名古屋とちくさ正文館―出版人に聞く〈11〉古田一晴

閉店記事の店長インタビューが面白かったので、2013年のインタビュー本を読んでみた。(インタビュー・構成は小田光雄

名古屋モダニズムの伝統、『あんかるわ』

古田 僕は高校時代から校内で実験映画の上映会を催していた。(略)

[73年、二村利之らと]「狼少年牙王社」を結成し、アンダーグラウンド映画を継続的に上映

(略)

[74年春]ちくさ正文館で「バイト募集」の貼り紙を見て、バイトとして働くことになった。(略)[その]年の九月に塚本邦雄の講演会が開かれた。(略)

ちくさ正文館の創業者が(略)すごく文学好きで[PR誌『千艸』を創刊]第五号の塚本邦雄特集が出され、ほぼ同時に講演会も開かれた。

(略)

創業者は(略)出版業界と文学方面に確固たる人脈があって、好きな人文社会書についても至れり尽くせりで揃え、売るという方針をはっきり持っていた。そうした品揃え、PR誌の発行なども金銭的に可能だった時代があって、今考えると、名古屋モダニズムの伝統がちくさ正文館にも引き継がれ、流れこんでいたとわかります。

(略)

[後にきむら書房として独立する木村直樹]とは相前後して入社している。僕はふらっとバイトで入りましたが、彼は正社員だった。でも結局は二人とも同じようにフェアを企画していくことになる。

(略)

僕より少し前の書店の人たちは弘栄堂のシュルレアリスムのフェアにものすごく影響を受けている。(略)

木村さんも構造主義のフェアをやった時期がある。明らかにシュルレアリスムフェアの影響で、ブックリストも作っていた。

(略)

僕が入った頃はやはりまだ岩波書店が権威を持っていた最後の時代で、それは岩波の全集類に象徴されていた気がする。(略)

岩波の全集セットフェアがあって、とんでもなくお客さんがくるわけですよ。しかも実際によく売れていた。でも僕なんかは当時の新しい映画、演劇にふれていたこともあって、岩波文化はもう古いと思っていた側面が否応なくあった。もちろん若気の至りですけど。それでも僕は七〇年以前の文化が衰退し、次の時代に入っていると肌で感じていたし、バイトで本を売りながら、その両方を見ていたことになる。

(略)

代わりに何が売れるのか、何を売っていくべきなのかという問いにもなっていった。

(略)

[78年大学を卒業し]バイトから正社員になってずっと勤めるかどうかの選択を迫られた。ちょうどその時に小沢書店の『吉田一穂全集』の定期講読申込者の(略)三分の一が知人であることに気づいた。(略)

それで背中を押され、本格的に書店人生をスタートさせた。(略)

僕たちの世代に強いインパクトを与えたのは(略)名古屋のインディーズ系詩誌としての『あんかるわ』

(略)

北川透の個人編集に移行してから(略)「全国ブランドの自立誌」と呼ばれるようになり(略)多くの新しい書き手が生まれ(略)名古屋文化圏にものすごく刺激を与えた。

(略)[丹羽一彦、瀬尾育生]二人とも『あんかるわ』から出てきたといっていい。(略)

[瀬尾は82年]『菊屋』という詩誌をスタートさせ、そのイベントとして『菊屋まつり』を開催していく

「新しい歴史への旅」フェア

古田 塚本邦雄の講演会(略)はサイン会も兼ねていて、当時はまだ点数は少なかったけれど、塚本の本も揃え、フェア的な展示も当然のことながら試みていた。

 現在の通常の書店における作家のサイン会だと、出版社と提携しているので、そこから出ている新刊や受賞作が対象になるから、既刊フェアはどうしても遠慮がちになってしまう。でも塚本さんの場合はちくさ正文館が企画したものだし、また塚本さんも一部で知られていただけでもあり、自由にフェアを組むことができた。(略)講演とサイン会、フェアの組み合わせをバイトの時に目の当たりにした。書店の仕事として、こういうこともやれるんだと実感しましたね。

(略)

僕が文芸書担当となったあたりで木村は人文書専任を辞め(略)

僕がそういったフェアや企画に本格的に携わることになった。オーナーは要するに、やるなら徹底的にやりなさいという人なんです。若いこともありましたが、こんな時だからあえてやってみようと思い、色々と試みることになったわけですよ。

(略)

[ターニングポイントは]

加納光於+馬場駿吉ブックワークとその周辺展」ですね。(略)

この企画で、フェアの本のみならず、トータルなブックワークと美術領域にまで広げることができた。美術に広げられ、関連づけられるのであれば、映画、演劇、音楽にも応用できることに目ざめた。

(略)

テーマを多領域にして(略)トータルに展開してみようと考えた。それが「新しい歴史への旅」で、それぞれの関係の書名を全部リストアップしていったら、一万冊になってしまった。

(略)

二階の事務所、それに文庫、コミック、児童書、教育書コーナーといった部分をとりあえず外し(略)二階部分の三分の二くらいが使えることになった。

(略)

 フェアは一ヶ月やったんですが、よく売れて、講演会との相乗効果も明らかに出ていた。(略)

若い世代が中心になって年一回の「菊屋まつり」が開かれ、東京などからゲストを呼んで、五年ぐらい続いた。

(略)

 今思えば変な時期だったともいえる。色んなものがうまくつながって、花開いたような感じもありました。でもこれは自戒の意味をこめていうんですけど、そういった時代を次の時代へとバトンタッチできなかったような気がする。瀬尾育生とそういう話をしたこともある。(略)

瀬尾育生も転勤もあって名古屋からいなくなってしまった。それに対して、僕とちくさ正文館の立ち位置はずっと変わっていない。同じ場所で本を売してきたことになる。(略)二十年ぶりに店にきた人が店がまったく変わっていないことに驚いていた。

 そうした人の反応を見ると(略)時代に合わせて変えなければいけないところ、変えてはいけないところがあることをようやく最近になってわかるようになってきた。昔は時代が変わることに対し、必要以上に身構えていたところがあった。ニューアカデミズムの時代がやってきて、現代思想ブームになり、フランス構造主義がもてはやされた。でも長くは続かなかった。(略)ようやく少し距離がとれると思い始めている。

ブックフェアの変化

古田 (略)書店独自のフェアというものはそれこそ時代状況の中からも生まれてきますが、基本的にはその店の地域性と客層、本の売れ方、担当者の編集力などがクロスして企画されるのが王道だと思う。(略)

 しかし書店のナショナルチェーン化、出版社からの情報と検索やデータ依存の傾向が加速したことで、書店の自主フェアがすっかり減ってしまった。(略)

その代償行為として、POPなどによる「書店員のすすめる本」がとてもはやっているのではないかと思っています。(略)

 それはそれでひとつの販売方法でしょうが、単品ではなく、自分でひとつの分野を掘り下げていくことによって書店員の本当の力が身につくと、僕は確信しているので、「書店員のすすめる本」ブームの行く末が心配になってくる。

(略)夏の文庫フェア、年末の「このミステリーがすごい」フェア、それから本屋大賞フェア、みんなパターン化し、どこにいっても同じフェアをやっている。そのためにかえって売れない。こういったフェアしか組めないというのは書店の現場の企画力が落ちていることを証明している。それでいて、カリスマ書店員がどこにもいるとされている。本当に止めてほしいと思う。

(略)

[書店の現場の企画力が落ちている]原因は雑誌の衰退と絡んでいるんじゃないかな。あるいは雑誌を読むことの多様性が失われてしまったこともある。(略)僕は映画をやっていたこともあって、映画関係の雑誌は全部読んでいた。六〇年代の雑誌は映画にしても演劇にしても、情報も内容もレベルが高かったし、時代と併走していくような感触がみなぎっていた。僕たちが若かった六〇年代はほとんどのことを雑誌から学んだ。

ウニタときむら書房、単館理論

古田 店は近くでしたが、競合するような感じではなく、住み分けていたし、竹内さんとは八〇年代にしょっちゅう会っていたし、今でもウニタの若い従業員とは週一回ぐらい、昼飯を一緒にしたりする。

 それに僕は名古屋の単館の三つの映画館で育ってきたから、知らないうちに映画との関係が濃くなってきたと思ってる。そういう意味では書店も単館みたいなのがいいわけですよ。だからウニタのような店があるのはちくさ正文館とのちがいもわかるし、歓迎すべきことなんです。

 ――ウニタは新左翼系の本、社会科学書がメインで、リトルショップに属するから、ちくさ正文館とカラーがちがう。

古田 それと店売というよりも、大学関係の外商に力を入れていた時期もあって、ちくさ正文館の店売中心とも異なっていた。(略)

名古屋大学にいた廣松渉やその関連書、翻訳書を始めとして、網野善彦の対談集、演劇書、管理教育批判の雑誌なども出され、店売、外商、出版も頑張っていた。

(略)

[きむら書房は丸山静の『無限に延びる糸』を出版]

木村直樹は自分のきむら書房にカルチャーセンター的機能も持たせ、丸山の神話論講義などを主催していた。

(略)

書店の次のシーンが出版やカルチャーセンターであれば、それらの選択は正しかったけど、残念ながらニューアカデミズムの時代はすぐに過ぎ去り(略)

竹内さんは引退してしまった。

(略)

見方にもよるけれど、ヴィレヴァンだって初めのうちは単館だった。

(略)

三輪哲さんのメルヘンハウス、あれも単館の児童専門書店だね(略)

[一時、児童専門書店ブームがあったが]ほとんどなくなってしまった。だから三輪さんが本当に一生懸命やっているのがよくわかる。

(略)

単館というのは掘り下げ型じゃないですか。だから複合店は単館の思想から外れるわけです。掘り下げていったら、ブックバラエティ化はできない。本屋大賞の時期になれば、当然スーパーの中の書店にまで拡がっていて、確実に置かれている。ところが同時期に出されたそれなりに面白い本は並んでいない。そうした本は単館にいかなければ見ることができない。そんな書店状況になって久しいことになる。(略)

本屋大賞受賞作を読んで面白く思う人がいることは確かだろうけど、その人は読者というか、本当の読者にはならないと思う。

小さな書店の微妙な個性

(略)昔は確かに金太郎飴といわれたけど、小さな店がたくさんあった。しかしそれでも小さな店ならではの微妙な個性というのがあり、行けばそれなりにみんなちがっていた。ところが今は大型チェーン店化によって、みんな同じになってしまった。

(略)

今のような検索やデータ依存ではなく、店頭での実売によって書店が機能していた。売ることがきっと今よりもずっとリアルだったし、それゆえに固定客をつかみ、売上の上昇としかるべき安定性を確保できた。

 ところがチェーン化していくと、データ依存に走っていく。またコンピュータシステムの進化によって、様々なチェーン店のデータがお金を出せば、すぐに入手できるようになった。そのことによって、販売結果が早く出るというか、早く出過ぎるようになってしまった。

 これらのデータに関する僕の疑問は、半年かかってようやく売れ出すものを予測できるのかというものです。僕らが一番しまったと思うのはもう少し我慢していれば、売れ始めの時にもっと在庫を持っていたのにと思うことです。返品したり、仕入れをしていなかった時にブレイクする本があって、そうした変わり目の一瞬をうまくつかまえられなかったりすると、何か悔しいんだよね。

 でもチェーン店の場合、そういう発想はまずない。というか、POSデータ依存の時代にあって、そんなことはやらなくてもいいよというのが今の時代です。

(略)

[データ依存は]コンビニと雑誌はいいけど、本に限っていえばちがっている。例えば、ビールだったら(略)シェアはそれほど変わることなく、日々売れ続けていく。

(略)

 でも書店の場合、新刊だったら一ヶ月経つと、すべてが変わってしまうじゃないですか。また変わらなきゃいけない。それが日本の出版業界の現実です。そうした現実の中で、自分の店に合った新刊かどうかはこちらが決めるしかない。だってコンピュータは接客もしていないし、お客さんと対話したこともない。要するにその店の個別データは読めていないからです。

名古屋の書店の推移

[郊外店、複合店、大型店などのバブル出店の影響]

それらの出店に対して店を大きくした。(略)

しばらくするとちょっと広げすぎた感じも出てくる。(略)在庫と売上のバランスシートが悪くなり(略)

それでいて最も忙しい時期でもあったし、一番記憶が曖昧でもある。

(略)

 名古屋の場合、地下鉄の駅のそれぞれに地域を代表する書店が必ずあった。しかもそれぞれが共存するような関係だった。それがほとんどきれいになくなってしまった。

 (略)

うちの場合、一般的な雑誌、コミック、学参は置いていない。(略)それでも雑誌の売上シェアはかなりあったから、雑誌の売れ行きが落ちていくと、他の分野にも影響が出てくる。全体のバランスがとれなくなってしまった。

(略)

[大型書籍店の出店が]ボディブローのようにきいてくる。ジュンク堂を始めとする全部揃えるといった大型店が出てくるようになると、様々なジャンルに影響が表れてくる。そうなると回転が悪いジャンルは縮小するしかない。

 その時にかなりの見直しをやった。それであらためて人を育てることを大事にし、棚と商品構成は自分の目の届く範囲に限定し、店の特色とよくわかる分野に力を入れることを再確認した。

 各分野に担当者を多くつければいいというものではないし、意見が分かれるほうが多い。中途半端なジャンルは弱い。例えば、教育書、コンピュータ書、資格試験物、看護やケアに関するシリーズ物などは弱いから、他の書店にまかせる。もちろん立地とロケーションを含んでの判断ですが、やはり自分が責任をもってやれる範囲が一番いいのではないかという結論に落ち着いた。

(略)

巨大フェアはもう(略)できない時代に入ってしまった(略)

[80年代、郊外店複合店が全盛になり]

それとパラレルにフェアの中心となるテーマがどんどん稀薄になっていく。ニューアカデミズムブームも終わり、新しい歴史を支えていた網野善彦もスターになり、その挙げ句に亡くなってしまった。網野さんたちは戦後の日本共産党から離反した左翼で、八〇年代から九〇年代にかけてそういった経歴を持つ学者たちのほとんどが亡くなってしまった。

(略)

七〇年代に全共闘運動にかかわり、学者になった人たちがニューアカデミズムを支え、世代交替していくわけだけど、前世代に匹敵する大きな仕事を提出しているのかといったら、はなはだ心許ない。これは読者が変わってきたことともつながっている。

 その一例として澁澤龍彦が挙げられる。彼は死んでからの評価が上がるじゃないですか。そこで読者層が変わるんですよ。その前の読者は澁澤の昔のことを知っているというのだけれど、その後の世代というのは澁澤が生きていた同時代を体験していない人たちが圧倒的に増えていく。

(略)

遺作の『高丘親王航海記』(略)

七ツ寺共同スタジオ20周年記念として一九九二年に天野天街の脚色・演出で野外劇として上演しました。澁澤夫人を始め、四谷シモン金子國義、それから種村季弘もまた元気だったからきてくれた。澁澤グループを形成していたほぼ全員がきていたんじゃないかな。

(略)

 ――(略)私が聞いたところによると、河出書房新社の『澁澤龍彦全集』がものすごく売れ残ってしまったようなんです。(略)

文庫の売れ行き状況や新たな人気の高まりをあてこんで、かなり部数を上乗せした結果なのかもしれない。それで古書業界に流れた。古書業界もまた澁澤本の人気とバブルの記憶がまだ覚めやらずで、全国の古本屋が積極的に仕入れ、店によっては地域の古本屋の中取次のつもりで、一五〇セット買ったところもあったようなんです。だから現在古本屋が握っている『澁澤龍彦全集』は千セット近くあるのではないかといわれている。なぜダンピングしてさばかないかというと、値崩れのきっかけになり、多くの古本屋に迷惑をかけるので、自粛しているらしい。

筑摩書房と田中達治

 ――(略)私たちの世代は岩波書店ではなくて、どちらかといえば、筑摩書房の全集のイメージが強い。

古田 まあ、そうだろうね。僕もこのシリーズ7の筑摩書房の菊池さんの本を読んで、あらためて実感しましたからね。

 ――(略)なぜそんなことを強調するかというと、やはり筑摩の営業の故田中達治のことにふれておいたほうがいいと思ったので。私は一度だけ、田中を中心とした名古屋の書店の人たちの飲み会に同席(略)筑摩の書店営業人脈はこのようにして形成され、そして筑摩ファンの書店員たちも生まれてくるのだなと実感した。(略)

古田 彼とは親しかったね。それに八〇年代は出版社の営業の時代でもあり、田中さんだけでなく、有能で魅力のある営業マンもいて、それぞれがその出版社のアイデンティティを体現しているようなところもあった。でもそういった人たちも、時代が変わるにつれて、数少なくなってしまった。

 ――それにつれて、その筑摩書房も全集の出版社ではなくなりつつある。(略)

菊池さんにインタビューして確認できたのは文庫、新書へとシフトし、ペーパーバック出版社へと切り換えたので、サバイバルすることができたという事実です。

(略)

古田 (略)[筑摩のシフトは]書店状況にかなっていたし、サバイバルしてきた。それは事実だろうけど、すでにその次のシーンを考えるべき時期に入っている。

(略)

[他の商売と比較すると、ファッションなら次の年は流行おくれになるが]

極端なことをいったら、雑誌を除いて本だけの店であれば、一年前とまったく同じであっても、売れスジをキープしていれば、文句を言う人は少ない。(略)

すでに古本屋があるじゃないかという声が上がるでしょうけど、僕がいっているのはもう少し微妙な差がある本だけの書店なんだけど。

図書館の問題

古田 図書館の生み出したのは膨大な数の利用者であって、あれは読者層ではないと思っている。(略)

図書館と利用者の増加はすごいんでしょう。出版業界の凋落と反比例していて、書店とも明暗をわけている。(略)

 しかしこの増え続けた図書館の仕入れシステムが一番の問題だね。(略)書店の現場において僕たちは一冊一冊を真剣に仕入れている。(略)スリップの動き、その本の著者の過去の売れ行き、客層と読者層、広告と書評情報、自分の読後感と顧客との対話などを総合させ、発注している。もちろん新刊配本もできるだけ事前に押さえるようにしている。

 でも図書館の現場の本の発注はそれぞれ定まった専門の担当者がいるわけでもなく、主としてTRCの発注システムと『週刊新刊全点案内』の情報によっているのがほとんどで、それに利用者のリクエストが加わっているのが現状でしょう。

(略)

 ――(略)返品が自由な委託制であるから、書店の仕入れは緊張感と責任感が足りないといわれていますが、さらに輪をかけて図書館の発注は緊張感も責任感も欠けている。しかもそのシステム化は図書館の数の増加とともに加速し、官僚的に構築されたこともあって、図書館の中枢に存在するのは本ではなく、様々なシステムのような気がします。

若い人を育てる

古田 今の書店の状況はかつてに比べて三倍働かないとやっていけない。(略)

ルーティンワークをこなしながら、フェアやイベント、他との差別化も考えなければならない。うちの場合は中規模店だし、ジャンルごとに専門の担当がいるわけでもないので、店長の自分がレジも雑役も兼ね、全体を見ながら運営している。でもベーシックな品揃えに関しては決して手を抜いていない。書店の場合の棚の判断は詩と芸術評論を見ればよくわかる。そこが一番面倒だから、品揃えや選書が店の欠落、もしくは個性としてすぐに出てしまう。だから非常にこわいところです。

 ちくさ正文館は人文、文芸、芸術にジャンルをしぼり、どこにもあるものは置かない方針をとっている。それもあって、固定客の層が厚い。だから目的の本以外にも刺激的で、思わず手にとってしまう本をセレクトした棚を心がけ、リピーターとしてのまたの来店を誘うようなインパクトを常に与えたいと思っている。

 それといつまでも昔の客層だけを想定していては駄目で、うちの店に合う若い客層を引き寄せる本や雑誌にも常に気をつけ、それらをいち早く揃えていくことも大切です。こういった情報はやはり様々な人脈のネットワークから得られることが多いし、それを活用することで可能になる。しかしそれらに常にアンテナを張り続けるためには、僕では年令的な限界がある。

 だから若い人を育てなければならない。これからの書店はそれに尽きる。ある程度、時代の波長が読めて、それを具体的に棚や品揃えに反映させ、継続させて明確な店のカラーに打ち出せる若い人たちの出番だと思う。これからはそういう若い人たちがいる店といない店に二極化していくのじゃないだろうか。

時限再販を考える

 ――(略)雑誌店として生き残ることはよほど立地条件のよいところ以外難しい。(略)必然的にサバイバルを図るのであれば、文字通り書籍店を選択し、本を売って今より高い利益を上げるシステムに移行することが求められる。そこで私はずっと時限再販を主張しているし、それはこのシリーズ7の筑摩書房の菊池さんも同様なわけです。

(略)

古田 (略)僕の長い書店経験からいっても、やりよかった時代は一度もなかった。でもやりやすくなったら、今まで以上にこれは商売になると考え、資金力のある他業種が参入してくるだろうね。

(略)

 ――(略)筑摩書房の菊池さんの時限再販論、それから日書連の会長の書籍の最終処分決定権は書店側に持たせてほしいという発言も出ています(略)

実際に本を売って、利益を上げることのできる現場を実現させなければならないところにきている。(略)

現在四〇兆とも五〇兆円ともいわれる出版社の既刊本在庫を時限再販によってリサイクルする。そして書店の正当な利益にかなう仕入れ正味と粗利の設定、及び書店への最終処分決定権の移行をめざす。

古田 (略)危惧するのは本は他の商品以上に、どこでも同じものが置ける。時限再販になったとしても(略)バーゲン本が全国一律にばらまかれ、またしてもチェーン店のような光景を出現させてしまうのではないか。(略)

それと同時に今の書店状況で、時限再販本の仕入れがきちんとできるかという問題がある。それこそ取次の自動配本と本部仕入れにたよる新刊とベストセラーのシェアの高さ、既刊の自動発注への依存を考えると、実際に既刊本仕入れがまともにできるとは思えない。(略)新たな問題が起きて(略)前の再販委託制のほうがいいという声が大きく上がるようになるかもしれない。

(略)

 ――(略)買切の時限再販市場になったとすれば、書店の粗利は現在の倍の四割から五割が保証される。そうなると、単館の思想から見て、二〇坪くらいでも十分に粗利がとれる本だけを売る書店を今よりも低コストで開店できる。(略)

菊池さんとも話したのだけど、取次は筑摩書房などの「35ブックス」の経験もあるので、時限再販本を流通させることは可能だし、新たに時限再販口座を出版社、取次、書店の三者が設け、その口座を通じて流通させればいいのではないかとの見解に落ち着いた。

 出版して、一年か二年経過した本は時限再販本として流通させ、既刊本市場も固定したものではなく、常に流動するものに想定する。(略)古本業界も当然のことながら流通販売の対象となり、いわゆる流通販売の多様性も見こまれる。

(略)

 ――(略)八木書店が毎月『新刊特価書籍卸目録』を出している。(略)かなり多くの書店が八木書店とこの目録経由で仕入れを行い、ある程度の書店の売上にはなっていると思います。それでも積極的に踏み切れない理由をお話し頂けませんか。

(略)

古田 (略)商品内容の多様性がないし、毎月仕入れを起こしてある程度の分量を売ることに対する危惧を感じる(略)もちろん売ってみたい本が毎月何点かあることも事実だけど、今ひとつ乗り気になれない。(略)

例えば(略)名古屋モダニズムを扱った『周縁のモダニズム』が(略)定価が二四〇〇円のところ、特価は四八〇円で、二掛けの値段です。

 うちの店には常備すべき本(略)欠かせないものだと思う。でもこの本を八木書店からは仕入れられない。それにはいくつかの理由がある(略)

 まずちくさ正文館では定価でこの本をかなり売っているし、出版社にはまだ在庫があるので、正規のルートを優先したい。それにもし八木ルートで仕入れたとすれば、(略)同じ本でも定価本とバーゲン本が店頭に並ぶことになってしまう。それは避けたいし、定価でたくさん売ってきたものを今になって、平積みバーゲンするのも、お客さんに対して気がとがめるところもある。

(略)

もうひとつ重要な問題があって、それは鮮度のことです。この『周縁のモダニズム』[は15年前の出版](略)必要な読者には行き渡っていると考えられるし、バーゲン本として平積みしたとしても、それほど売れるとは思えない。むしろ棚差しで一年に数冊売れればいいという判断になる。(略)だから八木書店でもずっと売れ残っているのだと思う。(略)僕のような長年の新刊書店の立場から見ると、時限再販本であっても一冊ずつその位置づけみたいなものを測ることから始めるので、新刊以上の仕入れの難しさがつきまとう。新刊の場合は次々と刊行されることもあって、とりあえず鮮度は保証され、再販委託である。しかも個々の内容はともかく量だけは出ているので、平台にしても棚にしてもスペースが足りないほどだ。

(略)

 だから時限再販本を常に扱うのであれば、専門のスペースを設ける必要が生じる。(略)複合店などで、倒産した出版社の本をワゴンなどでバーゲンとして売っているのをよく見かけるけど、あれはまったく駄目だと思う。

(略)

 新刊書店にバーゲン本を置くと、倒産や返品不可のことを客側が直接知らなくても、どうしてもマイナスのイメージがつきまとってしまう。

(略)

文庫の復刊という企画があって、岩波文庫が最初に始めた頃はよく売れたが、今ではマンネリ化してしまい、普通の重版と変わらない企画になってしまった。

(略)

 人文会が「書物復権」という定期的重版を共同でやっているけど、鮮度に関してはまったく駄目で、かつて備わっていた面影の復権はできていない。出版社やごく一部の大学の教授たちが需要があるはずだといくらでもいえるかもしれないけれども、ある程度の読者層がいないと、それらの復刊ですらも売り切るのに何年もかかってしまう。

時限再販と再販委託制のメリット比較

時限再販の導入は新刊と時限再販本の併売のかたちをとることになる。

 この併売のかたちはブックオフのスーパーバザーでやっている中古本と新刊書店の組み合わせ、平安堂などが始めた古本売場の導入と異なったものだと思う。

(略)

 古本売場の併設は古物商の鑑札を持っていれば誰でもできる。ちくさ正文館でもいつでもできる。(略)ただそこで問題なのはその人材がいるかどうかで、それがものすごく難しい。仕入れや販売価格はそれこそデータに依存すればわかりますが、売場そのものを長期的に維持するオペレーションができるかというと、とても疑わしい。それはそれでプロの世界だと考えられるからです。

 それと同じことが時限再販本にもついて回るような気がする。(略)

 現在の新刊と棚づくりと平台の関係からいうと、平台は新刊、それぞれの分野の棚差しにしてもベーシックな品揃えに鮮度の高い本を加えていくことで、店全体の品揃えが維持されるように心がけている。

 だからこそ鮮度が落ちてしまっている出版社のお仕着せの常備や長期セットを断わっているわけです。それと同様に、棚も絶えず鮮度を保つようにチェックし、入れ換えていかなければならない。

(略)

 これを可能にしているのは(略)再販委託制によって自由に仕入れができるからで、新刊と既刊分を合わせれば、五〇万点以上に及ぶ本のストックがあることによっている。つまりそれらのことによって書店での販売やフェアの多様性が保証され、僕たちはそのようにしてやってきた。(略)でもそれが行きづまっていることも間違いなく現実であることも確かだ。

 そこで時限再販のことに目を向けてみると、先ほどふれたように「35ブックス」みたいなものしか出版社の側からは提案されていない。あの企画が問題なのは点数も少ないことに加え、多様性と継続性が何も示されていないことです。一過性のフェア的なもので、棚である程度の時間をかけて売っていくという書店での販売が反映されていない。

 それは八木書店の目録とも相通じていて、掲載されている本が鮮度も含め、商品、銘柄、読者層のこと考えても魅力がないことに尽きてしまう。何とかセレクトしても二、三十冊で、それらも本としてのつながりがほとんどないから、一冊売ればそれでいいという感じだから、とても仕入れる気になれない。

 書店に長くいると、新刊の鮮度の重要性が身に沁みている。(略)読者も(略)新刊との出会いを求めて書店にくるわけです。またそうであるからこそ書店が成立している。それゆえに僕は利幅はあっても、時限再販やバーゲン本を扱う気になれない。やはり新刊の魅力を優先してしまう。

(略)

[古本は]粗利は新刊よりも稼げるとしても、買切と仕入れと在庫問題が新刊とは異なるリスクを持っている。一割ぐらいの場所を割いても、それらも含んで古本の売上が全体に寄与するかどうかは個々の店によって様々だろうし、新刊売場のように返品して止めてしまうわけにはいかない。

 もちろん思い切って五〇〇坪のうちの二五〇坪を古本にしてしまえば別だろうけど、どこもそこまでは踏み切れないし、またそこまでやってしまえば、新刊書店のアイデンティティが問われるし、新刊の売れ行きにも影響が出てくるだろうしね。

(略)

 出版社は時限再販にして正味を下げれば、書店の利益率はそれで上がるから、現在の状態からは前進するし、書店にとってもメリットがあると勝手に考えているようだけど、僕がいったように、アリバイ工作的な時限再販はむしろ書店側にとって迷惑だと認識したほうがいい。そのための労力を考えれば、少しばかり利幅がとれたとしても、労力と手間暇がかるだけで何のメリットもない。

 

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