「ジャズ・マガジン」を読みながら 植草甚一

四年間もジャズにそっぽを向いていたアメリカの
評論家がなぜだったかと告白している

[アルバート・ゴールドマン「ジャズとロックとが会う」というエッセイの紹介]
ジャズ評論家をやっていた彼は、一九六六年から六九年までの足かけ四年間、ロックに興味をいだいてしまい、ジャズのことは、ほとんど考えてみなかったと告白している。
(略)
バッド・パウェルは電気ショック療法で頭までおかしくなり、バードランドのオーナーのオスカー・グッドスタインがパリまで出かけて、ニューヨークに連れもどしたが、むかしの得意な曲を弾かせても指がきかなくなっていた。
(略)
ミンガスがヴィレッジのクラブに出演していたときだ。古いサーベルを二本ぶらさげて入ってきた客がいた、それは骨董品商人だったが、ミンガスは彼がすわったテーブルヘとスタスタといくと、サーベルをひったくって鞘から抜くなり、振りまわしたのである。被害妄想観念にとりつかれていた彼は、相手を暗殺者だと思ったのである。あたりはパニック状態になり、客は外へ逃げだした。
 その当時のマイルスの人気はジャーナリズムのおかげでもある。『マイルスがラッパにツバをひっかけると「ダウン・ビート」は五つ星をやるんだよ』とあるレコード会社の担当係がジョークをとばした。じつはマイルスは聴衆にむかってツバを吐きつけていたのである。聴衆を軽蔑するのはバップ連中の趣味であり、マイルスの癖がべつに新しいというわけでもなかった。
 マイルスの特技はマイムにすぐれていたことで、ジャズ界におけるマルセル・マルソーといっていいだろう。たったひとつの動作や、たったひとつの音で、底しれないムードを生みだしてしまうのだ。けれどパーカーのような即興演奏のなかで発揮できる作曲者としての才能がない。これがマイルスの最大欠点であった。つまり創作者ではなく編集者なのだ。話上手ではなく抽象主義者なのだ。それでブルー・ノートの極限をさぐるために一生をついやすことになった。どんな内容のものを演奏するかは編曲者であるギル・エヴァンスの力をかりなければならなかった。
(略)
[MJQのジョン・ルイスは]クラシックとジャズとの結合をはかったものだ。フランス音楽崇拝は黒人ジャズメンの伝統でもあって、エリントンの時代から、クラシック美をジャズの形式のなかで追求し、そのために失敗してばかりいる。そうなるのは判りきったことなのだった。
 そうではなくアヴァンギャルド音楽とも結びつかないところで、ジャズの局面を変化させようとしたのがバップの連中である。パーカーたちが若かったころの一九三〇年代におけるジャズは、まだ半分がところ音楽と呼ばれるものではなかった。その音楽的でないものとは、つまり肉声みたいなサウンドで、うめいたり、叫んだり、不平をいったりする黒人独特の感情露出である。それが素朴なクーティ・ウィリアムズの吃るような調子から、レスター・ヤングコールマン・ホーキンズヘとソフィスティケートされていきながらも、聴衆は『話していることが判るよ!』といって拍手するのだった。
 それがバップの抬頭と同時に聴かれなくなってしまった。パーカーやガレスピーの機関銃みたいな喋りかた。それはフォーク・ミュージックとバルトークとの関係みたいなもので、ジャズを芸術へと急ピッチで引きあげながら、ジャズメンの視野をひろげさせることになり、戦後になるとGI奨学資金で音楽学校に入る黒人ジャズメンが激増し、やっと譜面が読めるようになった。そうしてパーカーの進歩的コードがフランス印象派のハーモニーによることがわかったりし、西欧音楽にたいする理解のありかたが、ジャズを前進させるような気運になったのだった。
 ところが期待したようなことは何事も起こらなかったのだ。戦後の状況といえば、一九五五年にパーカーが死んだとき、すでにバップの構造的よさは破壊されていて、ジャズはそのルート(根)へと後退しはじめたり、ヨーロッパや東洋の奇妙な音楽の神様に貞操を売ったりしているのだった。
 バップ運動はジャズの歴史における最大功績だったのに、それがなぜジャズを殺してしまうようになったか。その原因が、ぼくには、ながいあいだわからなかった。それが最近になって、やっとつかめた。つまりパーカーはジャズを終着点まではこんでしまったということである。これが盲点になっていた。パーカーはジャズの革命家として褒めあげられ、彼の音楽こそ未来のジャズなんだと考えられたものだが、ほんとうは逆だったのである。
(略)
スイング時代の要素とか題材、そうしてテクニックとか約束ごとは、バップによって本質的には、なんの変化もあたえられなかったからである。偉大なるバードではあったけれど(略)その密室のなかで彼はグルグルとまわりながら、すばらしいアイディアを生んでみせ、目がくらむようなフレーズをくりかえし、リズムとハーモニーとカウンターポイントのうえで、誰にもできないし、誰も夢想しなかったようなバード的小宇宙をつくりだしてみせたのだ。
 けれどである。そういった輝かしい創造的行為のすべてが、音楽形式としては非常に狭くて窮屈だというほかない枠のなかで発揮されていたのだった。それは結果としてどうなったか。伝統的なジャズの要素を、すべて使いはたしてしまったということになる。誰も彼のように早く吹けない。彼のように素晴らしいアイディアやフレーズは生みだせない。そうしてソフィスティケートされたジャズのリズムは、これで行きづまりだということになった。
 こうしてジャズは、あたらしい突破口を発見することができなくなり、危機におちいったのである。どうしたらいいかと、ただあせっているだけであった。そういった状況がジャズをクラシックヘ接近させることになったのである。そうして、もうひとつの局面があらわれた。
 それはパーカーやガレスピーのラディカルな方向が、ジャズの〈ソウル〉を頭におかなかったということで、いわば〈くちびる〉にジャズを賭けていたといえよう。それは黒人としての体験の抽象化ということになるが、そうした演奏を、さらに抽象化したのが彼らの亜流であって、ジャズの白人化ということになった。それかソフィスティケートなブルーベック楽団のポール・デスモンドヘと行きついたわけである。
 黒人ジャズのエッセンスが失われると、ジャズがエモーションにうったえる力が弱くなるだけでなく、ジャズという特殊語から純粋性が消えうせてしまうのだ。そうして、このばあい、ジャズが趣味の芸術であるということも考えなければならない。ジャズは主として黒人の耳によって判断され、これはジャズだ、いやジャズじゃない、というふうにフルイにかけられてきた。そうした歳月のあいだに、非ジャズ的なものは、ほとんど問題なしに駄目だときめつけられたか、まあいいだろうということでパスするものもあった。
 そういう趣味的なやりかたのせいか、一九五〇年代初期のころから、ジャズと非ジャズ的なものとの区別がつかないような傾向になってきたのである。アフロ・キューバンやアラビック・スパニッシュほか異国の民謡が入りこんできたのも一例だし、フランスの印象主義や無調音楽も影響してくる。と思うと、遠い昔のバロック音楽にかぶれるといった調子だ。
 こうした多国語をあやつりなから、どうして自信のある話かたができるだろう。それに答えようとしたのが一九五〇年中期のファンキーおよびハード・バップという逆行現象だった。ホレス・シルヴァーやバッド・パウェルセロニアス・モンクチャーリー・ミンガスといったところが、トラディショナル・ブルースやゴスペル・サウンドがつよい度合いでミックスしているジャズの演奏をはじめた。みんな黒人であり、ニグロ気質を発揮しながら政治・社会的な諷刺をやってのけたのである。
 けれどジャズの社会性といっても、本質的には音楽的なものだ。それが社会諷刺にむかう動機は、きわめて単純なもので、黒人の原始音楽へもどることと、たいした変りはなかったのである。そうして〈ソウル〉サウンドは、最初は機能的でなく装飾的だった。つまり奴隷時代に野良仕事をやっていたときの〈シャウト〉ではじまり、あとはバップ・スタイルになっていく。べつに新しくもない。ハード・バップと称されていたスタイルは、彼らが軽蔑していたウェスト・コーストのソフト・バップの新しさと、どっこい勝負だった。むしろジェリー・マリガンとかショーティ・ロジャースとかいったグループのほうが、より結束して自分たちのものを押しだしたのである。ニューヨークのジャズ・クラブで受けているジャズも、そういったスタイルのもので、十年まえとおなじスイングに、ちょっぴりソウルをつきまぜた程度にすぎなかった。
 こうして一九五九年になったとき、ジャズには救世主でもあらわれなければ、どうしようもないという絶望的な気持におちいったのである。ジャズは、まんなかから二つに引き裂かれ、半分は衰弱しきった芸術派のジャズ、半分はファンクとゴスペルが入ったジャズなのだ。これをほんとうに新しいスタイルでつなぎ合わせることかできるビッグ・マンが出てくれないものだろうか。
 そういうときに姿をあらわしたオーネット・コールマン。彼はジャズの英雄となった。それも昔の英雄とおなじように肖像がメダルにされてもいいほどの人物になってしまったのである。アメリカ南西部から黒い聖杯をもとめる使命をおびた黒いパーシファルとしてジャズ界に登場したのであった。その時点といえばジャズの伝統の崩壊期であると同時に、黒人問題も危機に直面していたから、いっそう彼の登場は注目をあびたのである。
 オーネットは究極的ソウル人間であった。ということは長いあいだ、テキサスのほこりのなかでリズム・アンド・ブルースをやっていたし、ステージの床に寝っころがって仰向けになったままサックスを吹いた経験もあるのだ。だから元来が「シャウター」なのだが、いっぽうドストエフスキーみたいに苦悩する心の持主であり、とりわけ見捨てられ一人ぼっちになった女の苦悩が理解できた。そういう女が彼のもっとも傑出した「淋しい女」で描かれている。
 リズム・アンド・ブルース奏者だったことは、原始人間としての素質があるが、いっぽう彼はアヴァンギャルド派の作曲家・理論家であって、音のピッチや拍子や音質について新しい観念をもっているのだ。たとえば音のピッチは音楽的運動との相関性があって、ピッチの上り下りで、表現する意味がちがってくる。この考えかたが正しいことはあとで絃楽シンフォニーの科学的分析によってたしかめられたのであった。
 ジャズにおける即興演奏と自由は常識となっているが、オーネットのばあいは、それが無定形で訓練されていないし、そのうえアナーキーだったので、ファイヴ・スポットに初出演したときにスキャンダルとなったが、じつは自由な即興演奏といっても、いままでのはどこか足かせをはめられた格好だった。このばあいのオーネットこそ絶対的自由を発揮させてみせたのである。そうして彼は南西部である故郷のカントリー・ブルース・プレイヤーとおなじように本能的に演奏し、じぶんの〈ソウル〉が飛躍するままに無邪気にしたがっていったのが、ソフィスティケートな効果を出すことになった。
 彼は才能ある弟子たちに取り巻かれるようになり、じぶんで「ニュー・シング」と彼の音楽を呼んだ。音楽的自由のほかには、いままで伝統とかルールをいっさい拒否したのだから、この名称は、うってつけである。けれど「ソウル」という一語のほうが、もっと適切であったろう。というのはパーカーやガレスピーに接近していたというよりは、もっとジェームズ・ブラウンレイ・チャールズに接近していたからである。そういった裸の彼であり、ソウルの信念から、突き刺すような苦痛の叫びをあげたのだった。
(略)
一九六二年十一月のタウン・ホール・コンサートのことを語らなければならない。なぜなら、このコンサートは彼の主張がもっともよく実行にうつされたものだったからだ。
(略)
第三部になったときだった。あとでみんなが『あれはいったい何だい?』といって顔を見合せたほどビザールな演奏だったのである。その演奏メンバーはアップタウンの二流バーに出演していたリズム・アンド・ブルースのグループと、猛烈に早い叩きかたで複雑にしたリズムを生みだすドラマーと、交響楽団に出演できるほどの腕前があるベーシストだった。そうしてオーネットは、これらの連中に勝手なまねをやらせながら、アルト・サックスの即興演奏をやったのであるが、それは音楽史上に前例のないほど不快な音響を生むことになった。まったくの悪夢。バビロンの都が崩壊したときはこんなようだったろうと想像させるような、騒々しいサウンドだったのである。
 ぼくも当夜は、まったく面くらってしまったが、七年後になってジャズの本を書くためにオーネットとインタビューしたとき、やっと彼の気持が理解できたのである。あの気ちがいのような演奏は、オーネットの〈ソウル〉のアレゴリーだったのだ。リズム・アンド・ブルースの出演はテキサス時代の彼の過去。白人のベーシストは彼の未来。というのは最初のクラシック絃楽四重奏は黒人世界が持たなかったものであり、オーネットのヴァイオリンヘの志向が、このばあいのベースというアレゴリーになっていたのだ。それから黒人ドラマーは、ジャズの伝統として、いまなお発展している音楽のヴァイタルな核となっているという意味で、彼の現在にあたるのだった。
 そうして彼は、この演奏から四つの可能性を暗示しようとしたのだ。それはジャズの初期へ戻るという後退。リズム・アンド・ブルースのように単純な形式もそのひとつである。ベーシストによって説明しようとした白人世界の価値と能力の全体的な消化。それにたいしてドラマーが象徴としてえらばれた黒人音楽の伝統をあくまで守りぬくこと。要するに過去と現在と未来とが綜合されたオーネットの理想が、あのようにビザールな演奏となったのだった。
 ところが五つめの可能性というのがあったのである。それはラディカルでアナーキーな状態は、つまり〈失敗〉だったということである。そんなことはないとオーネットは証明しなければならない。けれどこれ以後の彼は、どう作曲したらいいか、どう方向づけたらいいかということで窮地におちいってしまったのである。彼の苦痛にみちた叫びは、こうして発せられるようになった。
 オーネット以後、ぼくは一九六六年から六九年まで、ジャズについては、ほとんど考えない人間になってしまい、もっぱらロックのレコードを聴いてばかりいたのである。
(略)
[息子がエルヴィン・ジョーンズのファンだという友人から、その消息を訊かれたのがきっかけで、NYのクラブへ出かけると]
客は見るとヒゲだらけの若いヒッピーばかりだし、注文したビールは置きっぱなしで、マリファナ・タバコの回しのみをやっている。
 ジャズ・ファンでもないし、ロック・ファンでもない若い連中。まるで降霊術の集会所みたいなところだった。そうして、そのまた奥のステージでエルヴィンが叩いていたのである。


 ここまで書いて、とうとうスペースがなくなった。はしょったつもりだが、オーネット・コールマンのところが面白かったので、いい気持で書いてしまったのである。ところでゴールドマンの書きぶりは、このあたりから調子が一変し、エルヴィン・ジョーンズのことからズート・シムスの話になる。このつぎは、フランス人が研究したアルバート・アイラーの記事をつかうつもりだが、ズートの話など面白いから、アイラーといっしょに書いてみることにしよう。

ニューポートという煙草を買った日は、やっぱりジャズに縁があった

[ウェスト・コースト派の若い四人の座談会を発言者名ごとの書き分けなしで紹介]
 オーネット・コールマンはウェスト・コースト出身の独創的なミュージシャンだ。(略)
まず彼が、フラストレーションを感じさせる音を出すということだな、最初にぶつかる問題は。だがそこに第二の問題がまたある。というのは彼がやっていることにたいする疑問だ。それがまだよく判ってないためにフラストレーションを感じさせることになるのではないかな。
 いやそうじゃない。彼の演奏はエンジョイしてるよ。いままで誰もやらなかったことをやったんだし、彼がうつくしい気持をもつ人間だと思ってもいるんだ。それにオーネットが試みていることは、充分に秩序だっているしね。だが、ぼくは彼が作曲したものをすすんでやってみようという気にはならないな。ほとんど不可能な真似をやってみせたという点では尊敬するけれどね。
 このところオーネットはどこかへ消えちゃったようだけど、彼はまだまだやるよ。ぼくにとって彼が偉いと思われたのは、ふつうぼくたちが漠然と考えながら出したいと思っているようなサウンドを、ひとつの楽器から一緒くたに出してしまったことだった。そしてぼくはニューヨークヘ行くまで、こういうコンセプションがまったく頭のなかになかった。オーネットの特色は演奏における〈チェンジ〉のありかたにあるんだと判るまではね。ぼくは彼と実際にやってみて、このことが判った。『ここが〈チェンジ〉だから、そのつもりでたのむよ』と彼はいうんだ。それは「ロレイン」をいっしょに演奏したときだがね。(略)
彼が出すサウンドの真似をしただけではどうにもならない。彼のサウンドには彼独自のディレクションがあるんだよ。
 彼は人間が笑っているような、泣いているような、叫んでいるような、話し合っているようなサウンドを出した。チャーリー・パーカーがそうだった。オーネットはパーカーと似たような方向にむかったが、そのサウンドに美しさがないといって非難する者がいるかもしれない。そういう人はオーネットの最初のコンテンポラリー・レコードでピアノが入ったのを聴かなければならない。彼がどんなにパーカーを研究しサックス奏者として熟練した境地にたっしていたかが判るはずだ。そしてこのときから彼のディレクションは確固たるものになっていた。
 いずれにしろニューヨークヘ行ってみなければジャズは判らないという気がするんだ。ニューヨークのミュージシャンたちは、コード進行の組合せかたが違っている。それはパーカーがやったことの発展なんだが、もっと正しくいえば、パーカーが生きていた時代における全体的なものの発展なんだ。そして発展していくためのファクターは、時代というものの変化と密接に関係しあってくる。(略)たとえばスコット・ラファーロがウェスト・コーストで十五年まえに出していたベースの音は、そのころ滑稽な音として耳にはいったが、いまではみんなが当時のラファーロ式にやっている。(略)

次回に続く。