エッジィな男 ムッシュかまやつ

以下担当表記(サエキ)サエキけんぞう・(中村)中村俊夫

見過ごされてきた超カッコいい音源

 おそらくスパイダースの最も勢いのある演奏は1965年に始まる外タレのオープニングアクトの演奏だ。そんなライヴ演奏群の録音は残っていない。(略)スパイダースのライヴ的な演奏を味わえるのは映画だ。

(略)

 ムッシュはシングルB面も見逃せない。3rdアルバム『釜田質店』は、叙情歌謡フォークの「青春挽歌」に始まるアルバムだから、この時期はフォークだろうとタカをくくっていると、ここからのシングル「どうにかなるさ」のB面「ブレイン・フード・ママ」を見落とすことになる。アルバム未収録曲、スピード・グルー&シンキのドラマー、ジョーイ・スミスが英語詞を担当したDJキラーのロック名曲。はっぴいえんど鈴木茂、そして大野克夫も参加。

(略)

 今でこそ有名になった「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」(略)もシングル「我が良き友よ」のB面だった。

(略)

 ムッシュのプロデュース作も今では埋もれており、注目だ。フォーク期にも、来るべきシティ・ポップスへの挑戦をしている。笠井紀美子『アンブレラ』だ。翌年には『ひこうき雲』で荒井由実を発進させるアルファ・レコードからの作品。ベースは細野晴臣、ギター鈴木茂、オルガン/ピアノ大野克夫、そしてエレキ・ピアノにアルファの総帥、村井邦彦。以上が全曲で参加している。(略)

まだ細野のキャラメル・ママもスタートしていない。多分にジャズロックサウンドではあるが、すでに細野やアルファ・レコードがめざすべきシティ・ポップスを先導している。

(略)

未発表で、正規には聴けない作品も多い。(略)僕が忘れられないのは、ムッシュがパーソナリティをしたバイタリス、続いてライオン提供のニッポン放送『フォーク・ビレッジ』のテーマ曲。2種類ある。一曲目はアップテンポ、二曲目はダウンテンポの「空がこんなに青くって~」という歌詞を持つ。どちらか、あるいは両方をキャラメル・ママがバッキングしていると記憶するが、この2曲は発表されていたら、人気を博したはず。

(略)

 ムッシュの楽曲を存分に味わうには、やはりソロ・アルバムが適している。(略)

 特に日本のAOR初期作品として異色の響きを持っているのが、『ウォーク・アゲイン』(78年)だ。リズム・トラックはチャック・レイニー、ラス・カンケル他という豪華メンバーを招いたLA録音。最終的には深町純・編曲による分厚いシンセサイザーが日本でダビングされた。その完成度も素晴らしいが、実はLAにおけるリズム・トラックとムッシュのボーカルのラフミックスが極上であると関係者はいう。

(略)

 ムッシュの自己紹介の仕方により見逃されている盤もある。1986年結成のワン・ナイト・スタンド・ブラザーズは要注意だ。ムッシュは70年代末よりフュージョン系人脈とのセッションを行なうようになり、その流れで組まれたバンドである。ギター今剛、ベース高水健司、ドラム島村英二、キーボード難波正司という日本を代表するスタジオ・ミュージシャン。しかしサンフランシスコのアーシーなスタジオで録られたこの盤の狙いはフュージョンではなく、90年代に米国発で席巻していくダウン・トゥ・ジ・アースなブルース、ロックンロールのルーツ系サウンドだった。凄腕ミュージシャンたちのこと、ジャズのシャッフル系の持ち味を生かしながら深いロックンロールのニュアンスを披露している。ユーロビートやデジタルでドンシャリな音全盛の86年。

(略)

ジャケットには自身のイラストの下に「ムッシュ」とサインがしてあるだけ。まるで宣伝する気もない。早すぎたムッシュのルーツ指向の盤。宣伝も投げやりだった。

(略)(サエキ)

 

ウォーク・アゲイン

「夕陽が泣いている」

[浜口庫之助作曲の坂本九「涙くんさよなら」は]最初は当たらなかった。しかしアメリカン・アイドル歌手であったジョニー・ティロットソンが英語と日本語でカバーした途端、大ヒットとなった。本場外国歌手が日本ヒットに交わった瞬間であり、そんな浜口曲のイメージは悪いものではなかったと思う。

 そんな頃にスパイダースのメンバーはまさか「夕陽が泣いている」ほどの陰性歌謡調がブツけられてくるとは思っていなかったに違いない。浜口から曲を受け取った時、その曲調にはメンバー全員が面食らったという。

(略)

「ギャギャギャ」と始まるギター・イントロが印象的だ。そのフレーズは、浜口から渡された作曲譜面に書いてあったという。

 それに対し「悔しいから何とかしてやろうと思いましたよ」とかつて(略)井上は熱く語った。

 井上が激しく胸を切り裂くような「ギャギャギャ!」という激しいイントロ・フレーズを鳴らすと、スタジオのエンジニアが血相を変えて怒鳴り込んできたという。「ギターの音が歪んでる」と。当たり前だ、わざと歪ませているのだから。(略)普段は極めて穏やかな井上堯之が、秘めたマグマを爆発させた。そんな「夕陽が泣いている」のイントロ・ギターには浜口庫之助が「イメージが違う」と激しく怒ったという。

 このギター・フレーズの誕生には、外国人が関わった。1966年当時、シルヴィー・ヴァルタンのギターとして来日、銀座ACBにもよく出演していたミック・ジョーンズだ。(略)スプーキー・トゥース、そしてフォリナーの創立メンバーである英国の一流ギタリスト。(略)ミックの技術は、当時日本の演奏家は知らないことばかりだった。ムッシュは食事やワインをご馳走し、ミックから様々な技法を収集した。

(略)

井上もミックから(略)トレブルを10にして他をすべてゼロにする[アンプ・セッティングを習い、それを](略)盗まれないように井上はライヴ演奏終了時にゼロにしていたという。(略)(サエキ)

カントリー&ウェスタンの洗礼

 チェット・ベイカーに憧れ、トランペットもこなせるジャズ・シンガーを目指していたものの、すでにベテラン勢によってエスタブリッシュメント化していたジャズ・シーンに、素人の入り込める余地はないと判断したムッシュが、次に狙いを定めたのは、戦後に米軍のラジオ放送局WVTR(のちのFEN。現AFN)によってジャズやハワイアンと共に大量にオンエアされ、日本にも浸透していったカントリー&ウェスタンだった。

(略)

[西部劇黄金時代で]

カウボーイやガンマンたちの、テンガロンハットにバンダナのチーフ、レザーベストにジーンズとブーツという姿が、若者たちの憧れのファッションとなったこともカントリー&ウェスタンの興隆に結びついていった。音楽もファッションも「ウェスタン」はエッジィなトレンド・カルチャーだったのである。

(略)

ムッシュは、平尾昌章のバンド「オール・スターズ・ワゴン」で、平尾と共にボーカルを担当していた慶應大生の井上高が期末テスト等でステージに立てない時のトラ(代役)を務めるようになった。(略)ちなみに当時のオール・スターズ・ワゴンのドラマーは田辺昭知だった。10年後に同じバンドで活動することになるとは……まだ神のみぞ知るである。

(略)

当時、米軍キャンプで演奏すると、まだ駆け出しシンガーのムッシュのようなDクラスでも1回2~5千円のギャラが支払われたという。一般的な大卒初任給が2千円足らずの時代にである。高校生としては破格の収入だ。おかげでムッシュは何度か仕事をするうちに2万5千円のマーティンのギターを手に入れている。

(略)

学生ながら、カントリー&ウェスタン歌手としてのキャリアを積んでいったムッシュに願ってもないチャンスが訪れる。(略)プレスリー作品のカバー盤のヒットで"和製プレスリー"第一号となった小坂一也(略)が映画界への転身により離脱したため、再編された同バンドへの参加打診があったのである。

 ムッシュがワゴン・マスターズに加入した58年3月、時代はプレスリー旋風を引き金に巻き起こったロカビリー・ブームに揺れ(略)[多くが]ロカビリー・バンドに転身

(略)

第4回日劇ウェスタン・カーニバルでムッシュは、水原弘井上ひろしと共に"三人ヒロシ"として、ロカビリー三人男に続く期待の新人として売り出される。しかし、彼自身としてはロカビリーに興味はなく、従来どおりカントリー・ミュージックを歌っていきたかったらしい。

(略)

[翌59年水原弘はデビュー曲「黒い花びら」の大ヒットで三人ヒロシから離脱、後釜の守屋浩も「僕は泣いちっち」が大ヒット、井上ひろしも「雨に咲く花」が大ヒットで、三人ヒロシは崩壊]

ロカビリー歌手たちの歌謡曲転向が相次ぐ中で、釜萢ヒロシ一人が取り残された形になるが、彼にとっては三人ヒロシの呪縛から逃れることができてホッとしたに違いない。(略)(中村)

かまやつヒロシ氷河期

 60年2月、ムッシュはテイチクより「かまやつヒロシ」名義で正式レコード・デビューする。デビュー曲は、1958年制作の米国映画『契約殺人』[のインストテーマ曲に日本語詞](略)を付けた「殺し屋のテーマ」。

(略)

 平尾、山下、ミッキーのロカビリー三人男はもちろんのこと、レコード・デビュー同期の佐川ミツオ、佐々木功等がエルヴィス・プレスリーポール・アンカニール・セダカ等のアメリカン・ポップスのカバー盤でデビューを飾っている中で、ムッシュだけ異質な選曲に思えてならない。それが裏目に出たのか、この記念すべきデビュー盤はまるで不発に終わっている。両面とも"殺し”という文字が入るタイトルも災いし、放送局によっては、放送禁止曲に指定されたことも敗因のひとつだろう。

 翌月リリースされたセカンド・シングルは、ニール・セダカの「おおキャロル」と「恋の片道切符」のカバーをカップリング。しかし、前月(略)ミッキー・カーチスが同じカップリングのシングルを発売済みで(略)象徴するヒットとなっていた。かまやつヒロシ盤は便乗ヒットを狙ってのものと思われるが、その思惑は見事に外れ、ミッキー盤の陰に隠れてしまうのである。

(略)

[コニー・フランシス「カラーに口紅」をカバーするも、森山加代子盤の方が世間に認知され、洋楽ポップスのカバーは不発。60年]暮にリリースされた通算8作目シングルは、「結婚してチョ」(!)。(略)

三人ヒロシの中で唯一ポップス路線で頑張っていたかまやつヒロシも、ついに歌謡曲に屈する日がやってきたのである。(略)

 それにしても(略)いきなり名古屋弁のタイトルの(略)コミカルなムード歌謡を歌わせたテイチク制作担当の真意はどこにあったのだろうか?

(略)

[61年2月には、歌謡曲、洋楽ポップスカバー2枚、純正歌謡曲「チョイチョイ節」、4枚のシングルが一挙にリリース]

これはもう試行錯誤なんていうレベルの話ではない。完全なカオス状態だ。

(略)

制作担当者の腹も決まったようで、以後かまやつヒロシにB級コミック歌謡曲路線を突き進ませ、61年4月~10月まで7枚のシングルをリリース(略)

「青春突撃一中隊」(略)、「マージャン必勝法」「ぶらぶら天国」「弥次さん喜多さん」(略)、「どなたでござんす」「嘆きのブルース」(略)、「裏町上等兵」(略)

ムッシュは(略)当時をふり返って「自分の意思なんてどこにもなくて、ただ言われるがまま。これは俺じゃない俺じゃないって気持ちがいつもあったけど、自分に嘘をついてでもやりこなさなければならないんでやってた。そんなだから、これで売れたいなんて思ったことないし、逆に売れなくて良かった。売れてたら、あそこで終わってた」と述懐している。(略)彼が日本オリジナル・ロックのパイオニアとして脚光を浴びるには、さらに4年の歳月を要するのである。(中村)

短命に終わった幻のバンド、ザ・サンダーバード

[ムッシュは、ロカビリー三人男が自分のリーダー・バンド]を結成して活動しているのを横目で眺めながら、いつの日か自分のバンドを結成できることを夢見ていた。

 夢が実現したのは、60年2月のこと。テイチクからのレコード・デビューとほぼ同時期に念願の自分のバンドを持つことができたのである。バンド名は「ザ・サンダーバード」。(略)憧れのアメ車だったフォード・サンダーバードから命名した。

(略)

 結成当時の平均年齢22歳。最年少は18歳の杉本喜代志で、ムッシュは21歳だった。20代後半以上のメンバーで構成されているバンドが多かった時代に、まさに新世代グループが誕生したというわけで、胸ポケットにワッペンを付けた紺のブレザー・ジャケットに白いズボン、紺と白のコンビの靴で揃えたステージ衣装も、若者好みのトレンディな都会的センスにあふれていた。(略)

 お洒落だったのは衣装だけではない。彼らが何よりも注目されたのは、他のカントリー/ロカビリー系バンドよりもジャズにシフトしているところだった。(略)

17歳で日本ジャズ界の大御所ドラマー、ジミー竹内に師事したジョージ大塚(略)ジョージと同じく10代からジャズ・バンドに参加しケニー・バレルばりのギター・プレイを披露していた杉本、永らくジャズ・コンボで活動していた経歴を持つ根本清……

(略)

ロカビリー・ブームで人気が押され気味だったとはいえ、60年代を迎えても若者たちのジャズへの関心は高く、むしろ女性客向けに過剰にショーアップし続けたロカビリーに背を向け、ジャズを嗜好する音楽ファン(男性が多かった)が増えていった。そんな時代のトレンドをいち早く見極めて、ロカビリー・シーンでジャズ指向を打ち出したバンドが、58年5月に結成されたミッキー・カーチスとアイヴィ・ファイヴ

(略)

 ザ・サンダーバードは、カントリー系のムッシュとロカビリー系の高見を二枚看板シンガーとして擁していることでも明白なように、カントリー/ロカビリーとジャズの融合をコンセプトとしており、そこが新しかった。ムッシュの証言によると、ジャズ喫茶などでジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」を演奏していても、間奏はアドリブに次ぐアドリブ大会で、ジャズ・コンボと何ら変わりないプレイだったという。

(略)

1年ほどで解散となってしまったが、ジョージ大塚と杉本喜代志は、その後60年代・70年代に数多のスタジオ・セッションで大活躍。日本の"レッキング・クルー"の重鎮とも言える存在だ。(略)(中村)

亀渕友香に聞く初期ムッシュの実像

[リッキー&960ポンドのヴォーカル、ゴスペル歌手&ヴォイストレーナー、兄は亀渕昭信。中3~高1の時(59年~60年)にムッシュを銀座で観ていた]

亀渕 ジャズ喫茶に来る女子は、一人で来てる子が多かったんですよ。商人の子が多かったかな。(略)

[ムッシュは]本当に素敵でした。歌もギターも上手いし、いつもウットリと観ていました。(略)

ルーピーですよ。だって、ムッシュに近づきたいがために、お父さんのティーブ釜萢にボーカルを習いに行ってたぐらいですからね!

(略)

[ムッシュの歌の魅力は]

軽く歌うところですね。(略)

フランク・シナトラは歌が軽やかです。ビング・クロスビーやサアレサランクリンだって、軽く歌いますよ。(略)

いいですか?軽く歌わないとリズムには乗れないんです。重く歌ってしまってはリズムに乗れない。黒人の歌の先生にも「軽く歌え」と言われたし、ティーブさんにも言われた。(略)

ムッシュは歌を専門に教えてきた私から観ても、本当に歌が上手いと思います。

(略)

ムッシュ孤高の人。軽いノリで敵を絶対に作らず、誰とでもニコニコと仲良くするんだけど、実は人と群れないんです。(略)そのマナーは一生変わらなかった。本当に尊敬すべきミュージシャンでした。

(サエキ)

華麗なる音楽DNA・釜萢家と森山家

 ムッシュの父・ティーブ釜萢は1911年5月7日、米国ロスアンジェルスで生まれた。(略)大恐慌の真っ只中で日系人バンドを雇い入れてくれる店はなく途方に暮れていた頃、東京のダンスホールで本格的なジャズを演奏できるバンドを求めているという情報を聞きつけ、1937年にバンドのメンバーたちと共に父の祖国である日本に渡った。(略)

盧溝橋事件が起きて日中戦争が勃発というキナ臭い状況下だったが、東京や上海の日本人租界ではダンスホールやクラブが賑わい、ティーブたちも東京、横浜、上海の店に出演して活動していた。そんな頃に知り合ったのが、ティーブよりも3年早く米国からミュージシャンの仕事を求めて日本に来ていたトランペッターの森山久だった。

 1910年、サンフランシスコの写真店に生まれた日系二世の森山(略)

のトランペット・プレイは、コロムビア・ジャズ・バンドの「草津ジャズ」、淡谷のり子の「おしゃれ娘」等、服部良一作品で聴くことができる(略)

 やがてショー・トーキアンズのメンバーたちは米国に帰っていったが、ティーブと森山は日本にそのまま残り(略)軍の慰問団に参加して上海に行き(略)淡谷のり子のバッキングも務めている。この時期にティーブは浅田恭子と交際を始め、その後結婚。1939年1月22日、長男・弘(ムッシュ)が誕生する。森山も釜萢家に出入りするうちに浅田恭子の妹でジャズ・シンガーだった浅田陽子と出会い結婚している。

(略)

[ついに日米開戦]

ジャズは敵性音楽と見做され(略)米国籍の両者の自宅は常に憲兵に監視されていたという。

 それでも彼らが帰国しようとしなかったのは、すでに妻や子供もいて、多くの友人もいる日本に根を下ろした生活を送っていたこともあったと思うが(略)カリフォルニア州ではすでに敵性市民ということで日系人への監視が強化されていた(開戦後は強制収容所に収監)等の情報も得ていたのかもしれない。

 1942年、ティーブは米国籍を捨て日本国籍を取得。日本語がまともにしゃべれないまま帝国陸軍兵として応召され中国の漢口に送られた。輸送部隊でトラックの運転をさせられたという。森山もしばらくしてから日本に帰化。すでにジャズを演奏できる場もなく、仕事が激減して困っていた彼にもちかけられたのが、NHKが対米謀略放送として開始した『ゼロ・アワー』の仕事だった。

 太平洋の米軍に向けてジャズを聴かせ若い女性のナレーションで厭戦気分を高めようというのが放送の目的である。二つの祖国の板挟みになるような仕事だが、背に腹は代えられない。政府公認で思い切りジャズをやれることも魅力だっただろう。こうして森山はもうひとつの祖国の兵士に向けてトランペットを演奏するようになったのである。この『ゼロ・アワー』で甘いウィスパリング・ボイスの語りが評判となって、米軍兵士たちから「トーキョー・ローズ」と呼ばれて人気を集めたのが、日系二世女性のアイバ戸栗だった(略)

 彼女は日本に帰化せず米国籍を保持していたことが仇となり、戦後帰国したものの、対米謀略放送に加担した国家反逆罪で逮捕。終身刑が科せられ国籍も剥奪された。彼女が市民権と国籍を取り戻したのは1977年、フォード大統領の恩赦によってだった。戦時中、日本に帰化した者と国籍を変えなかった者…同じ日系二世同士の命運を分けた悲劇と言えるだろう。

(略)

[戦後ティーブは中国で収監され]中国軍将校に英語を教えることを命じられていたらしい。一方の久は、戦後まもなくしてNHKラジオの音楽番組『ニュー・パシフィック・アワー』のために結成された松本伸とニュー・パシフィック・オーケストラに参加。トランペットとボーカルを担当していた。

 当時、代々木上原の古賀正男邸の隣にあった森山邸には、戦災で家を失っていた釜萢家がティーブ不在の頃から身を寄せていた。ここでムッシュは、母方の叔父である久の膨大なジャズ・レコードのコレクションによってジャズの洗礼を受ける。

 特に伝説のコルネット奏者、ビックス・バイダーベックの生涯をモデルに描いたカーク・ダグラス主演映画『情熱の狂想曲』に感銘を受け、ジャズ・トランペッターになることを夢見た彼は、やがて久からトランペットを伝授してもらうことになる。

(略)

[48年森山良子誕生]

ティーブが復員したのもその頃だが、自分の知らぬ間に息子が洋楽に夢中になっていることに大層驚いたらしい。(略)

ニュー・パシフィック・オーケストラから渡辺弘とスターダスト・オーケストラへと移籍(略)

 このスターダスト・オーケストラの初期にピアノを担当していたのが、当時芸大の学生だった黛敏郎。(略)その縁で70年代には、ムッシュの息子・釜萢太郎(1969年生まれ)にピアノと音楽理論・作曲法を個人教授することとなる。

(略)

スターダスト・オーケストラには二人の女性歌手がいて、一人は(略)日本シャンソン界の女王となる石井好子。そして、もう一人がペギー葉山だった。ペギーは1950年にティーブが開校した日本初のジャズ・ボーカル専門学校『日本ジャズ学院』の卒業生で、ティーブに見い出されてスターダスト・オーケストラの三代目ボーカリストとなったのである。

 『日本ジャズ学院』はペギー以外にも、平尾昌章(昌晃)、ミッキー・カーチス、武井義明など錚々たる人材を育成・輩出。(略)(中村)

武部聡志、石井ジローに聞く「ロックな」70年代

石井 スタジオJというスタジオが渋谷の並木橋にあって、ムッシュは70年代前半から年柄年中そこに入り浸っていたんですよ。

 スタジオJは、まだロックのスタジオ録音が一般化していなかった70年代初頭から操業を開始。ハモンドB-3をはじめ、メロトロンやサンのアンプ、70年代後半にはソリーナ、アープ・オデッセイといった先端のキーボードまで揃えたリハーサル・スタジオで、録音にも使用されていた。

武部 ユーミンや、忌野清志郎が常に使っていました。ティン・パン・アレーも使いましたね。

 ムッシュは74年頃そこで、ついに「自分のバンド」と出会った、と言える。それは「オレンジ」というバンドを中核とした。メンバーは、ギターが元ウォッカ・コリンズのベーシスト横内タケ、ベースに石井ジロー、キーボードに78年ソロ・デビューする山本達彦、ドラムは初期ゴダイゴに参加する浅野良治(ゴダイゴのギタリスト浅野孝巳の弟)というメンバー。

石井 自分でいうのも何ですが、オレンジは最高のバンドでした。

 嘘ではない。サエキは74年にムッシュとオレンジの演奏をフジテレビ「リブ・ヤング」で目撃し衝撃を受けた。

(略)

石井 スタジオJは空いている時間に好きなように演奏できるんです。だからムッシュも自分のスタジオのように自由にセッションを楽しんでいたんです。

(略)

 こうしたスタジオJ時代は、ムッシュの人生中、最もトリップ的にハメをはずした時代でもある。

石井 まあ、何というかスタジオJ全体がヤバいノリもありました(笑)。

(略) 

[地方公演で泊まった旅館の壁に飾られた剥製]

キメキメで夢見心地のムッシュを筆頭とするメンバーは、夜中にそれをすべて床に叩き落してしまった(略)キース・ムーンのように窓から家具を放り投げたこともあるという。(略)(サエキ)

2009年のインタビュー

(略)

 カントリーのお客さんは保守的でね。絶対数は多くなかったけどオタクっぽかった。ちょっとロカビリーっぽいものをやると「堕落した」って言われて(笑)。許されたのはプレスリーのバラードや「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」とか、リッキー・ネルソンぐらい。まだカントリーっぽかったからね。スパイダースの初期と同じですよ。マニアックなファンからビートルズとの演奏の違いを指摘されたりね。でも、こういう人たちを裏切ってはいけないと思ってました。

 ただ、ブームだったから時代の流れには逆らえなくて、ロカビリーを歌わざるを得ない。不本意ではあったけど時代もドンドン変わっていって、もうカントリーもどうかなって気持ちもあったのは確か。ちょっとカントリーからは外れて、ボビー・ダーリンみたいにフルバンドをバックに「ラテン・クォーター」で歌いたいなぁなんて思うようになって、サミー・デイヴィス・ジュニアとか、あっちの方に行っちゃった時期もある。ジャズの血が騒いじゃったんだね(笑)。

 あの頃、音楽情報の仕入先はもっぱらFEN。あとアメリカン・スクールの友達。米軍キャンプで音楽好きの兵隊から「ハンク・ウィリアムス全集」みたいなスコアをもらったりもした。いかに早く最新の音楽情報を得るかに勝負がかかってたね。もう情報戦争。みんな独自の情報網を持ってましたよ。

 カントリー界で一番早かったのは寺本圭一さん。(略)

例えば、僕が明日どこかでライヴっていう時、FENで新しい曲を聴いて、歌詞は自分で聴き取って、だいたい3コードだから、イントロと間奏はこんな感じってスチール・ギターのヤツに電話で伝えるわけ。すると、次の日はもうやってる(笑)。それは、スパイダースの頃まで続きましたね。最新曲のレコードなんて日本で出るのは3ヵ月から半年先だったから、それしか手段がなかった。(略)とにかく早くやることに意義がありましたね。

(略)

オーディションを受けて(略)唯一合格したのがテイチク。でも、スタッフにロックの理解者なんていなかった。ディレクターも作家も戦争から帰って来た人ばかりだったから軍歌や戦時歌謡を歌わされてね。自分の意思なんて全然なし。いつもこれは本当の俺ではないと思ってやってたから、売れるわけがないよね。

(略)

アメリカ盤の『ミート・ザ・ビートルズ』を手に入れたことがきっかけで、60年代ブリティッシュ・ビート・グループと出会って、もう目から鱗。(略)

カントリー&ウェスタン以来、久々に自分でやりたいと思った音楽でした。

 ビートルズの一番の衝撃は、それまでアメリカのエレクトリック・バンドは聴いてたけど、ビーチ・ボーイズとか乾いてるじゃないですか。ビートルズやイギリスのバンドのサウンドはちょっと紗がかかった感じで、それが僕の惹かれる部分でした。ちょっと曇ってる感じ。あれはカリフォルニアとイギリスの空気の違いもあるんでしょうね。もっと言うと、フェンダーよりVOXの音が好きとかね。

(略)

 僕がスパイダースに興味を失い始めたのは(略)福澤幸雄が亡くなった69年頃。彼はスパイダースに新しい音楽やコスチュームの情報すべてをもたらしてくれた、とても大きな存在でした。そんな時期にはっぴいえんどとか岡林さんとか聴いて(略)

 その辺りからですね、フォークに入っていったのは。最初は歌詞に惹かれました。恋だの愛だのじゃなくて、日常を歌っているじゃないですか。その前のカレッジ・フォークっていうのはグループ・サウンズと変わらないことを歌ってるよね。僕はPPMもピートシーガーも聴いていないけど、僕の中でフォークもカントリーも合致するんですよ。

 70年にスパイダースが解散してからは、フォークのイベントにもよく出演しました。フォーク人脈と交流しながらもウォッカ・コリンズとの活動もやってたし、グラムも好きでスレイド、モット・ザ・フープルとかにも興味があった。ロンドン・ファッションで化粧もしたけど、とにかく何でもやってやろうみたいな感じで、そのうち自分の道が見えるだろうと思ってた時代なのかな。

 「我が良き友よ」もそんな時期の作品(略)

その頃僕はロッド・スチュワートミック・ジャガーにハマってた時代だから、やっぱり最初はちょっと抵抗感ありましたよ。「夕陽が泣いている」の時と同じ(笑)。

 あの曲は、ちょうど日本からバンカラなヤツらがいなくなった時期の歌なんですよ。(略)僕が普通だったらやらないような曲を作ってきて、「これはムッシュじゃないと歌えない」なんて言って僕に歌わせるんだから、これは拓郎のプロデュース力かなと思う。彼の大学時代の先輩で応援団の団長がモデルらしいけど、俺と全然関係ないじゃん(笑)。本当の俺はB面(「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」)って感じですよ。あれはリキ(力)入ってます。(略)

 ヒット曲が生まれる時って、矛盾した状態で生まれるのかもね。本人が歌いたくないとか、世の中の流れとはちょっと違った色だとかね。「我が良き友よ」は完全にそうですね。あそこまでヒットするとは全然思わなかったもの。今でも世間では僕の代表曲。(略)

でも、それは僕としては困るんですよ。このままじゃ、キャバレー廻りで終わっちゃうだろうという危機感がいつもあったから。(略)

[「夕陽が泣いている」や]「我が良き友よ」があるから、こうして70歳までやってこれたというのも理解してるけど、あの頃はどこへ行ってもテレビでも二流ヒット歌手みたいな扱いだったから、それも悔しくてね。早くそんなイメージを原型をとどめないぐらいに壊して、地味でも良いから自分のリスペクトする音楽をやって行きたい。生涯B級ミュージシャンでいたいと思ったわけです。(略)(中村)

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