僕は珈琲 片岡義男

僕は珈琲

まずい珈琲豆

 日本が国際コーヒー協定に参加したのは一九六四年だった。当時の日本は、珈琲市場として新たに登場した国、という認識をされていたという。その日本へ輸出する珈琲豆は、生産国に割り当てられていた輸出枠の外のこと、とされていた。珈琲の生産国は良い豆を輸出枠に振り向け、日本への輸出には、その枠に入らない、等級の低い豆が、割り当てられることになった。いちばんまずい珈琲が当時の日本に入っていた。

 このいちばんまずい珈琲豆を、当時の喫茶店はどのように淹れていたのか。生豆をそのまま釜に入れて煮出した、という説がある。焙煎の手間を省くため、等級のいちばん低い豆が焙煎された状態で売りさばかれた、とする説もある。この焙煎された豆を、じかに釜へ入れて煮出したか、あるいは木綿の布に包んだ、木綿の袋に入れた、というような話はみな、当時の喫茶店で僕が日常的に飲んでいた珈琲と、つながっている。(略)

植草甚一さん

 植草甚一さんの自宅には、両方の合計で十回くらい、いっている。 両方の合計とは、この場合、木造平屋建ての一軒家と、当時は小田急アパートと呼ばれていた集合住宅の部屋、という意味だ。(略)

[平屋建ての]廊下に上がると穴があいていた。そこには穴がありますから、と植草さんは常に注意してくれた。

(略)

月刊文芸誌『野性時代』の新人文学賞を僕が受賞したとき、その知らせは『ワンダーランド』の編集部にも届いていた。なにかの用でその編集部に立ち寄った僕に、

「あの賞は八百長だ、と植草さんが言ってるよ」

と、編集部にいた人が僕に言った。

 それから二、三日後に、小田急アパートの植草さんの部屋を、僕は訪ねた。(略)

「受賞、おめでとう」と植草さんは言った。 八百長の話を思い出した僕は、

「あれは八百長ですから」

と言ってみた。僕たちはふたりとも立って向き合っていた。僕とのあいだのちょうど中間あたりに視線を落とした植草さんは、じつにうれしそうな笑顔になった。ほんのしばらくそのままでいた植草さんは、毅然と顔を上げ、真面目な表情となり、

「いえ、実力です」

と答えた。

 この部屋の電話機が箪笥の上に置かれていたことがあった。伸び上がった植草さんが届くか届かないか、という高さだった。

(略)

 僕が部屋にいるとき、この箪笥の上の電話機の、呼び出し音が鳴り始めた。植草さんは箪笥の上を見上げた。呼び出し音は鳴り続けた。植草さんは、ぴょんと飛び上がり、受話器を右手につかんで着地した。そして受話器を耳に当て、おもむろに、

「はい、植草です」

と言った。

 僕としては植草さんの電話を聞いているほかなく、したがって僕は、聞いていた。最初に「はい」と植草さんは言った。一分ほどしてからもう一度、「はい」と言った。この「はい」が七度、続いた。間隔は一分だから、八分ほどのあいだ、 植草さんは、「はい」とだけ言った。依頼したい原稿の内容を電話の相手は説明しているのだ、という程度なら僕にもわかった。

 わかったままになおも聞いていると、八度目の「はい」はなく、そのかわりに、「嫌です」と、植草さんは言った。この「嫌です」のひと言のあと、「はい」が二度、続いた。そして、「嫌と言ったら嫌です」と、植草さんは言った。その次の言葉は、「どなたか代わりのかたを」というものだった。そして最後にひとつ、「はい」と言い、その電話は終わった。ある日の午後、どこかの誰かが、原稿を依頼するため、植草さんのところに電話をかけた。植草さんはその依頼を断った。(略)

 

 

『黒い傷あとのブルース』

 『黒い傷あとのブルース』の原題は Broken Promisesで、 これをアンリ・ド・パリ楽団が演奏した短いテープをアメリカから受け取った日本のビクター・ワールド・グループの人は、これは絶対に歌謡曲の演奏物として売れる、という強い思いのもと、Broken Promises の原題から 『黒い傷あとのブルース』という日本における題名を考えた。ブルースのひと言がつくのはいいとして、黒い傷あとの、という部分をいかに発想したのか僕は知りたいが、一九六一年の担当者あるいは当時を知る人たち全員が、残念だがもはや草葉の陰だ。

 日本の担当者はアメリカから受け取ったテープのコピーを作り、そのコピーを使って切り貼りし、日本で一枚のシングル盤として成立するよう、整えなおした。「貴殿からお送りいただいたテープをこのようなかたちでレコードにする許諾をいただけるなら、このとおり二分三十数秒で演奏したテープを至急下記宛にお送りいただきたい」というような手紙を添えて、テープをアメリカに送る。待たせるなら催促しなくてはいけない、と思っているところに新しいテープが届く。聴いてみる。なんの問題もない。

 レコードは無事にプレスされ、市場に出た。よく売れた。そしてビクターの担当者は日活から次のような提案を受けた。『黒い傷あとのブルース』をもとに小林旭主演で映画を作りたい。『黒い傷あとのブルース』という題名になり、おなじ題名で小林旭が歌う主題歌が劇中にありレコードも発売される。歌詞は日本語のものをこちらで作る。演奏も日本人がおこなう。 ビクターの担当者はこの提案に全面的に賛成する。 『黒い傷あとのブルース』はこのようにしてアンリ・ド・パリの演奏物でありつつ、小林旭の歌ともなった。市場に出たアンリ・ド・パリの『黒い傷あとのブルース』のスリーヴには、日活映画化がうたわれていない。「アルト・サックスの音がわたしの心をかきむしる」というコピーに当時の言葉で言うところの、金髪ヌードが添えてあり、『黒い傷あとのブルース』と日本語の題名が斜めに入り、傷あとの持ち主とおぼしき男性の横顔が乱暴に描いてある。

 日活映画の『黒い傷あとのブルース』には吉永小百合が共演した。 曲は編曲次第でどうにでもなる。歌詞も日本語でまったく改めて、吉永小百合の Broken Promises があり得たではないか。 あり得たと言うなら、 西田佐知子の Broken Promises もあり得た。映画の冒頭近くにナイトクラブの場面があり、ステージ・ショーの一部分として、デビューしたばかりの頃の西田が歌う。 この歌が、 西田佐知子の Broken Promises であり得た。(略)

 

香港クレージー作戦、一九六三年

 『香港クレージー作戦』は一九六三年に公開された東宝スコープによる作品だ。ある日の午後から夕方にかけて、九十三分のこの作品を、僕は観た。

(略)

 一九六三年はきみが大学を卒業した年だよ、と言われると、ははあ、あの頃か、とおぼろげながら、見当はつく。 大学を卒業した僕はまるで駄目だった。なんにも知らない、なんにも出来ない、年齢が二十代前半の、ただの青年だった。

(略)

 僕はほんとうに駄目だった。なんにも知らないのだ。そのなんにも知らない青年を、会社は四月一日からいきなり、動きかたもその内容もよく心得た人とおなじに扱った。最初に言いつけられたのは、バンカメのガイタメへいってああしろこうしろ、というものだった。バンカメのガイタメへいけばすべてわかってるから、と言われて雨の日の午前九時十五分、都電の切符をもらって、僕は出掛けた。(略)

バンカメとはなになのか、それすら知らない。都電を降りると目の前にバンカメがあるから、という直属の上司のひと言を頼りに、八丁堀から僕は雨の日の都電の乗客となった。対面する時代だった。対面するためには出向くほかなかった。だから僕は出向いた。馬場先門で都電を降りてふと見ると、建物の軒下に BANK OF AMERICA とあるではないか。(略)

 ガイタメとは、外国為替を省略したものだった。これはバンカメのカウンターでわかった。外国をソトクニと読むことはもはや卒業していた。外国はガイコクなのだが、為替は読めもしなければ書くことも出来なかった。(略)

こうも考えた

 生産性、 という言葉がある。 まだ現役だろう。 日本のサラリーマンは生産性が低い、などと使われている。サラリーマンとはどういう人たちなのか。そして生産性とは、どのようなことなのか。生産性とは、最高度の知性のようなものか。それは移動が自由だ。その人がいくところなら、どこへでもいく。そして日本ではたまたま配属 されたその部署でなんとか役に立つのであり、ほかの部署では使えない。彼らは生産性が低い、と言われる理由のひとつは、こんなところにある。

 画一性、という言葉も現役だ。画一性とは、具体的に、どのようなことなのか。たとえば、自分の経験だけですべてを判断する人は、画一性の根源を作っているように僕は思う。自分の体験だけしか語らない。その範囲内で物事をすべて判断する。

 イマジネーション。片仮名書きされて日本語になって久しい言葉だ。イマジネーションとは、なにか。英和辞典を見ると、想像力、構想力、理解力、などと説明されている。最高の状態にあるイマジネーションは、さきほどの知性とおなじようなものではないか。自分の体験だけですべてを判断することについては、さきほど書いた。これは、イマジネーションの正反対だ。イマジネーションのない人たちが、増えている。

(略)

一九七〇年代いっぱいくらいまでは、人々の頭の片隅に、人生如何に生きるべきか、という問いがあった。一九八〇年代の日本から、そのような問いは消えた。人生如何に生きるべきかを、人々はすべてやめたのだ。

(略)

科学技術はいまや日常ですらある。それをすべて受け入れていれば、それ以上のものはない。操作手順を間違えなければ、答えが出る。唯一の答えだ。それ以外のものは、嘘だ、とされる。

 正しい操作手順のなかにイマジネーションはない。それは積極的に排除すらされる。こういうところへ全員が参加しなくてはならない。参加しそこなった人は、どうなるのか。落ちたまま、となるのだろう。操作手順を間違えない人が、正しい人だ。正しい人だけがいる世界は、おそらく、画一的な世界なのだろう。

(略)

 一杯の珈琲を飲む時間は十五分くらいだろうか。 二度と戻らない十五分だ。 そんなことを思いながら、僕は珈琲を飲んだ。ひと口、またひと口。二度と戻らないひと口の蓄積が、一杯の珈琲を作る。

僕は珈琲

(略)注文を告げるとき、「僕は珈琲」と言う人がかならずいる。これを英語に直訳すると I am coffee. ともなる。

(略)

 寿司の店で店主が握ってくれる握り寿司の英語訳は古い冗談だが、いまだに流通している。イクラが How much? でシャコがガレージ(略)

アジは taste だ。イカは under だという。(略)

マグロは true blackだし、アナゴは hole child だ。そしてコハダは small skin だ。鉄火巻きは steel fire roll と見事な直訳だが、カリフォルニアでは人々はそう呼んでいますよと言われたなら、信じる人の数はけっして少なくないだろう、と僕は思う。(略)

スズキが my name というのは判じ物に近い。寿司屋の店主が入魂のスズキを二貫、客の皿に置いたら、その客はスズキを指さして、 My name! と叫んだという。その人は名を鈴木さんといった。良く出来た笑い話なので、スズキの英訳としてすでに定着しているそうだ。

 直訳には効用がある、と僕は思う。青春はブルー・スプリング。作家はメイク・ハウス。こうして書いていると、なんだかすがすがしい気持ちになってくる。愛の結晶はラヴ・クリスタル。五目炒飯が Fried Rice With Five Eyes となっているのを目にしたときには、僕は喝采を送った。よくぞここまでやった、という気持ちだった。

 僕がもっとも高く喝采を送ったのは、日本の部長さんが発したひと言だ。(略)

指で自分の口もとにかかげた杯を自分のほうに傾け、酒を酌み交わすという意味にするあのジェスチュアを加えて、「一杯やりましょう」と、英語で言ったのだ。 その英語は、 Let's do one cup. というものだった。

 「やる」は do で、「ましょう」 は let's だ。 このふたつをつなげて let's do とし、「一杯」の one cup をそのあとにくっつければ、 Let's do one cup. となって、これは立派な英語じゃありませんか、どこがいけないんですか、と信じきっている彼の態度に対して、我が国の戦後における英語教育が発揮した効用の頂点がここにある、とすら僕は思った。

(略)

源氏物語』を僕は読んでいない。 書き出しの部分である「いづれのおんときにか」という日本語は、読めはするけれどその意味は、なんとなくわかっているようだが、よく考えるとまったく不明だ。(略)

アメリカの友人が『源氏物語』の英訳本を(略)僕に中央線のなかでくれた。

(略)

いづれのおんときにか、という平安時代のなか頃の日本語に対応する英語の部分は、 In the reign of a certain emperor, というものだった。こう言われると、隅々までよくわかる。 「いづれの」は a certain なのだ。(略)

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