歌が時代を変えた10年/ボブディランの60年代

デビュー・アルバム

ディラン自身のギターとハーモニカ(彼は水を入れたグラスに漬けて、ずっと湿らせていた)だけで伴奏されたので、制作経費は402ドルぽっちしかかからなかった。

ウディ・ガスリー

「自分が生まれながらの負け犬だと考えさせる曲は大嫌いだ」と彼は語った。「君をけなす歌や運の悪さや厳しい旅のために君をからかう歌……肌が何色でも、体のサイズがどれだけでも、姿がどうだろうが関係ないんだよ。僕は人びとに自分自身や自分の仕事に誇りを持ってもらえるような曲を歌うためにやっているんだ」。生涯を通して、彼は自分自身を人びとの代弁者にすぎないと考えていた。物事が実際はどうであったかを書き留めるジャーナリストであると。
(略)
[ディラン]はウディの確固たるお気に入りになっていた。ガスリーを迎えにグリースン夫妻が病院にやってくると、彼が訊く最初の質問は「あの坊やは来るのかい?」だった。(略)
その坊やが彼のために〈ウディに捧げる歌〉を歌うと、ガスリーは喜びで微笑み、彼を安心させた。「すごく良い曲だよ、ボブ!」と。ディランが帰った後、ウディはグリースン夫妻に語った。「あの坊やには声がある。作曲で成功しないかもしれないが、彼は本当に歌えるよ」
 しかしながら、その坊やは成長して、ウディが自分の想像の中で理想化された英雄とは程遠いと悟るようになっていった。天賦の才能に恵まれてはいるが、彼は隣の男と同じくらいに狭量で無責任で自己中心的でもあった。
(略)
数年後、彼は『ニュー・ヨーカー』誌の記事でナット・ヘントフに語った。「彼と知り合いになった後に、僕は幾つかのとても大きな変化を経験した。僕はウディに会いに行った。誰かに懺悔しに行くみたいにね。でも、彼に告白できなかった。ばかげていたね。彼のところに行って、話したんだよ――彼が話せるだけね――話は役立ったよ。でも、基本的に、彼は僕を助けるなんてまったくできない。結局そのことがわかったんだ。そんなわけで、ウディが僕にとって最後のアイドルだ」。

『フリーホイーリン』

[ミッキ・アイザックスン談]
「彼はらせん綴じの小さなノートを持っていて、一度に4つの違った曲を書いていたに違いない。或る曲の1行を書くと、数ページ戻り、別の曲の1行を書くんだ。ここに単語をひとつ、あそこに1行と、ただ書きとばしていくんだ」。(略)
[トム・パクストン談]
彼が紙の切れ端になぐり書きをしていたのを思い出す。「彼の頭の中は燃えていたよ。クラブからどこへ向かっているにせよ、その間に多いときは5曲を書き始め――そして書き上げてしまうんだから!」
 当時のディランを描写するときに最も頻繁に使われた言葉は「スポンジ」だった――彼は黙って友人たちの会話に耳を傾け、書き留めていた。後で彼らはディランの曲中に自分たちの会話からのフレーズや物語、情報の大切な部分が表われているのを発見するのだった。

「激しい雨が降る」

 「僕があれを書いたときは(略)キューバ問題の最中で、人生に充分な時間が残されているのかわからなかった。あと何曲書くことができるのかもわからなかった。自分が知っていることのほとんどを1曲のなかに入れたかったんだ。(略)
あの曲はそんなふうにして書いた。あの中のそれぞれの行が実際は完全な曲なんだ。
(略)
 しかしながら、この曲の「激しい雨」は核爆発後の放射性降下物ではない。「原爆の雨じゃない(略)ただの激しい雨なんだ。放射能を帯びた雨じゃない。全くそうじゃないんだ。降ってくる激しい雨は最後の節にある。そこで僕は“毒の玉粒が僕ら皆を水浸しにする”と言っている――僕が意味しているのはラジオや新聞で語られ、人びとの頭から考えを奪っていく嘘っぱちのあれこれだ。そういった嘘っぱちを僕は毒だと考えているんだ」。

A Hard Rain's A-Gonna Fall

A Hard Rain's A-Gonna Fall

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くよくよするなよ

[ノエル・“ポール”・ストゥーキー談]
ディランがフォークの語法を拡大したことは明らかだった。新しい心的態度の到来さ」
(略)
ディランは徹底した悪意の達人になり、友人たちは彼との付き合い方に用心深くなる。彼の辛辣な舌や毒を含むペンの題材になることを怖れたのだ。
(略)
「ボブはあれを昼メロのドラマみたいに歌っていた」とデイヴ・ヴァン・ロンクは語った。「哀れを誘ったね。あの曲はすごい自己憐憫だろう――でも、素晴らしいけどね」。イタリアから戻ったスーズは、他の人びとが自分について書かれた曲を歌うのを聴いて、最初はうれしがったにせよ、奇妙に感じ、結局この曲は彼女のボブからの別離に貢献した。同年7月の1963年ニューポート・フォーク・フェスティヴァルでジョーン・バエズがその曲を「長く続き過ぎた情事について……」と紹介したときだった。スーズにとって、この発言は新しい「フォークの王と女王」であるボビーとジョーニーについての噂を裏付けるものだった。彼女はフェスティヴァルの会場から走り去った。
(略)
[メロディーは]ポール・クレイトンが発見し、彼自身の作品〈フーズ・ゴナ・バイ・ユア・リボンズ〉に改作したアパラチア伝承の曲〈フーズ・ゴナ・パイ・ユア・チキンズ・ホエン・アイム・ゴーン〉が基になっている。(略)
[友人たちの多くはディランがそれを自分の曲としてクレジットしたことに怒った]
とりわけクレイトンが麻薬の問題でお金に困っていたからだ。「ホビーが彼に著作権を分けて与えてやれば、尊敬できたんだがね」とデイヴ・ヴァン・ロンクは信じていた。「でも、それはホビーのやり方じゃなかったんだ」。その代わりに、ちょっとした法的な闘いの後、ディランは楽曲出版社がクレイトンに「かなりたくさんの金額」を払うことを請け合った。

Don't Think Twice, It's All Right

Don't Think Twice, It's All Right

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Who's Gonna Buy You Ribbons

Who's Gonna Buy You Ribbons

  • Paul Clayton
  • シンガーソングライター
  • ¥200
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マイ・バック・ペイジズ

プロテスト・ソング運動に要求された直接的に歌いかけるスタイルヘの不満の程度は、以前の自分自身を見下す悪意に満ちた劇的な比喩的表現に計り知れる、彼が感じた「半ば壊れた偏見」、左翼の「見捨てられた伝道者の死体」、「芸を仕込まれた雑種の犬」(略)
「僕は社会批評家じゃないんだよ」と彼は友人に言った。「あの頃僕は曲をどこに返せばいいかわかっていた。投入口がどこか知っていた。それだけなんだ。僕があれらの曲を書いたとき、仲間うちの狭い世界の中で書かれた。
(略)
僕はあの頃の僕だったけど、今の僕は本当の僕なんだ。あの頃の「僕」ではずっといられないんだ。僕は今日の僕でしかいられない。そして、今日の僕は人びとのもっと広い世界と係わっている」
(略)
ジョン・ハモンドは後にこう言っていた。「初めてこの街にやって来たときから、彼は不公正について考え、話していたよ。社会問題についてね……彼はアメリカの状況全般について怒りを覚えていた。
(略)
「彼はもっと大きなものへ進んでいて、それを否定し始めただけさ。それだけのことだ」。フィル・オクスは正しかった。ディラン自身にとって、〈マイ・バック・ペイジズ〉は死刑の宣告と執行になった。そこから、不死鳥のように復活して、エレクトリック3部作の現代的なアーティストが登場するのだ。「自分が利口だと思っていた」とこの頃に彼は言った。「でも、もうわからないんだ。自分がまともなのかどうかさえわからない」。

My Back Pages

My Back Pages

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ライク・ア・ローリング・ストーン

 ディランはこの曲をアップライト・ピアノで、〈ラ・バンバ〉のリフを出発点としてG#のキーで書き、それからギターでCのキーに転調し、1965年6月15日に録音した。「コーラスの部分が先にできた」とディランは後にローリング・ストーン誌に語った。「何度も何度もハミングしていた。それから後で節の部分を低く始めて、高い方に移っていくと考え付いたんだ」。この曲の拍子はスタジオ入りするまで決まっていなかった。『ブートレグ・シリーズVol.1〜3』に収録されたリハーサルの断片では、ディランとポール・グリフィンがこの曲をワルツのリズムにあてはめて試しに演奏しているのを聴くことができる。その後、セッションの途中でヒット・シングルのヴァージョンが具体化したのだ。
(略)
「トムに言ったんだ。僕にオルガンを弾かせてくれないか。僕にはこれに合ったすごく良いパートがあるんだとね」とアル・クーパーは話を続ける。「彼は笞えたよ。“何だって、おまえはオルガン奏者じゃないだろう!”でも、そのとき彼が駄目だと言う前に電話を受けるように呼ばれたので、その隙にオルガンのところに座ってしまったんだ。実際にね、CD-ROM『ハイウェイ61インタラクティヴ』に、あの曲の別テイクが幾つか入っているんだけど、トムの声が聞こえるよ。“オーケイ、〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉のテイク7だ……おい、そこでおまえは何をしてるんだ?”そして僕の笑い声も聞こえるよ。その瞬間に彼は僕を引きずり出せたはずだけど、そうしなかった。その瞬間に僕はオルガン奏者になったんだ」。

Let's Go Get Stoned

Let's Go Get Stoned

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雨の日の女

マリファナにぶっとんだ連中がメンバーを務めるマーチング・バンドの発狂したリハーサルのようなサウンドで、ディランの古くからのフォーキー・ファンにそれまでで最大の衝撃をもたらした。
(略)
 この曲はたぶんレイ・チャールズの有名なレコード〈レッツ・ゴー・ゲット・ストーンド〉に着想をもらったのだろう。ディランはその曲を数ヶ月前にフィル・スペクターとロス・アンジェルズのコーヒーショップを訪れたときに耳にした。しかしながら、その短い期間に、その隠語は少し意味を変え、問題の「ストーン」が酒ではなく、麻薬への言及になっていた。
(略)
「僕は“麻薬の歌”なんて一度も書いたことないし、これからもないだろう。書き方もしらないしね。これは“麻薬の歌”じゃない。ただ下品なだけなんだ」。
(略)
ナット・ヘントフにはこう説明した。「誰にも麻薬を使えなんて助言はしないよ――間違いなく強い麻薬はね。麻薬はクスリだ。でも、アヘンとハシッシュとポット――今ではこれらは麻薬じゃない。それらは人の精神をちょっと曲げる。僕は誰もが時々精神を曲げられるべきだと思う。でも、LSDではだめだ。 LSDはクスリだ――異なった種類のクスリなんだ。あれはいわば宇宙を理解させる。客観がいかに愚かしいかを悟るんだ。でも、LSDはグルーヴィーな連中向きじゃない。復讐を望む狂った憎しみに満ちた連中向けなんだ」。
 もちろん真実はかなり異なっている。彼は幾つかの異なった種類の麻薬を異なった理由で使い続けていた――主にはマリファナを創造力と気晴らしの両方を煽るために、そしてアンフェタミンをツアー日程の消耗させられるペースに耐えるために使っていた。ツアー中の彼は何日も続けて寝ずに、ショウの後にもホテルの部屋で演奏を続け、絶え間なく曲に取り組むのがお決まりだったのだ。「このペースを保つにはたくさんクスリが必要なんだ」と彼は1966年3月にツアーの日程の合間にロバート・シェルトンに話した。

ヒョウ皮のふちなし帽

アル・クーパーが説明する。「あのスタジオには、ハモンド・オルガンの他に、ロウリー・オルガンもあった。あれには幾つかの素晴らしい音響効果が付いていて、“ピンポーン”というドアのベルの音まであった。“ピンポーン”で始まって、バンドが“どなたですか?”と叫び、それから曲に入っていくヴァージョンもあったんだ。最高だったよ!あれを使わなかったのは残念だなあ……」。

地下室(ザ・ベースメント・テープス)

 運良く、ホークスが近所にある大きなピンク色の家に引っ越してきた。(略)
ピーター、ポール&マリーから借りた機材を用いて、彼らは地下室に間に合わせのリハーサル・スタジオを作り、新しい作品にとりかかり始めた。
 「テープの機械はガースの背後に備え付けられた」とロビー・ロバートスンが回想する。「それで、大抵は彼がスイッチを入れたり切ったりした。ステレオ入力があったので、僕らは4本のマイクをステレオの2チャンネルにミックスしてたんじゃないかな――もしかしたら、もっと多かったかもしれない――でも、音の一部は漏れて、他のマイクが拾うんだ。多くの楽器にはマイクすら立ててなくって、ただ他のマイクが漏れた音を拾っただけなんだ」。「ほとんどのものは曲のアイディアをテープに録っておこうとしただけだから、録音の音質とかバランスといったことには全然注意を払わなかった。レコードをどうやって作るかについて学校で習うようなこと全てのまるっきり反対のやり方で録音されたんだ。中でも最悪だったのはセメントの壁さ。どんなスタジオでも壁には吸音材が用いられてるだろう。そのうえに、それら全部の真ん中に大きな暖房炉があって、これが音に悪かったね
(略)
 その地下室で作られた録音のサウンドは暖かく、うちとけた雰囲気を持ち、ディランがホークスと共にコンサートで押し出した大音量の力強いロック・サウンドとは著しく異なっていた。これはある程度までは意図的だが、幾分かは必要に応じて生まれた。「あの地下室で大きな音を出して演奏すると、うるさいという問題があった。だって、セメントの壁の部屋だったからね」とロバートスンが説明する。「だから、僕らはちょっとちぢこまって演奏した。歌が聞こえなかったら、自分の演奏がうるさ過ぎるんだ。僕らがそれ以前に用いていたものとはまったく異なった取り組みになったわけだ」
 その成果はディランがニュー・ヨークでの初期の年月に学んだフォーク音楽にその源の多くを頼ったものだった――彼が熟達し、そして捨て去った独善的な社会プロテスト・ソングではなく、ハリー・スミスの名高い6枚組LP『アンソロジー・オヴ・アメリカン・フォーク・ミュージック』のような編集盤で出会った今世紀初め数十年からの伝統音楽である。これは奇妙で暗い種類の音楽で、奇怪な物語と風変わりな比喩的表現がいっぱいで、死に満たされていた――そして粗野だった。(略)[前年の夏]ディランはフォーク音楽の「権威の持主たち」が彼に「物事を単純に」してほしがっていると批判していた。 「フォーク音楽は単純じゃない唯一の音楽だ」と強く主張した。「単純だったことなんて一度も無い。風変わりだよ。伝説や神話、聖書、幽霊でいっぱいだ。僕は古い歌の一部にあるような理解し難いもの――僕の頭では理解できないんだよ――ぶっとんだものは書いたことない。ああいった歌はとてつもない内容だからね……〈ノッタムン・タウン〉なんて、幽霊の群れがタンジールに向かって通り過ぎていくんだよ」。
 彼は同じ話題をナット・ヘントフにも詳しく語った。「伝統音楽は[ユダヤ教の象徴]六線星形を基にしている。伝説や聖書、疫病から生まれて、野菜と死を中心に展開する。伝統音楽を絶やそうなんて人は誰もいない。こういったすべての曲は人びとの頭から薔薇が育ったり、本当はがちょうの恋人たちとか天使に変身した白鳥とかについての曲だ――死に絶えることはないよ……伝統音楽は死ぬにはあまりに非現実的だ。守られる必要なんてない……その無意味さは神聖なものだと思う」。

ジョン・ウェズリー・ハーディング

[サイケなジャケットが全盛の68年]『ジョン・ウェズリー・ハーディング』はかなり印象的な控えめのデザインを差し出した。(略)まるでディラン自身が定義づけるのに非常に多くのことをした時代を生きる世代から、自分をわざと遠ざけようとしているようだった。
 意味を探し求めるファンたちは間もなくそれをジャケット写真の中に見つけた。上下をひっくり返すと、ビートルズの顔が識別できるというのだ。また、木のてっぺんの樹皮から神の手が現われると主張するものもいた。(略)
[ジャケ写は]サリー・グロスマンの庭で撮影した。気温は零下20度だった。それゆえにディランは背中を丸めているのだ。彼と残りの3人――ベンガル派信徒の音楽グループのラクスマンとプルナ・ダス・バウルと、たまたまグロスマン家で働いていた地元の大工兼石屋のチャーリー・ジョイ――は数枚ポーズをとると、急いで家の中に戻り、ブランディ数杯で体を暖め、それから、もう1、2枚のために外へ出た。何杯かひっかける間に急いで撮ったジャケットがポップ音楽の転換点を象徴するものになった。サイケデリアが行き着くところまで達してしまい、カントリー・ロックのもっと心を慰める分野に退却し始めるまさにその瞬間である。
 ジャケット写真は、流れ者、移民、ホーボー、無法者がその中に住むアルバムの持つ開拓時代の荒くれた西部の雰囲気を要約している。ここでは、チャーリー・ジョイは年老いた連邦軍(北軍)の歩兵のように見え、ディランはジャーナリストのカメラによって子孫にまでその姿がとらえられた恥ずかしがり屋のガンマンである。一方、バウル兄弟は東洋と西洋の服装のぼろぼろな混合のおかげで、インディアンのガイドに似ていないことも無い。
(略)
「僕が歌って、レコードに収めるにはある特質がなければならない(略)
何度も繰り返さないこと。フレーズや行や節やブリッジを繰り返す曲は避けたいんだ」。
(略)
乗馬者からホーボーまで、放浪者から使者まで、様々な変装で、ディランはこれらの曲を通して自分自身の怖れと誘惑に立ち向かう。(略)
彼が10年後に言ったように、「『ジョン・ウェズリー・ハーディング』は怖れを表したアルバムだ――怖れを相手にしているだけじゃなく、怖れがいっぱいのやり方で悪魔を相手にしている。ほとんどね」。

見張り台からずっと

[CBSとマネージャーに不信を抱くディラン]
……レコード会社の言う数字だって正しくない。知ってるかい?或る時点までは自分で歌ったものよりもキャロリン・ヘスターとか誰かのアルバムに収められた僕の曲の方が金を稼いでくれたんだ。それが彼らの僕にくれた契約なんだ。ひどい!ひどいもんさ!(略)
[MGMとの契約をちらつかせ、印税率倍増でCBSと再契約]
 泥棒はペテン師に同情し、その状況を馬鹿げていると考えるのは彼一人ではないと付け加えるが、そのような世俗的な問題で自分の心をあまりひどく苦しませるなと警告する。なぜなら、伝えなければならない緊急の問題があまりにたくさんあるからだ。これらの問題が何であるかは最後の節に説明された短いあらましで明確になる。そこはイザヤ書の21:6-9にある預言者イザヤのバビロンが没落するという預言に由来する。「主は私にこう仰せられた。さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。すると獅子が叫んだ。主よ。私は昼間ずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれたと」。そして、その結果、「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りは言った。朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい」(イザヤ書21:11-12)。
 吹きすさぶ黙示録的な風が近づくにもかかわらず、世の中の不正よりも魂の方の治療法を探すことがはるかにずっと重要であると泥棒はほのめかす。

レイ・レディ・レイ

リハーサルしていたとき、この曲にふさわしいドラムのパートを考え付くのに苦労して、ケニー・バットリーはディランとプロデューサーのボブ・ジョンストンに順に意見を求めたところ、彼がいいかげんな提案とみなしたものを与えられた。ジョンストンはボンゴを、ディランはカウベルを薦めたのだ。結構じゃないか、とバットリーは考えた。どれだけそのサウンドがひどいものか教えてやろう――そこで、彼はスタジオの管理人だったクリス・クリストファスンに次のテイクの間ずっとカウベルとボンゴを持たせて、演奏した。そのパーカッションがこの曲にぴったりと合ったとき、誰よりも驚いたのはそのドラマーだった。「ヘーっ、驚いたな!」と彼は感嘆して叫んだ。「これは僕が今までに演奏したなかで一番味のあるドラム・パートだよ!」。