ザ・バンド 軌跡 その4 崩壊の兆し

前回の続き。

ザ・バンド 軌跡

ザ・バンド 軌跡

 

 グループ名

[アルバムが発売され]バンド名がクラッカーズでないのを見て、ぼくたちはおどろいた。

 ザ・バンド。(略)

それは、ウッドストックの人たちがぼくたちを呼ぶときの名だった。(略)

[キャピトルが]勝手に名前を変えたのだ!(略)

ザ・バンドという名は、わざとらしくて尊大で威張っている感じがするが(略)ぼくたちがつけた名前じゃない。ぼくはクラッカーズを主張した。  

ザ・バンド

ザ・バンド

 

セカンド・アルバム

セカンド・アルバムをつくるためカリフォルニアに行った。(略)

もう一度ジョン・サイモンを雇い、ハリウッド・ヒルズにあるサミー・デイヴィス・ジュニアの家を数カ月間借りきった(略)別棟になった大きなプール・ハウスがあり、それをスタジオに改造した。

(略)

 〈ザ・ナイト・ゼイ・ドローヴ・オールド・ディキシー・ダウン〉は、ぼくとロビーがウッドストックでつくった曲だ。当時の歴史と地理を調べて歌詞を書き、ロバート・E・リー将軍を敬意をもってよみがえらせるために、ロビーを図書館につれていったのをおぼえている。これもまた、完成までに「研究会」のようにして長い時間をかけた曲だった。この曲で初めて、ザ・バンドの特徴となった二分割のビートを使い、その後たくさんの曲で使うようになった。フル・タイムのリズムを刻むのではなく、それをふたつに割れば、ちがう形で歌詞をのせることができ、強拍の移動がスムースになり、踊りやすくなる。リチャードのあとについていっしょに歌うことで、その歌いかたをおぼえるのは比較的やさしかった。

(略)

ちなみにあのハーモニカ音は、ほんとうはガースがローリー・オルガンのアコーディオン・ストップの音にメロディカをオーヴァーダブしたものだ。ガースは曲の最後でトランペットも吹いている。
(略)

〈アンフェイスフル・サーヴァント〉ではリック・ダンコが歌っている。〈キング・ハーヴェスト〉は前の年の秋、ウッドストックにいるときにつくった曲で、ぼくたちのすべてを要約するものであり、完成までに長い時間をかけた。歌詞のなかには、ある夜ともに経験した思い出話をしていて生まれたものもある。それは五人の人間が共有するひとつの感情の表現だった。ぼくたちが人生について考えることのすべてを一曲で表わすことのできる歌。ぼくたちは、そういう歌をつくろうとした。この曲はカリフォルニアでいちばん最後に録音された。この録音のとき、ぼくたちは〈キング・ハーヴェスト〉の不思議な魔力に導かれていた。これこそがザ・バンドなのだという感じがした。
 《ザ・バンド》は複雑なアルバムだ。ぼくたちは、このアルバムを二回聞いてみなければわからないアルバムにしたいと思った。〈ロッキン・チェア〉などの何曲かは、どこかの農場の裏のポーチでだれかがアコーディオンマンドリンをひいているように聞こえる。

ウッドストック

 ところで、ザ・バンドウッドストックの映画には出ていないし、ウッドストックのアルバムにも参加していない。これは、映画の出演料を半分に値切られ、当然アルバートがノーといったからだ。ぼくたちの演奏のときもカメラはまわっていたが、演奏の邪魔をしないでくれと要請したので、明るさが足りないままでの撮影だった。
もちろん録音もおこなわれた。あとでアトランティック・レコーズの人が、ぼくたちの演奏テープはほかのだれのものよりもいいと教えてくれた。レコード会社は、本気でそれを発売したがっていた。しかし、ぼくたちはわるい演奏ではないが、それでも歌が得意でないロビーのマイクの音量がしぼられていなかったというミスがあり、基準には達していないと感じていた。

(略)
イージー・ライダー』のサウンドトラックの話は前に断っていたが、〈ザ・ウェイト〉が深刻な場面の緩衝材として使われていたせいで、新時代の開拓者というぼくたちのイメージがさらに強くなった(アルバートは、その曲を『イージー・ライダー』のサウンドトラック・アルバムに入れる許可さえ出さなかった)。

成功とドラッグ

 ザ・バンドが『タイム』一九七〇年一月十二日号の表紙になったとき、ぼくはもう三十に近かった。

(略)

 表紙を見て、ぼくたちは仰天した。爆発するような派手な色彩、ぼくたちを表わすひげを生やした五人の山男の絵。見出しは「カントリー・ロックのニュー・サウンド」。「長年のあいだ、一日十時間もの練習を重ねながら、彼らは南部とカナダの小さな街をまわり、一晩かぎりの演奏をつづけた。そのあと絶頂期のボブ・ディランの背後で目立たないバックを務め……ザ・バンドはいま、あのビートルズにひけをとらないすばらしい魅力とたしかな音楽的技術を持つグループとして脚光を浴びた」

(略)

 リック・ダンコはつぎのようにいっている。「最初にもらった印税の小切手。あれだけでぼくたちの何人かは死にかけた。〈ジス・ウィール・オン・ファイヤ〉はヒット曲にならなかったが、何人かがレコーディングしたから、突然ぼくのところに数十万ドルが転がりこんだ。

(略)

ぼくたちのように一夜で百万ドルを手にしたことがある者でなければ、どういう感じかわからないと思う。そんなふうに金が入ったことで大勢の人がだめになっていくのを、死にかけるのを見てきたよ!(略)

まわりの人がおべっかを使ってすりよってくる。つまりほしいだけの薬をくれるってことだ。みんながただでぼくたちをハイな気分にさせたがり、ぼくたちのほうでもそういうふうに扱われて、いい気分になることもあった。大げさにいってるんじゃない。ほんとうにそういうことが起こったんだ。(略)いまでもおなじことが起こっていると思う。成功が人を破滅させるのを見るのは、つらいことだ。悲しいけれど、ぼくたちのバンドにもそれが起こった」

 ウッドストックのいたるところに、ニューヨークのいたるところに、ヘロインがあった。どこにでもあった。ミュージシャンであれば、避けてはとおれなかった。「きみのために持ってきた」そういって大勢の人がぼくのところにやってきた。

(略)

このあとすこしして、ぼくもヘロインにのめりこみ、その状態が数年間つづいた。一度のめりこんでしまうと、コントロールをとりもどすのはむずかしい。しかし、最終的にはやめることに成功した。 

 分断。印税で亀裂

 ロビー・ロバートスンが《ステージ・フライト》の時期を「暗闇」と称したことがある。ロビーはそのことばで、薬物依存とバンド解体の状況を表現した。(略)ザ・バンドの作品の権利の問題、そして今後のグループの進路の問題、それが[ドラッグより]大きな問題だった。
 《ザ・バンド》のアルバムが発売されたとき、ぼくたちはソングライターのクレジットを見ておどろいた。(略)

 一枚目の《ビッグ・ピンク》のときは、それほどではなかった。ちょっと疑問に思うクレジットもないではなかったが、ぼくは長いあいだ抜けたあともどってきたばかりだった。だから意見をひかえた。

(略)

 ジョン・サイモンはつぎのようにいっている。「当時は、それがふつうだった。グループであれば、そのなかのひとりが曲をつくったということになり、そのひとりの名がクレジットされた。そのほうがものごとが簡単に運んだ」
 しかし、ぼくの考えでは、リチャード・マニュエルはザ・バンドのシンガー兼ソングライターとして重要な役割を果たしていたし、リックも数曲をつくっていた。それに、みんなでカリフォルニアとニューヨークであれだけの努力をしたあとなのだ。二枚目のアルバムのクレジットは、リチャード、リック、そしてぼくやガースを入れた分散したものになると思った。統括的な役割を果たした真の天才、ガースについては、とくにそう思った。(略)
ぼくは〈ジマイマ・サレンダー〉の共作者としてクレジットされていた。でも、それだけだ。リチャードは三曲で共作者になっていた。リックとガースはまったく名がなかった。ロビー・ロバートスンが十二曲すべての作者になっていた。
 だれかがグループの和を乱そうとしていた。分断して征服せよ。昔から使い古されたやりかただ。
 このあと、グループの共同作業のレベルは低下し、音楽づくりも停滞した。

(略)

[バンドの共同作業でできたもので]ロビーひとりのものではなかったことを確認させた。ロビーとアルバートが残りの者に相談をせずに重要なビジネス決定をしていること、ふたりのところに金が集まりすぎていること、それについても文句をいった。音楽著作権が正当に分配されていない、だから訂正をするべきだ。

(略)

 ロビーは、噂はほんとうだから心配することはないというようなことしかいわなかった。その噂とは、アルバートがベアズヴィルに芸術性を重視するスタジオをつくろうとしているというものだった。ロビーが、それを説明した。アルバートは、そのスタジオをぼくたちと共同経営しようと考えている。曲の印税の不公平は、そちらの計算とあわせて調整される。スタジオができれば、ぼくたちの場所ができて、つねにバンドとしての活動をすることができる。どこかの会社の不毛なスタジオで夜をすごさなくてもよくなる。ぼくはそれにひかれた。時間の制限なしに使えるスタジオ。

(略)

 しかし、そんなふうにうまくは運ばなかった。 

(略)

 一九七一年夏には、アルバートの新しいスタジオ、ベアズヴィル・スタジオでつぎのアルバム《カフーツ》を録音した。(略)

[ザ・バンドと共同経営で]さまざまな音楽的試みを統括する場所になるはずだった。(略)[だが]ぼくたちがその夢にあずかることはなかった。 

カフーツ+5

カフーツ+5

 
スケッチ・オブ・スペイン+3

スケッチ・オブ・スペイン+3

 

 

マイルスが前座

「その夏のハリウッド・ボウルのコンサートは(一九七〇年七月十日)、前座がマイルス・デイヴィスだった。チケットは売り切れていたので、前座候補のリストのなかから好きなのを選んでいいといわれた。ぼくたちはマイルスを選んだ。《スケッチ・オヴ・スペイン》が大好きだったからだ、わかるだろう?

(略)

マイルスの演奏が聞こえたので、ぼくは客席に行って聞いてみた。二万人の客は、マイルスの音楽にふるえあがっていた。彼のエレクトリック・バンドが放つ激しい炎、そのすさまじい攻撃にすくみあがっているみたいだった。マイルスは例の眼をおおいかくす大きなサングラスをかけ、客に背を向けて演奏し、会場全体を恫喝していた。

(略)

ぼくたちは、そのマイルスのあとに出ていかなくてはならなかった。そしてそれまでしたことがないぐらいひどい演奏をした

(略)

アルバートはこのふたりをロニー・ホーキンスのところからひきぬき、ジャニス・ジョプリンのバックにつけた。たいへんだった。ロニーがとうとうぼくたち一行をつかまえ、アルバートにくってかかった。「ちくしょう!おれからザ・バンドをとりあげただけじゃ足りないんだ、人でなしめ!(略)ひとりでバーをまわれっていうのか?今度はリッキーとジョンだ。こっちがいいバンドをつくるたびに、メンバーを盗むつもりか?」実際に殴りあうことはなかったが、ロニーとアルバートのあいだは険悪だった。

ワトキンズ・グレン

ニューヨーク州ワトキンズ・グレンの自動車レース場で開かれるフェスティヴァルに出演が決まり、高額の臨時収入にありつけることになったからだ。共演者は、オールマン・ブラザーズ・バンドグレイトフル・デッドだった。

(略)

  グレートフル・デッドは昼に演奏をし、ぼくたちは午後六時にステージに上がった。暑いー日のあと、ちょうど涼しくなりはじめた気持ちのよい夏の夕方だった。(略)

三十分ぐらいして調子が出てきたとき、リックが「来たぞ!」とさけんでフレットレス・ベースのストラップをはずした。雨粒がシンバルをたたき、ロビーとリックがショックをうけないよう楽器から手をはなして袖にかけこんだ。(略)

平らな岩に牛が小便をするときのような激しい雨が降りだした。最悪の事態を覚悟した。ワトキンズ・グレンもウッドストックとおなじ泥風呂に変わろうとしていたからだ。ぼくたちは待ちつづけ、ガースは同郷の友人にウィスキーを何杯かつきあっていた。そのときふいにローディたちが大きな声で何かいってあわただしくうごきはじめた。ガースがオルガン席に上がってひとりで演奏をはじめていた。それは、賛美歌の手法、シェープ・ノート、ゴスペル、J・S・バッハ、アート・テイタム、スリム・ゲイラードを混ぜたハドスン流の名曲だった。すばらしかった。大群衆も大喜びし、そして……雨がひっこんだ。(略)ダウジングの巨匠のガースが雨を止めたとしか思えなかった。ぼくたちはステージにもどってガースに歩調をあわせ、〈チェスト・フィーヴァー〉に突入した。ドラムの音を聞いたとき、五十万人が踊りはじめた。すごい光景だった!ぼくがすこしだけテンポを変えたときには、百万のひざがぐらつくのが見えた。ワトキンズ・グレン――それはいまでもぼくの記憶に強く焼きつけられている。 

ムーンドッグ・マチネー+6

ムーンドッグ・マチネー+6

 

 

《ムーンドッグ・マチネー》

  「ナイトクラブでやってた演奏を再現するのはどうだろう?」

 だれがいいだしたのかは忘れたが、つぎのレコード《ムーンドッグ・マチネー》のアイデアはそんなようにして決まった。

(略)

 《ムーンドッグ・マチネー》というタイトルは、アラン・フリードのロックンロール・ラジオ番組への賛辞だったが、同時にすべてがもっとシンプルだった十年前、トロントで十代の女の子たちのためにやっていた熱気に満ちた昼間のショーを指すものでもあった。

投資

《ロック・オヴ・エイジズ》の成功による著作権や印税の金、ボブとのツアーやそのレコードからの金など、そのころ大きな収入があった。(略)

[著者は反対したが、マネージメント・チームは税金逃れの隠れみのになる石油・ガス探査事業に出資し、結局、大失敗。著者が購入を提案した土地にはのちに銀行が建った](略)

 あのことを考えると、いまでも腹が立つ。

ラスト・ワルツ

  オリジナル・メンバー最後のツアー(略)を三分の二ほど消化したときだった。ロビーのところに息子が生まれた。そしてロビーは、家からはなれ飛行機に乗ってツアーをつづけるのがいやになった。たしかに、このツアーでは何度か飛行機がひどく揺れたことがあった。デイトン・ストラットンの悲劇的な[墜落]事故を知っているぼくたちは、ちょっと揺れただけで大きな不安を感じるようになっていた。

(略)

九月、演奏に脂がのってきたちょうどそのとき、テキサス州オースティンの近くでリチャードが船の事故にあって、首に怪我をした。しかたなく十回のコンサートが中止になった。ロビーが迷信深いことをいいはじめたのは、このときだ。

(略)

ぼくとロビーはあまり話をしないようになっていたが、ロビーがおかしなこだわりを主張しだして、溝はますます深まった。(略)
 ロビーはいった。「なんか予感のようなものを感じる。つまり、こういうことだよ。何かが起こる、何かが……まちがっているという気がする。ぼくにはわからないよ、リー。一生ツアーをしていなくてはいけないのか?そのうちおたがいにたえられくなって、サム&デイヴみたいに楽屋でナイフをふりまわして喧嘩をはじめるのか?(略)

でなきゃ、インク・スポットやミルズ・ブラザーズみたいになるのか?ある日コンサートをやろうとしたら、客がいうんだ。『うんざりだ。おまえら年寄りをもう百万回も見た。さっさと家へ帰ったらどうなんだ?』ってね」
 「深刻に考えすぎてる」ぼくはいった。
 「不吉なものを感じる」ロビーはおなじことをくりかえした。「もうぼくたちのつきは終わったんじゃないかって」

(略)

もうたくさんだと感じたロビーはマネージメント・チームといっしょになって、ザ・バンドをつぶして終わりにすることにした。最初それを聞いたとき、ぼくは冗談だと思った。しかし(略)ロビーたちはすでに具体的な計画をたてていた。感謝祭のころに、ザ・バンドが初めて演奏をした土地、サンフランシスコで「さよなら」コンサートをやる。そのコンサートには、これまでぼくたちがいっしょに演奏をした人たちが――ロニー・ホーキンズからボブ・ディランまで――出演する。

(略)

 ただひとつ問題なのは、ぼくはそんなものをやりたくないということだった。ザ・バンドを解体したくはなかった。

(略)

 ぼくはいった。「残りのぼくたちがザ・バンドとしてツアーをつづけたいといったら?」
 ロビーはすこし考えたあと、暗い顔でいった。「ぼくたちの力でそれを止めさせる」ロビーが「ぼくたち」といったのは、すでに大きな商売の話が進んでいるという意味だった。ロビーとマネージメント・チームがワーナー・ブラザーズに新しいレコード契約の話を持ちこんでいることは知っていた。

(略)

 これはぼくを怒らせた。「止めさせるだって。大きな会社が絡んでいるのはわかっている。だが、人の人生を勝手に決める気なら、ぼくの人生をいいようにする気なら、こっちも弁護士をつれてくる。(略)

おまえひとりでザ・バンドをやってるつもりかもしれないが、明日の十時、そうじゃないことを証明してやる。思いしらせてやる、おまえたちはすごく汚ないよ!」
 「リヴォン、やめてくれよ……」
 「そっちこそやめろよ。ほんとうは何が理由でグループをつぶしたいのか知らないが、迷信深いことをいって自分の命が惜しいからって、ぼくたちの音楽をとりあげて引退させるなんて最低だ。弁護士と会計士の全部を味方につけているのは知ってるが(略)これはまちがっている」

(略)

[自分の弁護士に電話してみると]
ぼくの負けだといった。そして手短かにいった。「戦っても何も得られない。だからわたしの忠告はこうだ。契約どおりに何でもやれ、たとえそれが吐きそうなことでも、飲みくだして、げろを吐いて、さっさと逃げだすんだ。そのあと悪口をいえばいい。好きなだけやつらにいってやれ」
 だから、ぼくはそのとおりにした。 

次回に続く。

ザ・バンド 軌跡 その3 リヴォン復帰、ビッグ・ピンク

前回の続き。

ザ・バンド 軌跡

ザ・バンド 軌跡

 

離脱

 ぼくはしだいに、こういう暮らしはばかげていると思うようになった。ボブの十三人乗りのロードスターで移動をし、急いでリムジンに乗り、また急いでリムジンを降り、そして野次られる。

(略)

どちらにしても、ぼくはだれかのバック・バンドでいるのがいやになった」

 リチャードはぼくを見ていった。「ぬける気か?」

「どうしてわかる?」

「わかるよ(略)この音楽では、ドラマーがあまり活躍できない」

 ぼくは自分たちのレコードをつくりたいという気持ちを捨てきれなかった。(略)

[ぼくはロビーに]やめるつもりだと話した。(略)

「これからもみんなでおなじ夢と方針を持ちつづけていけるか、確信がない」
 「それはわかる」ロビーはいった。「だが音楽についてはどうだ?いまやっていることのなかには、すばらしいものがある。爆発しそうだって思うこともある」

(略)
こうして一時的にボブに雇われ、ボブが自分の音だと感じるスタイルの音楽をつくっている。ほかのメンバーたちは、それが同時に自分の音だと感じているのに、ぼくはまだ確信できない――だから、ここで一線をひきたい。ぼくにとっては、音楽とは、いいコードとしっかりしたリズムがあればいいんだ。いまやっているものは重たすぎる」
 「リヴォン」ロビーは熱心にいった。「それを自分たちのものにするんだよ。これをやりとおして、そこから何かを得るんだ」
 「ぼくはつきあえない。ぼくの夢は、だれかの雇われドラマーになることじゃない。これからのコンサートはぼくなしでやってもらうことする。みんなによろしくといってくれ。それから、もとのバンドでやろうという話になったら会おうと伝えてくれ」
 ロビーはぼくにどこに行くのかと訊いた。まだ決めていないが、アーカンソー州スプリングデイルのJ・Dの家で連絡がつくようにしておく。ぼくはそういった。
 それで終わった。

(略)

 ビル・エイヴィスはつぎのように思いだしている。「そういうことだった。リヴォンはロビーだけに話をした。朝、眼を覚ますと、リヴォンがいなくなっていた。リックが『リヴォンはどこだ?』というと、リチャード・マニュエルが『きょうで終わりにしたのさ』といった。

(略)

 「わたしの考えでは、リヴォンがぬけたのはアルバートグロスマンのせいだ。リヴォンはとても礼儀正しい人間だったが、アルバートは傍若無人だった。それにリヴォンはホークスを自分のバンドだというように考えていて、自分がリーダーでなくなったのが不愉快だったのかもしれない」
 そのときには当然、ホークスのメンバーといっしょにやることは二度とないだろうと思っていた。(略)

 しかし、心の深いところで、これは一時的なことだという気持ちもあった。

(略)

 ぼくはまずメキシコヘ行き、金がなくなるまでビーチで暮らした。(略)

[それからフロリダへ行き]浮浪者のように暮らしていた。そして新聞を見て、フロリダからニューオリンズまで車を連べば、ただで行けるという広告をみつけた。それで「行こう」ということになった。
 だからホークスがオーストラリアやヨーロッパで敵と戦っているあいだ、ぼくはずっと友好的な街、ニューオリンズにいた。(略)

カービーとぼくは何回か素人コンテストに出て賞金を稼いだ。大勢の酔っぱらい、流れ者、ミュージシャン、ギャンブラー、売人、そして南部マフィア。ジャック・ケネディを殺したのは、やつらのひとりかもしれなかった。(略)ぶらぶらしているうちに、ほんとうに一文なしになって、働かなくてはならなくなった。

 (略)

ぼくたちは、メキシコ湾の石油掘削現場のすぐそばに浮かんだ[パイプ敷設]作業船の上にいた。(略)

 夜はカードをしたり、ラジオを聞いたりした。ボブ・ディランが「みんな、ストーンするべきだ」と歌う〈レイニー・デイ・ウーマン〉が大ヒットしていた。だれがドラムをたたいているのか、みんなはどうしているのか。そう考えながら、その曲を聞くのはおかしな気分だった。

ビッグピンク

 バイク事故のあと、ボブは(略)イギリスで撮影したフィルムの編集をはじめた。アルバートグロスマンはホークスのメンバーたちに、拘束料をもらっているのだから、もうじきアルバムのレコーディングをはじめようとしているボブのそばにひっこしてきたらどうかと提案した。(略)

[リック・ダンコ談]

 「ビッグ・ピンクはぼくたちのクラブハウスだった。リチャードが料理をし、ガースが皿洗いをし(汚いのをきらって、ぼくたちに洗わせてくれなかった)、ぼくはごみをごみ捨て場に運び、暖炉の火を絶やさないように薪割りをした。そうやってウッドストックの暮らしがはじまった。ボブが週ぎめの給料を払ってくれていたので、生まれて初めてほんとうの意味でからだと心を休ませる時間を持った。六年間、ほとんど休みなくツアーをつづけたあと、初めて食べるためにどこかの小屋に出て演奏をしなくてもよくなったんだ。

(略)

 「ビッグ・ピンクの生活に慣れたころ、地下室をかたづけ、ガースが何本かマイクを立て、それを2トラックのテープ・レコーダーにつなぎ、そこがスタジオになった。一九六七年三月から十二月までの十ヵ月間、ぼくたちは一週間に六日、一日に二、三時間ずつ、全員でその地下室に通った。ほんとうにそんなふうに勤勉にやったんだ。そこで曲をたくさんつくった。すばらしい経験だった!」

 ほかのメンバーが録音をしているあいだ、リックはありあまる活力を駆使して、自分たちのバンドだけでレコードをつくる時期が到来したとアルバートグロスマンに働きかけた。サリー・グロスマンがホークスの音楽を気にいり、味方になってくれたことが、効を秦した。一九六七年の終わり近く、ボブ・ディランがしばらくツアーを再開するつもりがないことをアルバートに表明したとき、アルバートは本気でホークスのレコード契約先を探すことにした。(略)

ワーナー・ブラザーズが興味を示した。(略)しかし、モー・オースティンが街を留守にしたか何かのときに、キャピトル・レコーズが話に飛びつき、アルバートは了承した。リックが、メンフィスのメアリー・キャヴェットの家にいるぼくに電話してきたのは、このときだった。そのときもまだ、ぼくはテレビを見つづけるだけで何もせずにいた。(略)
[リック談]

「リヴォンに電話をかけ、キャピトルと契約したと話した。『二、三十万くれるという話だ、リー。こっちに来て、おまえも分け前をとれよ!』ってね」(略)

「そしたらリヴォンは『うさんくさい話に聞こえるな。気にいらないけど、とにかくつぎの飛行機でそっちに行くよ。うまく話がつけられるかもしれない』といった」(略)

「こんなふうにして、リヴォンはぼくたちのところにもどってきた」  

Ain't No More Cane

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復帰

ぼくがいないあいだはリチャードがドラマーをやっていたことを聞かされた。実際にたたかせてみたら、リチャードがすごくいいドラムをたたいたという話だった。ゆったりとドラムをたたき、すこしビートから遅れるが、それがとてもよいのだと(略)。
 リチャードの才能はよくわかっていたから、意外だとは思わなかった。しかし彼がとてもうまくなっていたのには、おどろかされた。何の訓練もうけていないのに、むずかしい左手の動きをマスターし、ピアノの楽節に似た、とても価値あるフレーズをたたきだした。ほかのだれにも真似のできないものだった。リチャードがマスターしたものを聞いたあとは、「この曲ではリチャードのほうがいいドラムをたたく。この曲では交替しないほうがいい」と判断せざるを得なかった。そういうわけで、バンドにはドラマーがふたりいることになった。

(略)

 ボブ、リチャード、リックが共作した何曲かがすでに録音されていた。(略)ぼくはみんながつくりだしているものの質の高さにおどろいた。

(略)

 このころからヴォーカルの研究もはじめた。ぼくたちはずっと前からソウル・ミュージックを好んでいたが、その理由のひとつはステイプル・シンガーズやインプレッションズといったグループのコーラスにあった。ひとつひとつの声がタイミングをずらせて入ってきて、重なりあい、最後にひとつに溶けあって魔法のようなすばらしい効果をあげる、あのコーラスだ。そこで、地下室で〈エイント・ノー・モア・ケイン〉を録音したとき、おなじ方法を試してみた。ぼくは子供のころ、親父に教えられてからずっと、この曲を聞いて育った。(略)

地下室の録音では、ぼくが一番を歌った。それからリチャードが二番を歌い、ロビーが三番を歌い、リックが最後を歌った。コーラス部分では、全員がハーモニーをつけて歌い、ガースが各所にアコーディオンをかぶせた。リチャードがドラムをたたいたので、ぼくはマンドリンをひいた。〈エイント・ノー・モア・ケイン〉の録音が、ひとつの突破口となった。声を重ねあい、楽器を持ちかえることによって、自分たちのサウンドがみつかった。

(略)

(あのとき何曲が録音されたのか、正確な数字を知っているのはガースだけだ。リックは最高の作品はいまだに発表されていないと考えている)

バンド名

 リックはいった。「すごく気取ったばかばかしい名前にしよう」
 「チョコレート・サブウェイはどうだ?」リチャードがいった。「マシュマロ・オーバーコートってのもある」
 みんなが笑った。ぼくはいった。「これがいいよ。ホンキーズ(黒人が白人を呼ぶ蔑称)。ありのままのぼくたちがわかる!」ぼくは昔から、挑発が好きな性格だ。
 最終的に、ぼくは、クラッカーズにしたらどうかと提案した。クラッカーズとは、南部の貧しい白人たちを指すことばで、ぼくが考えるかぎり、ぼくたちがやっているのはそういう人たちの音楽だった。ぼくはその名を主張し、いまもそれを後悔していない。いずれにしてもキャピトルとの契約は、その名でおこなわれた。

(略)

[キャピトルとの契約は簡単にいえば]アルバムを十枚つくる契約であり、ぼくたちはそれをうけいれた。そうするしかなかった。(略)
 ぼくたちの主張で、ボブ・ディランのバンドであることの権利が確保された。(略)ボブ・ディランの共演者として演奏し録音する権利を保留する。こうした活動は、本契約から除外されるものとする」
 しかし皮肉なことに、そのころボブ・ディランアルバートグロスマンのもとをはなれていた。(略)
 というわけで、ぼくたちがやっとアルバートのもとにたどりついたころ、ボブはアルバートのもとを去っていった。(略)

 ジョン・サイモンが登場したのは、このころだ。 

ジョン・サイモン

 アルバムづくりを真剣に考えはじめたので、それについて詳しい人間が必要になった。ぼくたちは、レコーディング・コンソールの操作法も4トラック・テープのことも何もしならかった。三年間は、スタジオに入ることもほとんどなかったのだ。そこに、若くて良心的で実力があるという(略)ジョンが現われた。ジョンはぼくたちに力を貸し、ファースト・アルバムをプロデュースし、そのあともずっとよき友でありつづけた。
 ジョンがどういう人間かいうと……(略)
 「六〇年代の初めに大学を卒業士学業した。プログレッシヴ・ジャズが好きで、ロックンロールが嫌いで、R&Bが好きだった。とくにルイス・ジョーダンが気にいっていた。ぼくはコロンビア・レコーズのクラシック部門で仕事をするようになり、やがておなじ会社のポップスとジャズの部門へ移動した。(略)

[共同プロデュースしたチャールズ・ロイドから『すごい男がいる』と紹介されたのがロビー・ロバートスン]

[ブライアン・エプスタインのアメリ代理人と自称するナット・ワイスがアメリカ版ビートルズになると推すサークルの〈レッド・ラバー・ボール〉というシングルをつくり]即座に二位まで上がった。このシングルがその年のコロンビアの最高にクリーンなレコードになった――返品がいちばんすくなかったレコードということなんだ。それでクリスマスに、一万一千ドルのボーナスをもらい、さらに窓と鉢植えのある専用オフィスをもらった」
 「ロックの時代が到来していた。レコーディング技術の重要性が増していた。会社が契約するバンドには、才能のかけらもなさそうなのが多かった。(略)ぼくがそれをいやがったので、会社はレナード・コーエンアル・クーパーがいっしょのブラッド・スウェット&ティアーズ、マイク・ブルームフィールドといった質の高いミュージシャンをぼくに担当させた。ぼくが悩んでいるのを見て、アル・クーパーはフリーになれとすすめた。ぼくはそのとおりにした」
 「そのころ街でアルバートグロスマンに会った。(略)自己紹介をし(略)ジャニス・ジョプリンのコロンビアのアルバムをプロデュースすることになった。

(略)

[ピーター・ヤーローがつくっている映画『ユー・アー・ワット・ユー・イート』の音楽監督に推薦され]

この映画は、最初はヘルス・エンジェルスのドキュメンタリーになるはずだった[が途中で消え] (略)

ラヴ・インやドラッグ・インなど、奇抜な場面を撮影したテーマのはっきりしないフィルムが山のようにあるだけだった。(略)

 「ぼくはこのころ、マリワナを少々やってぶっとんで、意識を拡大することをはじめていた。(略)ウッドストックに行き、問題の映画の編集をしていたハワード・アークに会った。アークは、のちに『サタデイ・ナイト・ライヴ』に発展したセカンド・シティというシカゴのコメディ劇団のオリジナル・メンバーだ。とてもおもしろくて賢い男だった。

(略)

 一九六七年のハロウィンだった。アークとぼくが必死になって働いていたとき、外でものすごい音がした。その日がハワードの誕生日だったことがわかった。映画でタイニー・ティムのバック・バンドを演じていた連中が、ホーンやウォッシュボードやアコーディオンなどのおもしろい楽器でハワードに捧げる演奏をしていたんだ。そのときは、ロビー・ロバートスン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドスンの四人しかいなかった。四人ともが古びた服を着て仮面をつけていた。いかにも六〇年代らしく、すべてがこの世のことでないもののように思えた」

(略)

とたんに、つながりができた。(略)

ロビーがいった。『リヴォンがもどってきてる。リヴォンはぼくたちのバンドのドラマーで、一度やめていたが、もどってきた。(略)

リヴォンは、そのすこし前までルイジアナの油田で働いていた。

(略)

 「そのとき初めてビッグ・ピンクの地下室のリハーサルを見て、メンバーたちそれぞれの人となりを知った。ロビーは中心の人物、リーダー役だった。ガースはホーンと機材の係で、だれとでもうまくやれる人物。リックは活動的でおもしろくて、商売っ気があり、ガールフレンドが大勢いた。リヴォンは、とてもおもしろくシンコペートしたバス・ドラム、それに右足の独立した動きを持つ、才能豊かなユーニクなドラマーだった。そして、あらゆる点で自分を曲げない男だった」
 「そしてリチャード。とても気のいい男。いつも酔っていた。薬をたくさんやっていた。ツイナールとヴェイリウムだ。何でも限界まで試してみる人間だった。家の前のひきこみ道を、道路を走るときとおなじ時速百五十マイルで突っ走った。

(略)

アルバートにすこし金を出してもらってA&RサウンドのAスタジオに入った。(略)

ビッグ・ピンクから持ってきた曲のなかから〈ティアーズ・オヴ・レイジ〉〈ウィ・キャン・トーク〉〈ザ・ウェイト〉〈チェスト・フィーヴァー〉を録音した。〈ロンサム・スージー〉もやったと思う。

(略)

キャピトルはテープを気に入り、ぼくたちは一カ月間LAに行って、キャピトルの8トラックのスタジオでレコーディングした。

《ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク》

歌詞の登場人物はすべて(略)実際に知っている人たちだ。いなかの静かな生活のなかで、ぼくたちがそれまでの十年間をふりかえって蒸留させた経験。それを集めたものが、あのレコードだ。ヴェトナム戦争の時代、若者たちは従来とちがう生きかたを模索しはじめ、当時のアメリカには、いなかの重要性を見おなす大きなうごきがあった。あのアルバムは、そのうごきとも同調していた。

(略)
 アルバムの一曲目は、ゆっくりとした〈ティアーズ・オヴ・レイジ〉(略)一曲目にスローな曲を持ってくるアーティストはほとんどいない。だから、ぼくたちはそうすることを選んだ。(略)

リチャードはボブ・ディランの協力を得て、両親の心痛を歌うこの曲をつくり、生涯最高ともいえるすばらしい歌を聞かせた。この曲には、特徴的なホーンとオルガン、そしてすすり泣くようなタムタム・スタイルのドラムが入っている。ぼくがこのスタイルの創始者だと思っている人もいるようだが、リンゴ・スターもおなじ時期におなじようなことをやっている。頂点でドラムの音をひずませて音程を変える。ドラムの音はうなり音を残しながら消えていく。バンドとのアンサンブルがぴったりとあっていれば、ドラムの音がベルの音のように持続して、強く心に訴える。この方法で、スローな曲におもしろい変化がつく(ジョン・サイモンはこれを聞いて、ぼくを、面とむかってではないが、バイユーのフォーク・ドラマーと呼ぶようになった)。
 〈トゥ・キングダム・カム〉はロビーの曲で、彼自身が歌っている。彼はこのあと、ぼくたちのアルバムでは歌っていない。ロビーはふつう歌わなかった。シンガーにはむいておらず、歌うのをきらったが、この曲だけは歌っている。

(略)

ぼくが貢献したのは〈ザ・ウェイト〉だ。「ナザレスヘ行く」の部分はロビーのものだ(略)この歌には、ぼくたちが好きな人物がいっぱい出てくる。「ルーク」はジミー・レイ・ポールマンのことだし、「ヤング・アナ・リー」はターキー・スクラッチのアナ・リー・ウィリアムズのことだ。「クレイジー・チェスター」は、フェイエットヴィルの住民で、ぼくたち全員が知っている。チェスターは毎週土曜日、おもちゃの銃一式を腰につけ、治安を守るために街を歩きまわった。嘘じゃない。(略)

ホークは彼の友達で、彼に会うといつも、街にもめごとはないかと訊いた。するとチェスターは、すべてが平穏であり、自分が警戒にあたっているので心配ないと答えた。二丁のおもちゃの銃だけじゃなくて、禿げかくしのかつらまでつけていた!「カーメンとザ・デヴィル」や「ミス・モーゼズ」や「ファニー」のモデルも実在する。

(略)

何年か前、ロビーが「ザ・ウェイト」は聖者でいることのむずかしさを歌った歌だといっているのを何かで読んだ。何度もその歌を歌ってきたぼくとしても、それに賛成だ。

次回に続く。 

 

ザ・バンド 軌跡 その2 ディランからの電話

前回の続き。

ザ・バンド 軌跡

ザ・バンド 軌跡

 

ロイ・ブキャナン

 ホークスのギタリストが激しく入れかわった のは、このころだ。フレッドが抜けたあと短期間だったが、ロイ・ブキャナンがギターをひいた。(略)ひどく謎めいた人物で、やぎひげを生やしてビートニクにようななりをしていた。(略)

ロイの眼つきは尋常でなかった。だれとも話をせず、とても獰猛な感じがした。

(略)

 ロビーはロイ・ブキャナンからも多くを学んだ。当時、ブルース・ギタリストとしてのテクニックでロイにならぶ者はいなかった(どこで勉強してそんなにうまくひけるようになったのか、ロイに訊いたことがある。彼はまじめな顔で自分には半分狼の血がまじっているからだと説明した)。

(略)

いまも大勢のグランド・ベンドの人たちが、ロビーとロイのギター対決をおぼえているという。ふたりの共演が終わったあと、ロビーはホークスのギターの席にとどまり、エレクトリック・ギターの真のマスター、ロイ・ブキャナンは独自の道を行った。

ガース・ハドソン

ホークはその前から、ウィラードのかわりにガース・ハドソンを入れたがっていた。ガースはデトロイトのバンドでオルガンをひくほか、ときどきホーンも吹いていて、ぼくたちとおなじ興行ルートをまわっている人の大勢が、ガースのことをすばらしいミュージシャンだといっていた。

(略)

 一九五九年という早い時期に、ホークはガース・ハドソンをバンドに誘ったが、ガースは話にのらなかった。彼はぼくたちよりもすこし歳が上で、正規のクラシック教育をうけていて、ひとつの趣味として、そして、少々の特別収入を得るためにロックンロールをやっているだけだった。家族もとても保守的で[賛成するはずがなかった。実際に、バンドの演奏を聴いたガースは自分には激しすぎると辞退] 

(略)

 しばらく前からぼくはガースを入れる話をむしかえし、ロニーにうるさくいっていた。ガースがどこかのバンドと共演したり小さなジャズ・クラブで演奏したりするのを聞いて、ぼくたちは彼の豊かな音楽的知識に驚異した。ガースは、ポルカにもJ・S・バッハにもおなじぐらい深い関心を抱いていた。マイルス・デイヴィスといっしょにやることも、シカゴ交響楽団とやることも、『グランド・オール・オプリ』で演奏することもできるミュージシャンだった。絶対にガースを入れるべきだ。ぼくたちはそう考えた。
 カナダにもどったときには、ホークも何が何でもガースを入れるべきだという気になっていた。「あの男は天才だ。それは、おれがケネディでないのとおなじぐらい、たしかなことだ」ホークはいきりたっていった。「あいつの音楽が何なのか、おれにはわからん。だが、あれが役に立つことはわかる。ああいう人間を、学校に行ってちゃんとしたアレンジの方法を知っているやつを入れなきゃ、いいバンドはできない。メンバーに勉強させるためにも、あいつが必要だ」
 「むこうがほしいというだけ払ってやったらどうだ?」ぼくはいった。「どれぐらいをいってきてる?」
 「あのな、ガースは仕事をしているときの分だけじゃいやだといってる。仕事をしていないときの時間まで買えといってるんだ」ロニーがいった。「望むものは何でもやるといった。ステージに出ていないときはおまえたちに音楽を教えることにして、その分も払うとな」
 「それでむこうはなんて?」
 「滑稽な話だといったよ。それから、条件として新品のローリーのオルガンを入れるなら、考えてもいいといった」

(略)

  ガースのオルガンの加入で、ホークスのサウンドはロックンロール・オーケストラのようになった。サウンドが前よりもずっと豊かになったのが確実に感じられた。ガースは、ほかの人にはないサウンドを持っていた。ローリーのオルガンについているペダル・スティール・ストップを好んで使い、火を吹くドラゴンのような音を出した。このほかガースは、自分用のレスリーのスピーカー・キャビネットのいちばん上に、自動車のクラクションのようにホーンをとりつけていた。音がある周波数に達するとホーンが鳴り、とてもおもしろかった。
 ガースはまじめなタイプのミュージシャンだった。よく考えてゆっくりしゃべったし、ほかのメンバーのような激しい女漁りもしなかった。彼のような教師から学べるということだけでも、ぼくたちにはありがたいことだった。キャデラックで移動するとき、ガースはラジオの歌を聞いて、そのコードをぼくたちに教えた。コードが複雑に組みあわさっている場合はどうか?それでも問題はない。ガースが楽々と解読してくれるので、ホークスはどんな曲でも演奏できるようになった。前よりずっと世界がひろがって、楽しみもひろがった。考えて手探りでやる必要はない。仲間に大先生がいるのだから。そんな感じだった。
 ガースの加入によって、ホークスに二本目のサキソフォンがくわわった。ガースのアルト・サックスとジェリー・ペンファウンドバリトン・サックス。このふたつはソウル・バンドのホーン・セクション的な役目を果たすことができた。おかげで四年近くやっていたロカビリーとはちがう、R&Bのフィーリングに近いサウンドが出せるようになった。
 しかしいちばんたいせつなのは、ダブル・キーボード――リチャードとガース――のスタイルにもどれたということだ。ホークスはダブル・キーボードの編成を基盤にして音楽をつくり、やがて自分たちが世界一だと思えるようなところにまで成長する。

 

 一九六二年は、新メンバーで新年を迎える初めての年だった。この年は、ほかにも変化がたくさんあった。いちばん大きな変化は、ホークの結婚だった。

[62年末、徴兵で西ドイツ行きを宣告されたリヴォンは、友人の未亡人と偽装結婚しカナダ人となり問題を解決]

独立 

[ロカビリーに固執するロニーとR&Bをやりたい「ぼくたち」]

 ベル・サウンドでレコーディングをしていたある日、ロニーが帰ってしまったあと、ヘンリー・グローヴァーは、ホークスだけでボビー・ブランドの名曲〈ファーザー・オン・アップ・ザ・ロード〉をレコーディングさせてくれた。ぼくたちの大好きな曲だった。レコーディングを終えてプレイバックを聞いているとき、ヘンリーが、ところできみたちはいつひとりだちをするのかと訊いた。
 それで、ぼくたちもその気になった。ホークは家庭を持ち、腰を落ちつける気でいる。(略)

ロビーとぼくは大胆な想像をした。ロビーがいった。「リヴォン、ロニーがいないとほんとうにだめなのかな?」
 一九六三年の後半、ぼくたちがロニーと別れたのには、いくつもの理由がある。しかし何よりもまず、グループに亀裂が生じたのは、年齢差のせいだった。(略)

ロニーは自分の好きな音楽をやろうとし、ぼくたちはみんなが平等に演奏できて歌えるバンドがいいと思っていた。すでにひとつの曲のなかで交替にヴォーカルをとり、必要なときにはハーモニーをつけることをはじめていた。リチャードとリックとぼくの三人が歌う、のちのザ・バンドの声の原形が生まれつつあった。

(略)

[家族と過ごすため週末まで]ロニーが来ない夜は、ぼくたちがかわるがわる歌うことになった。

(略)

 毎日、酔っぱらうかストーンしていた。みんな、コーヒーを飲むようにマリワナを吸っていた。

(略)

[だが、ホークはマリワナを嫌っていた]

 ぼくたちはマリワナに出会って、新しい世界を知った。(略)

シカゴ・グリーンは手に入る最上の品だった。メキシカン・ブラウンもよかった。(略)ぼくたちはばかみたいに笑って、そしてたいていは楽しい時間をすごした。(略)

[しかし、ホークは25ドルの罰金を取った。やがて締め付けを強化し、車中では酒も煙草も禁止した。]

 いちばんさきにやめたがったのはリックだ。(略)

ばかばかしくてやってられないよ。外に飛びだして世界を見るべきだ。(略)

若いリックは強硬だった。「みんなが楽器をやって、みんなが歌うバンド。(略)[仕切る]人間のいないバンド。そういうのじゃ、どうしていけないんだ?」

[64年遂に計画を実行、グループ名は最年長ということで、リヴォン・アンド・ザ・ホークスに] 

Further Up the Road

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トロント

 トロントでバンドをスタートさせるには、最高の時期だった。当時のトロントはとても活気があった。週末の夜のヤング・ストリートでは、オスカー・ピータースン、力ール・パーキンス、レイ・チャールズとそのバンド、キャノンボール・アダレイチャーリー・ミンガスのコンサートを見ることができた。ホークス、そのライヴァルのポーパーズといった地元のバンドを見ることもできた。フォーク・ミュージックもさかんで、ヨークルのコーヒーハウスでは、ゴードン・ライトフット、ジョニ・ミッチェルニール・ヤングといった若いシンガーが歌っていた。活気があったのは、音楽だけではなかった。出版、ファッション、そのほかの流行の点でも、トロントはカナダの中心だった。いわゆるスインギング・ロンドンの時代のすくなくとも一年前に、トロントはスイングしていた(略)。トロント大学の教授、マーシャル・マクルーハンはメディア理論を編みだし、その後の人々の情報との接しかたや暮らしかたを変えた。

(略)

 一九六四年の初め、キャノンボール・アダレイセクステットトロントにやってきた。ホークスは、彼らのヒット・レコード〈ジス・ヒヤ〉に大きな影響をうけていた。そして全員でキャノンボール・アダレイセクステットを見にいき、彼らが高価な仕立ての服を着て落ちついていて、そしてとてもしゃれて見えるのに感激した。(略)

ウェスト・メンフィス出身で、ぼくたちととても仲良くなったフルートのチャールズ・ロイド。ドラマーのルイス・ヘイズはすばらしいミュージシャンだった。ルイス・ヘイズがふんわりとリズムをたたきだすのを見て、ぼくはたいせつなのは力いっぱいにたたくことだけではないと悟った。狂ったようになってはいけない。たえずコントロールを保つのだ。ぼくたちは、キャノンボールのバンドのおさえの効いた演奏が気にいった。そのあとまもなくして、ぼくたちは演奏のスタイルを「ジャズっぽい」と呼ぶものに変えた。(略)リック・ダンコは、いまもぼくたちの一九六四年をキャノンボール時代と呼んでいる。

ブルース

[ジョン・ハモンド・ジュニアと知り合い、NYへ行った際に、マイク・ブルームフィールドを紹介された]

 そのすこしあと、ぼくはロビーといっしょに車でトロントからタルサヘ行った。(略)

このドライヴのとき、ロビーが子供のころの思い出を話したのをおぼえている。ロビーは子供のころ、カーニヴァルで働いたことがあり、賭博師や怪物ショーの芸人や曲乗りの少年といった旅の一行にまつわる謎めいた話をした。車に乗っていて観覧車や色つき電球の飾りが見えると、ロビーはかならず止まって見ていきたがった。ロビーはカーニヴァルに特別に心をひかれていた。
 タルサヘ行くとちゆうシカゴに寄って、マイク・ブルームフィールドのところに何日か泊めてもらった。マイクはすごくいいやつだった!ぼくたちはいろいろなところに行き、ポール・バターフィールドに会った。彼はハーモニカの名手で、彼のシカゴ・ブルース・バンドは当時の音楽の最先端を行っていた。(略)

ぼくもロビーも彼らの音楽が気にいった。(略)この音楽――エレクトリックを強調したR&B――をとりいれて、新しいものをつくろうと考えはじめた。
 この旅でいちばん感激したのは、バターとマイクにつれられてシカゴのサウス・サイドにある小さなブルース・クラブに行き、まだシカゴ以外ではあまり有名でなかったオーティス・ラッシュやバディ・ガイに会わせてもらったことだ。ハウリン・ウルフがバターといっしょにやるのを見たのは、すばらしい経験だった。ウルフはからんでくる酔っぱらいたちを無視して、曲をリクエストする若い女性だけに注意をむけていた。

サニー・ボーイ・ウィリアムスン

[仕事で地元に戻ってラジオをつけると、『キング・ビスケット~』が流れ「この人達まだこれをやってる」とビックリ。サニー・ボーイは海外ツアーから戻ったばかり、自分達の演奏を聴いてもらおうと会いに行くことに]

彼がしわがれた声でいった。「あんたたち、ほんとうにうまいよ。どこでやってた?わたしは七十だが、いままで聞いた最高のバンドの部類に入るよ」 

(略)

「こいつ、どこでそんなのをおぼえたんだ?」といいたげな顔でロビーを見て、それからガースとリチャードに眼を移してにっこりする。(略)サニー・ボーイはぼくたちを気にいった。(略)こっちにもそれがわかった。このときからぼくたちは、サニー・ボーイのバンドになれないものかと考えはじめた。

(略)

サニー・ボーイは笑って話をし、飲みつづけた。そしてどんどん機嫌がよくなって(略)ロンドンで共演やレコーディングをしたヤードバーズ、アニマルズ、ゼム、そのほか当時売れっ子だったセッション・ギタリストのジミー・ペイジなど大勢のイギリスの若いミュージシャンの話をした。(略)

 「あっちの子たちは」笑いながら彼はいった。「みんな、わたしを気に入ってくれてね。まるで神様みたいに崇めて、ものを買ってくれたりご馳走してくれたりした。そうなんだ!みんな、わたしといっしょに演奏したがった――金もたくさんくれたよ。やつらはブルースが好きなんだ。とても真剣なプレイヤーもいた。ほんとうだ。ああいうやつらにはおどろかされた。(略)

[話を進めようと、別の店に移り]

「知りあいだったかって?」サニー・ボーイは信じられないといった顔で訊きかえした。「いっておくがな、ロバート・ジョンスンはわたしの腕のなかで死んだんだ!」

 ちょうどそのとき、サイレンを鳴らし、赤いライトをつけたパトカーが三台(略)

[白人が黒んぼの街で黒んぼと食事をしているのが気に食わないと警官達。袋叩きにされる恐怖で街を出ることに]

[トロントに戻っても]ぼくたちはいつも、サニー・ボーイ・ウィリアムスンのことを話していた。どうやれば、サニー・ボーイといっしょにやれるようになるか?

(略)

[五月、サニー・ボーイ死去の知らせが]

とても悲しかった。ぼくにとってその知らせは、ひとつの時代の終わりを告げるものだった。

ボブ・ディラン

[エリック・シャスターからの契約の申し出を、あまりに酷い条件なので断ると、おまえたちはNYじゃ絶対にやっていけないぞ!と言われ意気消沈]

 店のバックステージで、だれかがぼくに受話器をわたした。

「こちらはボブ・ディランですが」むこう側で声がいった。

「はい」ぼくはいった。「何のご用でしょう」

 しばらくは何も聞こえなかった。「じつは、その……ハリウッド・ボウルに出ないかと?」

(略)

すごいぞ!

 ボブはバンドを探していた。ぼくたちは飛躍を求めていた。

(略)

[大佐に電話をしボブに]大会場を満員にする力があるのかどうかを確かめた。ラジオで彼の歌を聞いてはいたが、レコードを持っているわけでもなく(略)どんな大物なのか、ぼくは知らなかった。

(略)

そのころのぼくたちはジャズ期にあった。各自ちがうスタイルのしゃれた高級なスーツを着ていたころだ。

(略)

メンバーたちはボブの電話の件を聞いて、最初あまり賛成しなかった。ボブがギターとドラムだけを探していたからだ。

(略)

リチャードは「だってやつはギターのジャカジャカ屋だぜ」といってばかにした。そのころのぼくたちはとてもなまいきで、フォーク・シンガーのことをそう呼んでいた。

(略)

いま考えてみると、あのニューポートの否定的なファンの反応があったからこそ、ディランはそれをやりとおす決心をかためたように思える。

(略)

 まだ人がいない一万五千の客席を前にして、サウンドチェックがおこなわれた。ロビーのギター、ぼくのドラム、アル・クーパーのオルガン、ハーヴィ・ブルックスのベース。そのベースがからっぽの大会場に鳴りひびいた。ボブはそよ風に髪をなびかせ、ひとりマイクの前に立っていた。よく知らない人とはほとんど口もきかず、とても細くて弱々しく見えるボブ。しかしそのなかに火山のような力があるのを、ぼくは感じていた。

(略)

 その夜、フォレスト・ヒルズ・テニス・スタジアムは満員になった。

(略)

ドラムをセットしたときから、客はブーイングをはじめていた。(略)

サングラスをかけたロビーがギターをぶらさげて出ていくと、あきらかに不満の声が大きくなった。しかしボブが出てきて、そして強烈な〈トゥームストーン・ブルース〉がはじまったとき、客は初めて聞くものの迫力の前に茫然としていた。絶対にそうだった。ロビーが曳光弾のようなソロを会場に撃ちこむと、そこはまったくの新世界になった。ボブがマイクの前で、からだをねじって吠えていた。いままでとはまったくちがう世界がひらけていた。
 曲が終わったとたん、野次がはじまった。(略)
 「裏切り者!」(略)

「ロックンロールなんてうんざり!」「リンゴ・スターはどこだ?」「フォーク・ミュージックをやれ!」「ディランはどこだ?」といった野次と罵声がとんだ。(略)

どこかのばかがステージにはいあがってきて、アル・クーパーを椅子から突きおとした。とても醜い光景だった。

(略)

[ボブが]ぼくにむかって大きな声で「ビートニクの襲来だ!」といった。

(略)

 六日後、飛行機でロサンジェルスヘ行き、ハリウッド・ボウルでおなじようなコンサートをした。そのあと、ぼくはボブに、客が前より友好的でよかったといった。
 「ブーイングをしてくれたほうがよかった」ボブはたばこに火をつけながらいった。「いい宣伝になる。チケットも売れる。好きなだけ野次らせてやればいいんだ」

(略)

ロビーとぼくにボブのツアー参加の話がきていたが、ぼくはバンドを解体したくなかった。

(略)

[アルバートグロスマンに言った]

「全員を入れるか、でなければだれも入れないかのどちらかだ」

「すると予想に反して(略)ロード・マネージャーのぼくまでふくめた全員を雇うといってくれた。カドレッツ大佐にも、それまでどおり10%が支払われることになった。事態は一変した。それまでとは段違いによくなった」

次回に続く。

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