クラフトワーク  デヴィッド・バックリー

はじめに

 2011年11月 デュッセルドルフ(略)

 私を愛車に乗せ、クリング・クラング・スタジオまで案内してくれているのはクラフトワークの元メンバー、ヴォルフガング・フリューアだ。(略)

大半のファンにとってクラフトワークとはいまだ「ヴォルフガング、カール、ラルフ、フローリアン」の四人を意味する。(略)

唯一バンドに残っているのはラルフ・ヒュッターだ。(略)そう、クラフトワークはラルフ・ヒュッターのプロジェクトなのである。

(略)

ヴォルフガングがバンドを離れてからすでに二十年以上の歳月が流れている。(略)あのバンドで自分は単なる従業員に過ぎなかったこと。ラルフの"サイクリング中毒"のせいでクラフトワークがプロジェクトとして行き詰まってしまったこと。

(略)

もう何も新しいことをしていないにもかかわらず、クラフトワークが活動を続けていることを奇妙に感じ、少なからずきまりの悪さを感じていること(略)

目的地に到着すると、ヴォルフガングはにこっと笑ってみせた。オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク(以下OMD)のアンディ・マクラスキーが指摘したとおり、まさに彼こそ「エレクトロ・ポップ界のトム・ジョーンズ」だ。チャーミングでおもしろくて、きらきらと瞳を輝かせている。

(略)

数年前、ラルフは突然、デュッセルドルフから数マイル離れた場所に新しいクリング・クラング・スタジオを移転しているのだ。古びた建物にはまだ「エレクトロ=ミュラー有限会社」という赤い看板が掲げられていた。建築所有者としてドアベルに記された名前は「ヨアヒム・デーマン、録音技師」。ヨアヒムはかつてクラフトワークと数年活動を共にし、現在はフローリアン(こちらの古いスタジオを本拠地とし続けている)と一緒に仕事をしている人物だ。

戦後ドイツ、自分たちの音楽文化

 ドイツのベビーブーム世代をずっと支配し続けてきたのは「恥ずかしい」という感情だ。今もなお、ドイツの人々がアドルフ・ヒトラーの名前を口にすることはまずない。(略)

 たとえコメディであっても、ヒトラーの物真似は危険と見なされる。(略)

今ではまじめなドキュメンタリーや映画でない限り、鉤十字章の使用も法律によって厳しく禁じられている。

 それでも戦後から六〇年代にかけて生まれたドイツ人の多くは恐怖を拭えずにいた。「連合国の対処が不十分で、本当に罪のある者たちにきちんと償いをさせられなかったのではないか?」

(略)

 経済と文化が復興していった戦後、ドイツの若者たちは主に西側諸国、特にイギリスやアメリカのポピュラー音楽を聴いて表現方法を学んだり現実逃避したりしていた。ドイツ人映画監督ヴィム・ヴェンダースは、これを「我々の潜在意識の植民地化」と呼んでいる。現に五〇年代後半から六〇年代前半にかけて、西ドイツで人気が高かったシングルと言えば、アメリカのヒット曲のコピーまがいのものや、無難で感傷的なフォークソングが多く、たまに自国のヒット曲が生まれる程度だった。だからこそ六〇年代後半、後にクラフトワークとして知られるようになるバンドのメンバーが集まったとき、彼らは"文化的に見てその時代と場所に合った音楽"を作ろうと考えたのだ。クラフトワークを率いるラルフ・ヒュッターは七〇年代にこう述べている。「私たちには日常生活の音楽を再発見する義務があった。なぜなら、それはもう存在していなかったからだ(略)

私たちは自分たちの音楽文化を再定義する必要があった。(略)新しい表現方法を生み出す必要があったんだ」

(略)

ドイツには実験的なバンドが次々と誕生した。のちに英国メディアが「クラウトロック」と名づけた面々だ。彼らに共通していたのは"ドイツ文化の一時停止ボタンを解除する"というヴィジョン。

クラウトロック

 一九六八年はまた、ドイツでポピュラー音楽が爆発的に生み出された年でもあった。当時十六歳の才能あるクラシック音楽家だったカール・バルトスは、そのことを次のように語る。「私たちは遺伝子にブルースを刻まれていたわけじゃないし、ミシシッピデルタで生まれたわけでもない。ドイツに黒人はいなかった。でもその代わり、この国には二〇世紀、視聴覚面において奇跡的な発展があったと思うんだ。戦前にはバウハウスの学校があった。戦後はカールハインツ・シュトックハウゼンのような非凡な人がいたし、クラシックや電子古典音楽も発達した。すごく強烈なことさ。しかも、そのすべてがデュッセルドルフ近辺やケルンで起きたんだ。だから当時の偉大な作曲家たちはこぞってこの地にやってきた。一九四〇年代後半から七〇年代にかけて、みんなドイツへやってきているんだよ。たとえばジョン・ケージピエール・ブーレーズ、ピエール・シェフェール。みんな現代音楽に対して一風変わった取り組み方をしている人々さ。で、私たちはクラフトワークはこの伝統の一部でありたい、そのほうが他のどんな路線よりもしっくりくると感じてたんだ」

(略)

ミュンヘンではユニークな文化の機運が高まりつつあった。中でも特筆すべきはアモン・デュールの誕生だろう。これは過激な芸術コミューンであり、最もよく知られているのは同名のバンドとしての活動だ。彼らは多様なメンバーを揃え、妻子を連れて国内を移動し、ステージの内外で活動を促進していったのだ。またクラフトワークの本拠地であるルール地方やその周辺地域では、五〇年代から音楽革命が進んでいた。なんといってもその中心人物はカールハインツ・シュトックハウゼンだ。彼自身はピエール・シェフェールに強い影響を受けていたという。シェフェールは一九一〇年ロレーヌ生まれで、当初は技術者としての訓練を受けていたが、その後音楽制作を始め、自然が生み出す音や機械が生み出す音(たとえば雨や列車の音)で実験をするようになった。後に「ミュジーク・コンクレート(具体音楽)」として知られるようになるスタイルだ。この活動を支持したシュトックハウゼンは、五〇年代初めにシェフェールと共同作業をしている。(略)

[脚注*アモンデュールとアモン・デュールⅡIは区別して考える必要がある。前者は芸術にまつわる共同体で、短期間バンドとしても活動し、かなり自由な形式のアルバムを何枚か制作した。後者はそこから分離した2つ目のバンドだ。こちらは共同体から完全に離脱して、典型的な"クラウトロック"のバンドとなった。]

(略)

では六〇年代後半、ラルフとフローリアンはどうしていたのだろう?その頃、彼らはデュッセルドルフロベルト・シューマン音楽学校の学生だったという報道もある。この点についてカール・バルトスは言う。「実際には、ラルフはアーへンで建築学を学んでいた。あとクレーフェルトでピアノのレッスンも少し受けてたよ。一方のフローリアンはローゼマリー・ポップから個人レッスンを受けていたんだ(彼女はロベルト・シューマン音楽学校の教師。(略))」

 この当時、ドイツ各地で若いミュージシャンたちの合い言葉になっていたのが「ノイズ」だ。その中にはコンラッド・シュニッツラーもいた。六〇年代後半に台頭したバンド、クルスター(Kluster)の創設メンバーだ(ハンス・ヨアヒム・ローデリウス加入後の一九七一年、このバンドはクラスター[Cluster]と名前を変えた)。やがて彼らの音楽ジャンルは「インダストリアル」と呼ばれるようになる。この「インダストリアル」が初期のクラフトワークの音楽表現に影響を及ぼしていたのは明らかだ。そのことはオルガニザツィオーン名義(クラフトワークの前身)で発表された唯一のアルバム『トーン・フロート』を聴くとよくわかる。パーカッションが前面に出たそのスタイルは異色で、アモン・デュール(略)のスタイルともまったく違うものだった。当時このアルバムに関わっていたのが、本書にこのあとも何度も登場することになるプロデューサー、コニー・プランクである。このアルバムを見事にロンドンRCAに売り込んだのも彼だ。ただ興味深いことに、このアルバムはドイツでは流通していなかった。

 一九六八年から一九六九年にかけて、西ドイツの音楽シーンには多くのバンドが登場している。最も興味深いのは、バイエルンを拠点に活動していた神秘的な三人組、ポポル・ヴーだろう。彼らの閉鎖的な雰囲気はのちのクラフトワークをほうふつとさせる。しかも、当時ようやく市場に出始めた新しい電子楽器に魅了されていたという点でもクラフトワークに通じるものがあった。(略)

 この時期、西ドイツで活躍していたバンドの特徴は三つに集約される。まず第一に、最先端の楽器や良質の楽器(あるいはその両方)を買えるだけの資金の余裕がなかったこと。第二に、年がら年中自分たちの車やバンで地方巡業を行なっていたこと。最後に、ひっきりなしにメンバーが入れ替わっていたことだ。結果的にどのバンドも短命に終わるか、ぱっとしないかのどちらかだった。

 当時の西ドイツ音楽シーンを代表するこの音楽は「宇宙音楽[コスミッシェ・ムジーク]」と呼ばれていた。これは即興で作られる、自由で、無秩序で、曲の長さや使用する楽器などの制約に縛られない音楽で、英米の"バース/コ―ラス/ミドルエイト"という秩序正しい楽曲構造からは完全に逸脱したものだった。

(略)

一般的には、この音楽スタイルは「クラウトロック」として知られていた(略)この呼び方を不快に思う人もいれば、不正確だと考える人もいる(略)

ではここで、この言葉の起源に詳しいへニング・デデキントに登場してもらおう。(略)ずばり『クラウトロック』という本の著者でもある。「言い伝えはさまざまさ。一つはこの言葉がBBCラジオの有名DJ、ジョン・ビールによって考え出されたというものだ。あと、アモン・デュールが〈アモン・デュール・ウント・イーレ・ザウアークラウト・バント〉ってタイトルの曲を出したからっていう説もある。それに、わけのわからない音楽を作ってるドイツ人をおもしろがってイギリス人がつけたのかもしれない。でも私はどの説も信じちゃいない。だってあまりに多くの説があるからさ。それに、このクラウトロックって言葉を考え出したのは自分だって言う人もうじゃうじゃいるんだ」「実は、ファウストってバンドも四枚目のアルバムに『クラウトロック』というタイトルをつけてる。(略)ほら、この言葉はあちこちで使われてたけど、あんまりいい意味じゃなかっただろ?それで彼らは敢えて「よし、私たちはクラウトロックのバンドだ――何か問題でも?」って言いたかったんじゃないかな。実際、この言葉はドイツのミュージシャンたちの間ではこんなふうに使われてたんだ。『まとまりがないし、音もよくないし、アメリカ的でもない。あれはまさにクラウトロックだね』って」「九〇年代になっても、私のドイツ人の友だちは自分の曲をクラウトロックって呼んで結構おもしろがってたよ。彼にとってのクラウトロックは『実験的で、何とも調和しない、高度な技術に欠ける、皮肉っぽいもの』って意味だったんだ(略)

[クラウトロックの特徴は]一種の美学が感じられる点だと思う。クラウトロックには『新たに実験しよう』『以前の見せかけみたいなものは全部捨て去ろう』っていう意志が感じられるんだ。『あらゆるものに疑問を投げかけ、ちょっと生意気に振る舞ってでも、新しいものならなんでも試してみようぜ』っていう意志がね」

新たなフォルクスムジー

こうした自由奔放な混乱状態の中、クラフトワークが生まれることになる。そして彼らはそこに秩序をもたらすことを選択したのだ。(略)ラルフ・ヒュッターとフローリアン・シュナイダー(略)は決してメロディだけは犠牲にしようとはしなかった。一九七六年、ラルフ・ヒュッターはこう語っている。「ドイツは新しい音楽に対してとても寛容だ」「その点はアメリカとは違う、アメリカではまず娯楽ありきだ。アメリカではすべてが娯楽的な価値によって判断されるんだ。でもドイツでは、そういう形で判断されることがない(略)あの当時、音楽とは反動を表現するにはうってつけの手段だったのかもしれない。それに二〇世紀という時代において、音楽は一番新しい芸術形式だったのかもしれない。今になってそう思うんだ。それはひとえに、四〇年代に出現した電子機器やテープレコーダーのおかげさ」。ドイツのアートシーンは事実上崩壊していた。二〇年代にあれほど活況を呈していたにもかかわらず、一九三三年以降は著名な映画制作者や脚本家、ミュージシャンたちの(略)多くがフランスとアメリカへ渡ってしまったためだ。そのことについてラルフは一九八一年のインタビューでこんなふうに語っている。「戦後あらゆるものが置き換えられ、アメリカ文化へと変えられたんだ。コカ・コーラウイスキーも。だから私たちがイギリスの支配区域に住んでたのはある意味幸運だった。イギリスはそこまでしなかったからね」「元々私たちには二つの文化の流れがあった。一つは近代的な流れで、もう一つはもっと痛ましい、歴史的で、民族的な流れだ。そしてどちらの流れも消し去られた。近代的な流れはナチス以前に、民族的な流れは戦争と共に……。だから『家を買い、夫用のベンツ一台、妻用のフォルクスワーゲン一台を持つ』だけが人生じゃないと知ったとき、何を拠り所にしたらいいのかわからなくなった。だったら、自分で何か始めたほうがいいって思ったんだ。目の前がぱっと開けた感じだった。

(略)

ヒュッターは「クラフトワークの音楽は電子音楽だけど、私たちはこれをドイツの工業地帯から生まれた民族音楽だと考えたい――インダストリアル・フォーク・ミュージックだと」と語っている。(略)

クラウトロックと呼ばれたことはなかったんだ」「この言葉はイギリスのメディアが考え出したもので、ドイツで使われたことはなかった」

(略)

一九九二年、ヒュッターは述懐している。「私たちは予見していたと思う。電子音楽がポピュラー音楽の発展形――フォルクスムジーク(民族音楽)――になることを」「周囲からは『そんな音楽はどうかしてる、いかにも気どってるし鼻持ちならない』って言われた。だから私たちはこう言う必要があったんだ。『いや違う、これは日常の音楽だ。車や騒音、それにごく普通の人たちの暮らしの音をマイクで拾った音楽なんだ』って」

 六〇年代後半から七〇年代前半にかけて、ドイツにはいわゆる"音楽業界"というものが存在しなかった。にもかかわらず、国内各地で同時多発的に誕生したバンドたちは共通のヴィジョンを持っていたのだ。ラルフによれば(略)

「あれはまさに無政府状態だった。ケルンにはカンがいて、ミュンヘンには他のバンドがいて、ベルリンにはタンジェリン・ドリームがいた。さまざまな都市のバンドから生じた断片的な動きが重なり合ってすべてが起きていたんだ。そういうバンドとはフェスティバルで顔を合わせたりして、少しは顔見知りにもなったけれど、私たちの活動の拠点は明らかにデュッセルドルフだった」

 自分たちの音楽を聴いてもらうために、クラフトワークがとった手段がマルチメディアのイベントだった。自分たちの作品を"多様な芸術形式を融合させたもの"と考えたのだ。このことについてヒュッターは語る。「六〇年代後半は演奏する場所さえ与えてもらえなかった。で、私たちはアートの世界に忍び込むことにしたんだ。(略)アートの世界の"即興性[ハプニング]"にこだわって光のシヨーや映写を使うようにしたんだ(略)映像も照明も曲も自分たちで手がけたし、スピーカーの筐体も手作りさ。とにかくクラフトワークにまつわるすべてが、私たちの創造的なアイディアから生み出されていたんだ」

(略)

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドと同じく、彼らもまたマルチメディア・イベントで演奏していたのだ(略)

ちなみに六〇年代半ばから終わりにかけて、音響、ノイズ、映像を融合させようとする試みを行なったバンドがもう一組いた。ピンク・フロイドだ。彼らの場合、映画フィルムやスライド映写、照明効果、大音響などを使うことで、LSDを摂取している観客の錯乱した精神を表現し、一体感のあるサイケデリックな体験を生み出すことに成功した。

誰がクラフトワーク

 それにしても、正確には誰がクラフトワークだったのだろう?一般的には「クラフトワークは一九七〇年にラルフ・ヒュッターとフローリアン・シュナイダーによって結成された」というのが定説だ。しかし実際は、このバンドが結成に至るまでの歴史はそれほど整然とはしていない。同時期に存在した多くのバンド同様、クラフトワークもまた当初はミュージシャンたちの自由な集まりだった。たしかに、その中心にいてバンド人員の確保や整理を行なっていたのはラルフとフローリアンである。だが実は、このバンドの起源は一九七〇年ではなく一九六七年なのだ。(略)

その年に、フローリアン・シュナイダー=エスレーベンはエバーハルト・クラネマンと一緒に演奏を始めたのである。フローリアンが得意としていた楽器はフルート。一方、二歳年上のエバーハルトは、それまで自分のバンド、ピスオフ(Pissoff)で数ヵ月の演奏歴があった。ふたりがよく練習したのは、当時五十代だったフローリアンの父、パウルの家だ。パウルは成功した建築家で、既に有名物件のデザイン(マンネスマン社の高層ビルやデュッセルドルフコメルツ銀行タワー)を手がけており、クラフトワークが誕生したこの頃は、ケルン・ボン空港のデザインという巨大プロジェクトに取り組んでいた。(略)

[エバーハルト述懐]

「一番興味深かった教授は、やっぱりヨーゼフ・ボイスさ。"即興性"に関心を持っていたからね。ピスオフにも何かと声をかけてくれたんだ。一九六八年、彼がデュッセルドルフに開いたのが《クリームチーズ・クラブ》さ。アートと音楽を結びつけた型にはまらないクラブで、当時あの街では一番注目されてた。(略)入り口近くにはバ―、奥にはステージとダンスフロアっていうレイアウトだった」「ヨーゼフ・ボイスはそのフロアの隅っこに立って、三時間にわたって延々とハントアクティオーン("手の動き")をやり続けてた。顔の前で自分の両手をわずかに動かすってパフォーマンスなんだけど、まっすぐな姿勢でとても集中してたのを覚えてる。(略)かたわらで、私たちピスオフの五人はひたすら騒音を立ててたよ。とてつもなくうるさくて耳障りな音をね。(略)」

(略)

後にクラフトワークのメンバーとなり(略)ノイ!を結成したミヒャエル・ローターは、少年時代にフローリアンと同じギムナジウムに通っていた。「フローリアンはよそ者だった(略)みんな、フローリアンのことをよくからかったもんさ。歩き方だとか、とがった鼻だとかをね。(略)彼は私よりも年上で、あの頃はすごく気難しくて、神経をピリピリ尖らせてた」

 「フローリアンの父親に会ったのは一九七一年のことさ(略)彼の母親は精神的に病んでいたように思う。(略)彼の父親は金持ちだけど性格の悪い人っていう印象だった。すごく威張り散らしてて、なんて不愉快な人なんだろうと思ったよ。(略)

あの父親の人への接し方はひどく腹立たしいものだった。(略)ああいう環境は、人を機械人間のようにしてしまうんじゃないかって思ったよ」

 クラフトワーク結成当初は、音楽作りの場としてフローリアンの豪邸が使われていた。「フローリアン・シュナイダー=エスレーベンの両親はとにかく大金持ちだった」とエバーハルト・クラネマンは言う。「家にはあらゆるものがあったんだ。(略)クラフトワークの発展にとって、フローリアンの実家が裕福だったってことはすごく重要な意味があった。なぜって他のメンバーは金がなかったけど、彼にはうなるほど金があったからさ」「(略)両親はほとんど家にいなかった。たぶん金持ちって、家にいることなんかに興味がないんだろう。イビサ島か、マヨルカ島か、ニューヨークか、常にどこかへ行っていたいのさ。父親が大金を稼いで母親がその金を使うってパターンだね(略)

彼は最新の電子技術を駆使した、すごく高価な、いいフルートを持ってた。誰も手が出ないような最高級品さ。なにしろドイツで彼だけが持ってたんだから!」

 クラネマンによれば、フローリアンの父親は音楽家を目指そうとする息子を積極的に応援していたし、息子に音楽仲間ができたことを心から喜んでいたという。「(略)四十年経った今なら、その理由がわかる。たぶんフローリアンは扱いにくい息子だったんだろう。実際彼はとても内気だった。(略)

フローリアンはとても頭が良かったけど、抗議行動として、学校の勉強に取り組まずに大好きな音楽に没頭してたんじゃないかな。結局、父親はフローリアンを退学させてボンの(略)特別な寄宿学校へ入れたんだ。生徒をアビトゥーア[資格認定試験]に合格させるための、金持ちしか入れない特別な学校さ。(略)」

(略)

クラネマンは語る。「私にとっては、最初の頃のフローリアンこそがクラフトワークの創設者だった」「彼はクラフトワークで一番重要な人物だった。やがて変化が訪れて、ラルフ・ヒュッターがこのバンドのボスになったって感じはするけれど、最初のうちは構想全体がフローリアンのものだったんだ」

(略)

ラルフ・ヒュッターがフローリアンと初めて出会ったのは一九六八年夏、レムシャイト=キュッペルシュタインで開かれた"ジャズ・アカデミ―"だ。(略)

ラルフは自分の生い立ちをひた隠してきたと言っても過言ではない。(略)

クラネマンは言う。「ラルフの父親はクレーフェルトで織物商人をしていて、かなりの金持ちだったと思う。ラルフは今でもクレーフェルトの実家に住んでるって聞いてる」(略)

 ラルフ自身はフローリアンとの出会いについてこう語っている。「私たちは考え方が似てた」「それにどちらも一匹狼だった。(略)」。七〇年代半ばのインタビューで、ヒュッターとシュナイダーは、自分たち二人のコラボレーションでクラフトワークが生まれたのだと説明しようとしている。実際にはラルフが学位を取るために短期間バンドを離れていたのだが、そのことはうまく取り繕われている。同様に、結成以前のメンバーたちについてはいくらか語ってはいるものの、個人名は明らかにしていない。

二つのクラフトワーク?ラルフは創設メンバーじゃない

 クラフトワークの前身、オルガニザツィオーンのアルバム『トーン・フロート』には、のちのクラフトワークの特徴となる音楽的なテーマやこだわりはほとんど感じられない。

(略)

 前述のとおり、フローリアンをラルフに引き合わせたのはエバーハルト・クラネマンだ。そしてクラネマンはもう一人、クラフトワークにとって欠かせない人物を彼らに引き合わせることになる。(略)

[クラネマン談]「(略)スタジオ・ミュージシャンとして(略)音響技師でプロデューサーのコニー・プランク(略)のスタジオで仕事をするようになったんだ。(略)彼が『ただスタジオの仕事をするだけじゃなく、何か新しい種類の音楽を作りたい』っていう独自のヴィジョンを持ってることに気づいたからさ。(略)

私たちの作った音楽が劇場のオープニングに使われることになって(略)[フルート奏者が必要になり]私がフローリアンをスタジ連れてったんだ。これがフローリアンとコニー・プランクの初めての出会いさ。

(略)

『トーン・フロート』について、エバーハルト・クラネマンはこんな感想を述べている。「ああ、あれはとても興味深かったよ。まさにコニー・プランクの手がけたクラフトワークの作品って感じのアルバムだった」「ずっと後になって、自分がクラフトワークにいたあの頃に何が起こっていたのかを調べてみた。そしたら、そこには同時に二つのクラフトワークが存在していたんだ。なぜってフローリアンがデュッセルドルフに、ラルフはアーヘンに住んでて、それぞれバンド仲間がいたからさ。私はデュッセルドルフのほうでフローリアンと(ハモンドオルガンとフルートの)バンドを組んでた。でもフローリアンはときどきラルフのバンド、オルガニザツィオーンと一緒に演奏していたし、ラルフもときどき私たちのバンドに入って演奏してたんだ。だけど、あのときの私は、そんな二つのバンドが存在してるなんて知らなかった。ただ自分の演奏しているバンドがあって、そこにラルフと、ドラマーのパウル・ローフェンスが加わってるとばかり思っていたんだ」「パウルは今では欧州を代表するフリージャズ・ドラマーさ。あの有名なシュリッペンバッハ・トリオの一員としてツアーを回ってるよ」

(略)

「あの頃既にフローリアンは、音を変化させるための特殊な電子回路を備えた巨大なC-フルートやバスフルート、テナーフルートを持ってたんだ。あとフローリアンのバイオリンも独特な演奏方法でね。座ってひざの上にバイオリンを乗せて横から弾くんだ。しかもいつもスゴく変則的な、アラビア音階で演奏してたよ。私にとってはその頃がクラフトワークの始まりだった。なぜなら、当初のクラフトワークは実験的なグループで"地平線の向こうにあるもの"、つまり新しいものを探し求めていたからさ」「一九六七年にフローリアンと私が実験的なことをやり始めて、一九六八年にラルフ・ヒュッターが加わって、ラルフがドラマーのパウル・ローフェンスを連れてきた。つまりデュッセルドルフのニ人(フローリアンと私)とアーヘンの二人(ラルフとパウル・ローフェンス)が(略)デュッセルドルフで出会い、一緒に演奏をするようになったんだ」「当初はジャズ音楽のようなものを演っていた。

(略)

それにしても、当時の彼らはクラフトワークと呼ばれていたのだろうか?

(略)

「いや、わからない。名前は覚えてないんだ。私自身は、あれは"名前のない"バンドだったように感じる。あの頃のポスターや告知は残っていないし、ライヴの録音さえしてなかった。

(略)

私にとって名前はあまり重要じゃなかった。一緒に音楽を創り出してた人々が重要だったんだ。私にとってのクラフトワークは、一九六七年にフローリアンと私の活動と共に始まった。そして一年後の一九六八年に、ラルフがこのバンドに加わったという認識だ。でも、インターネットでクラフトワークのサイトを見てみると、創設メンバーとして載っているのは二人だけで、ラルフ・ヒュッターとフローリアン・シュナイダー=エスレーベンが一九七〇年に始めたと書いてある。私にしてみれば、これは正しくない。クラフトワークは、一九六七年にフローリアンと私の活動から始まったんだ」

「一年前、自宅の屋根裏(略)から録音テープが出てきた。一九六七年にフローリアンと一緒に彼の実家で作ったテープさ。すでにクラフトワークの音のように聞こえるんだ」「ラルフ・ヒュッターは一九七〇年が始まりだと言っている。でも興味深いのは、一九七〇年にはラルフはクラフトワークのメンバーでさえなかったってことさ。彼は建築学を学ぶためにアーヘンへ行ってたから、一九七〇年と一九七一年の初め頃にこのバンドのメンバーだったのはフローリアンと私なんだ」

 そもそも"クラフトワーク"という名前は誰がつけたのだろう?エバーハルトはこう答えた。「フローリアンだと思う。初期のクラフトワークでは、フローリアンが最重要人物だったからさ。これは紛れもなく彼のアイディアであり、彼の計画だったんだ。(略)バンドの音楽のアイディアもいろいろなデザインも、たしかにフローリアンが手がけていたんだ。だから"クラフトワーク"という名前もフローリアンが考えたんだと思う」

 七〇年代半ば、あるインタビューでバンドの起源についてしつこく質問されたとき、ラルフ・ヒュッターはこんな曖昧で冷淡な答えを返している。「自分たちが作っている音楽に応じて、私たちはいつもさまざまな人々と共同作業をしてきた。六人のときもあれば、四人、五人、三人のときもある。私たち二人だけでライヴ活動をしたことさえあったんだ」。彼にとっては、クラフトワーク誕生はあくまで一九七〇年であり、それ以前ではない。「一九七〇年に私たちはテープレコーダーを数台備えた自分たちのスタジオ、クリング・クラング・スタジオをデュッセルドルフに構えた。それが私たちのレコーディング活動の始まりだったんだ」。この彼の説明に対して、エバーハルト・クラネマンは断固として異議を唱えている。「一九七〇年には、ラルフはクラフトワークのメンバーでさえなかった。なぜなら、彼はアーヘン工科大学で建築学の勉強を終えるところだったからさ。あのデュッセルドルフクラフトワークのスタジオを借りてたのはフローリアンなんだ」

ノイ!

 クラフトワーク初の公式アルバムは、一九七〇年十一月にフィリップスから発売された。(略)少数のクラウト・ロック・ファンを別にすれば、このアルバムを知る人はほとんどいない。そのうえ、このアルバムは制作者本人たちからも愛されていないようだ。

(略)

 このアルバムに携わったのは、まず二人のドラマー、アンドレアス・ホーマンおよびクラウス・ディンガー(後にミヒャエル・ローターとノイ!を結成)だ。それから『トーン・フロート』同様、プロデューサーを務めたコンラート・プランクである。

(略)

彼のスタジオでは、当時の西ドイツでは最先端とも言える電子録音の多くが行なわれていた。(略)

プランクは一九七五年に『レコード・ミラー』誌にこう語っている。「私は単なる共同制作者だ」「でもバンド自体にも彼らのアルバム制作にも同じくらい情熱を注いでると自負しているんだ」(略)

「私はミュージシャンではない」「ミュージシャンと曲、テープの間の媒介手段のような存在だ。いわば指揮者か、交通整理をする警官みたいなものさ」。多くの点で、プランクは西ドイツ版ブライアン・イーノと言えるだろう。

(略)

「学問として音楽を突き詰めるミュージシャンたちの作る曲がなんとなく精彩を欠いてて無味乾燥なもののように思えたんだ。そこで私は、音楽に対してもっと別の見方をする人はいないかと思い始めた。流麗じゃない電子音楽、ジャズマンみたいに即興でやる電子音楽をやろうとする人たちのことさ」

(略)

 一九八一年、ラルフはクラフトワークの初期の活動についてこう語っている。「私たちはミュジーク・コンクレートだけじゃなく、オルガンやフルートを使って音にアクセントをつけるやり方にも興味を持っていた。(略)もっともっとリズミカルにしたかった。試行錯誤の末、電子ドラムにコンタクト・マイクをつけるのがいいとわかったんだけど、ドラマーには嫌がられたよ」「クリング・クラング・スタジオを始動させたのは一九七〇年のことだ。それこそが本当のクラフトワークの始まりとなった。スタジオって言っても、実際はデュッセルドルフの工業地帯にある作業場のがらんとした一室に過ぎなかった。でも私たちはその六〇平方メートルの部屋に防音素材を設置し、今じゃ他の部屋も使ってそこで楽器も作ってるんだ」

(略)

この時期にラルフが事実上グループを離れていたという事実が見落とされることは多い。エバーハルト・クラネマンはこう言っている。「一九七〇年には、フローリアンとシャーリ・ヴァイスと私がいた。一九七〇年と一九七一年の一年近くは三人だけだったんだ」。その後ベーター・シュミットとホシャンク・ネヤデポワーが加入することになる。

(略)

クラフトワークは宣伝用パンフレットも発行したという。「『メディア・ニュース・オブ・クラフトワーク』っていうタイトルをつけて(略)一九七一年一月に発行された。そこには四人の名前が載ってる――フローリアン・シュナイダー=エスレーベン、エバーハルト・クラネマン、ホシャンク・ネヤデポワー(ギター)、そしてカール・ヴァイス(ドラムス)だ。私は今でもそのオリジナルを何部か持ってるよ」

 (略)ギタリストのミヒャエル・ローターとドラマーのクラウス・ディンガー(将来ノイ!を結成する二人組)もこの時期にはメンバーに加わっていたという。「一九七一年一月(略)千二百人くらいの前で二時間か三時間くらいぶっ続けで演奏した。(略)二人のおかげで重厚なのに激しいリズムのパワフルなプレイができたと思う。フロリアンは電子フルートとバイオリンを、私はエフエクト機能がついたハワイアン・ギターとチェロをそれぞれソロで演奏したんだ。クラウスのドラムは獣みたいですごくよかったよ!あの頃は私も全力で荒々しくプレイしてたんだ」

(略)

 六ヵ月間ほどのごく短い期間ではあるが、クラフトワークはシュナイダー=エスレーベン、ローター、ディンガーの三人まで人数が減っていた時期がある。そのサウンドはどちらかと言えば、クラフトワークよりもこの後に結成されたノイ!に近い。

(略)

ミヒャエル・ローターは言う。「クラフトワークのファースト・アルバムは一九七〇年にリリースされた。私が加わったときには、このアルバムはかなりの大成功を収めてて、みんなが〈ルックツック〉に夢中になってたんだ。コニー・プランクがこう言っていたのを覚えてるよ。ミュンヘンではヘヴィな麻薬をやる奴はみんな、クラフトワークを聴いてラリってたって。(略)」。見落とされがちなこの時期のクラフトワークを好むコアなファンがいた。デヴィッド・ボウイだ。間接的にとはいえ、彼こそこのバンドの知名度を高めた張本人と言っていい。彼は一九七八年に、クラフトワークの初期のアルバムについてこう語っている。「最近の作品よりも初期作品のほうがいきいきしてるように思う。あの、誰も見聞きしたことのない自由な感じがたまらなく好きなんだもちろん、ノイ!が加わってた時期のことさ。あの時期のクラフトワークは二つの相反する要素が拮抗してるんだ。『フロリアンの生み出す秩序』対『ノイ!の破壊的な大音響」って感じでね」

 ミヒャエル・ローターは言う。(略)

「一九七一年夏、セカンド・アルバムのためにセッションをしたんだけどうまくいかなかった。理由は明らかだったよ。クラウスと私が、生々しくて興奮をかきたてるようなライヴ感を追い求めてたからだ。だから私たちが脱退したのはごく自然な流れだったと思う。クラウスと私の目指す音楽は似ていた。だから一緒に続けていくべきだと考えた。それでまたコニーに連絡を取って、十二月にノイ!のファースト・アルバムを録音したんだ」

ラルフの復帰

一九七一年の八月か九月頃、クラフトワークのセカンド・アルバム制作のため、ラルフはクラフトワークに復帰した。このアルバムでも共同プロデューサーを務めたのは、もちろんクラフトワークサウンドの革新者、コニー・プランクだ。なお、このセカンド・アルバムでは外部のミュージシャンは起用されなかった。

 一九八一年のインタビューでヒュッターはこう振り返っている。「一九七一年の時点で、まだクラフトワークにドラマーはいなかった。で、安いリズム・マシンを買ったんだ」「テープエコーとフィルタリングで基本的な音を変化させることで、セカンド・アルバム用のリズム・トラックを作った。楽器音のもとになったのは手作りの発振器と、ドローバーでいろんな音色が出せる古いハモンドオルガンさ。あとテープの回転数をいろいろ変えてみたりもした」。

(略)

 このアルバムは決してつまらなくはないが目新しくもない。『クラフトワーク』と『クラフトワーク2』は、適切な技術さえあれば、当時の他の若いドイツ人ミュージシャンでも作れただろう。そこに感じられるのは、まったく新しい表現方法を探しているにもかかわらずそれがなかなか見つからないという焦燥感や苛立ちだ。後にフローリアンは「アンプ付きの楽器を使い始めたら、もうこれまでの楽器は役に立たない、自分たちの想像力は生かせないと気づいたんだ」と語っている。この欲求不満は、サード・アルバムのリリースで解消されることになる。(略)そう、シンセサイザーの登場だ。

 

 世間的には、クラフトワークの最初の傑作アルバムは『アウトバーン』と言われている。だが実はそうではない。その一つ前の作品『ラルフ&フローリアン』なのだ。(略)

いわゆる"クラフトワークサウンド"が明確に示唆された一枚なのだ。

(略)

プロ仕様とは言えないドラム・セットで初めてのテレビ収録に挑むのに嫌気がさしたヴォルフガングは、一九七三年にクリング・クラング・スタジオの片隅で見つけたオルガンのリズム・ユニットから世界初となるドラム・パッド・ボードを完成させた。フローリアンと一緒に発案し(略)共に組み立てた(略)

そう、クラフトワークサウンドの一つ目の特徴は機械的ビートなのだ

(略)

次にくるのはクラフトワークサウンドの二つ目の特徴、メロディだ。最初の二枚のアルバムは、「ルックツック」を除いては、耳に残る特徴的な旋律の曲がなかった。だがこのサード・アルバムで、クラフトワークのメロディは魔法を使ったかのように格段にポップになっているのだ。後年のインタビューでは、ラルフがドアーズの大ファンだったこと、また二人共ビーチ・ボーイズを敬愛していたことが明らかになっている。ブライアン・ウィルソンビーチ・ボーイズで生み出した数々の傑作同様、クラフトワークのメロディにも純粋さと、子どもらしいとさえ言えるような明快さがある。(略)それでいてまったく新鮮で、目新しく、美しいメロディなのだ。

 クラフトワークサウンドの三つ目の特徴は、英米のポップスを称賛していながらも、彼らの音楽がロックやブルース、フォーク、カントリーといった英米の伝統からは完全に外れたところで考え出されているという点だ。

(略)

最後に、四つ目の特徴は(略)音楽という枠組みを超えて音楽作りをしているという点だ。

(略)

環境音楽ニューエイジ、クラシック、シンセサイザー、ダンス・ミュージック――そのすべての要素がこの一枚に凝縮されている。

アウトバーン』、ピーター・サヴィルジョン・フォックス

[ピーター・サヴィル談]

「(略)イギリス版のジャケットは青い高速道路の標識だった。で、これが私にとって重要な意味を持つジャケットになったんだ。裏ジャケは、ちょっとボヘミアンチックであまり好きになれなかった。でも曲を聴いたら、そんなこと気にならなくなったけどね」「当時二十歳だった私は"アウトバーン"のジャケットに衝撃を受けた。ある意味、あれは私が初めて記号論を意識した瞬間だったと思う。そのときはよくわからなかったけど、今ならわかる。あのとき私は過去、現在、未来のヨーロッパの広大な風景が、自分の心の中で広がっていくのを感じたんだ。『アウトバーン』の世界が単色の記号の中に完全に集約されていた。あのジャケットのおかげで、私は視覚に訴えることの大切さをより深く考えるようになったんだ」(略)

「一九七八年にファクトリーのロゴに使ったのが、両耳を指を突っ込んでる男のイラストだった。『アウトバーン』の標識を意識して生み出した、自分にとってはすごく意義深い作品だったんだ。あのイラストは、前々からいいなと思ってた『騒音注意』のマークを借用したものさ。なぜそのマークが気に入ってたかっていうと、ただの標示なのにいろんな可能性や概念の広がりが感じられたからんだ。人間と機械の関係とか、過去・現在・未来における産業とかね。私にとって『騒音注意』のマークは、一種の産業文化のシンボルだったんだ」「まさに『アウトバーン』の標識と同じさ。あの標識には場所と時間っていう概念が集約されてたと思う。まだドイツに行ったことがなくても、私が最初にクラフトワークに抱いていたのは高速道路と大聖堂ってイメージだった。ロマンチックだろで、その後ドイツを訪れるようになってから、ケルンで高架の道路が大聖堂のそばを通ってる場所を見つけたんだ。これぞクラフトワークって思ったね。スピードをガンガン出しながら千年の歴史を一気に通り抜けてく――それが私とクラフトワークとの関係で、その出発点はあのアルバムの高速道路の標識だったんだ」

(略)

同業者の中には、クラフトワークは冒険心を失ったと考え、「このアルバムには、彼らの以前の作品にあったジャズやプログレッシヴの要素が一切見当たらない」「ヒット路線を追求するあまり、彼らは芸術性をおざなりにした」などと言う者もいた。

(略)

クラフトワークの路線変更は裏切り行為だったのだろうか?「そんなことはない」とジョン・フォックスは言う。(略)

「(略)フォークからロックに路線変更したボブ・ディランに向けられた非難に似てる。でも同業者からの不支持を怖れて、もはや色褪せて見える理想にしがみついてるほうがずっと不誠実だと思うんだ。(略)彼らは真のクラフトワークになろうとして不要な要素を切り捨てた。その結果として明確なアイデンティティが残り、事実上、他のミュージシャンたちとは明らかに一線を画すことになったんだ。それをやり遂げるにはものすごい勇気と優れたヴィジョンが必要だったと思うよ」

 実際クラフトワークはアルバム『アウトバーン』で、大半のドイツ音楽を時代遅れなものにしてしまった。長髪やベルボトムというヒッピーの時代は間違いなく終わりを告げたのだ。

(略)

ジョン・フォックスのこのシングル曲に対する反応は、当時の多くの人々と同じだった。(略)コミック・ソングだと解釈したのだ。「〈アウトバーン〉がリリースされたとき、その電子的な点に興味をそそられた。それにビーチ・ボーイズの〈バーバラ・アン〉をこんなふうにリライトしたなんてすごくおもしろいとも思ったんだ。なんて新しい曲だろう、とは思わなかった。ある種、一発で終わるコミック・ソングのように聞こえたんだ」「私は一九六五年と六六年に北欧をヒッチハイクで旅してて、そのときシャドウズやいろんな種類のユーロ・ポップを耳にしてたんだけど、〈アウトバーン〉はそういうノリのいい路線のように思えた。七〇年代半ばまでは、クラフトワークをノイ!や他のドイツのバンドと結びつけて考えたこともなかったんだ。だって彼らの音楽だけスゴく違ったもののように聞こえたからさ」「コニー・プランククラフトワークとノイ!のレコーディングを担当してたって知って、ようやく私は両者のつながりに気づいたのさ。コニーはまさしく"ミスターコネクティヴ"だね――あらゆる系統のヨーロッパ音楽が、彼という中継地点を通り抜けている。彼はまさにその中心人物なんだ」「一九七六年、ロンドンの《レインボー・シアター》の楽屋でキャロライン・クーンと音楽の話をしてたときのことだ。そのとき、私は未来派の音楽に興味を持ってて、ジェット機とか巨大な工業用発動機みたいな音をモチーフにしたバンドを聴いてみたいと思ってるって言ったんだ。するとキャロラインがもう一度クラフトワークを聴いてみるべきだと言い出した。だから彼の忠告に従ったんだ。そのあとコニーから、クラフトワークビーチ・ボーイズに大きな影響を受けてるって聞いて、ようやくわかってきたんだよ。『アウトバーン』がアメリカのビーチ/サーフ・ミュージックを、ドイツでユーロ/モーターウェイ・ミュージックに置き換えたものだということがね。どうやら彼らはビーチ・ボーイズのハーモニーを使った曲さえ企画していたらしいヴォコーダーを利用してね。ぜひそれも聴いてみたいもんだよ」

(略)

 当時クラフトワークは二十三歳のカール・バルトスが加わって四人組になっていた。アンディ・マクラスキーは、ヴォルフガングとカール・バルトスの加入はバンドにとってよかったと語る。「彼らはうまかった。ラルフとフローリアンが実質上二人のドラマーを加えたっていうのは名案だったと思う」。

(略)

ヴォルフガング・フリューアは(略)当時をこう回想する。「プレイしてて私たち三人全員がふと思ったんだ。バンドとしてステージに出るには自分たちは人数が少なすぎる、もう一人加えるべきだって」。フローリアンは(略)ロベルト・シューマン音楽学校の教授に誰か適任者はいないかと相談してみた。するとその教授は即座に答えたという。「カール・バルトス以外にはありえない。彼に限るよ。なぜかって?最高のパーカッショニストだからだ」

(略)

メンバーの半数がドラマーになったのだ。そのうえヴォルフガングが率直に認めたところによれば、カール・バルトスは彼よりはるかに優れたミュージシャンだった。さらに、既に二年間メンバーを務めていたヴォルフガングにしてみれば、バルトスが最初から自分と対等なポジションに就いたことも内心複雑だったに違いない。

(略)

 カール・バルトスは、自分にとって最も重要なクラフトワークのアルバムは『アウトバーン』だと語った。「なんたって、あの伝説のコニー・プランクがプロデュースしてたんだから!」「私が加入したのは一九七五年で、最初は全米ツアーのためのライヴ要員として雇われたんだ。あの頃はまさか、自分が人間機械の一員として十五年も活動することになるなんて思ってもみなかったよ」

コニー・プランクの失敗

 バルトスが加入した頃はこのバンドの転換点であり、あり得ないことが起きていた時期だった。アルバム『アウトバーン』がアメリカ『ビルボード』誌のヒットチャートに食い込んでいたのだ。

(略)

[ヴォルフガング・フリューア談]

「[ロックスターのプロモーションを専門とする会社、ミスター・I・マウス・リミテッドCEO]アイラ・ブラッカーはいかにも大物経営者って感じだった(略)

ラルフとフローリアンとの契約をまとめるために、アイラ・ブラッカーは大きな鞄いっぱいにドル札を詰め込んでハンブルクへやってきたそうだ。で、その場で二人に契約金をキャッシュで払ったらしい。(略)相当な大金だったと思うよ(略)

契約をまとめたアイラ・ブラッカーはその日のうちに飛行機でとんぼ帰りしたそうだよ(略)

で、ラルフとフローリアンの二人はアメリカで何百万マルクだかドルだかを稼ぐことになったんだ。まずはアルバムで、次にシングル・カットで」

(略)

[エバーハルト・クラネマン談]

[アイラ・ブラッカーから『アウトバーン』をシングル用に三分にカットしてくれと電話で頼まれたコニー・プランクは快諾、さらに面会を望まれたが]

コニーは『私には会う時間がないんでね。フローリアンとラルフに会ってください』って答えてしまったんだ。今思えば、このときのコニーの応対はどう考えても間違ってたね。だって後日、ラルフとフローリアンの二人はこの大物ビジネスマンと会って、コニー抜きで相手と契約を結んでしまったんだから。結果的に、あの二人は自分たちの発掘者で、プロモーターで、プロデューサーである人物をこのビジネスから追い出してしまった。これは恥ずべきことだよ。そのあと、私はコニーとこのときのことをよく話したものさ。コニーはこの一件にすごく腹を立ててた」「『アウトバーン』以降、あの二人の態度はがらりと変わってしまった。とてつもなく強硬になったんだ。気軽に口をきかなくなったし、自分たちのいろんな権利を弁護士に任せるようになった。つまり、もし誰かがクラフトワークに対して本人たちの気に入らない発言をしたら、弁護士から厳重な警告の手紙が届くってわけさ」

パパ・ベアが去る

 この華々しい成功の影で、用済みとして切り捨てられ、涙に暮れた人がいる。クラフトワークサウンドを生み出した立役者、コニー・プランクだ。それまで音響面で重要な役割を果たしていたプランクは、基本的に買い取り方式でこのバンドの仕事をしていた。ちなみに、『アウトバーン』の彼のギャラはラルフとフローリアンから受け取った五千マルクのみ。ゆえに一九八七年に死去するまで、この大ヒット・アルバムから恩恵を受けることはなかった。ただし、ひと言言っておきたい。一九七五年当時、五千マルクは大金だったし、おそらくプランクにとってもそれまでで最高額のギャラだったはずだ。

(略)

一九七五年までには、二人はプランクから充分に学んだと感じていたのかもしれない。あるいは、プランクのやり方に不満があり、きっぱりと縁を切る必要があると考えたのかもしれない。

(略)

元メンバー二人が、このプランクに対する扱いに落胆し、激怒すらしているということだ。

 エバーハルト・クラネマンは言う。「コニー・プランクは開けっぴろげで、親しみやすい人だった。それに音の実験にすごく興味を持ってた。金のことには無頓着で、ミュージシャンたちがスタジオを使っても料金さえ請求しなかったんだ」「以前のクラフトワークのアルバムでは、彼はフィフテイ・フィフティの契約をラルフとフローリアンの二人と結んでた。『アウトバーン』はコニー・プランクがプロデュースしたのに、フローリアンとラルフは彼を途中で切ってしまった。これはどう考えても正しいことじゃない。(略)

あのアルバムであの二人がどれだけ稼いだと思う?やっぱり許しがたいことだよ」「コニー・プランクは正当な報酬を望んでた。だから弁護士のところへ行き、『私がプロデューサーなんだから、売上全体の三〇~五〇パーセントをもらって然るべきだ』って主張したんだ。ところがクラフトワーク側の回答は『いや、あれは私たちのアイディアだった。私たちが全部自分たちでやったんだ』というものだった」「でもコニー・プランクにも責められるべき点はある。彼はとても愛想がよくて愚直だった。ビジネスをすべて握手だけで取り決めて、何も書面に残してなかったんだ。(略)

だからラルフとフローリアンは思ったんだ。『そうだ、彼を追い出せるじゃないか』って」「でも、あれはよくないことだ。だって最初二人は彼の友人だったんだ。友人に対してそんな仕打ちはするもんじゃない。私はコニー・プランクがいなかった頃のクラフトワークの音楽を知っている。だから、プランクがあのバンドにどれほど大きな貢献をしたかもよくわかるんだ。本当に初期の頃、あのバンドの曲作りの七、八割を担当してたのはプランクさ。決してラルフとフローリアンじゃない。彼がどんな雰囲気の音楽を選んで、どうミキシング・コンソールを使って、いかにラルフとフローリアンを後押ししてたか……。すごく重要なことさ。だって、クラフトワークサウンドを作ってきたのは偉大なる巨匠、コニー・プランクだったんだから

(略)

彼は音楽のためだけに生きていた。音楽が彼の人生のすべてだった(略)

クラフトワークやノイ!のサウンドを生み出したのはコニー・プランクで、クラフトワーク自身でもノイ!自身でもない。これはすごく重要なことさ。コニー・プランクがいなかったら、あの二つのバンドは存在しなかっただろう。その縁を取り持ったのはこの私なんだ」

 ヴォルフガング・フリューアはこう回想する。「コニー・プランクはすごくいい人で、才能があった。ちなみに彼は、フローリアンとラルフの人生にシンセサイザーを持ち込んだ人物でもある。(略)

結成当初の二人はオルガンとフルートを使って演奏してたからね」「コニー・プランクアメリカに何度も行ったことがあって、アメリカの音楽業界やレコード会社にコネがあった。(略)

駐留してたアメリカ人兵士(略)からロックを聴かされ、ロックを一番うまくやれるのはアメリカ人だとわかってたんだ。それでラルフとフローリアンにこう言った。『ロック的な態度は忘れよう。それを一番うまくやれるのはアメリカのミュージシャンたちだ。ロックは忘れて、何か特別なことをして、特殊なドイツ音楽を生み出すんだ。きみたちの受けてきた教育や音楽に対するヴィジョンを活かせるような、地に足のついたポピュラー音楽を』ってね」「コニー・プランクは新型のモーグシンセサイザーに慣れ親しんでた。(略)こう言ったんだ。『いいかい、オルガンのことは忘れるんだ。捨て去ってしまおう。オルガンは大きすぎる。現代的じゃない』って。で、彼らはその装置で〈アウトバーン〉の車のサウンドを作った。だから先見の明があったのは彼のほうさ。どう考えても、ラルフやフローリアンじゃないんだ

(略)

コニーがモーグを演奏してると、ラルフとフローリアンが『五分前に演奏してた旋律に戻って。それだ!これがいい、これで行こう』って言う。(略)実際に作業してたのはプランクさ。あの二人はただ優雅に椅子に座って、彼にあれこれ指示してただけなんだ(略)

彼は共同制作者や作曲家としてはクレジットされてない。彼は単なる"技術者"じゃなかったのに。ひどいだろう?(略)

アウトバーン』は(略)彼のアイディアや指導があったからこそ実現したものなんだ。それなのに、あのレコードには"技術担当コニー・プランク"としか書かれていない

(略)

[弁護士に相談したが契約書がないので勝てる見込みはなかった]

プランククラフトワークに手紙を送ったけど、まともな返事は返ってこなかった。それでひどく失望したんだよ」

次回に続く。