10セントの意識革命 片岡義男

1970年8月から 1973年8月までに書かれた文章。

10セントの意識革命

10セントの意識革命

 

なぜいま一九五〇年代なのか

 アメリカの一九五〇年代のなかでおこったことがらのうち、ぼくと密接につながっているものは、さほど多くはない。まず最初のひとつは、一九四〇年代をひきずったかたちでの、ロイ・ロジャーズ主演のシリーズ西部劇がある。

(略)

[それらと重なる]

コミック・ブックは、当時は種類がとても豊富にあり、一冊が十セントだった。(略)

 コミック・ブックの次には、ジェームズ・ディーンだった。これは、中学の終りころだったと思われる。それより以前に、ジェームズ・ジョーンズの小説『地上より永遠に』がベストセラーになっていた。分厚い廉価版で読んでひどいショックをうけ、読まなければよかったとさえ思った。主人公の名前、ロバート・E・リー・ブルーイットは、ちょっと忘れられない。(略)

 ジェームズ・ディーンの『理由なき反抗』や、映画『地上より永遠に』、そして『暴力教室』、その主題曲につかわれたビル・ヘイリーの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』などが、いま考えなおしても順番はつけがたいほどにたてつづけに身のまわりにおこってきて、決定的なとどめは、 エルヴィス・プレスリーの最初のシングル盤『ザッツ・オール・ライト、ママ』だった。(略)

一九五五年、五六年と、エルヴィス・プレスリーのみがただひとり、あらゆるものごとのなかで、他を完璧に圧して決定的であった二年間があり、五八年だったはずなのだが、エルヴィスのアメリカ陸軍入隊の報道のしばらくまえから一九六〇年代なかばのヒッピーたちの運動や、バークレーのピープルズ・パークあたりまで、ほんとうに馬鹿みたいな空白が、えんえんとつづいた。

(略)

 個人的な実感として簡単に言うならば、当時のアメリカは、第二次大戦の戦勝国として、主として物量に換算して考えることの可能なありとあらゆるものが、人類がかつて一度も経験したことのなかった巨大なスケールへと、いっきょに拡大されていった時代だった。いたるところですさまじくきしみながら、時代は悪しきほうへと確実に曲がりこんでいったのだった。

(略)

 当時のぼく自身はどうであったかというと、どうも「大人」というやつはやばいのではないのだろうか、「大人の世界」には近づかないほうが身のためなのではないだろうかと、不明確ながら確信に似たような感情を常に持っていた。

(略)

 いったん「大人」になってしまったら、もうそれですべては終りだという恐怖感は、いつまでも「大人」にならないことを最重要な命題として課してくれるのだった。(略)一九五〇年代の世のなかの大勢は、たとえば、「ジェネラル・モーターズの利益は、アメリカぜんたいの利益である」というような、巨大組織ないしは経済上の利益や達成みたいな物量優先の人生論のなかにひたってじっとしていることだった。じっとしていたというよりも、より正確には、いつのまにかそんなふうにがんじがらめにされていて、あらためて動き出そうにも動けなかったのではないだろうか。そして、人間としての根源的な尊厳のほとんどすべてを削り落とした生き方が、当時としてはもっとも輝かしい、アメリカ的な生き方だった。

(略)

その改革された意識は、具体的には、「このような輝かしいアメリカ的な生き方は、私はいやだ!」と、ほんとうにその人ひとりだけの個人的な次元で、反抗の声をあげることであった。そして、その反抗は、単なる反抗であると同時に、自分が自分自身のために見つけ出した、まったく異質で新たな生き方の実際的な提示をもかねていた。

 アメリカの一九五〇年代とぼくとをつなげているいくつかのものごとは、すべて、このことと直接的につながっている。ぼくにとってもっとも聞えやすい反抗の声、つまり肉体と精神の中間みたいな領域でおこなわれた官能的な反抗のいくつかに、ぼくは結びつけられている。

 ロイ・ロジャーズ の奇妙な西部劇は、反抗とは言えないかもしれない。だが、一種の冗談としか定義のしようがないその奇妙な内容は、奇妙さがゆえに、印象は強かった。(略)

なんの生産も意図せず、いかなる達成も志向せず、カウボーイでありながらカウボーイではなく、ころは良しとギターをとりあげて歌をうたうだけなのだ。(略)

その遊戯性がゆえに、シンギング・カウボーイの世界は、けっして「大人」のそれではなく、充分に子供的だった。

(略)

 十セントのコミック・ブックには、いろんな種類があった。西部劇、探偵劇、スーパーマンバットマンのようなもの、動物を主人公にしたディズニーふうなものと、三二ページのなかに盛りこまれている内容の方向はさまざまだった。そして、ぼくがいちばん強くひっかけられた方向は、怪奇、恐怖、あるいは総体的にSF、と呼ぶしか手段のないような、奇怪なファンタジーが、手をかえ品をかえして詰めこまれていたコミック・ブックスの一群だった。

(略)

いくつか、あげてみよう。

 アメリカの海軍が、南太平洋とおぼしき海域で、大がかりな実弾演習をしている。その演習艦隊の偵察機が、ある日(略)偵察のために飛んでいると、頭上はるかかなたの前方に、戦闘艦隊が、さかさまに見える。(略)そのさかさまの艦隊のさかさまの航空母艦からとびたったさかさまの戦闘機に、その偵察機は、襲撃される。

(略)

巨大な蒼空のスペースをあいだにはさんで、空中の艦隊と洋上の艦隊との戦いがはじまる。読み切りの物語りだったが、そのあざやかな結末は、書かずにおこう。

 まったくおんなじ体つき、顔だちの、一分のすきもない純白のガンマンのスタイルに身をかためた、美しいグラマラスな女性ばかりが登場する奇怪な西部劇もよかった。(略)物理学者が登場し、他人が頭のなかで考えていることがすべてわかる装置を持ちだす。その装置に対する対抗装置があらわれ、鏡で鏡をうつしたように、事態は何重にも複合して混乱していく。人間の頭の内部という難問に挑戦した奇妙な話だった。

 宇宙飛行士がロケットである天体にいくと、かならずロケットが故障し、地球へ帰れなくなり、しかもその天体で男はみな女性に転換していってしまうという物語もあった。何度も地球からロケットで男性がくるのだが、みんな女性になる。女性だけの社会がその天体にかたちづくられていき、構成員の数が増えるにしたがい、「男」の役割りを果たす女性と「女」の役割りをはたす女性とにわかれたあげく、さらに大きくふたつのグループにわかれて対立し、最後には戦争になる。そして、その戦争のさなかに、いまはみんな女のかたちをしているそのかつての宇宙飛行士たちは、戦争によって文明が壊滅した地球をのがれてきた人たちだった、という事実がわかる。

(略)

 どの話も荒唐無稽なのだが、それぞれが内蔵している哲学ないしは意識は、それを読む人の全身に対して強力な説得力を持った。写実を身上としつつ効果的に誇張したパースペクティヴをきかせたリアルな絵と単純な文章でこんな物語が展開されていくと、十歳前後の少年は、ひとたまりもありはしない。

(略)

ありうべからざるファンタジーを全身でうけとめることにより、それまで自分が持っていた、幅のせまい小さな意識を帳消しにしてゼロとし、もうすこし大きくて広い意識と入れかえる作業が、ばくぜんとにせよとにかくおこなわれたから、その作業の快感がすなわちコミック・ブックスの面白さだったのだと、いまぼくは考えている。

(略)

学識経験者や良識の側からの批判が強く、大きな社会問題となり、最終的には内容規制のための厳格なコードがつくられるまでにいたった。(略)

社会的に許容されている意識のありかたに対する完全なカウンターがコミック・ブックスだったのだから(略)

個人的な次元での意識革命のためのトリップだったのだから、こんなものが許されたまま放置されるはずがなかったのだ。 

地上(ここ)より永遠(とわ)に〈1〉 (角川文庫)

地上(ここ)より永遠(とわ)に〈1〉 (角川文庫)

 

地上より永遠に

 『地上より永遠に』という小説は、西部小説をべつにすると、ぼくがこれまでに読んだ唯一にちかい小説だ。だが、小説としてではなく、実感だけでつくりあげられた事実として、ぼくはこれを読んだ。アメリカ陸軍の下級兵士が、非人間的な大組織であるアメリカ陸軍に対して、自分ただひとりで人間的で官能に満ちた戦いを執拗にいどんでいき、最後には、かなり屈折したかたちでロマンチックに自滅していく物語だった。

(略)

この自滅は、自分たちの時代がいきつくさきに対する根源的な絶望感の先取りであったような気がする。時代は、いままさにとんでもない方向へむかいつつあるのだという本能的な確信には、だから、淡い絶望の雰囲気が、常につきまとった。『地上より永遠に』の主人公、口バート・E・リー・ブルーイットは、一九五〇年代のなかでおこなわれた、人間的なものとそうではないものとの真剣なたたかいの象徴的な人物として考えられている。

 象徴ではなく、具体的には、ヒップスタたちがいた。時代はもうとりかえしがつかないのだという絶望にきれいにふちどりされた本能的確信を、そのまま日々の生き方にしていた人たちだ。個々としてはヒップスタであり、総体的にはビート・ジェネレーションだ。一九五七年に、アレン・ギンズバーグは、早くも次のようなことを書いていた。「アメリカは物質主義に狂っている。警察国家アメリカ、生の感情も魂もないアメリカは、誤った権利の偶像を擁護しようとして、世界を相手に戦おうとしている。ウォルト・ホイットマンの同志たちの、あの粗野で美しいアメリカでは、もはやない」

(略)

 個人的にいくら反抗しても抵抗してみても、時代はそのまま進み、その進んださきは、とりかえしのつかない絶望的なものであるにちがいないと、ジェームズ・ディーンは、その体ぜんたいで語っていた。自分ひとりでいくら意識を拡大してみても、それとは無関係に時代は突き進む。しかし、そうはわかっていても、ひろがっていこうとする自分の意識の働きを抑制することはできない。そして、ちょうどこんなふうな時代に、ロックンロールがやってきた。

 とにかくぼくはいやなのだ! という個人的なエモーションの表現が、白人ティーンエージャーのロックンロールだった。(略)そのエモーションのなかで、もっとも熱意に富みつつ無自覚で澄んでいたのが、エルヴィス・プレスリーだった。

ロックンロール・ミュージック

 一九五〇年代アメリカのロックンロールは、正確には一九五四年から五八年までのわずか四年間しかつづかなかったのだ。この四年間に、エルヴィス・プレスリーとアラン・フリードのふたりが、完全に燃焼した。

(略)

一九五四年、ニューヨーク初のニグ口放送局WNJRをへて、やはりニューヨークのWINS局に移り、ロックンロールのDJをつづけ

(略)

 フリードがおこなうショウには、常に大勢の若者があつまり、大さわぎになっていた。ニグロがほとんどという場合もたびたびあり、騒乱罪のような罪名のもとに警察に調べをうけたりあるいは批難をうけることがしばしばだった。ボストン・アリーナでのショウには警官隊が出動し、ショウは中断された。

(略)

「あなたがた若者が音楽を楽しむのを警察はやめさせようとしている。彼らにとってあなたがたの楽しみの対象は、なにであれ好ましくないのだ」

 というような意味のことを喋り、これを理由にフリードはWINS局をクビになった。そしてこのときが、ロックンローラーとしてのフリードの終りだった。

 はじめエルヴィス・プレスリーは、カントリー・アンド・ウェスタンのカテゴリーのなかに入れられた。レコードにした歌の多くがカントリー曲だったし、メンフィスを中心にした地域的にかぎられた範囲での登場であったため、とりあえず彼にあてはめることのできるカテゴリーはカントリー・アンド・ウェスタンしかなかったからでもある。しかし、音楽的には、つまりビートやリズム、それに歌い方のほとんどは、黒人のものだった。子供のころから、エルヴィス・プレスリーはニグロの影響をうけやすい状況におかれていたし、彼のレコードをはじめに出したサン・レコードのサム・フィリップスは、自分の会社でかかえているタレントたちに意識してニグロ的なものをとりいれさせていた。

 カントリー・アンド・ウェスタンの新しい歌手、として出発したプレスリーがニグロにまちがえられたり、サウンドがあまりにニグ口にちかすぎるという理由でたとえばラジオのディスク番組でレコードをかけてもらえなかったりするようなことは一度もなかった。カントリー・アンド・ウェスタンなら白人にきまっているからだ。

 ところがやはりニグロ・サウンドのイミテートからはじまったビル・ヘイリーと彼のコメッツたちのレコードは、ラジオのディスク番組でなかなかとりあげてもらえなかった。ニグロとまちがえられることもあったし、黒人の音にちかすぎるため、DJにきらわれることがよくあったのだ。だから、ビル・ヘイリーのレコードは、ジューク・ボックスがひろめていった。

 ニグ口的であることに関しては、アラン・フリードが最も徹底していた。(略)生まれたのが一九二一年だから当然スイングの時代に育ち、そのあとのバップが大嫌いだった。原型としてのブルースによりちかいところでのリズム・アンド・ブルースにもっともひかれていた。ラジオでの喋り方はニグロ放送局のDJをまねしていた。まねはとてもうまくて迫力があったため、黒人のファンが白人とおなじくらいについたし、あまり私たちのまねをしないでくれ、という訴えがニグロのDJたちから出されることにもなった。

〈ムーンドッグ・ロックンロール・パーティ〉でフリードはニグロのリズム・アンド・ブルースしか、 放送しなかった。そして、リズム・アンド・ブルース、という呼び名は黒人的であり、つまらない排斥のもとになるため、古いブルースから「ロック」と「ロール」の二語をとってつなぎあわせ、ロックンロール(ロック・アンド・ロール)という新しい名称をつくった。

(略)

 ニューヨークのWINS局でDJをやっていたときには、ニューヨークの電話帳を両手に一冊ずつ持ち、喋るときにビートをつけるため、その電話帳を、マイクロフォンが乗っているデスクに、交代に叩きつけるのを得意としていた。この音は、ラジオをとおして聞くとたいへん心地よいものだった。

 一九五〇年代のすぐれたロックンローラーのすべてが、五〇年代というひとつの時代に対して、あまりに深くコミットしすぎていた。(略)

抵抗してくる力とはりあいながらとにかく外へむけて出ていこうとする比較的単純で荒けずりな力へのコミットメントだった。

 この力が、いけるところまでいってついに燃えつきたのが、一九五八年だった。

(略)

プレスリーが陸軍に入りアラン・フリードが死ぬと、ロックンロールは消えてしまったようにみえた。一九五六年はエルヴィス・プレスリーの年だったのだが、リトル・リチャードもおなじほどの数のヒットをつくっていた。しかし、レイ・チャールズが一九五四年にゴスペル曲に詞をつけなおしてゴスペルとブルースをひとつに結合させていた事実が知られていないのとおなじように、リトル・リチャードは知られていなかった。レイ・チャールズが白人たちに知られたのは、一九五九年の『愛さずにはいられない』によってであり、これはカントリー・アンド・ウェスタン曲のうたいなおしだった。前の年、五八年にデトロイトモータウンがはじまっていて、黒人リズム・アンド・ブルースの本格的なコマーシャル化が黒人の手ではじめておこなわれることになった。

 ブルースとゴスペルの結合は、ソウルの強化につながった。ブルースは現世の罪の歌であり、ゴスペルは来世の救いの歌とされていて、このふたつは黒人社会のなかでもおたがいに溶けあわない要素だった。しかし、結合してしまった事実はあきらかであり、結合というよりも、アメリカの黒人が来世をすててより現実的な力を強くしていったひとつのあらわれ、としてとらえるべきなのだ。この現実強化のなかでの音楽現象のひとつが、モータウンなのだ。

 黒人音楽のこのような変化に白人は気づくわけがなく、プレスリーが陸軍を除隊してきた一九六〇年は、ロックンロール的には死んだように見えて当然であり、カリフォルニアにはビーチボーイズデトロイトモータウン、そしでテレビにはディック・クラークという概括が、ひとつの真実味のある現実となっていた、除隊後はじめてのプレスリーのレコードが『オーソレミオ』のうたいなおしであったことも、すこしも不思議ではない。五八年までのプレスリーがニグロ的なプレスリーであったとするならば、除隊後の彼は、白人の世界で売りさばかれるホワイトでスイートな商品だった。

 ロックンロールが死んだように見えると同時にケネディのニュー・フロンティアがはじまっていて、ニュー・フロンティアの音楽としてフォーク・ソングが登場したのは、あまりにできすぎていて気味がわるい。

(略)

 ニュー・フロンティアのかけ声にのって美しきアメリカという唯一の真実を追ったフォーク・ソングは、ニュー・フロンティアの終結と同時に終わってしまった。ケネディが暗殺された一九六三年にフォーク・ソングのブームは終った。もっともみじめだったのがジョーン・バエズであり、生きのびたのはボブ・ディランだけだった。

(略)

 ビートルズのすぐれた点は、各種の音楽を合成する才能やリリシズムではなく、ポップな態度にあった。健康で終始一貫しない不真面目さとでも言えばよいだろうか。なにごとに対しても、完全にコミットしてしまった人がよく持つ競馬ウマ的な真面目さと一貫性がビートルズには欠けていて(略)

『ハード・デイズ・ナイト』あたりから変化していく彼らの音楽を支えきれたものは、音楽的な才能よりはこのポップな態度だった。

次回に続く。

 

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片岡義男さんって人はもしかすると村上春樹になっていたかもしれない存在だったと思うんです。