出版アナザーサイド 藤脇邦夫

白夜書房から出ていたジャックス、大瀧、ザッパ他、マニアックな音楽本(妄想ジャップロック - 本と奇妙な煙

さよならアメリカ、さよならニッポン - 本と奇妙な煙)を手掛けていたのが著者。

出版アナザーサイド

出版アナザーサイド

  • 作者:藤脇 邦夫
  • 発売日: 2015/12/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

白夜書房

森下さんが脱サラして、ある通販専門のアダルト出版社M書房に入り、その後独立して、ビニール本の出版社「グリーン企画販売」を設立したのが73〜74年で、その後それを基にして、75年に出版社「セルフ出版」ができることになる。まだ、取次口座がなかったので、上野のゾッキ卸しの「日正堂」の口座を借りて書店流通させていた。(略)
77年に白夜書房も設立、最初は硬いイメージの出版社でないと取次口座を開設できないということで、まず書籍口座を、なんと、あのイタロ・カルヴィーノの『蜘蛛の巣の小道』で開いた。これは、書籍部門の福田博人さんが、以前在籍していた薔薇十字社からの関連で持ってきたものらしく、これで取次口座が開けたというのだから、なんとも時代を感じさせる裏事情だ。(略)白夜書房(この社名は福田さんが、五木寛之の小説から採ったと聞いた)という社名は、皮肉にも書籍で知られるようになっていく。つまり、荒木経惟さんの一連の写真集である。

末井昭

末井さんは苦労した人特有の、面倒見がよく、去る者は追わないが来るものは拒まないタイプで、僕も入社時から社内的にも随分良くしてもらった。(略)
 末井さんも、セルフ出版時代の「ニューセルフ」「ウィークエンドスーパー」等で業界内で既にかなりの有名人だったが、いずれの雑誌も大ヒットというわけでもなく、実際に売れ行きと評価がともなったのは、「写真時代」かららしい。しかもその時、セルフ出版、白夜書房とも赤字続きで、「写真時代」が売れなかったらパッと桜と共に散ろうとか言っていたらしく、「写真時代」は、この会社の社運をかけた雑誌でもあったわけだ。幸い、ほぼ完売状態で、燭光が見えてきた時期に僕は入社したことになる。
(略)
「写真時代」は、創刊して2年目くらいまでは隔月刊誌だったが、信じがたいことに、編集は、末井さんと助手の森田富生君、この2人だけだった。2人で、10万部台の雑誌を刊行していたのだから、驚異的を通り越した別の次元の話だが、さらに末井さんは他の雑誌も兼任して、増刊まで手掛けていた。(略)
[雑誌5〜6誌と増刊を出して]社員は30人に満たなかったと思う。(略)25年後、ピーク時の2007年には、グループ全体で、バイトも入れて350人前後にまでなったのだから、驚異の成長率だった。

 「写真時代」は月刊化する84年までに既に部数は15万部を突破し、85年くらいから20万部を記録するようになった。1冊500円だったから、定価で1億、このくらいの人数の規模の出版社としては大当たりした雑誌だった。内容的にあまり広告が期待できなかったが、実売だけで利益を出していたのだから、今では考えられない出版状況といえるだろう。その後の、「熱烈投稿」「スーパー写真塾」もそれぞれ20万部前後になり、売り上げ的には、中堅出版社として成長していった。年商も軽く20億を超えるようになる。

漫画とエロ本

この会社に入ってある人から言われたことがある。
「漫画とエロ本だけなんだ、買わないと読めないのは」
 この言葉には商業出版のある一面が凝縮されている。

情報センター出版局の失速

僕は紛れもない晶文社チルドレンだった。(略)晶文社の黄金時代が70年代であることは誰の眼にも明らかで、自分なりに、その後を、その延長線上の違うものにしたいという、身分不相応な妄想を抱いていた。つまり、晶文社の三大カルチャージャンルとされていた「ジャズ」は「ロック」に、「演劇」は「漫画」に、「海外文学と現代詩」は「写真とアダルト」に、といった具合に置き換えて考えるようになっていた。それがどこまでできたかははなはだ疑問だが、自分としては、70年代から80年代への、サブカルチャーの傾向の変化の一端をこのように思い込んでいた。
 1980年初頭から、当時、書籍で出版業界を席巻していたのは、情報センター出版局で(略)[『私、プロレスの味方です』『さらば国分寺書店のオババ』等で]ヒットを連発し、確かにこれは出版界の新しい流れだった。(略)
 ちょうどこの時期は、写真時代の創刊前後と時期が重なっており、85年位までは、メジャー以外では、雑誌は白夜書房、書籍は情報センター出版局、これが取次、書店の一致した認識だった。
 客観的に見て、83年の藤原新也の『東京漂流』が同社のピークだったと思う(何といっても、紀伊國屋書店新宿本店が車を手配して、搬入日に販売するために、1000冊、印刷所に取りに行ったのはこの時が最初で最後だっただろう)。これを境に硬派路線に切り替えたのかどうか知らないが(略)
関西の親会社と出版局長が何かの理由で袂を分かってしまって退社するに及んで、ある意味、情報センター出版局の時代は終わった。88〜89年頃だったと思う。
 その頃、僕が意識していたのは、「宝島」から刊行される、『ANO・ANO』等の一連のエッセイや増刊号だった。時あたかもバンドブーム前夜で、こういう出版物が単なる音楽本の範疇を超えて、漫画を読むように、「音楽を聴いてコンサートに行きバンドを組む」といった流れを自然に作っていた。その象徴が、81年に出たRCサクセションの『愛しあってるかい』だ。売れ行きもだが、「宝島」とRCと時代がまさに一体となった瞬間で、これ以降『戸川純の気持ち』といった関連書も出て、まさに追随を許さない存在の雑誌となっていく。なかったのは漫画の要素くらいだった(岡崎京子が連載し始めるのは、その後からである)。
 情報センター出版局の失速は僕にとっていろいろなことを教えてくれた。つまり、出版社経営は定期雑誌という柱がなければ毎月の資金繰りを安定させるのは難しく、連載をまとめた単行本の刊行スタイルが維持できないということだ(もちろん例外はある)。これを情報センター出版局は書き下ろしでこなしていたのだから、相当なクオリティーだったが、単行本はしょせん単発であり、毎月、ある一定の部数が売れるとは限らない。ここに陥穽があったのだが、それでも5年維持できたのだから大したものである。それと、これは僕だけの見方だけかもしれないが、当時の20〜30代を相手にする場合、漫画と音楽の要素、及び関連人脈がなかったのが致命的だったと思う。販路としても、時代はこの二つの要素を元に成立し始めている頃で、書籍だけの出版社として、そのジャンルヘの目配りがなかったのではないかと推測される。これは別に非難しているわけではなく、自分もそう思っていながら打つ手がなかった時期を同時に過ごしているからだ。自分でも、その時期、漫画がなければ、後述する音楽本等の出版は全て日の目を見ずに終わっただろう。その意味では、自分の運と趣味に少し感謝したいところだ。

「映画評論」を400万円で

佐藤重臣から雑誌「映画評論」商標権を400万円で買わないかと言ってきた

 実は、僕はある事情通から、「映画評論」の70年代のアンダーグラウンド映画全盛期の時代の発行部数を聞いていた。もう書いてもいいと思うが、確か5000部前後。価格が70年代当時230〜450円だったので、原稿料を払わないのは当然にしても、これでは維持するのが難しいのではと思っていたが、実際は、佐藤氏の顔(?)で、ある程度広告が、少ない金額ながら入っていて、それでぎりぎりなんとか維持していたようだ。途中で雑誌が刊行できなくなったのは、ある映画祭の主宰を引き受けたのだが、その動員の目算が外れ、資金難になったのが裏事情らしい。だからなのか、その時、この「映画評論」は売れなくて廃刊になったんじゃなくて、休刊しているだけなんだとしきりに弁明していた。「出版業界的には同じことなんですよ」と言おうと思ったが、初対面で業界の事情を話して、そこで最終通告するのはどうかと思って、とりあえずその話は受け取って後日連絡するということにした。もちろん、会社にその話を持ちかけることはしなかった。当然である。

書原の森原幹雄

[営業で訪れ社名を告げると態度が豹変。「写真時代」で当てただけだろ、他の本も出さないとやっていけないぞ、と言われ早々に立ち去ろうとして]
ある出版社の本が、入ってすぐの場所に大量に置かれているのに気づいた。この会社の常備店なんてすかと聞くと、常備じゃなくても、出版物に力があれば売るに決まっていると言われ、最後には、「玄光社は馬力があるからね、お宅の出版社とは違うよ」と説教口調で言われるに及んだ。これがトドメとなって、単純だが、以後、椎名町に下車することはなかった。
[一年ほどして森原から桜沢エリカの『かわいいもの』と、岡崎京子の『バージン』を手持ちで直納してくれと電話]
直納すると、少し態度が変わったようだった。本人なりの感謝の言葉はあったものの、その後に、「どうしたの、よくこんな漫画出せたね。誰か新しい才能のある人が入ったの?」とまた余計なことを言われ少し気分を害したが、森原の見る目が間違っていなかったのは、2人の漫画家のその後の活躍を見れば良く分かることだ。それにしても、玄光社の次が、女性ニューウェーブコミックとはその守備範囲の広さに感心し、この件で、この人物に一目置いたことは確かだ。いかに沿線に大学の芸術学部がある環境とはいえ、そこまで本の目配りが出来る人物は、当時他にはいなかった。
 いろいろと話してみると、年齢は僕より3〜4歳上。本を作るプロがいるのであれば、本を販売する書店側にもプロがいるということをこの時初めて知った。そのくらい森原の、販売における見識と情報網は相当なもので、80年代に関東圈で書店営業をした者で、森原の名前を知らないものはいなかっただろう。
 ともあれ、この一件で、一生もう縁がないと思っていた人物とまた付き合いが始まり、一番仲が悪かったのが、最後には一番親密になるのだから世の中は分からない。(略)この人物に出会わなかったら、『出版幻想論』を書くことはまずなかっただろう。
(略)
 マドンナ自身の構成による著書ともいえる写真集が出た頃、この売れ行きについて、「この本を買うことによって、買った人間はマドンナと同じものを持っていて同じ立場になれると思うんだな、だから買っておきたい。所有することによって、同じ価値観を共有できる、そう考えるわけだ」と言っていたが、書店側で、そういった女性の読者の気持ちまで分かるものなのか。
 他には、魚柄仁之助の『うおつか流 台所のリストラ術』の存在を教えてくれたのも森原さんだった。
(略)
その頃から、森原さんはいわゆるマニアックな内容の本の情報ではなく、まだ誰も気づいていない、売れ行きそのものがマニアックな本を見つけて、これを自分の店でできるだけ売るということを始めた。一般的な売れ行きになった時は、他の店でも売られているわけで、その時は、それほど商品を追いかける必要はない。だから、いくら売れても部数的に限界のある、映画や音楽の本についてはそれほど追いかけていなかったのは、「逆もまた真なり」と思ったほどだった。
 ニューアカブームが終わりかけた頃に刊行された『消えるヒッチハイカー』を始めとした、一連の都市伝説本についての目のつけ方も、雑誌で評判になるより早かったような気がする。白夜書房の本でいうと、「ハッカージャパン」が売れ始めた頃にはいち早く連絡をくれて、かなり持ち上げてくれていたのを思い出す
(略)
[最後に会った時に]また余計なことを言われた。曰く、
 「君は書店営業には向いていないね」
 森原さんの退職と同時に、付き合いが始まったのが書原の上村社長(上村卓夫氏)だった。(略)森原さんの考え方の一部自体が、どうやら上村社長から来ていることは、話をしているうちにすぐわかった。(略)
僕の出版業界の精神的な恩人ともいえる(略)上村社長の存在は僕にとって、かけがえのないものだった。
 誤解を恐れずにいえば上村社長は、僕が出版業界で出会った書店経営者の中でも突出した、独特の考えの持ち主だった。さらにその考えは、自分で、直接売れたスリップを見ているという自負から来るものだった。
(略)
[POS定着以前](70〜80年代)の書店には職人的な人物が多くいたといわれるが、逆に、職人的でなければ務まらない業界でもあったわけだ。しかしマイナス面ばかりではない。職人的であればこそ、意図的な仕入れによる新しいジャンルの開拓と売り上げにも直結することもできたわけで、売り上げの維持は当然にしても、機械に頼らない分、その人の人間的な好みが強く出た職種でもあったと思う。
 上村社長は、こういった職人気質を持った最後の書店人だった。
(略)
 僕が『出版幻想諭』の中で、図書館の存在について、図書館の過剰な貸し出しサービスは周辺の書店の売り上げ減に直結するという、当然のことを書くと、こう言われた。
 「図書館について、そう考えるのはわからないわけじゃないけど、図書館で、ある本の存在を知って、その関連で違う本を書店で買うこともあるから、その考えは一方的過ぎるよ。いい意味で持ちつ持たれつだと思うし、実際、ウチの店でも一部納品してるからね。君のように、ある部分だけを敵視していると、全体が見えなくなって、せっかくの自分の仕事が徒労になってしまって損じゃないか。業界全体のことを考えろというんじゃなく、図書館についての意見は、それはそれで自分の仕事を考えるためにも必要なことになっていると思うよ」

見城徹

[文庫部に異動になり『花と蛇』文庫化を思い立つ。吉行淳之介が以前書いたエッセイを第一巻解説に使っていいと配慮してくれた。]
後から考えると、角川文庫ではいち早く、70年代初頭に既に『家畜人ヤプー』を文庫化していたし、何よりも時代は、「写真時代」を筆頭に、日本中がアダルトで発情していたような頃で、時期は熟していたといえるだろう。
(略)
 見城さんが「SM」に強い関心があるのは話をしているうちにわかってきたが、やはりそれは編集者としてのカンが最初にあり、「これを普通のOLに読ませようと思っていたんだ」とよく言っていた。角川文庫版の『花と蛇』は女性の読者も付いたそうだが、営業的に見ると、角川文庫ということで日本全国どこでも入手できるというのが大きかったと思う。
(略)
[幻冬舎創立時、営業に誘われたがあの仕事の厳しさとメジャー志向にはついていけないだろうと断った]
 「俺は一部の趣味というか、マニアのためのものというのか、つまりマイナーなものに興味がないんだ。マイナーな、趣味の世界のものは、マニアを連れてきて、マニアが満足するものを作ればある程度売れることはわかっている。だけど、そういったものはそこまでのもので、限界があるんだ。別に俺がわざわざ作る必要はない。それはそういうやつに任せておけばいいんだ。俺はもっと世の中をあっと言わせる、もっと多くの読者に影響を与えるものを作りたいんだ」
(略)もともとマイナー趣味の塊のような自分には、ちょっとない発想で、その点でも、一緒に仕事をするのはしんどいだろうなと思っていた。

次回に続く。