ボブ・ディラン自伝・その2 命名、逃避行

前回の続き。

ボブ・ディラン自伝

ボブ・ディラン自伝

命名

「エルストン・ガンってだれよ?それは、あなたじゃないでしょう?」わたしは「うん、そのうちわかるよ」と答えた。エルストン・ガンは一時的な名前だった。家を出たそのときは、ロバート・アレンという名を使うつもりでいた。わたしの感覚では、それがわたしの名前だった――それがわたしに両親から与えられた名前だった。ロバート・アレンという名は、スコットランドの王の名のような響きがあって好きだった。わたしのアイデンティティのほとんどすべてがこの名のなかにあった。そのあと『ダウンビート』誌で、デイヴィッド・アレンというウエストコースのサキソフォン奏者の話を読み、迷いはじめた。この人は、もとは「Allen」だった名前の綴りを「Allyn」に変更したのではないかと思ったのだ。理由はよくわかる。そのほうがずっと異国的で謎めいている。わたしもこの手でいこうと決めた。(略)そんなとき、偶然、ディラン・トーマスの詩を読んだ。ディランとアレンは音が似ている。ロバート・ディラン。ロバート・アレン。どちらにも決めかねた――「D」の音のほうが強いが、ロバート・ディランは、見てくれも響きもロバート・アレンより劣る。わたしはふだん、ロバートかボビーと呼ばれていたが、ホビー・ディランでは響きが陽気すぎるように思えたし、すでにボビー・ダーリン、ボビー・ヴィー、ボビー・ライデル、ボビー・ニーリー、ほかにも大勢のボビーがいた。ボブ・ディランならば、ボブ・アレンより見てくれも響きもいい。ツインシティーズで最初に名前を訊かれたとき、わたしは考える前に本能的、自動的に「ボブ・ディラン」と言っていた。
 それからはボブと呼ばれることに慣れなければならなかった。前にそう呼ばれたことはなく、わたしをそう呼ぶ相手に返事をするのにしばらく時間がかかった。ボビー・ジママンについては、本当のことを教えるから調べてみるといい。ボビー・ジママンはサンバーナディーノのヘルズ・エンジェルズの初期の会長であり、1964年、バス・レイクでの走りで命を落とした。バイクのマフラーを落とし、それを拾いにもどろうとして隊列の前でUターンをし、たちまちのうちに轢かれたのだ。ボビー・ジママンは死んだ。それが彼の最期だ。

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ボビー・ヴィー

59年の夏には、ヴィーが地元のレーベルから出した「スージー・ベイビー」が付近の地域でヒットした。わたしはヒッチハイクでファーゴに行って話をし、シャドウズと呼ばれていたヴィーのバンドにピアノ弾きとして入れてもらい、教会の地下室などでおこなわれた地元のショーで演奏した。(略)
 進む方向は分かれたが、ボビー・ヴィーとわたしのあいだには共通点が多い。同じ音楽的背景を持ち、同じころ同じような場所で大きくなった。彼もまた中西部を出て、そしてハリウッドを目指した。ボビーの声は金属的な鋭さを帯び、銀の鐘のように音楽的で、バディ・ホリーの声にさらに深みを与えたようだった。昔わたしが知っていたころにはすぐれたロカビリーシンガーだった彼が、音楽の領域を広げて、いまやポップスターになっていた。リバティからレコードを出し、何曲もがトップ40ヒットになっていた。(略)
 もう一度彼に会いたくなり、わたしはD地下鉄に乗って[会いに行った](略)
光沢のあるシルクのスーツに細いネクタイという姿で外に出てきたボビーは、前と同じように気さくで、わたしに会えたことを心から喜んでいるようで、驚いたそぶりさえ見せなかった。わたしたちは少しのあいだ話をした。彼はニューヨークについて、ここでの生活はどんなかと訊いた。わたしは「たくさん歩くんだ。脚を鍛えておかないとだめだ」と答えた。
(略)
さよならを言い、劇場の脇を通って横のドアから外に出た。建物の外には、寒さのなかでホビーを待つ女の子の列ができていた。わたしをそれを押し分け、タクシーや自家用車がのろのろと進む凍りついた道路に出て、地下鉄の駅に向かった。このあと三十年間、ボビー・ヴィーに会うことはなかった。しかし状況はいろいろと変わっても、いつも彼を兄弟のように思っていた。どこかで彼の名を見かけるたびに、彼が同じ部屋にいるように感じていた。

グロスマン、ピーター・ポール&マリー

 ある夜、オデッタやボブ・ギブソンのマネジャーのアルバートグロスマンがギャスライトに来て、ヴァン・ロンクと話をした。(略)フォークのスーパーグループをつくろうとしていて、デイヴの参加を打診してきたのだった。(略)
 結局デイヴはその話を見送った。デイヴの流儀には合わない話で、ノエル・ストゥーキーがその申し出を受けることになった。グロスマンはストゥーキーに名をポールと変えさせ、ピーター・ポール・アンド・マリーというグループをつくりあげた。(略)
 グロスマンがわたしをグループに誘っていたら、おもしろかっただろう。わたしの名前もポールに変わっていたかもしれない。グロスマンは何度もわたしの演奏を聞いていたが、わたしのことをどう見ていたのかはわからない。とにかく、まだ機は熟してはいなかった。

ウディ・ガスリー

頻繁にウディを見舞うつもりでいたのだが、しだいにそれがむずかしくなっていた。(略)
花崗岩でできた病院の建物は陰鬱で気味が悪く、中世の要塞のように見えた。(略)
午後の時間、わたしはいつもウディに彼の歌を歌って聞かせた。(略)
病院で、ウディは有名人として扱われていなかった。人に会うには、とりわけアメリカの精神の真の声に会うには、異様な場所だった。
 それは、実際には希望のまったくない精神病院だった。廊下で悲鳴が聞こえることもあった。患者の大半はサイズの合わない縞のユニフォームを着せられ、わたしがウディの歌を歌っているあいだも、やってきては目的もなく歩きまわり去っていった。どうしても頭が膝まで下がってしまう男もいた。背を起こしても、すぐに頭が下がってしまうのだ。蜘蛛にたかられていると思いこみ、手足をパタパタと叩いて回りつづける男もいた。自分を大統領と思いこんだもうひとりは、アンクル・サム・ハットをかぶっていた。患者たちは眼をむいたり、舌を出したり、空気のにおいを嗅いだりした。ある男は唇をなめつづけていた。あいつは朝食に共産主義者を食ったんだ、と職員のひとりが教えてくれた。恐ろしい光景だったが、ウディはまったくそれに気づいていないようだった。いつも男性の看護士に連れられて、わたしがいるところに出てきて、しばらくたったあと、同じ看護士に連れられてもどっていく。それはとても心が重たくなり消耗する体験だった。
 そんなあるときウディがわたしに、人に見せたことがない歌や、まだメロディをつけていない歌を入れた箱があるという話をした――その箱はコニーアイランドの自宅の地下に置いてあり、わたしがそれを使ってもいいと。使う気があるなら妻のマージーにそう言えばいい、彼女が出してくれる。
(略)
[翌日教えられた家を訪ねたが、マージーはおらず、10歳くらいだった息子のアーロは箱のことは何も知らず、諦めて帰った]
 四十年後、それらの歌詞はビリー・ブラッグとウィルコというグループの手にわたり、彼らがメロディをつけ、命を与えてレコードとなる。すべてはウディの娘のノーラの指示でおこなわれた。
(略)
 今日はウディの病院には行かないことにした。クロイのいるキッチンに座っていると、窓の外で風がひゅうひゅうと音を立てた。窓からは通りの両方向が見渡せる。真っ白な埃のような雪が降っていた。北の方角、川のほうを見ると、毛皮を着たブロンドの女が、分厚いオーバーを着て足を引きずった男といっしょに歩いていた。そのふたりを眺め、しばらくして壁のカレンダーに目をやった。
 三月がライオンのような勢いで近づいていて、わたしはまたもや、どうすればレコーディングスタジオに入れるのか、フォークレーベルと契約できるのかと考えた

未来はすぐそこにある

 わたしは廊下に出てドアを閉め、小さな滝のように見える螺旋階段を下り、いちばん下の大理石を敷いた踊り場に出て、狭い中庭の通路を通って外に出た。壁は漂白剤のにおいがした。
(略)
 頭のなかにフォークソングが聞こえていた。いつも聞こえていた。フォークソングは地下の物語だ。何があったのかと訊かれて、だれかが「ガーフィールドさんが撃たれた。どうしようもない」と答える。それがいま起こっていることだ。だれもガーフィールドさんがだれなのかを訊く必要はなく、みなはただうなずく。それだけでわかる。国じゅうで話題になっているからだ。すべてはシンプルだ――すべてが、習わしのような形でみごとに意味をなす。
(略)
 ハドソンからスプリングストリートに入り、れんがでいっぱいのごみ缶の前を通って、コーヒーショップに入った。カウンター担当のウェイトレスはぴったりしたスエードのブラウスを着ていた。ブラウスが体の曲線を目立たせている。ブルーブラックの髪はバンダナで包まれ、くっきりと描いた眉の下の眼は青く鋭くて、人の心を見とおしているようだ。彼女が気のあるそぶりを見せてくれないだろうか、とわたしは願っていた。彼女がコーヒーを注いでくれたが、わたしは振りかえって通りに面した窓に眼を向けた。街全体がわたしの鼻の前にぶらさがっている。すべてのものがある場所をわたしははっきりと知っている。未来を心配することはない。それはすぐそこにある。

逃避行

 1968年、ビートルズはインドにいた。アメリカじゅうを猛烈な怒りがおおい、大学生が駐車中の車を破壊し、窓を割っていた。ヴェトナム戦争が国を深い憂鬱に陥れていた。都市に火が上がり、こん棒が振り下ろされた。ヘルメットをかぶった労働組合員たちは若者たちをバットで殴った。謎めいたメキシコの呪術師であるドン・ファンという架空の人物が新しい意識の大流行を引き起こし、新しい覚醒のレベル、命の力というものを持ちこんで、それを刀のように振りまわした。ドン・ファンに関する本が飛ぶように売れていた。アシッドパーティが盛んで、アシッドを受けいれることが正しい生き方なのだとされた。新たな世界観が社会を変化させ、何もかもが猛烈なスピードで動いていた――ストロボ、ブラックライト、幻覚体験、未来からの波。
(略)
 わたしはバイク事故にあって怪我をしたが、それはすでに回復していた。本当のところは、競争ばかりの社会を抜けだしたかったのだった。子どもを持ったことで人生が変わり、わたしは周囲の人や世のなかのできごとから遠く離れた。家族以外のことには興味を持たず、何もかもをちがった眼鏡をとおして見ていた。ケネディ兄弟、キング牧師、マルコムXの暗殺という恐ろしいニュースも……
(略)
 数年前のニューポート・フォーク・フェスティヴァルでウィーヴァーズのロニー・ギルバートは、わたしをつぎのようなことばで紹介した。「さあ、つぎは……彼をきみたちにわたすよ。もうわかってるね。彼はきみたちのものだ」。当時のわたしは、そのことばに不吉な予言が潜んでいるのに気づかなかった。エルヴィスでさえ、そんなように紹介されたことはない。「わたすよ。きみたちのものだ!」だって?なんておかしな言い方だ。頭に来る!わたしの知るかぎり、昔も今もわたしはだれのものでもない。わたしには世界の何ものより愛している妻と子がいる。(略)
うるさいマスコミが世代の代弁者だ、世代の良心だと触れまわる。おかしいではないか。わたしはただ、率直に新しい現実を歌にして表現しただけなのに。わたしが代弁するといわれる世代について、わたしはよく知らないし共感もあまりない。故郷を出て十年しかたってないわたしは、だれかの考え方を声高く叫んだりしてはいなかった。
(略)
わたしはハーメルンの笛吹き男ではなくカウボーイだった。(略)
わたしは守らなければならない家族をかかえる弱者としてウッドストックに閉じこもっている。(略)
 初めのころ、ウッドストックはわたしたちにとって快適な場所だった。(略)
[やがて]昼といわず夜といわず侵入者が押しかけてくるようになった。(略)
[警察署長によれば]警告の弾が当たった場合でも、留置所行きになるのはわたしだった。そればかりでなく、うちの屋根をブーツでドシンドシンと踏んで歩くいやらしいやつらでさえ、屋根から落ちたときにはわたしを訴えることができると言う。心穏やかではいられなかった。そういう連中を火だるまにしてやりたかった。こういう勝手な訪問者や変人や不法侵入者や民衆煽動家に家庭生活をめちゃくちゃにされ、しかも彼らを追い払うことはできず、わたしのほうが訴えられる可能性もあるという事実は、まったく気に入らなかった。毎日毎晩、面倒が起こった。すべてがまちがっていて、世のなかは不合理だった。しだいにわたしは追いつめられた。愛する人たちに囲まれていても安心できなかった。
 狂ったように暑い夏のある日、わたしはロビー・ロバートソンと車に乗っていた。(略)
ロバートソンが「これから、どこへ持っていこうと思ってる?」と訊いてきた。
 「どこへって? 何を?」とわたしは訊きかえした。
 「音楽シーンをどうするかってことさ」。音楽シーンだって!車の窓は少し開いていた。わたしはそれを全開にし、強い風を頭に当てて、彼のことばが頭から消えるのを待った――まるでふたりで音楽シーンをどうにかしようとしているみたいな言い方だ。どこまで逃げても逃げ切れなかった。
(略)
しばらくのあいだニューヨークシティで暮らしたが、状況は改善されなかった。かえって悪くなった。デモ隊がわたしたちの家を見つけ、大きな声を上げて家の前を往復し、出てきてわれわれを導け、世代の良心としての義務を果たせと要求したのだ。
(略)
[引っ越してばかりはいられないと、自らのおかしな行動で自身のイメージをつくりかえる戦術に。ウイスキーひと瓶を頭からかぶってデパートに行ったり…]
 わたしはエルサレムに行き、「歎きの壁」の前でヤムルカ帽をかぶって写真を撮った。この写真はまたたく間に世界じゃうに送られ、一晩のうちに新聞がわたしをユダヤ主義者に転向させた。少しうまくいったようだ。帰って来るとすぐに、おとなしくて万人受けするサウンドになるよう心がけて、カントリーウエスタン調に聞こえるレコードを録音した。音楽雑誌は判断を迷っていた。わたしは声まで変えていたのだ。みんなが頭を抱えていた。さらにはレコード会社と組んで、音楽をやめて大学に――ロードアイランド・デザイン大学に――行くという噂を流した。(略)
 わたしは二枚組のアルバムを発表した。思いつくものは何でも壁に投げつけ、壁にくっついたものはすべて発表する。壁にくっつかなかったものをかき集め、それもすべて発表する。そういうアルバムだった。(略)
映画に出演し、カウボーイの衣装を着て馬にも乗った。そこではたいしたものは要求されなかった。わたしは何もわかっていなかったのだと思う。(略)
批評家たちは彼の作品は文学の領域をはみ出したとして、『白鯨』を燃やすように薦めた。メルヴィルは亡くなるころには、ほとんど世間から忘れられていた。
 批評家たちがわたしの作品を評価しなければ同じことが起こる、世間がわたしを忘れてくれる、とわたしは考えていた。おかしな考えだ。
(略)
わたしはすでに暗闇のなかにいた。家族がわたしの光であり、何を犠牲にしてもその光を守るつもりだった。

次回に続く。