ピーター・バラカンのわが青春のサウンドトラック

「レディ・ステディ・ゴー!」 

63年の夏に放送が始まった「レディ・ステディ・ゴー!」は、僕たちの世代にとっては決して忘れることのできない番組でした。(略)

複数の歌手、あるいはバンドをゲストに迎えて進行する点は既存の音楽番組と変わらなかったものの、(略)「サンク・ユア・ラキー・スターズ」「ジューク・ボックス・ジューリー」といった番組と違っていたのは、明らかに僕たちの世代に向けて作られた番組であり、実際、絶大な支持を得たという点です。若者文化が猛烈なスピードで変化を続けていたあの時代、音楽はもちろんのこと、新しいダンスや流行のファッションの紹介など、十代の若者が求める最新の情報が詰め込まれたこの番組は、僕たちにとって“見ないわけにはいかない番組”でした。月曜日になると学校ではきまって番組の話題が出たものです。64年1月には「トップ・オヴ・ザ・ポップス」も始まりますが、あの番組はあくまでもヒット曲にこだわったものです。この点、ヒット・チャートに縛られることのない「レディ・ステディ・ゴー!」には、ビートルズを筆頭とする人気グループだけでなく、噂すら聞いたことのない新人や、コンサート・ツアーでイギリスを訪れた海外のミュージシャンなども登場しました。

モッズの極致、ザ・フー

ユニオン・ジャックのジャケットや幾何学模様のシャツといった最先端のファッションを身に着け、シャープなサウンドを奏でるザ・フーの面々は、そのモッズの極致ともいうべき存在だったわけで、気にならないはずはありません。さらにいえば、ザ・フーには視覚的にも音楽的にも、ほかのどんなバンドより“危ない”イメージがありました。キース・ムーンがドラムズを蹴倒す場面を(おそらくは「レディ・ステディ・ゴー!」で)初めて見たときも、恐怖感にも似たショックを受けました。

 思春期に特有の説明できない。感情を巧みに表現した歌詞といい、洗練された服装といい、あの番組の雰囲気にぴったりくるバンドはザ・フーのほかにいなかったわけですから当然といえばそれまでですが、デビュー曲「アイ・キャント・エクスプレイン」からプロモーション・フィルムでの登場となった66年の「ハピー・ジャック」まで、彼らのシングルはほぼ例外なく「レディ・ステディ・ゴー!」で放送され、僕はその大半を気に入り、発売から間もなく買った記憶があります。「アイ・キャント・エクスプレイン」のイントロにはキンクスの「ユー・リアリー・ゴット・ミー」に匹敵するスリルを感じましたし、ベース・ソロも特徴的なあの「マイ・ジェネレイション」には、自分に代わって日頃の鬱憤を晴らしてもらったような痛快な気分を味わったものです。

(略)

[大好きなバンドだが]

実をいえば、ザ・フーに関してもキンクス同様アルバムは一枚も買ったことがありません。唯一馴染みがあるのは友人の家でたびたび聴いた『セル・アウト』で、このアルバムに関しては曲間のジングルを歌えるほどでした。 

チャック・ベリー 

 カントリー・ミュージックに通じる雰囲気もあるチャックのロックンロールには、モータウンの一連のレコードがそうであるように、ブラック・ミュージックに馴染みのない白人の若者にもすんなり受け入れられる音楽的な魅力があり、またアメリカの若者の心境を上手に表現した歌詞にも、その音楽に劣らない魅力がありました。

 意外に思われるかもしれませんが、当時のイギリスで見ることができるアメリカのテレビ番組といえば西部劇くらいで、現代劇はめったに紹介されませんでした(例外は日本でも放送された「奥さまは魔女」で、イギリスでも大変な人気番組でした)。この点は映画にしても同様で、結果、僕たちには同時代のアメリカの文化や風俗にまつわる知識を得る機会がほとんどなかったのです。それだけに、放課後にカフェに立ち寄り、ジュークボックスにコインを入れてダンスを楽しむといった高校生の日常が歌われる「スクール・デイ」の歌詞などはとても新鮮で、どこか異国情緒のようなものを感じたのです。

 チャックはときに早口でまくし立てるように歌うので、中には歌詞が聞き取れない曲もありました。(略)

「ブラウン・アイド・ハンサム・マン」のように、歌詞はわかっても内容が理解できない曲もありました。この曲にはブラウン・アイド・ハンサム・マンを奪い合って両手を失ったミロのヴィーナスや、打球をスタンドに叩き込みホームに向かって走る主人公が描かれていますが、そもそも当時の僕はまだミロのヴィーナスを知りませんでしたし、(イギリス人が一般にそうであるように)野球にも疎かったのです。 

『ポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド』

[66年15歳の著者]

背伸びしたい年頃です。(略)

特に憧れたのはアマチュア・バンドを組んでいた2級上の先輩たちでした。

(略)

いずれもブルーズを演奏しており(略)放課後になると彼らは小さなアンプや楽器を教室に持ち込みリハーサルを行なっていました。そして、それを見に行くのが僕の楽しみのひとつになっていたのです。僕が本格的にブルーズにのめりこむようになったきっかけは、その先輩たちが教えてくれたポール・バターフィールド・ブルーズ・バンドの「ポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド」でした。

(略)

1曲目の「ボーン・イン・シカゴ」に圧倒され、それで決まりでした。未知の世界に踏み込んでしまったようなスリルを感じたといえばいいのでしょうか。バターフィールドのハープもマイク・ブルームフィールドのどこか危険な匂いのするギターも、ドライヴ感のあるリズムも、とにかくカッコよかった!また、それまで聴いていたポップやロックのレコードにはない緊迫感のあるヴォーカルも、“大人の歌”という感じで実に魅力的でした。その日からしばらくのあいだはこのレコードばかり聴いていたように思います。ライナー・ノーツも何度も読み返しましたし、薬草屋の前に並んだ不良っぽい佇まいのメンバー写真も繰り返し眺めたものでした。

(略)

ストーンズとの出会いは時代的に当たり前だったと思いますが、このレコードがなければ僕の人生がどうなっていたかと考えると、運命的なものさえ感じます。それまで耳にしていたイギリスの“R&B”とはあまりにも力量が違って、愕然としました。それぞれのミュージシャンの巧さもそうですが、バンドとしてのものすごいパワーにも、のけぞるような衝撃を受けました。もし学校の同窓会などでこのアルバムのことを教えてくれたあの先輩たちに会うことがあったら、映画『ウェインズ・ワールド』で主人公がアリス・クーパに会うあのシーンのように、きっと土下座してしまうでしょう。

BBCライヴ

あのころのBBCが、放送用に特別に録音した“ライヴ・ヴァージョン”を、現在以上に頻繁にオン・エアしていたことはよく知られる通りです。ビートルズのような人気バンドの、レコードとは異なる演奏が日常的に流れるというのはとても贅沢なことに思えるかもしれませんが、これは何も聴取者への特別なサーヴィスとして行なわれていたわけではなく、“ニードル・タイム・リストリクション”という規制の結果に過ぎませんでした。“ニードル”はレコード針のこと。“ニードル・タイム・リストリクション”とは、平たく言えばレコードをかけることのできる時間的な制約ということになるでしょう。当時、イギリスではミュージシャンの組合が強い力を持っており、彼らの仕事を奪う“レコード” の出番が厳しく制限されていたのです。

 それでもヒット曲を無視するわけにはいかないBBCは、当初、組合に所属するミュージシャンで構成された専属のオーケストラに流行歌のインストルメンタル・ヴァージョンを演奏させていましたが、僕たちのような若者がそんなもので満足するはずもありません。そこでビートルズのような自作自演のグループの場合には、オーケストラに替えてバンド・メンバー自身に演奏してもらおうということになったわけです。

(略)

 もっとも僕を含め、当時のリスナーの多くは“ニードル・タイム・リストリクション”というものが存在することさえ意識していませんでしたし、レコードとちがう演奏だからといってことさら喜ぶことも不満を感じることもありませんでした。当のミュージシャンたちも――たとえばビートルズの『ライヴ・アット・ザ・BBC』のように後にこれらの音源が掘り起こされ、アルバム化されることになるとは思っていなかったはずです。

 イーグルスニール・ヤング

 皮肉なことに、CSN&Yの4人のうち初めて生で観ることができたのは(略)

苦手だったニール・ヤングでした。(略)

たしか73年だったと思います。しかし、僕は今も昔も興味のないコンサートを観に行くようなことはしません。お目当ては前座として出演することになっていたイーグルズでした。

(略)

 ニール・ヤングとイーグルズの競演というと今ではちょっと考えられない贅沢な組み合わせですが、当時は両者の人気の差は歴然としていました。もちろん、音楽好きの仲間うちではイーグルズはデビュー当時からそれなりに評判になっていましたし、実際、僕がこのバンドに興味を持ったきっかけも、口コミか音楽雑誌の記事か、そのどちらかでした。とはいえ、その人気が一般的なものになるのは『呪われた夜』以降のこと。73年といえば、ようやく2枚目のアルバム『ならず者』が発表された年ですから、まだまだ知る人ぞ知る存在です。(略)

僕のようにイーグルズ“だけ”を目当てにレインボウに足を運んだ人はめずらしかったにちがいありません。

 肝心のステージですが、予想していた通りの展開で、僕は大満足でした。

(略)

休憩を挟んでニール・ヤングのステージが始まったわけですが、あの声にはどうしても抵抗を覚えるもので、結局は途中で席を立ってしまいました。(略)当時も今も、僕はコンサートの途中で帰るなんていうことはめったにしません。ニール・ヤングというアーティストがそのくらい苦手だった!要するにそういうことです。

 ロッド・スチュワート

70年の秋に発表になった『ガソリン・アリー』には、イギリスにこんな歌をうたえるやつがいたのかと本当にゾクゾクするような感動を覚えました。

(略)

翌1971年の『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』と、そこからシングル・カットされた「マギー・メイ」の大ヒットで、ロッドは一気に世界的な人気歌手になるわけですが、たしかに「マギー・メイ」にはそれだけの魅力がありました。歌詞が明瞭に聴き取れる点は「マギー・メイ」の特徴のひとつです。そしてポイントはその歌詞で、「俺は駄目な男」といった自嘲的な内容は、いかにもロッドらしく、またイギリス人の の琴線に触れるのです。実際、カヴァー曲でも自作曲でも、あのころロッドが歌っていた曲は、どれも歌詞が秀抜でした。

 『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』は僕もすぐに買いました。カヴァー曲やミュージシャンの選択の妙、マンドリンフィドルといったアクースティックな楽器をうまく取り入れた新鮮なアンサンブル、ロッド自身の魅力的な歌唱……。『エヴリ・ピクチャー……』と『ガソリン・アリー』はどこをとっても甲乙つけがたいすばらしさでした。

 僕にティム・ハーディンというシンガー・ソングライターの存在を教えてくれたのは、『エヴリ・ピクチャー……』で取り上げられていた「リーズン・トゥ・ビリーヴ」でしたし、ボブ・ディランの「トゥモロウ・イズ・ア・ロング・タイム」もこのLPで初めて聴きました。

(略)

僕が繰り返し聴いたのは『ネヴァー・ア・ダル・モーメント』くらいまで。それまでのロッドのレコードには、歌に対する真摯な態度が感じられたのですが、『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』が売れすぎてしまったせいでしょうか、『ネヴァー・ア・ダル・モーメント』あたりを境にそうした姿勢が希薄になったように感じました。

(略)

ロッド・ステュワートのコンサートを初めて観たのも、皮肉なことに、やはり日本に来てからのことでしたが、ブランデーをラッパ飲みしながらサッカー・ボールをステージから蹴飛ばすという能天気なパフォーマンスには、正直なところ辟易しました。つまるところ僕にとってのロッド・ステュワートは『ガソリン・アリー』と『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』、それと『アン・オールド・レインコート・ウォント・エヴァー・レット・ユー・ダウン』。そういうことになるのでしょう。

(略)

FACES

『A NOD IS AS GOOD AS A WINK...TO A BLIND HORSE』

日本人にはこのアルバムタイトルはチンプンカンブンでしょう。かつてのイギリスでは(今はどうかな)わりとよく使ったイディオムで、相手がはっきりと言わずに伝えようとする内容を、うまく汲み取れたときに使う表現です。「へへへ、わかったよ…」という感じかな。つまり、頷きの合図も、めくばせするのも同じようなものだ……盲馬にはな!最後のオチはいかにもイギリス的な味です。このアルバムが出るちょっと前に、この表現を使って流行語にしたモンティ・パイスンのコント(エリック・アイドルの傑作)があったので、覚えている方がいるかもしれません。

チャーリー・ギャレット

 僕の大好きなDJ、チャーリー・ギャレットがホストを務めた番組「ホンキ・トンク」が始まったのも大学時代のことでした。

(略)

とても一般向けとはいえないこの番組がそれでもかなり長く続いたのは、ひとつにはロンドン・ローカルだったからでしょう。僕がチャーリーのファンになったのは、一般的なDJより柔らかい独特な語り口を聴いてからでした。また彼の著作『サウンド・オヴ・ザ・シティ』も、そのちょっと前に読んでいたかもしれません。

 彼はイギリス人ですが、イギリスの大学を出たあとアメリカに渡り、コロンビア大学修士号を取得(略)その際の修士論文を本にしたのが『サウンド・オヴ・ザ・シティ』で、これは「ホンキ・トンク」の放送開始より2年前に出版されました。残念なことに日本では出版されていませんが、これはブラック・ミュージックがロックンロールの時代に果たした役割の大きさを非常に真面目に検証した、きわめて中身の濃い本です。出版当時、チャーリ・ギレットの存在を知らしめるきっかけになりましたし、僕もまた大いに感銘を受けました。

(略)

当時、あんなに渋い音楽をかける人はほかに見当たりませんでしたし、彼の選ぶ曲の100パーセント……とは言わないまでも95パーセントくらいは僕好みでした。

 それほど頻繁にというわけではなかったものの、「ホンキ・トンク」にはゲストも出演し、ときにはスタジオで演奏を披露することもありました。(略)

特に印象的だったのはドクター・ジョンです。ちょうど彼があの『ガンボウ』を発表した72年のことでした。(略)

[『ガンボウ』の]最大の功績は、黄金時代のニュー・オーリンズのリズム&ブルーズの魅力を、僕を含むたくさんの音楽ファンに教えてくれたことでしょう。チャーリーは、もちろんそのあたりをよく心得ていました。ドクター・ジョンをゲストに招いたその日、彼はスタジオにピアノを1台用意していました。そして軽いやり取りを交わしたあと、ニュー・オーリンズを代表するピアニストたちのスタイルを、実演を交えて紹介してほしいとリクエストしたのです。ピアノの前に腰を下ろしたドクター・ジョンは「これはプロフェサ・ロングヘア、これがジェイムズ・ブカ」といった具合に注釈を加えながら、見事な演奏を披露しました。これが最高に面白かった!

 それから何年も経って、僕が「ポッパーズMTV」をやっていたころ、ドクター・ジョンがスタジオに来てくれました。たしか初来日のときだったと思います。「ホンキ・トンク」で聴いたあのパフォーマンスが忘れられなかった僕は、同じことをテレビでやってもらわない手はないと考えました。「昔、ロンドンのラジオ番組でこんなことをしましたよね。それをまたやってもらいたいんだけど」(略)

彼もおそらく覚えていたのでしょう。僕の頼みを聞き入れ、期待通りの演奏を聴かせてくれました。

(略)

60年代後半あたりから、たとえばジョン・ピールのように飾らない調子で語りかけるDJが活躍し始めてはいましたが、チャーリー・ギレットの場合、本当に普通の人という感じで、そこがこの上なく新鮮だったのです。友だちの家でその人の好きなレコードを聴かせてもらっているような感じといえばいいでしょうか。こんな番組ができるならDJという仕事をしたいな――。「ホンキ・トンク」はそんな気分にさせる番組でした。