ボブ・ディランの生涯・その2

前回の続き。

英国ツアー、『ドント・ルック・バック』

サラのことはまだ知られておらず、マスコミやファンはバエズがボブの恋人であると思っていた。しかし、ディランとバエズの関係はすでに終わっていた。バエズがボブに同行した理由のひとつは[かつて彼女がしたように、ボブが彼女を紹介してくれると思ったから](略)
しかしイギリスに着いてみると、ボブはバエズにそばにいてほしくはないようだった。イギリスでは、ほかの人がステージに出る必要がないくらい人気があるの気がついたのかもしれない。
(略)
 いちばんの悪ふざけ屋は、ボビー・ニューワースだった。(略)バエズが透けるブラウスを着ていたとき、ニューワースはボブがそれに関心を示さないのに目をつける(カメラに映っているかぎりでは、ボブはほとんどバエズを見ることも話をすることもせず、そばにいたい素振りも見せなかった)。ニューワースは、透けるブラウスを指して、意地悪く「見たくもないシースルーのブラウス」と言う。バエズは強がりにしか思えない笑い声をあげ、眠くてへばってしまいそうと言う。ニューワースは「言わせてもらうけど、あんたはずっと前からへばってるよ。自分でへばりそうなんて思う前に、とっくにへばってる」といやみを言う。カメラに映らないところで、バエズは泣いていた。妹のミミはつぎのように言う。「ジョーンは思いやりから、ボブをステージに出して世のなかに紹介したのよ。それが彼のよい足がかりとなったのに、彼はそれを踏み台にしてひとりで行ってしまったの。だから、いつもいやな気持ちがしていた。
(略)
 イギリスツアーで、ボブがバエズをステージに呼ぶことはなかった。(略)
バエズはまだ、サラの存在を知らなかった。(略)
ボブがロンドンにもどり、軽い病気にかかってホテルの部屋にこもったとき、バエズが見舞いに行くとドアを開けたのがサラだった。バエズはやっと、長いあいだボブが隠れてつきあっていた女性の存在を知った。これがディランとバエズの関係の終わりだった。

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追憶のハイウェイ61

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「ライク・ア・ローリング・ストーン」発売

「おれはいままでに聞いたことがないほど、力強い声を聞いていると感じた」[と10代のスプリングスティーン](略)
[ジョンとポールは]ビートルズ用の曲を書こうと会った日に、この曲を聞いた。「永遠につづく感じがした。すごい歌だった」とマッカートニーは語る。「(ボブは)枠を超えられることを、ぼくたち全員に示してくれた」(略)
四日後、ボブはニューポート・フォークフェスティヴァルに出演した。(略)
マイク・ブルームフィールドをフィーチャーしたポール・バターフィールドのエレクトリック・ブルースバンドが、ブルースヴィル・ワークショップの一環として演奏した。司会を務めていたアラン・ロマックスは純粋主義者の立場から中流階級出身の白人の若者がブルースを演奏することに対して軽蔑心を抱いていたため、ステージでバンドのメンバーたちを皮肉を込めて紹介した。バンドをマネジメントしようと考えていたアルバートグロスマンは、この紹介に激怒し[二人は取っ組み合って地面を転げ回った](略)
その光景を見たボブは、重大な決意をした。新しい歌をアンプを通したバンドといっしょに演奏しようと決めたのだ。おそらくロマックスにこの種の音楽を抑制すべきでないと教えるつもりだったのだろう。
(略)
[十分なリハーサルもないまま]
ボブは、黒い革ジャケットを着てステージに登場し、最先端のバンドをバックに大音響で「マギーズ・ファーム」を歌い出した。マイク・ブルームフィールドはギターにおおいかぶさるように前屈みの姿勢で、フィードバックを効かせた洪水のような演奏をした。サウンドミックスは最悪だった。バンドの音ははっきり聞き取れなかった。さらに「マギーズ・ファーム」のとちゅうから、ビートが合わなくなった。もはや、フォークロックという代物ではなくなってしまった。それは、大音響で鳴り響く大騒音でしかなかった。

フィル・オクス

[「窓からはい出せ」の]サウンドはビルの解体に使われる鉄球のように大きなうねりを生みだしていた。ボブはリムジンのなかで同乗していたフィル・オクスにこの曲を誇らしげに聞かせた。オクスがどちらかというと冷ややかな反応を示すと、ボブは運転手に車を停めるように命じた。「降りろ、オクス」とボブは告げた。「おまえは、フォークシンガーじゃない」。さらに急所を攻めたてて「おまえは、ただのジャーナリストだ」とつけ加えた。悪意に満ちたことばだったが、オクスはボブを尊敬していたので許すことにした。その後もふたりは、1976年にオクスが自殺するまで不安定な友情関係を持ちつづけた。

『雨の日の女』

ミュージシャンたちは、曲の長さがどれだけなのか、どういった方向に展開していくのかも知らされなかった。理由は、ボブがレコーディングではアドリブを重要視していたからだ。「即応できるように、いつも注意していなければいけなかった」とベーシストのヘンリー・スチェレッキは言う。「彼のタイミングを頼りに演奏した」
(略)
ボブは、「だれでもストーンするべきだ」とくりかえし歌う新曲があると言った。さらに「ストレートな人間とこの曲を録音する気はない。だれかに何かを買いに行かせよう」と言った。(略)
「すこし飲んだだけで腰が抜けるほどなのに、おれたちは大量に飲んだ」とウェイン・モスは言う。マリファナも用意された。
(略)
 ボブはマーチングバンドのようなサウンドにしたいが、型どおりな行進曲にはしたくないと言った。(略)
ほかのミュージシャンたちも楽器を交換して演奏してボブが望んでいたラフな行進曲風のサウンドを生みだした。モスはスチェレッキにベースを弾かせろと言った。「いいとも」と言ってスチェレッキはベースをモスに渡した。彼自身はクーパーのオルガンを演奏した。もっとも足でペダルを踏めなかったので、彼は床に寝転がり両手でペダルを押した。結果「ドン、ドン、ドン、ドドドン」というコミカルなサウンドが生まれた。クーパーはタンブリンを叩いた。ケニー・バトレーはドラムキットをばらし、向かい合わせに置いたいすの背もたれの上にバスドラムを載せた。(略)
「なめらかな演奏ができないのでラフな音が出せると思った」ので右手でハイハットを、左手でスネアドラムを叩いた。ドック・バトラーは「準備ができていなかったが」ニューオリンズ風にトロンボーンを吹き鳴らした。そしてボブが加わり、「だれでもストーンするべきだ」とくりかえし歌った。
 スチェレッキは床に寝転がっていたが、頭だけは上に上げてマイクに向かって笑い声を発していた。「おれは完全にハイな状態だったので、曲が終わるまでずっと笑いっぱなしたった。わかるだろう」。すぐにボブも含めた全員が笑い出した。ミュージシャンたちがクレイジーな状態になっているのを見ていたボブは、歌詞をつまずかせたりしながら歌った。「おれたちはすばらしい時をすごしたよ」とモスは言う。四分半後、全員が楽器をその場に置き、プレイバックを聞くためにコントロールルームに移動した。
(略)
[タイトルを訊かれ]
 「『雨の日の女』だ」。ボブは、ニコリともせずに答えた。さらに驚いたことに、いま録音したのはリハーサルでもなかった。いまのが完成だった。
[一ヶ月後に発売されチャート2位に]
[『ブロンド・オン・ブロンド』の]成功は、ナッシュヴィルのミュージックシーンを変えた。カントリーミュージックとは無縁だったアーティストが、ディランのサウンドをまねようとしてナッシュヴィルに押し寄せ、ディランとつきあったセッションミュージシャンは引っ張りだことなった。(略)
ディランがカントリーミュージック以外のアーティストもナッシュヴィルでレコーディングできるということを立証した(略)
ボブ・ジョンストンは言う。「彼は『サブタレニアン・ホームシック・ブルース』や『ライク・ア・ローリング・ストーン』でティン・パン・アレーを沈めた。さらに、彼はすべてを変えた。彼はカントリーミュージックも変えた。カントリーミュージックをポピュラーにした」

ザ・バンド

LSDを試したあと、ダンコーはボブにバックバンド以上のことをしたいと告げた。
(略)
ロバートソンはボブと親しくなっていたので、ザ・ホークスの残りのメンバーは彼をバーナクルマン[腰巾着]と呼んでいた。「彼はボブにぴったりくっついていた」とジョーンズは言う。「ボブが小便に行ったら、ロビーも行くほどだった」。

事故

[バイクで修理屋に向かうディランの後を、サラが車でついていったが、すぐにサラの車が戻ってきて]
「彼は、うめき声かうなり声のような音を立てていた」(略)
家まで歩いてきて、そのまま「玄関先のポーチでまるで寝るかのように横になった」(略)
出血していたわけでも、見ただけで怪我をしているとわかるほどではなかった
(略)
 あの朝、グロスマンの家からバイクに乗って出ていったディランに、いったい何か起きたのか正確なことは謎に包まれたままだ。(略)
もともと事故なんてなかったのではという説さえあった。こうした憶測が生まれた理由は、事故を起こしたタイミングがあまりにもボブにとって都合がよかったからだ。つまり、事故が事実なら、当時打ちのめされるほど脅威となっていた数多くの仕事から、ボブは逃れることができるというわけだ。
 実際、事故は起きた。(略)しかし、当時報道されたほど、深刻な事故ではなかった。いままで事故についてメディアにはひとことも話さなかった、またあの日の出来事の重要な目撃者でもあるサリー・グロスマンは(略)
「そんなに長い時間じゃなかったことはたしかよ。わたしが玄関ホールに立ってアルバートと電話で話をしているときに、ふたりは出ていったけど、彼らがもどってきたときにもわたしはまだ電話中だったのだから」(略)
ボブと親しい友人は、名前はあかさないでほしいと断ったうえ、事故はグロスマンの敷地(略)から急勾配で滑りやすいストリーベルロードに出たところで、バランスを失い、バイクから放り出されたと、のちに彼に語ったと言う。投げ出されたボブの上にバイクが落ちた。
(略)
 事故のあとの報道は、ボブは意識を失い、首を折り、危篤状態だったと伝えていた。しかしサリーの証言では、ボブは見た目には怪我もわからなかったし、意識もはっきりしていたという。さらに、ボブが重傷を負ったというのなら、近くの総合病院に急送されたはずだ。(略)
[しかし救急車は呼ばれず]
サラはボブを車に乗せて、グロスマンの敷地から五十マイルも離れたミドルタウンにあるセイラー医師の自宅兼診療所までボブを運んだ。これはいなかの道を一時間も走る過酷なドライヴであり、決してすぐに治療を必要とする怪我人がするようなドライヴではない。
(略)
いろいろな意味で、バイク事故は天恵だった。「事故に遭う前、ぼくはあっぷあっぷ状態にあった。あのままの状態で暮らしていたら、おそらく死んでいただろう」と、後に彼は語っている。(略)
ボブ自身によると、事故で脊柱を何本か折ったという。友人たちは彼がネックブレースをしばらくつけていて、超音波治療を受けていると言っていたことをおぼえている。彼は背中が痛むと言い、治療の一環としてふたたび泳ぎはじめた。だから彼が怪我をして、その後遺症にも苦しんでいたという証拠はあるのだが、そのいっぽう、集中的な治療を必要としなかったということでもある。

ビッグピンク

[リック・ダンコ談]
「正午をまわるとまるで時計のように規則正しく現れるんだ」。ボブはポット一杯分のコーヒーをつくると、タイプライターを叩きはじめる。「ザ・ホークスがまだ眠っていると、とくに大きな音をさせてね」とガース・ハドソン。「どうやってそんな時間にやってきて、タイプの前に座って歌詞を書いたりできたんだろう……さらに驚きだったのはそうやって生まれた歌がほとんどどれもおかしかったことだ」
 1967年2月から秋にかけてボブは30曲以上の曲をつくった。それらはハドソンが組み立てた2トラック・オープンリール・レコーダーに、数々のカバー曲とともにザ・ホークスとボブがいっしょに吹き込んだ。
(略)
 春から夏に季節が移ると、彼らはビッグピンクの窓を開けはなって風を通した。穏やかないなかの雰囲気が彼らが生み出す音楽にも影響を与えた(略)
ボブはロバートソンにトラディショナルフォークを紹介した。(略)
そのお返しに、ロバートソンはボブのロックンロールの知識を広げた。(略)
ダンコーの家族はオンタリオのいなかでカントリーミュージックを演奏していた。マニュエルは洗練されたブギウギピアニストで、ポップの感性も持ちあわせていた。ハドソンは英国国教会の音楽や管楽器演奏、アレクサンドル・スクリアビンアバンギャルドコンポジションにくわしかった。だれもがそれぞれお気に入りの音楽家やレコーディングを持っていた。それらの知識が彼らがともにつくった音楽を導き出した。

67年ガスリー55歳死去

「その午後遅く、事情を知りたがって電話をしてきた」[とガスリーのマネジャー](略)
「追悼コンサートをわたしが企画しているかどうかと訊き、そうならぜひ知らせてほしいと言った」(略)
ウディ・ガスリー追悼コンサートに1966年の夏以来初めて観客の前に現れた。(略)
ザ・ホークスと共にステージに現れたボブはウェスタンスタイルのスーツを着て、カウボーイブーツ姿だった。ドラムのうしろにいたリヴォン・ヘルムは、グロスマンが来ていたがボブとたがいに一言もことばを交わさなかったことに気づいた。ボブの事故と、ボブがツアーをしないことに決めて以来、ふたりの関係はぎくしゃくしていた。ボブとザ・ホークスはウディ自身のレコーディング以外では滅多に聞かれない三曲を演奏し、「アイ・エイント・ガット・ノー・ホーム」に情熱を注ぎ込んだ。ボブは本当に追い出されたかのようにリフレーンを絶唱した。歌詞に彼が注ぎ込んだ情熱は聴く者を総毛立たせ、彼がほとんどの時間隠遁して、牧歌的なカントリーホームに暮らしている事実にもかかわらず、怒りと情熱は彼のなかにまだたぎっていた。

プレスリージョニー・キャッシュ

『セルフ・ポートレイト』収録のために呼び集められたミュージシャンたちはプレスリーのセッションのベテランたちだった。(略)
「彼はいわば洗練されていなかったわ」とデロレス・エッジン。「とても変わっていて、泥臭かった」。(略)
[ボブ・ジョンストンがプレスリーと共演の仲介をしようとしたがパーカー大佐が拒否]
もうひとりのヒーロー、ジェリー・リー・ルイスとのコラボレーションの試みも不調に終わった。(略)
[ボブ・ジョンストンが紹介すると]
 「それで?」
 「いつかごいっしょできるかもしれませんね」。礼儀正しくボブが申し出た。
 「とんでもない!」。ジェリー・リーは叫ぶと、怒ってピアノを叩いた。ボブとジョンストンは早々に退散した。
 南部を拠点とする音楽スターのなかでもボブと温かくつき合ってくれたのはジョニー・キャッシュだった。テレビヘの根強い嫌悪にもかかわらず、ボブがABCテレビのジョニー・キャッシュ・ショーの初回にゲスト出演したのはキャッシュヘの愛情の証だった。(略)
スタジオの観客たちは愛するキャッシュのファンばかりだ。番組はその夜のうちに収録してしまわなければならなかったから、そこでボブが失敗をやらかすわけにはいかない。(略)
(ガスリー追悼以来)初めてのライヴパフォーマンスだったんだ」とバックでドラムを叩いていたケニー・バトレーは言う。「彼は多かれ少なかれ気おくれしていた」。赤いライトが点くと、ボブは振り返ってすがるような目でバンドを見た。「ぼくはあれほどおびえた人間は見たことがない」
(略)
ショーはキャッシュにとって大きな成功のきっかけとなり、長寿番組として愛された。それに『ナッシュヴィルスカイライン』の販売促進の助けにもなった。

次回に続く。