(略)

 保守派でもとくに規模の大きいのが、オールド・ライトと宗教右派(キリスト教右翼)である。前者のオールド・ライトは、かねてより共和党を中心に政府からの自由放任を主張してきた勢力を指す。その考え方は主に、個人の自律性や市場の見えざる手の働きを重視する、古典的自由主義に基づいていた。

 その主張は、政府による規制や増税を嫌う財界の利益にもかなうものであったから、オールド・ライトでは財界が大きな存在感を持ってきた。

(略)

二〇世紀半ばまで、銃規制の是非が政治対立を引き起こすことはほとんどなかった。しかし、ケネディ兄弟やキング牧師の暗殺をきっかけに一九六八年に銃規制法が制定され、世論の銃犯罪への不安も高まった。それに対して、さらなる規制を恐れる銃産業は、銃愛好家の会員制組織である全米ライフル協会などを通じて規制への反対活動を開始する。その際、武装の権利に関する憲法第二修正が一般人の銃の保有を保障するとして、政府からの自由を原理的に主張するようになった。 

 

作曲の科学 美しい音楽を生み出す「理論」と「法則」

語られるレベルがまちまちなので、そこらへんでアマレビューでは文句が出ている模様。

クラシック畑でマリンバにをやる人がどのようなことを考えているのかがわかる。

作曲の科学 美しい音楽を生み出す「理論」と「法則」 (ブルーバックス)

作曲の科学 美しい音楽を生み出す「理論」と「法則」 (ブルーバックス)

 

アフリカンリズムを学ぶ

 20代のはじめに、クラシック音楽の学業をいったん脇に置いて、アフリカンリズムを吸収するために1年間、ブルキナファソに修業に出かけました。(略)

 アフリカの人たちの音楽のあり方やとらえ方は、私の出身畑である西洋音楽とはまったく違います。村祭りや儀式などで楽器を弾く機会がたくさんありますが、彼らはそういうときに楽器を通して奏者に“自由に語らせる”スタイルを取ります。グループでの演奏中、必ずどこかでソロとして弾くタイミングが回ってくるのです。

 そのソロパートを聴いて、「彼には独りよがりな傾向があるな」とか「あの人は注意深く正確に、他人の音に耳を傾けているな」とか、「この人は権力志向が強いな」「度胸があるな」といった、個々の奏者の才能や深層心理、性質や演奏傾向を読み取ります。

(略)

 アフリカのローカルコミュニティでは、この手法でそれぞれに社会的な役割をもたせることで適材適所の人員配置を実践し、コミュニティが崩壊するのを防いでいます。音楽を演奏するという行為には、それだけ人の個性が反映されるということなのです。

(略)

アフリカ音楽のもつ本質を身をもって体験した私は、西洋音楽とは異なる音のとらえ方を体の奥深くに刻みつけて戻ってきました。そのような経験をベースに、曲を書くようになったのです。

 具体的には、西洋音楽の素養がある音楽家には複雑に聞こえるアフリカ系のリズムをベースにして、メロディを書き進めます。たとえば8分の5拍子などがそうですが、西洋音楽で一般的な「強拍と弱拍」の強制的な“しばり”から解放された次元でメロディを作ることが可能になります。強弱拍のしばりがはずれると、既存のリズムにあてはめることができずに、独特の浮遊感が生まれます。どこが始まりでどこが終わりなのか、境界線がわからなくなり、アフリカ音楽らしさを出すこともなく、鳥になったような自由な音空間ができあがります。

 「和声」と「和音」

 ちなみに、「和声」と「和音」はよく似た言葉ですが、同じものではありません。ちょっとややこしいですが、和声と言う大きな概念や学問領域の中に、和音と言う具体的な音の並びがある、と理解してください。つまり、和声は和音の上位概念です。

 メロディと和声の関係

 実際の演奏において、横軸=メロディと、縦軸=和声は、どのような関係にあるのでしょうか?

(略)

 9世紀末ごろには、主たるメロディに付加的な声を加えた複数の声部から成る音楽が登場しました。いわば、合唱の原形です。

(略)
 時代がさらに下って11~12 世紀ごろになると、楽器が出せる音程や演奏技術が向上し、複数のメロディラインをもつ音楽が登場してきます。

(略)

 ポリフォニーは、中世中期からルネサンス時代にかけて、特に盛んになりました。

(略)

 ポリフォニーの代表格として最も耳馴染みのある楽曲は、「グレゴリオ聖歌」を基にしたオルガヌムでしょう。

(略)

グレゴリオ聖歌を基にしたオルガヌムを構成するシンプルな二つの声部の、上下に開きのあるメロディを実際に聴いてみると、ところどころで「お? いい感じ」「響きがきれい!」と、耳が反応する箇所があると思います。和声=ハーモニーは、このような経験の積み重ねによって、少しずつ生まれていきました。

 ただし、ポリフォニーが生まれたばかりの中世期にはまだ、メロディを追いかける横軸の響きのほうが重要視されていました。音楽はまず、横軸から発達し、そこに縦軸の要素が加わることで進化してきたのです。

 そして、和声(ハーモニー)に先駆けて登場した縦軸=かけ算が、「対位法」です。

対位法

対位法(counterpoint)の語源は、ラテン語の「punctus contra punctum」で、現代語に訳すと「音符対音符」という意味になります。その言葉が示すように、対位法の美学は複数の声部(メロディ)を同時に聴かせるところにあり、和音を中心に構成した音楽作りである和声法と並んで、重要な作曲法の位置を占めています。

 17世紀以降に台頭してくる和声法は、対位法よりも歴史が新しく、連続する和音に沿って一つのメロディが書かれていくしくみです。一方の対位法は、複数のメロディが独立して存在し、それぞれに独自のポジションを確立しながらも、ときにはそれらを重ね合わせて複雑な音色やリズム構成を聴かせることに特徴があります。

 今でこそ、「主旋律としてのメロディ」と、「それを副次的に支える伴奏」の概念がそれぞれに確立しているため、この一つを聴き分けることはかんたんになっていますが、10世紀ころまでは伴奏どころかメロディを複数重ねるという概念さえ存在せず、声部は単独のメロディだけでした(=モノフォニー)。その一つのメロディが良ければ良い音楽とされるほど、単純な話だったのです。

(略)

ポリフォニーで複数のメロディを重ねるアイディアが登場すると、こんどは音どうしが変にぶつかり合って耳障りな音にならないようなルール作りを始めるわけですが、それが対位法なのです。

 そして、16世紀末にバロック音楽時代が到来して初めて、「伴奏」という概念が登場します。

 対位法で作られた曲には伴奏が存在しないため、メロディが等しく美しいのが特徴です。そして、いくつものメロディを重ねていくうちに、少しずつ「音の重なりの定番」ができあがっていきます。

 この「音の重なりの定番」が、やがて和音の“素”となり、和声法という新たな曲の構造が登場するきっかけを与えるのです。

(略)

かつてのモノフォニーの時代には、音楽にとってメロディを追いかける「横軸の響き」が、唯一の重要ポイントでした。そして、ポリフォニーが登場したばかりの時代においてもなお、メロディを追いかける横軸の響きが重視されていましたが、対位法が少しずつメジャーになるにつれて「縦軸の響き」、つまり、音符と音符の重なり具合に作曲家の注意が向かうようになっていきます。

 対位法の登場によって、縦軸の響きの新たな可能性を見出しはじめた音楽は、数々の対位法の定番を作り上げていきます。しかし、いったん対位法が隆盛を極めると、やがていつも同じ音の重なりばかりとなって発展性のない状態に立ちいたり(略)[飽きが生じ]「新しい縦軸の響き」の時代へ、すなわち、対位法から和声法へと移っていくように促したのです。

「ジャズの父」ドビュッシー

 そのような雰囲気のなかで19世紀には、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』や、ドビュッシーの「牧神の午後への協奏曲」などに代表されるように、「不協和音をわざと入れてやれ!」とばかりに和声学を無視した曲構成が展開ます。

 さらに、20世紀に登場したストラヴィンスキーの『春の祭典』やバルトークの「弦楽四重奏曲第4番」など、和声学を崩壊させた曲作りが世の中に発表されていき、いわゆる現代音楽の時代の幕開けとなるのです。

 特にドビュッシーは、「ジャズの父」とよばれるほどに、音楽に新たな和声の切り口を提案しました。そして、そのドビュッシーの影響を強く受けたモダンジャズを代表するピアニスト、ビル・エヴァンスが「和音の転回」という手法を駆使しはじめたことで、モダンジャズはいよいよ盛んになっていくのです(略)。

 ジャズの世界で不協和音が積極的に使われるようになる前夜、じつはクラシックの作曲家たちによる革新が先行しておこなわれていたという事実には興味深いものがあります。

和声学の影響を受けた伝統音楽からポップスやロック

 それでは、21世紀の現在、私たちが日々、耳にしているポップスやロックミュージックは、いったいどんな理論に基づ作曲されているのでしょうか?

 意外に思われるかもしれませんが、かつてクラシックの巨匠たちが「もう飽きた!」と一蹴した、あのラモーによって18世紀に確立された和声学に基づいているのです。

(略)

 一周回って元通りのような、ちょっとふしぎな現象が、なぜ生じているのでしょうか?

 じつは、文化的な背景がきちんとあります。18世紀に確立された和声学は、当時のクラシック音楽のみならず、さまざまな民族音楽にも影響を与えました。(略)

 やがて、ヨーロッパ各地の伝統民族音楽(略)が、和声学の影響を受けて変化していきました。その過程では、民族音楽において使用されていた民族楽器が、18世紀以降に誕生した新しい楽器に置き換えられていく、ということも起こりました。

(略)

 現代のロックミュージックやポップスは、良くも悪くも和声学の影響を多大に受けた伝統音楽から派生した枝葉の先に位置づけられます。

 「音符がすべて」ではない

 かつて私がジャズの作曲を教わっていた先生の一人に「楽譜に書かれている音符がすべて」という考え方の人がいました。「音符こそが最上級」なのだから、たとえ演奏する楽器の種類が入れ替わってもなんら問題はない、というのです。

 私は、この考えにまったく反対です。

 たとえば、「ドミソ」の長和音を例にとって説明してみましょう。この長和音を、ピアノやマリンバなどの単体の楽器や、あるいはクラリネット3本のように一つの種類の楽器でそれぞれ演奏する場合と、ドの音はファゴット、ミはオーボエ、ソはフルートのように、一音ずつ担当を与えて演奏する場合とでは、まったく別の音色を与えることができます。

(略)

 極端にいえば、各楽器の位置が変わるだけでも全体の音色が変化してしまいます。楽器の選択や配置もまた、音楽における重要な「かけ算」の一つなのです。

(略)

 実際に、ある2つの特定の楽器のために書いたデュオ曲を違う楽器に入れ替えて演奏してみたら、すごくつまらないおかしな曲になった経験があります。有名なピアノ曲を別の楽器用に編曲して演奏したら間が抜けて聞こえたなどと言うケースも、珍しくありません。

 「減4度」の音程

「減4度」の音程もあるのかな?

(略)

 結論をいえば、もちろんあります。たとえば、ドとミが減4度の音程です。

「あれっ!?」と驚いた人は、かなり音程に馴染んできていますね。そうです、ドとミは、先に登場した「長3度」の開きと同じです。

 減4度と長3度が同じ……、いったい、どういうことでしようか?

 ここが、音楽理論の(屁)理屈っぽいところなのですが、「減4度」という言葉を聞いたとき、作曲家の頭の中では「ドとファb」に変換しているのです。ファbなんていう音は、実際の鍵盤上には存在しません。平均律のピアノでその場所にあるのは、普通のミです。でも、理論上は、これがファbなのです。ややこしいですね。