- 制限節は同一化したがる
- 〈天にまします我らの父よ〉は制限節か、非制限節か?
- ぶらさがり分詞
- betwenn you and me と「友&愛」
- 『イパネマの娘』not at he
- I は me のフォーマル版?――屈折変化
- ケネディはストリッパー――シリアル・カンマ
- プレゼントにわたしを買った――ディケンズのカンマ
制限節は同一化したがる
The year that just ended was bad for crops と This year, which has been dry, was bad for crops の違いはわかるだろうか?文が This year と始まれば、著者がどの年のことを話しているのかはすでに特定されている。まったくの曖昧さなしに、This year was bad for crops と書くことができる。一方、The year was bad for crops と書くと、どの年の話なのか文脈で判断しなければならない。that just ended 〈終わったばかりの〉を加えれば、年を特定できる。
(略)
「制限的」という言葉はちょっと考えてからでないと使えない。(略)
カンマで節は制限され、封鎖され、隔離されているのだろう、とつい思ってしまう。しかし、まったく正反対なのである。制限節は、修飾する名詞の一部になりきっているので、みずからの領土を主張するためのいかなる句読記号も必要としない。カンマの本来の目的は分離することであり、制限節は修飾する相手から隔てられるのをきらう。制限節は「相手と一緒にいたい、必要とされたい、完全に同一化したい」と思っている。「制限的」にどんなものが入るのかさえ理解すれば(She was a graduate of a school that had very high standards〈彼女は入るのがとても難しい学校の卒業生だった〉)、ほかはぜんぶ「非制限的」に入る(He graduated from another school, which would admit anyone with a pulse〈彼は別の学校の卒業生で、そこは心臓が動いていれば誰でも入れる〉)。
ひとは緊張すると、that でいいときに which を使う。政治家はよく that の代わりに which を使って立派な雰囲気を出そうとする。作家も that の代わりに which を使うかもしれない――騒ぐほどのことではない。which の代わりに that を使うほうがずっと変だ。言うまでもなく、イギリス人は which をたくさん使っていて、それを変だと思っていない。アメリカ人は一致して、節が制限的なときには that を使い、節が非制限的でカンマに区切られているときには which を使う。それで万事うまくいっている。
〈天にまします我らの父よ〉は制限節か、非制限節か?
誰もが知っていて、かつ制限的にも非制限的にもなりうる節の格好の例は、「主の祈り」である。Our Father, who art in Heaven〈天にまします我らの父よ〉。who art in Heaven は制限節か、非制限節か? いったい神はどこにいるのか? who の前のカンマがほのめかすように、これは非制限的だろう。つまり、who art in Heaven というフレーズには Father を特定する働きはなく、彼の居場所をただ教えている。 by the way 〈ところで〉を入れてもよさそうだ。Our Father, who, by the way, resides in Heaven〈我らの父よ、ところで、彼は天に住んでいるんだけど〉
(略)
もとの文脈では、キリストがこの祈りの言葉を弟子たちに教えている。カンマがなければ、祈り手にもうひとり父がいることが暗示される(ヨセフ?)。ということは、キリストの意図としては、who art in Heaven のフレーズはおそらく制限節で、地上の父と対照することで天の父を特定しようとしたのだろう。
(略)
英訳は聖公会祈祷書 (1662年)以来、Our Father, which art in Heaven としている。非制限用法だ。イギリス聖公会のみなさん、which を選んでくれてありがとう、あとで who に変更なさったのはさておき。ここでの神は創造者で、比喩的な父であり、一神教の伝統では唯一のものなのだ。しかし、現代聖公会訳では、1988年から、シンプルな Our Father in heaven になっており、制限用法である。地にいるほうの父ではなく、天にいるほうの父、ということだ。1928年からカトリックと聖公会の両方で使われている現代英語版はカンマがない。Our Father who art in heaven。ちょっと変だと言わざるをえない。この制限用法(カンマなし)はかなり馴れ馴れしくて、天なる父にわざと冷たい態度をとったりしそうだ。非制限用法(カンマあり)は、彼がわたしたちみんなの父だと認めたうえで、居場所を付け足している。
わたしは信心深くない。でも、これってかなり神秘的じゃないだろうか?
ぶらさがり分詞
ぶらさがった分詞句を直すには、センテンスの主語を変えて分詞に合わせる方法と、分詞を動詞化して分詞の句を節にする方法がある。
わたしの好きなぶらさがり分詞の例は、車の重量計測所にある標識だ。Trucks Enter When Flashing.〈トラック進入、点灯中。〉分詞句はふつう主語にかかることになっている。だから、Trucks Enter When Flashing は明らかに「トラックが入るのは、ライトが点灯しているときでなければならない」という意味だが、文法的にいえば光っているのはトラックということになる。分詞が正しく使われている例を釣り上げようとしていると、釣り針につけられた小魚が、獲物が近づいてきたときに言いそうなセリフが思いついた。Looking up, I noticed I was bait.〈見あげると、自分が餌だとわかった。〉ほうら。分詞句の Looking up は主語の I にかかっている。
多くのひとは、ぶらさがり分詞なんてどうでもいいと思っているし、優れた書き手でさえしくじることがある。その優れた書き手が頑固だったら、わざとだと言い張ってぶらさがり構文にしがみつくかもしれない。自分の書きたいことはわかっているし、このセンテンスでちゃんと意味が伝わっている、と。その書き手がぶらさがっているロープでは、となりの枝には飛びうつれない。
(略)
かつて Over tea in the greenhouse, her mood turned dark.〈温室のお茶越しに、彼女の気持ちは暗くなっていった。〉という文に反対したことがある。編集者はぶっきらぼうに言った。「このままじゃだめ?」わたしは、her mood〈彼女の気持ち〉がお茶の上空を飛びまわるわけではないと言い張った(略)。それで文はこう変わった。As we drank tea in the greenhouse, her mood turned dark.
(略)
いい書き手になればなるほど、ぶらさがり分詞はややこしくなる。素晴らしい書き手である小説家のエドワード・セント・オービンに、こんなセンテンスがある。
Walking down the long, easily washed corridors of his grand-mother's nursing home, the squeak of the nurse's rubber soles made his family's silence seem more hysterical than it was.
〈彼の祖母の介護施設の水洗いしやすい長い廊下を歩いている、看護師のゴムの靴底のキュッキュッと鳴る音が、家族の沈黙を実際よりもヒステリカルに思わせた。〉
(略)
「水洗いしやすい長い廊下を歩いている」のは squeak〈キュッキュッという音〉ではないし(略)、ましてや the nurse's rubber soles〈看護師のゴムの靴底〉でもなく(恐ろしく病院っぽい)、所有格に埋めこまれた nurse〈看護師〉だ。
(略)
指摘されていたら著者は書き直してしまったかもしれないし、変だとは思わないと答えていたかもしれない。というわけで、第3の選択肢が見つかる。何もしない、だ。ときには、ぶらさがり句と折り合いをつけるほうが、調整するより簡単なことがある。この例ではおそらく、ぶらさがり句がもたらす落ち着かない不安定さによって、介護施設の不気味な廊下を歩く感覚が表現されている。
わりと最近、稀代の作家ジョージ・ソーンダーズの短編で、ぶらさがり句に取り組むことになった。ソーンダーズは小説家で、語り手は教養がなさそうなしゃべり方なことが多い。
(略)
While picking kids up at school, bumper fell off Park Avenue. 〈子どもたちを迎えに行ってて、バンパーがパーク・アベニューから落っこちた。〉厳密に言えば、ソーンダーズの文ではバンパーが子どもを迎えに行っていることになる。(「パーク・アベニュー」は昔のビュイックの車種。)しかし修正すれば声が台無しになる――この語り手の日記は走り書きふうで、主語はしばしば抜けている(Stood looing up at house, sad〈立って家を見て悲しかった〉)。このバンパーの文を直すいちばん簡単なやり方は、出だしのフレーズに主語を与え、適切な節にすることだ――While I was picking the kids up at school〈わたしが子どもたちを迎えに行っているときに〉しかし、これではこの文の個性が失われる。
betwenn you and me と「友&愛」
ここだけの話 betwenn you and me 、わたしが最悪な気分になり、英語という言語の土台が揺らぐのは、靴のセールスマンが信頼を得ようと身を乗り出し、こう言うときだ。「ここだけの話ですが betwenn you and I ……。」あるいは、
(略)
アカデミー主演女優賞の受賞者が、友達にこう感謝するとき。「サリーとわたしを出会わせてくれました getting Sally and I together 。(略)
たぶん、me は家みたいな気楽な場所なら許されるけれど、フォーマルな場にはふさわしくないのでは、と考えるのだろう。
うるさ型たちはこの用法について何世紀も文句を垂れつづけてきたのだけれども、ここではドワイト・マクドナルドまでさかのぼるだけにしておこう。彼は『ウェブスター第3版』について書いた1961年のエッセイで、between you and I を、世にはびこる、おなじみの破格だと言った
(略)
まず、これらのドジの背後にある心の動きを褒めたたえよう(略)
セールスマンも(略)映画スターも、みんな謙遜するために、別のひとを先に言っているのだから。それから優しく指摘しよう。(略)
自分を先に言っていれば、間違いに気づけたはずだ、と。(略)
自分を先に出して言えば、 me が正しいと耳でわかり、 I でなく me を使うだろう。
(略)
リュセットという友人は、わたしがすごく尊敬しているラブリーで自信に満ちた文学的な姉妹の片方なのだが、これまでずっと自分たち姉妹のことを Kate and I と恭しく言ってきた。(略)
わたしは皮膚と内臓のあいだにある裏地か何かがぎゅっと縮み上がる。(略)
[一度指摘した]
彼女は世界レベルの大学の英文科長だし、恥をかいてほしくなかった――彼女は答えた。「会話でしょ!」
『イパネマの娘』not at he
『イパネマの娘』という歌を考えてみよう。(略)
アストラッド・ジルベルトが歌った有名な英語版では、ある代名詞がいつもわたしの気を散らせてしまう。美しい娘が毎日、海の方向に歩いて通るのを、ひとりの男が見ている。彼は彼女を好いているが、「彼女はまっすぐ前を見ている――彼ではなく not at he 」。アウチ!どこで間違ったのだろうか?(略)
たくさんのひとたちが腹を立てたりせず、この曲を楽しんできた。言語学者に尋ねると、「冗談なのでは?」と言われた。それで調べてみると、この部分に腹を立てたひとはほかにもいた。それは英語版の作者のノーマン・ギンベルで、彼自身は not at me と書いたのだった。歌手だったのである、me を he に変えたのは。たぶん、自分の性(女性)に歌詞を合わせようとしたためで(男性が歌うように書かれていたのだ)、そして彼女は英語を完全には習得していなかった。まあ、いずれにせよ、イパネマの娘の魅力は何があってもなくならないことには誰もがうなずくだろうけれど。Those are they や not at he に笑っていられるひともいるのかもしれないが、わたしは気になる(略)
代名詞をちゃんと使えないと大統領になれませんよと子供を脅すことも、もはやできない。というのも、ここ数十年のアメリカでもっとも弁が立つ大統領のバラク・オバマでさえ、a very personal decision for Michelle and I とか graciously invited Michelle and I と言っているのだ。
I は me のフォーマル版?――屈折変化
他動詞 transitive verb と呼ばれるものがある。(略)
英単語のなかにラテン語に由来するものがたくさんあるので、trans-は「向こう側へ」「通り抜けて」という意味だろうと推理できる。たとえば発送する transmit の語源は「向こうへ送る」だし、透明な translucent は「光を通す」からきている。
(略)
この種類の動詞は、ある動作を主語となる名詞からもう1つの名詞へ運んでいく。受け取る側の名詞は、主語とイコールではなく、目的語と呼ばれる。The mechanic inspects the car. 〈修理工が車を調べる。〉 The car fails inspection.〈その車は検査に落ちた。〉
(略)
他動詞が指し示す先にはほかの何かがあり、その何かが他動詞を補完する。修理工が調べる目的物は何か?車だ。では車は何に落ちた?――検査だ。
(略)
これらの名詞は動詞の直接目的語で、目的語として機能するときの名詞の格を「目的格」という。ラテン語文法でこれにあたるのは「対格」 accusative case だ。この accusative は、I accused the mechanic of overcharging me 〈わたしは高値をふっかけてきた修理工を訴えた〉というときに使う accuse〈~を訴える〉と同じ単語だ。
(略)
なぜこんな話をしたかというと、英語以外の言語、たとえばドイツ語、ギリシャ語、ラテン語には対格があり、これらの言語のなかには (ギリシャ語、ドイツ語、ラテン語、アイルランド語が有名だが)、主語か目的語かによって、名詞の形が変わる言語がある。文法学者はこうした変化した形を屈折形と呼ぶ。
(略)
英語はこのやっかいごとをほぼまぬがれている。いにしえより伝わりし代名詞だけがさまざまに屈折して、アングロ・サクソン族とわたしたちのつながりを残している。
(略)
ところで、目的語もとらず連結もしない動詞もある。自動詞はうしろに戻って主語に影響を及ぼす。他動詞が主語の活動を目的語へ向ける一方、自動詞は純粋に主語それ自体だけの活動を表現する。
(略)
連結動詞は自動詞(目的語をとらない動詞)のうち、特別に高性能なカテゴリに属している。『吸血鬼の英文法』で、カレン・エリザベス・ゴードンは連結動詞のリストを挙げている。be動詞のほかに、「感覚動詞 (look, sound, taste, smell)、それから、appear, seem, become, grow, prove, remainといった動詞。」これらの動詞は、ふつうの自動詞とは違って連結力を持っているから、taste good というときに、副詞の well ではなく形容詞の good を使うのだ。動詞が意味を名詞に投げ返し、名詞は副詞ではなく形容詞に修飾される。「気分が悪い」ときに、I felt badly ではなく I felt bad というのは、to feel badly だと「やみくもに手探りする」という意味になるからだ。felt という動詞は――ゴードンのリストにはないが、感覚動詞の1つに違いない――みずからを修飾する副詞をしたがえるのではなく、形容詞の bad を主語にくっつけるのだ。
(略)
I は me をフォーマルにしたものではない。me はどことなく親密な感じがする――おそらく、この打ち解けた雰囲気こそ、ひとが公の場で話すときに避けようとするものだ。I, he, she, we, they は、それぞれの目的格よりも硬く響く。me, him, her, us, them はより柔らかく、従順で、どこにでもすっと収まりそうだ。
(略)
who と whom の区別である。われわれの多くがこれに苦しめられているが、なかには気に病む価値などないと思っているひともいる。スティーヴン・ピンカーは書いている。「who と whom の区別は消えつつある。アメリカだと、whom は、慎重な書き手と気取った話し手しか使わない。」これに反論するひとはいないだろう。
ケネディはストリッパー――シリアル・カンマ
カンマを発明したのは、アルド・マヌッツィオという、1490年ごろにベネツィアで働いていた印刷業者である。物事を分割することで混乱を防ぐのがねらいだった。
(略)
ざっくり分けると、2つの流派がある。1つめの流派は耳で聞いたとおり、休止するところに音楽のフレージングのようカンマを打ち、音読するときにカンマで息継ぎの場所がわかるようにする。もう1つの流派はセンテンスの意味を明確にするためにカンマを打ち、センテンスを裏から支える構造に光をあてる。いずれの流派も、相手が図に乗っていると考えている。
(略)
シリアル・カンマとは、3つ以上のものを連続して挙げるときに and の前に打つカンマのことだ。シリアル・カンマを打つと、My favorite cereals are Cheerios, Raisin Bran, and Shredded Wheat. 〈わたしの好きなシリアル食品はチェリオス、レーズン・ブラン、そしてシュレッディッド・ウィートだ。〉シリアル・カンマなしだと、 I used to like Kix, Trix and Wheat Chex. 〈わたしはかつてキックス、トリックスそしてウィート・チェックスが好きだった。〉
(略)
わたしはなまけ者なので、項目の列挙に出くわすたびに立ち止まって、最後の項目の前の and の前にカンマがあるほうが曖昧さが減るかいちいち考えるより、シリアル・カンマをつねに使うほうが楽だ。
(略)
We invited the strippers, JFK and Starlin. 〈われわれはストリッパーたち、J・F・ケネディとスターリンを招待した。〉
[脚註:シリアル・カンマがないせいで、「ストリッパーたちとケネディとスターリンを招待した」とも「ストリッパーたち、すなわちケネディとスターリンを招待した」とも読める。以下に続く例も同様](略)
This book is dedicated to my parents, Ayn Rand and God. 〈この本はわたしの両親、アイン・ランドと神に捧げる。〉
プレゼントにわたしを買った――ディケンズのカンマ
チャールズ・ディケンズは耳で句読記号を打った作家の典型である。
(略)
ディケンズは特に主部と述部のあいだにカンマを入れるのが好きだったが、これは現代の句読法2流派ともが間違いだと意見を同じくする稀有な例である。
(略)
次はディケンズが1856年に書いた手紙の一節だ。She brought me for a present, the most hideous Ostrich's Egg ever laid. 〈彼女はわたしにプレゼントとして、史上最悪に醜いダチョウの卵を買ってくれた。〉カンマのせいで、途中まで読んだ段階では代名詞が直接目的語だと誤読させられる――She brought me for a present〈彼女はプレゼントとしてわたしを買った〉――けれどそのあとに、ほんとうの直接目的語にいたる。the most hideous Ostrich's Egg ever laid. 〈史上最悪に醜いダチョウの卵〉だ。
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