「本屋」は死なない 石橋毅史

「本屋」は死なない

「本屋」は死なない

原田真弓

 原田真弓とは知り合って十年余りになる。彼女は書店員で、僕は出版業界専門紙の記者だった。(略)
 大型書店には毎日、大量の新刊が入荷する。そのひとつひとつを売場のどこに並べるかを決めるには、ろくに読みもしないのに内容をわかっているという特殊な能力が必要になる。ずっと以前、彼女にコツを聞くとそれはこういうものだった。
 タイトルと装丁を見る。目次を見る。キーワードだけに注目して、立ったまま、または歩きながら三十秒、読む。それだけでわかる。わからない本は商品として弱いと判断するしかない。例外は常にあって、三十秒ではわからないけど引っかかりを覚えた本は、あとでちゃんと読んでみる。出版社とあらかじめ話し含って、中身も先に読んでいて、売場のどこに置くかを決めている本もある。でも毎朝、必ずやるのはその三十秒の繰り返し。自分の持場の箱を開けてから十分、十五分でそれを終わらせる。
 べつに特別なことじゃなくて、担当をもってる書店員なら誰だってやっていますよ。そういう光景、よく見るでしょう?(略)
 でもね、と彼女は呟いた。そうやって本を仕分けしていくのって、自慢したいくらい捌く能力がついて、あっという間にパパッと並べてみせて、あとで確認してもやっぱり間違ってないってうなずいて、でもそれでいいのかなあ、と思います。なにか悪いことしてるような気がして。
 悪いというのは、著者に対して? 出版社?
 なんだろう、本かな? でも本だけじゃなくて、もういろいろと。
 売場を訪れるたびに彼女は、担当している分野で静かに売れはじめた本や、自分がひそかに応援している本や、最近の客の傾向などを話してくれた。そしてわずかな時間の立ち話の最後に、いつも虚無感をにじませて何かを言う癖があった。たとえば「なにか悪いことしてるような気がする」と。そう言われると、たしかに僕たちは全体が悪いほうへ向かうことに寄ってたかって加担しているような気がした。
(略)
書店を辞めたと聞いたときは驚いたし、自分の店を立ち上げようと考えていることも知らなかった。にも拘わらず、彼女の開業の報せに僕は即座に納得した。
 原田真弓の行動には、書店の現状に対する抵抗と、虚無のつぶやきを発してきた自分を乗り越えたいという願いが込められていると思う。

棚が見える感覚

カテゴリーの配置です。たとえばフランス料理、イタリア料理と並んでいて、お菓子作りの本がそこから離れたところにあったら、これは違うなあと思うんです。お客さんの多くが店の入口からその棚にたどり着いて、どこから見ていくかという、目の動きですね。棚の前にある、本を積んだ平台部分も含めてです。すごく単純にいえば、和食の本を並べた棚の前の平台にフランス料理の本を積んでしまうと、お客さんは目線がぶれます。なにか一冊買って帰りたい気持ちを知らないうちに失って、帰ってしまう」
 ――棚が死んでしまう。
 「そうです。あるいは、フランス料理が実際にはあまりニーズがないのに、見栄えの綺麗な新刊が多いのにつられてズラっと並べちゃうと、本をレジヘ持っていってもらえない棚になっちゃう。それよりは和食の基本的な先行良好書をちゃんと揃えたほうがいい、とかですね。もちろん、具体的にはお店の立地、客層、時期によって違ってきます。もうひとつ、その本はなぜここに置いちゃダメなのか、なぜその本じゃなくてこの本を置かないといけないのかを言語化できるかどうかも、私には重要でした。
(略)
いちばんは、返す判断ですね。棚は、入れるよりも抜く作業が重要なんですよ。いまの、商品量の多い時代の発想だと思いますけど」(略)
売れないのに明確な理由もなく残している本があると、どんどんダメになります。わざと、ダメな本を置くこともあるんですよ。和食の作り方を知りたいと思ってお店に来た人は、いくつかの本を比較して買ってゆくわけじゃないですか」
 ――売りたい本を引き立てるために、隣に噛ませ犬みたいな本を置くと。
 「言いにくいんですよ、これ。出版社だって、自分のところの本をそんなふうに扱われたらたまらないですよね。でも実際にはある。私はやっていたし、やっている書店員は大勢いると思います」
 来店客が主体的な選択をした気分になれるよう誘導する陳列は、多くの小売店の常套手段だ。書店においても、並ぶ本は一冊一冊がたまたま隣り合っているのではなく、連なった集合体として存在する。もちろん、エースの隣に噛ませ大を置くような組み合わせだけでなく、あれもこれも買いたいと思わせる並べ方もあるだろう。有効な見せかたは店によって連う。駅の構内のような慌ただしい雰囲気の店では買う本を即断しやすい見せ方が必要で、常連客を増やすことを重視する店なら「気になる本がいろいろある、また来よう」と思わせる工夫をしている。
 だが、最近はそうした棚の演出が見られなくなってきている。近年、書店員による手書きPOPが増えたことはこれと関係がある。(略)
書店の大型化で一冊一冊の存在感が薄れたこと、本が多すぎて買う側も売る側も選択が難しくなったこと、アマゾンなどネット通販への対抗、この本だけは埋もれさせたくないという書店員の思い、などを背景にして増えた。
(略)
 「いい棚ができたなあ、これはけっこうお客さんが手にとってくれるかも、ってひそかに思えるような日々が好きで。そのことに集中できた時代がいちばん楽しかった」
[――いい棚を作れる人と作れない人の違いは?](略)
 「切り口のひとつとしていえば、書店員の棚の作り方は『コンプリート型』と『切り捨て型』にわかれると思います。たとえば日本の小説の棚を担当したら、置いておくべき作家をアイウエオ順に並べる基本をちゃんと守るのが前者。伊坂幸太郎さんの本ならこれとこれは置かないと、というのを作家別にきっちりやって、売れたら補充を欠かさない。切り捨て型は、いまは伊坂幸太郎を推すときだ、と思ったら全部を置く。あるいはよその店があまり推していない作品ほど前に出す。そのかわり、もっと実績のある作家さんを一冊も置かないとか。場所がないんで外しました、なんて平気でいって店長に怒られてる。後者は性格にムラがある人も多いし、失敗すると売上げも落ちちゃうんですけど、時代の空気と合ったときはバーンと存在感のある棚になるんですよ。

もはや商品知識すら、個別具体的にしか使えない

岩波ブックセンターの社長、柴田信の言葉を思い出す。(略)
 「本をたくさん知ってる。それだけなら、もうアマゾンの検索が一番。誰でも引っ張りだせる。書店員が本のタイトルに詳しくても意味はないんだね。この本の隣に何を置くかというのも、もはや原理原則を言ったってしょうがない。まとめてアマゾンで買えばいいんだから。残ってるのは、個別ですよ。アタシがやってるこの店に、何がなきゃいけないのか。アタシの店では、それをどう並べなきゃいけないのか。これだけが残ってるわけだ。この、個別の商品知識、棚の構成力が不可欠になる。そのためには、店の子たちに五年や十年で辞められちゃ困るわけですよ。経営者は、定年まで自分の店で働いてもらえる人材育成を、もう一度やんなきゃいけないだろうね。それが必須になる」

育てたブームをPOSが一気に消費してしまう

[原田が会社を辞めた理由]
リブロでの八年間、自分がパルコ時代の焼き直しをやっている感覚はずっとあったんです。棚づくりのコツ、売れ筋を自分でつくっていく仕掛けは、基本的にはパルコの頃に覚えたことを踏襲していました。ただ、それはそれでつまらないわけじゃなかったから……。やっぱり、それじたいをやりにくい状況になってきたことが大きいですね。これははっきりと、あの頃からと言えるんですよ。リブロが日販の子会社になって、チェーン全店の注文数や在庫を日販が把握できるようになってから」
(略)
 出版物の流通は、「書店は売れなかった本を返品できる」という委託販売のルールと慣習によって、大多数を占める「売れるかどうか、置いてみなければわからない本」「あまり多くは売れない少部数の本」も全国の書店に並ぶようにしてきた。これは本という商品の特性からいって良い慣習だったが、その反面、慣習は悪用されるようにもなった。
[出版社は売上げ確保のために本を濫造し書店へ流し、返品額を埋めるためにまた新刊を送るという自転車操業に]
 書店のほうは、出版社とは逆のかたちでこの慣習を利用する。(略)「あの本とこの本はもう売れないから返す」のではなく、「今回は五百万円ぶん返せ」と社長が社員に指示する場面を、部外者である僕が見たことさえある。それほど当り前のことだった。
 出版社と書店の間で本とカネの行き来を仕切っている取次にとっては、これがあまりに横行すると無駄なコストがかさむ。(略)
一タイトルあたりの仕入れ冊数は減らしてきたが、内心では「売れない」と思っている本でも、取引のある出版社の新刊は原則としてすべて受け入れてきた。日本の取次は、一私企業でありながら、企業としての損得だけで本を扱うのではなく、国内の出版文化を支える役割を担ってもきたのである。(略)
[だが90年代から市場が下り坂になりPOSによる]
効率化を本気で進めないと、出版流通はほんとうに破綻してしまうという切迫感が取次にはある。(略)
[しかし]
 こうして導入されたシステムを、仕事がやりにくくなった最大の原因だ、と原田は言っている。これを言うのは彼女だけではない。取次とPOSシステムが繋がることを拒否している書店もある。
 拾われちゃってるようなんです、と原田は説明した。
 「こちらのやっていることが、あちらに。明言はしてくれません。それが、よけいに気持ち悪かったな。(略)
[世間に知られていない本を]置き場所や見せ方を変えながら少しずつ伸ばして、やっと売れるようになってきて、もっと広げて展開してみよう、というふうに育てていく。でも日販に注文数や在庫数が見えるようになってから、育てている途中の段階で、あっという間に広がるようになったんですね。TSUTAYAだとか、よその地域の書店でもバーンと展開されてしまう。(略)
 「面白くない……、そういう個人的な感情もあります。(略)でも、それは私の個人的な欲に過ぎないし(略)
[それよりも]問題は、そうやってあっという間に広がることで、土台のしっかりした、強いジャンルになる前に消費し尽くされちゃうことなんですよ」(略)
 「最近だと“森ガール”のブームがそれにあたると思います。
(略)
瞬間的に消費されて、確立されないうちに消えちゃう。じっくりやれば、渋谷の洋服屋さんなんかとも組んで、いろんなことができたと思うんだけど」
 原田の記憶では、いわゆる“カフェ本”ブームは三年をかけてゆっくりと育てられた。だがマガジンハウスの雑誌『ku:nel』などの“暮らし系”が三ヵ月ほどで浸透したときは早すぎると感じた。“森ガール”にいたっては育つこともなく終わった。
(略)
[後日ある取次の部長にその話をすると]
「(略)その書店員にとって面白くないのはわかる。(略)でも、もうそんなことを言ってる場合じゃないんだって。売れるモノをどんどん探して、優先的に送り込んでいくしかない。取次の流通も書店の売場もパンク寸前で、一刻の猶予もない段階にきてる。日販は、現実をとらえた正しい判断をしていると思う。もちろん、どこか味気ない世の中ではあるけどさ」
 流通業者である取次が商品政策にまで手を出し始めたことで、全国一律的な本の陳列、販売はさらに加速するのではないか? 本の世界は自由度を失い、つまらなくなるのではないか? そう思う人も多いだろう。だがいっぽうで大多数の人は、もうこういうことは止められる流れじゃないんだ、とも思っている。ほうっておけば出版流通を支える基礎的な機能が崩壊してしまう、という危機感が取次の原動力になっており、その流通システムの中でやってきた者には反論が難しい。

伝説の男・伊藤清

 さわや書店での店長時代、彼はいわゆる“書店発ベストセラー”を数多く仕掛けた。(略)
[千部しか売れず出版元が絶版を予定していた『天国の本屋』]
伊藤清彦が自店で大量販売を始めてから注目を集め、やがて全国に広まりベストセラーとなった。当時、著者の二人は「もはや僕らの本ではない。これは伊藤さんの本だ」とコメントしている。(略)
発売時はまったく話題にならなかった『五体不満足』が翌年にブレイクした瞬間、全国の書店で在庫をもっとも多く確保していたのはさわや書店だったといわれている。発売時に本書を見て予感を抱いていた伊藤は[大量発注しており](略)売れ行きに火がついた最初の一週間だけで千二百冊を売ったという。事前の大量仕入れを講談社に交渉できるだけの人脈と説得力をもっていだからこその成功でもあった。
 こうした眼力や技能に、人情の加わったエピソードもある。人気作家を他社にとられピンチに陥ったある中堅出版社が「あそこはつぶれる」と嘲笑されたと聞くや応援することを決め、その出版社が再び大ヒットを出すきっかけを作った。うちは盛岡に足を向けて寝られないのだ、とその出版社のひとが聞かせてくれた。
 この種のエピソードを挙げてゆくだけで一冊の本になる。実際に、書店員となる以前の生活や、東京の山下書店にいた時代のことも語った『盛岡さわや書店奮戦記』がまとめられた。
 伊藤清彦がひとつの本に目をかけた瞬間、ドラマがはじまる。
 そんな言い方も、けっして大げさではなかった。いくつもの本が、当時は人口30万人に満たなかった盛岡の一書店でヒットのきっかけを得ている。その事例がひとつひとつ明かされるたびに、伊藤清彦とさわや書店の名は知られていった。
 だが伊藤は2008年10月、[事実上のリストラで]さわや書店を辞めて無職となった。突然のことだった。

チェーン店に再就職したが、三日で退職

 まずはしばらく耐えて、時間をかけて本部や現場を説き伏せるというわけにはいかなかったのかと問うと、伊藤はわずかに気色ばんだ。
 「だって全然違うのさ、やってきたことが。まず、人脈を否定されたから。こっちが呼んだわけじゃないが、初日に旧知の出版営業の人が顔を見に来てくれた。ただの善意、激励の挨拶だよ。するとそのことが本部に伝えられて、接触するなと言われた。(略)出版社との人脈を使った仕事はしないでくれと。これは、はっきり言われた。(略)
スタッフと三日間いっしょに働いて、可哀想だなとは感じた。現場が、本部の指示でしか動けない。午前中は本部とのやり取りに時間を取られて、新刊を並べる作業を後回しにしていた。お客のほうを向いてないのさ。事務所には監視カメラがついていて、本部でリアルタイムに見られるようになっている。店長の机には、椅子がない(略)
うわ、こうやってガチガチに締め上げてるのか、って。店の数を増やしすぎた弊害じゃないかな。社員を信用できないんだと思う。
(略)
新刊書店でなければという気持ちは、もうあまりないな。とにかく本を扱いたい。生活はなんとか成り立ってさえいればいいんだけども。いまは、現場で本に触れてないのが痛い。接客も含めて、現場にいないと力は急速に衰えちゃうから(略)
やっぱり書店員をやってることの醍醐昧のひとつは、お客さんがこういう本ないかって聞いてきて、自分が知っていれば他にこんな本もありますよって伝えたり、知らなかったら教わって、なるほど、ちょっとやってみようか、いま並べてるあの本と一緒にしてみようかって、幅を広げていく。そのやり取りを、僕は意識して他のお客さんにも見せてたのね。あ、この店は本の話すると食いついてくるんだと知ってもらう。これがはまると面白いことになるんだ。そういうお客さんがひっきりなしにやってきて、店をお客さんと一緒につくっていけるようになる。なにしろ、現場にいることがすべてなのさ。僕は、本部であがってくる数字見て、店ごとに本の分配して、その仕事の何が面白いんだろうと思う。
(略)
 松本は当初、ジュンク堂が自店から徒歩一分の場所に出店すると知ってもさほど心が揺らがなかったという。伊藤清彦が率いる自分の職場に自信があったからだ。
 だが、伊藤はスタッフの前でも動揺を隠さなかった。うちは厳しくなる、やられるだろう――。松本は、伊藤がそう語ったことじたいに動揺したという。二週間を過ぎると、対抗策が伊藤から語られ始めた。やがてジュンク堂のオープンが近づき、迎撃に向けて気合を入れ、しかし店はやはり売上げをとられた。
 そして、伊藤が会社を去った。かわって店を預かることになった松本が会社から向けられた言葉は、「これからは普通の本屋をやろう」だったという。
 普通ってなんだろう?取次や出版社の言うことを聞く本屋ということか?じゃあ俺が今までやってきたことは何だったんだ?
そういうことをずっと考えてるんです。
たしかに、伊藤さんが敗れた。
言い方はいろいろできます。私も複雑だけど、でも敗れたんですよ、やっぱり。
それは今でもショックとして残っています。
私の師匠は、伊藤清彦なんです。これからも。
ずっと、考えています。自分がどうやっていくか。
(略)
かつて群を抜く数字で力を示した伊藤清彦が、これからはどんなふうに「本」を人に伝えてゆくのか。そのことにこそ僕の興味はある。
 そう話すと、難しいね、と彼は一瞬だけ沈黙し、だがすぐに話し始めた。
 「仕掛けた本に火がついて飛ぶように売れていく快感っていうのは、一度味わうとなかなか忘れられないのさ。
(略)
[本の読み方は]
「少しずつ、書店員になる前に戻りつつある。書店員のときは、常に商品として見てるのさ。お、これは面白いと思って読み始めても、途中からはもう、どこに置くか、どの本とくっつけるか、版元はここだから仕入れはこうしようとか。装丁は、値段は、POPに書く言葉は、って気にしながら読む癖がついてしまって、そういう意味では純粋な読書ではなかった。いまはその必要がないから、他人に薦めるつもりもない本ばっかり読んでた感覚がだんだん戻ってきてる。それでいいのかという、複雑な気持ちもあるけども」

再度、原田真弓

 開業から一年半。改めて原田真弓にインタビューをした。きっかけは彼女からのメールだった。
《「もうちょっとの糸口」が見つかりました。》
《ただ、今、その伝え方をどうしたらいいかわからなくて、それを模索中です。》
《きっと、その糸口は正解だろうと思っているのですが、》
《それは、本の評価方法を変える、ということです。》
(略)
 本屋のひとってみんな、この本は面白いですよ、って、内容の話をするじゃないですか。インターネット上でもみんなそれを語っているし、おすすめの本は、と雑誌で聞かれたりもして。これを続けている限り、本屋が本を売る理由って、どんどん弱くなっていっちゃうと思うんです。
 ガワの部分、そこを含めて本を語ることを意識しないといけないんじゃないか。紙を束ねていて、文字の美しさとか表紙のデザインがあって、手触りや重さがあって、そういう製本されたモノとして紹介する。文章の素晴らしさはもちろん重要なんだけど、製本された状態をひとつの総合芸術として紹介しなきゃいけないんです、私たち本屋は。
 中身だけでいいっていう人は、これから絶対に増えると思う。むしろ本読みの人のほうが、電子で読めばいいものは何か、自分なりの基準がすぐにできるんじゃないかな。
(略)
とくに普段からそれほどたくさん本を読むわけじゃない人にとっては、手触りとかボリューム感を伴う製本の状態のほうが、作品のイメージを得やすい。そういうことをひっくるめて本だっていうことを、まずは本屋が、もういちど意識して伝えなきゃいけない。
 紙の本がなくなるわけじゃないけど、紙の本が今までどおり残る、っていうのもあり得ない。その危機感って、私は本屋の人がいちばんあると思う。これに関して、私は出版社を信用しません。著者や出版社にとって外せないのは、書いたものを発表し、それをお金に換えること。電子が主流になれば、そっちへ移るほうが自然ですよ。
 本屋だけなんです、製本された紙の本じゃないと存在意義を根っこから失ってしまうのは。本屋の人は、内容だけで本を説明することを意識的にやめないといけないくらいなんです。そうやって、むしろ本屋のほうが著者や出版社を引っ張っていかないといけない。総合芸術といっても大それたモノじゃなくて、日常的に使うモノとしての美っていうか。今までと同じように、いつでもそこらじゅうで手にとれるんだけど、それがモノとして実在することにいかに意味があるかを伝えていく。
(略)
 でもね、ガワの話をしようよ、って言ってまわって、それが間違って伝わっちゃうのは怖いんですよ。この本の装丁ステキでしょ、では駄目なんです。ノスタルジーで語ってることになっちゃったら、むしろ後退なんですよ。新書や文庫はデザインと造形に凝ってないから駄目、ということでもないと思うんです。大量に、広く安くばらまくにはこれがいいんだ、っていう意義はなくなっていくと思うんだけど、簡易なデザインでコンパクトに束ねたものにも、ガワを含めた良さと意義がある、っていう……。

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