バンドやめようぜ!あるイギリス人のディープな現代日本ポップ・ロック界探検記

レーベルからの規制

『ピッチフォーク』はウェブが発展していった中のとある時期にその評判とアイデンティティとを確立させたメディアであり、後進の新しいサイトが現時点で彼らのような成功を繰り返せるかどうかには疑問の余地が残るからだ。その代わりにどういうことが起きているかと言えば、多くの場合は未知のアンダーグラウンドな音楽を報じようという誠意ある姿勢でサイトがまずスタートするものの、ウェブ分析や統計値が描き出す状況がいったんはっきり見え始めると、サイト側はページ閲覧数を追い求めてアイドル音楽や万人受けするインディ・ポップ/ロック等々の既に人気のある分野へ向かうことになる、という感じだと思う。アクセスの大部分が、たいていプレス向けの告知文を忠実に真似たくらいの短いニュース記事に由来するものという状況では、音楽サイトの持つ影響力は多くの場合、単に情報をキュレートする行為に限定されてしまう

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 もうひとつ考慮すべき重要な問題として、たとえば仮に、レーベルがお金を払って生まれたコンテンツに依存しなくても経済的に存続できる音楽プレスが発生した、としよう。だが、そこでほんの一瞬でも「ではレコード会社の側も、これまでずっとジャーナリストたちに向けて行使してきた『何を書くか』に関するコントロールを放棄してくれるのかな」と考えるのは大間違いだ。日本の音楽業界ではスタンダードになっている、ジャーナリストが書いた記事をレーベル側が前もって読むことを要求する「チェッキング」は、レコード会社と記者的な慣例の双方の中に深く定着している。メジャー・レーベルやタレント事務所はアーティスト写真やアルバムのジャケット写真の出版・使用権をきちょうめんに管理することで、自分たちの意向に沿う内容記事を確保している。

 それどころか、肖像権や情報の長きにわたる管理というのは、肝心のアーティストたちにまで及んでいる。ある取材の場で、シーガル・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハー日暮愛葉は2000年代初期~半ばに彼女がソニーに所属していた頃の実体験を僕にこんな風に話してくれた。

 「それぞれの写真に関して、向こうは私のイメージの使用許可権を持ってたんです(略)だから、たかが1枚の写真を自分が使いたいなと思っても、先方にお願いしてアップロードしてもらうしかなかった。あの当時はMySpaceが盛り上がっていたんだけど、おかげで私はMySpaceはおろか、それ以外のソーシャル・ネットワーキングもやれなかったんです」。

日本のロックってなんなんだろう?

 1970年代に起きたアングラ演劇とロックとの交わりは非常に重要な意味を持っていて、探究心豊かに物事に疑問を呈していく前者の知的な感性は、後者の成長を刺激し挑発するのに重大な役割を果たした。

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巻上公一はこんな風に説明してくれた:「寺山修司が一種のロック・ミュージカルだった『書を捨てよ町へ出よう』を作ったんですが、 このサントラが本当に良かった。西洋の要素と東洋のそれが一緒に混ざっていたところに、大きく影響を受けましたね。寺山さんは内田裕也やフラワー・トラヴェリン・バンドのメンバー、J・A・シーザー三上寛らと仕事をしたことがあって、そうした連中はみんな『日本のロックってなんなんだろう?』の問いを発していた」。

巻上公一近田春夫、ライヴ・ハウスの変容

巻上公一は述懐する:「僕はちょうどヒカシューを始めたところでしたが(略)友人の近田春夫が深夜2時に放送されるラジオ番組をやっていたんです。デモ・テープを作ったのでそれを渡そうと彼が番組をやっている局に行って、その音源について「ドラマーがいないんだよ。だから俺たちはリズム・ボックス・バンドなんだ」と彼に説明してたんですね。そしたら部屋の隅で待っていた他の奴から『おい、俺も同じだよ。俺もそういうバンドやってる』と声をかけられて。後で分かったんですが、それがプラスチックス立花ハジメだった、という」。

(略)

1970年代後期には今風の「ライブ・ハウス」文化が東京で連合し始め、バンド群が集まって小さなクラブを中心としたサーキットを形成していく。

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サエキけんぞうはロフトで開催された〈DRIVE TO 80S〉こそ(略)[座って楽しむスタイルから]客が最後まで演奏をスタンディングで観ることになったイベントだったと語っている。

(略)

 このライヴ会場の数とスタイル面における成長はしかし、日本におけるライヴ音楽の文化とその基幹インフラの発展にまた別の意義を付け加えることになった。巻上はまたもその発展をじかに体験していた。「(略)70年代、あるいは80年代始めの頃っていうのはライヴ・ハウスがギャラを払ってくれてメシも出してくれて、バンドにとっては良い時代だったんです。ところが80年代半ば頃から突然、バンドの側が金を払わなければいけなくなった。以前はごくわずかしかライヴ・ハウスが存在しなかった――ロフトやラママくらい――のが、80年代中期にものすごい数のバンドが出てきたことでライヴ・ハウスが貸部屋みたいになってしまったわけです。この変化は大きかった。昔だったら、会場の8割は出演料を払ってくれました: だから音楽を演奏していくだけでなんとかやっていくのも楽だったんです。ところが80年代半ば以降、音楽で食っていくのは無理な話になってしまった」。

 ここで巻上が形容しているのは、80年代中盤に訪れたいわゆる「バンド・ブーム」の影響のことだ。(略)洪水のように押し寄せたこの新参バンドの大群は(略)

数多くの会場が観客を集められる、あるいはライヴの経費をまかなえる者なら誰にでも「金を払えば演奏させてやる」型のギグをオファーする、という状況へのシフト・チェンジを引き起こすきっかけになった。このライヴ・サーキットの変容は、今日に至るまで音楽シーンの構造にその傷跡を残している。

メジャーが草の根シーンに与えるダメージ

 日本の音楽産業というのは、病的なほどにコントロールを求めてくる。(略)

 メジャー・レーベルによる管理支配は(略)草の根シーンにダメージを与える

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 典型的な筋書きというのはこんなところだ: いくつかのバンドの周辺にシーンが育ち始めると、メジャー会社がやって来てその中でもっとも見込みのありそうなアクトを摘み取ってしまい、そのバンドにはやがてレーベル側が彼らに求めるようなタイプのギグで演奏しなければというプレッシャーがもっとかかるようになり、一方でシーンの側はトップ・バンドを失うことになって(略)衰退していき、そして四散してしまう。多様なバンドのセレクションがあちらこちらから引き抜かれ、そしてプロによって管理された他のバンドたちと共に成功に向けて訓練を仕込まれていくことで、新たなアイデアは下から育ってきたところで茎から切り取られ、またいちばん良く売れた果実はもぎ取られ、多彩ではあるものの同時に実は決して変化することのないトップを占める大きな鍋に加えられてしまうという、二層構造の音楽シーンが作り出されている。

 多くの難関が待ち構えているものの、日本人ミュージシャンたちが音楽産業の認可した「成功への道」を迂回できる手段がふたつある。その第一の方法でありもっとも難しいのは、あるシーンもしくはサブカルチャーが財力面で非常に重要な影響を持つものになり、無視できないほどの存在になること。90年代後半以降のオタク文化とアイドル音楽のリヴァイヴァルとの間で起きたのがこれだったし、そこについては後にこの本で詳述するつもりだ。もうひとつの方法は外の世界に目を向けることだ。

ジャパニーズ・ポップの特性

 日本のポップスはまた調性 (訳者註:トーナル。主音を中心としてそれに従い他の音が解決していく関係)を有するものになる傾向があり、長・短2種の調を基本にした上でより組織的なコード変更を用いることが多いが、対して英米系ポップスはモーダル(:コードが進行せずにひとつのコードやスケール内で繰り返される旋法) になる傾向があり、厳密にメジャー調かマイナー調かということもなく、コードをより雰囲気・質感重視で用いている

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 日本語は我々が言うところのモーラ的言語に当たる。拍(: mora) は音節(シラブル)に似ているものの、しかしそこに時間的な長さの要素、あるいは「ビート」が含まれている点で音節とは性質を異にする。たとえば、「東京 (Tokyo)」という単語が持つのは2音節(「ト」+「キョ」)だが、モーラの数え方では4になる(「ト」+「ー」+「キョ」+「ー」、もっと正確に言えば「ト」+「ウ」+「キョ」+「ウ」)。同様に、「can (キャン)」という言葉の終わりにある「ン(鼻音で発される撥音)」もまたそれ自体でひとつのモーラと数えられるため、それに準じてビートを得ることになる(「キャ」+「ン」)。それとはまた別の日本語が持つ特徴は、個々のシラブル、あるいはモーラはいずれもほぼ同等な強勢(ストレス)を持つ=強弱の差があまりない点だ。

 この言語学上の紛糾は初期の日本のポップス作曲家たちに難問をもたらすことになった。というのも彼らは英米系ポップスの伝統の範疇で曲を作ろうとしたわけだが、英米のポップスはストレスタイムド(訳者註:音節の続く長さがストレスの位置・有無によって変化する言語) 言語である英語の歌詞を中心にデザインされたものであり、そちらの方が言葉を縮めたりメリスマ効果を用いたりするのにはもっと柔軟で、歌詞の1音節を引き伸ばして複数の音符を当てはめるとか、あるいはビートが勢いをつける前/後に発語をかすかに落とすことで歌にもっと会話調なリズムをもたらすことが可能だったからだ。

 もちろんこの問題点にも抜け道はある。演歌はほぼどの音節にも大袈裟なビブラートをかけて伸ばして歌うし、一方で四畳半フォークのミュージシャンたちは「早口言葉」(略)と称される、そもそもそのリズム空間を占めるべきではないところに高速で歌った歌詞を詰め込んでいくスタイルを用いることになった。

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 ともあれ、1970年代のはっぴいえんど以降の作曲家たちはリズムに収まりきらない言葉をそこに無理に詰め込むのではなく、徐々に日本語の特徴を切り抜けられるようなヴォーカルのアレンジのスタイルを発展させていった。日本語のリズムがフィットするようにメロディはますますモーラ的なものになっていったし、また日本語の比較的平坦な抑揚は各シラブルあるいは各モーラに個々の音高が割り与えられるという慣習にも繋がっていった。その結果、英米ポップスを聴いて育ったリスナーの耳には、ジャパニーズ・ポップのヴォーカル・メロディはビートと固く結びついていて硬直した、柔軟性に欠けるもののように感じることがある。

 それは別にジャパニーズ・ポップの洗練度が低い、という意味ではない。というか実のところ、日本のポップスと英米ポップスの間の大きな差のひとつというのは、むしろ日本のポップスの方が音楽的にはもっと洗練されていて、伝統的なアメリカ/イギリスにおけるコードが四つのブルーズをベースとするそれよりも、はるかに複雑なコード変化のパターンを用いているという点にある。

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 というわけで、西洋のリスナーたちがジャパニーズ・ポップをそれとよく似た西洋の音楽の質の劣るコピーだろうと片付けてしまう際によく起きているのは、その聴き手たちはたとえばシンセやギターの演奏スタイルといった彼/彼女なりにとってはありふれた表層的かつスタイル面での要素は心に留めているものの、どこかしら親しみのあるものを示唆しながら、しかし聴き手の期待に沿って解決していくことを拒むメロディによって欲求不満を抱かされる、ということなのだろう。

 日本発の実験的な音楽やアンダーグラウンド音楽の方がJ-ポップよりも、海外にいる熱心な聴き手たちには輸出しやすい。

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海外で受ける日本の実験的バンドというのもやはり、なじみのある枠組みの範疇でエキゾチックさを誇るバンドになる傾向がある: ボリスやあふりらんぽの音楽はよくブルーズっぽいコード進行がメインになっているし、にせんねんもんだいの音楽もおなじみのモトリック、あるいはディスコのリズムを用いている。海外のファンたちもやはりまだ、彼ら自身の参照点から成るシステムの範囲内に収まるものに惹かれがちだ、ということになる。

 イギリス/アメリカのインディ・ロックというのもまた、名目上はインディペンデントで自由な発想を掲げていながら、多くの意味でメインストリーム・ポップ以上に、非常にアングロアメリカン型なソングライティングの伝統に縛られている。それに対して日本のインディ・ポップやロックというのは、外側に目を向けて「本物の」オリジナルを盲目的に模倣するポジションをとるか、あるいは自らの内側にフォーカスし、典型的なJ-ポップ型コード進行から影響を引いてくる、そのどちらかになりがちだ。そのどちらの順路も西洋のリスナーに問題を提起することになる: 西洋アクトの日本版イミテーションは地元(=西洋のオリジナル) で間に合うだけにそれ以上の何かをもたらすことができないし、 J-ポップの伝統に乗っ取って書かれた歌というのは、あの手のコード進行に子供の頃から鍛えられ、慣れ親しんできた経験を持たないリスナーの耳にはどうしても違和感が生じてしまう。

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 親日家の連中は別として、海外で注目を集めがちな日本の音楽というのは既存の「日本という国はこんな感じ」 なる概念を増強する類い――とりわけ、そのイメージ面で異国性を強調しているミュージシャンたち――になるし、しかしそれと同時に、勢力の強い英米に支配された音楽の聴き方のスタイルにあまり強く異議申し立てを発さないもの、ということになる。

クール・ジャパン」、〈東風レコーズ〉の失敗

 海外のリスナーからの受けを狙った考えの浅い試みのひとつに〈東風 (Tofu) レコーズ〉というのがあった。ソニー・ミュージックエンタテインメント・ジャパンのアメリカ向け販路として設立されたこのレーベルは、アニメ・ファンのコミュニティを基盤として利用することでアメリカ合衆国に日本の音楽を紹介するのが狙いだった。こちらも「クール・ジャパン」と同じくらいあてにならない思考の筋道に陥っていた: アニメはクールである→そのアニメは日本製→J-ポップも日本製→ということはJ-ポップもクールに違いない、という発想だ。ソニーがこの誤りを悪化させたのは、90年代のアニメに備わっていた先鋭的な魅力は西側のほとんどで過去のものになり、映像媒体としてよりお子様向けな面を持ち始めていた時期、遅まきながらの2003年に同レーベルを始めたことだった。平たく言うと:2000年代半ばのアメリカで、仮にあなたが「自分はJ-ポップ好きです」と触れて回れば、周囲の人々はあなたを気味悪がり、下手をすれば幼児愛好家と思われる可能性があったということだ。

 それは何も、西側にはアニメとJ-ポップの市場がない、ということではない――マーケットは明らかに存在する。それよりもむしろ、西側での両者のマーケットというのは日本国内でのそれに該当するマーケットとは非常に性質が異なるものであり、したがって後者においては効果的なビジネス習慣も、前者における同レベルの成功に繋がるとは限らない、ということだろう。本当のところがどうかと言えば、「クール・ジャパン」というのはこれまで主に日本国内に向けられてきたもので、注意深く演出されたヴァージョンの「国外の世界」を鏡に用いることで日本人の持つ文化的な不安を緩和するための取り組みだった。その推進力になっているのが広告代理店、事務所、メジャー・レーベルというのもしょっちゅうだし、彼らにとっての主要なゴールは自分たちの顧客や契約したスターたちを売り込むことにあるわけで、そこからはどうしたって既存のJ-ポップ主流派寄りなバイアスが生じる。したがって、ポップ・ミュージック界におけるその結果というのは概して冒険心に欠けるものであり、日本で既に人気の高いアートやカルチャーにピントを合わせた上でそれらをなじみのある想像力に欠けた事務的な手法を通じ、現状からもっと拡張しようという余地があまりないマーケットに送り込もうとする、というものになっている。

海外における日本の音楽

かつて2013年にメルト・バナナに話を聞いた際に、ギタリストのAGATAはアメリカの音楽ファンが日本の音楽に対して抱く一般的な関心のレベルはインディ勢が海外に出始めた草創期の90年代時よりも落ちているのではないかとほのめかしていたが、[ボルチモア在住のプロモーター/ミュージシャン]マイケル・ヤングはローカルなライヴ・サーキットでは日本性はいまだに集客を煽るパワーを誇ると信じている。

 「アメリカ人の多くは、外国のバンドやパフォーマーがやって来るとやっぱりエキサイトするんです(略)だから、アンダーグラウンドパフォーマーのためにクラウドを集めるのはかなり楽ですよ」。

 スティーヴン・タナカやヤングの取り組み方とはいくぶん違うものの、ロンドンに拠点を置く〈JPUレコーズ〉を運営するトム・スミスが〈ジャパン・アンダーグラウンド (Japan Underground)〉という名称のイベントでやってきた仕事は、日本の音楽が海外でどんな風に受け止められるかという点に関する重要なポイントのいくつかを示している。

 表面的には多くの意味でソニー/〈東風〉に近いアプローチをとっているスミスはもっとメインストリーム寄りなアクトと仕事する傾向が強く、そこにはアイドルやヴィジュアル系バンド、そしてど真ん中にJ-ポップなアクトが含まれている。しかし〈JPUレコーズ〉のこの手法は三つのキーになる部門を際立たせているわけで、それらは日本国内に話を戻せば音楽シーンを構成するそれぞれ重要な「売り」ではあるものの、いったん音楽が海外に渡ると、それらの区分はとにかくたちまち消え去ってしまうものだったりする。

 それは第一に、日本では存在している、モッズとパンクスとを、インディ・キッズとテクノポップ族とを、シンガー・ソングライター勢と機材を神経質にいじるエレクトロ系とを分け隔てているジャンル間の区分というのは海外では消去されてしまうからだ

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 「僕の日本での経験は、ファンたちはかなりお互いに分離しているんだな、というものですね」と、スミスは「日本人の方たちから〈ジャパン・アンダーグラウンド〉 みたいなイベントが日本にもあったらいいのに、と言われたこともあります。彼らに言わせれば、日本ではヴィジュアル系が好きなファンたちはとにかくヴィジュアル系一辺倒で、他の種類の音楽は無視しがちなんだそうです。もしくは、特定のタイプのインディ・ロックのサウンドしか好みじゃない、だとか。でも〈ジャパン・アンダーグラウンド〉では、来る観客もプレイされる音楽も本当に混ぜこぜなので、日本でやってもあんまりうまくいかないでしょうね」。

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 最後にもうひとつ控えているのは、いったん日本の岸を離れるとアンダーグラウンドとメインストリームという区分がねじれてしまい、これが海外で日本の音楽をプロモートしている者にとっては厄介になることがあるという点だ。

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 比較的メインストリームな日本アクトを扱っている海外プロモーターやレーベルですら、その経営は実にささやかな収益マージンあるいは完全な損失の上に成り立っているし、ツアーをしに来る日本のバンドが多ければ多いほど、収支面での損害はますます大きく現実のものになる可能性が高い。アメリカあるいはヨーロッパをツアーして利益をあげているインディ・バンドというのは、数ヶ月を犠牲にして各地を回りひっきりなしにライヴをおこない、志を同じくする近いタイプの地元のバンドと共演し、同志と言える地元のプロモーターからサポートを受けている連中だ。過去20年間を通じて、この長期型ツアーはメルト・バナナやアシッド・マザーズ・テンプル、ウルトラビデといった、自分たちの人生そのものを音楽中心に編成しているバンドにとっては最適なスタイルとして機能している。

 とはいえ、そうしたバンドたちの多くはまた、1990年代から2000年代初期にかけてのオーディエンスにとっての日本の音楽の目新しさとエキゾチックさの恩恵をこうむってもいる。このエキゾチックな魅力というのはまだある程度は残っているものの、プロモーターが「ほらほら、見においで! 日本人ですよ!」と宣伝して人々の関心を煽ろうとするのにも限度があるわけで、いずれ彼らも「あー、また別の、日本のおかしな実験的なパンク・バンドぉ?好きにすれば!」と言い出すだろう。90年代初期に起きたノイズ音楽ブーム、そしてその後に続いた渋谷系の海外クロスオーヴァーに伴っていた新奇さという感覚は消えてしまったし、オンラインを通じて日本の音楽へのアクセスがますます容易になったことも、そのインパクトを弱めることになった。

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売りのポイントとしての日本らしさを取り去ってしまったら、どんな風にそのバンドを売り込めばいい?なぜ他の連中を差し置いてそのバンドを観に行く必然がある?

 理想を言えば、すべての音楽ファンとプロモーターたちが日本の音楽にある微妙な違いを認知すれば、ツアーしにきたアクトを異質な文化の産物としてプレゼンすることなしにバンドと海外オーディエンスとの間に繋がりを作り出すことは可能だろう。

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日本の音楽の魅力の大きな部分を占めるのは、〈JPUレコーズ〉のトム・スミスが示唆するように、バンドたちがいかに既におなじみな影響を用いて「それをどうにかして近い、でも新しい響きのあるものへ作り直す」か、にあるのだから。

 以前から日本の音楽と海外のオーディエンスを結びつける手段を見つけようとしてきた現地プロモーターへのサポートは、パリにアイドル歌手たちを送り込んで博覧会のステージで歌い踊らせるよりももっと生産的に政府の基金を役立てられる場面だ。

ライヴ・ハウス事情

大東京都圏には500軒近いライヴ・ハウスが存在する、としよう。(略)

 さてその数に一晩の平均出演アクト数である4バンドを掛けてみよう。東京では毎晩2千組のバンドがライヴをやっている計算になる。それを30倍すれば1ヶ月に6万組だ。もちろん、その数の中には同じバンドが2度出演するものも含まれるし、すべての会場、特にもっと都心から外れたエリアにある会場は、毎晩営業しているわけではない。それでも、ものすごい数のライヴ・ミュージックがほぼひっきりなしに続く、そういう状態を我々は前にしている。それらのアクトのうち、いくらかでも良いものが何組いるか考えてみてほしい。正しい回答は、「ほぼゼロに近く、統計上から考えても問題外」になる。

 では、あなたがこの凡庸でまったくもって観るにたえない集団を観に行く行為を通じてちゃんとしたバンドをどうにかして6組くらい見つけられたとして、さてどうやったら確実に彼ら全員を同じ会場で一度に観ることができるだろう?それに対する回答は、諦めてしまうか、あるいは自分自身でそんなイベントをブッキングするか、ふたつにひとつだ。

 僕はそのふたつめの方法を選んだ。

 だが、どんな風にライヴ・イベントを企画すればいいのだろうか?東京にはいくらでもライヴ会場の選択肢があるし、そのレンタル料金も無料から数十万円までピンキリだ。平均して、50~60人の観客が集まればイベント一本をやるためのホール・レンタル費用はまかなえるし、5組のバンドが出演する内容と思えば大した数とは思わないかもしれない。しかし典型的なウィークデイの晩開催のショウにやって来る観客の数がその三分の一を上回ることは滅多にないし、それよりもっと少ないということもしょっちゅうだ。 週末ですら、会場が満杯になる確約からはほど遠い。この状況ゆえに、自分たちでバンドをブッキングする際にほとんどの場合、東京のライヴ会場側の大多数は80年代中期のバンド・ブーム期以降とあるシステムを取り入れることになった――「ノルマ」だ。

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自分たちで売らなければならないチケットがバンド側に割り当てられるのだ。大抵は、まず10枚から25枚程度のチケットを自分たちでさばかない限りバンド側に儲けは一切入ってこないし、その割り当てを下回った場合、バンドは売り損ねたチケット代を会場側に支払わなければならない。日本でギグに行くとドア係のお兄ちゃんにどのバンドを観に来たのかと尋ねられるが、これはそのシステムのせいだ : 彼らは終演後にそのバンドが会場側に支払うことになる料金から、あなたのチケット代をさっ引くべくカウントしているのだ。

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 最悪な場合、それは完全な詐欺行為になる。(略)[ブッキング担当者は]ウェブをさらって若手バンドを見つけ出し、彼らを褒めそやして名声と認知に至る入り口を約束した上で、ノルマ負担を課していく。それとは別のよくあるやり口は会場側が企画したオムニバス・アルバムというやつで、作品に参加したバンドが制作費を負担するものの、誰も買ってくれはしない。

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 もっとも良い類いの、コネが豊富でシーンに対する理解の深いミュージシャンたちが運営に参加しているべストな会場(略)

では、ノルマを支払っているバンドたちはウィークデイの地味に死んだシフトを担当し、その代償としてコネと、いわゆる「先輩」バンドたちとステージを共にするチャンスとをつかむ立場にいる、ということになる。そうすれば、彼らもやがてエリート層のいる梯子を上がり、自腹を切らなくてもにぎやかな週末の晩にライヴをやれるという神聖なるステイタスを与えられる可能性もあるのだから。

 根本にある問題は東京の不動産は高くつくという点で、チケット代とドリンクの売り上げだけでは会場側が営業を続けるのにはどうしたって足りない。ライヴ会場側は、東京の地価からこうむる莫大な経済的負担と、自分たちの占めている地位や社会的な対面が性風俗産業よりやや落ちるとは言わないまでもそれに近いレベルにある、という事実と折り合いをつけなくてはいけないのだ。

 自宅や職場のそばにライヴ会場を欲しがる人間はいないし、クラブが得てして街の中の怪しいエリア、ホステス付きのバーや売春宿、ラヴ・ホテル付近に固まっている理由のひとつもそれだ。騒音問題もその一部とはいえ(略)

騒音以上に重要なのは、路にたたずみ何もしないでいる若者たちに対するほぼどこの国にも存在する恐怖心を、日本という国が病的なまでに極端に誇張するそのやり方だ。

(略)

 実際、風俗産業の店ですら、ライヴ会場の存在をいやいやながらもなんとか大目に見てやっているという感じで、表の通りに集まった下層民音楽ファンのせいで彼らのもっとご立派で金づるな顧客たちが遠ざかってまうことのないよう、会場の経営側にプレッシャーをかけてくる。そんなわけでライヴのロック音楽やクラブに対する公衆の忍耐というのは常に一触即発状態にあるし、会場がオープンしているとしたら、彼らはできだけ目立たないようにするという鉄則な理解の下に営業している、という結果になる。近隣からちょっとでも騒音に対する苦情が出たり、あるいはだらしないみてくれの若者たちが外にたむろすことで地元の他の商店/ビジネスに差し障りがあるとの声があがれば即座に警察からお目玉を食らう――もしくは、苦情を出した側の商売次第では、地元のヤクザから礼儀正しいお見舞いを受けることになる。このせいで多くの会場は午後10時頃までにすべてのライヴ演奏を終了させる羽目になっている

提言4 一貫性のあるブッキング・ポリシーを持て

もしも会場側がどんなタイプの音楽を演し物にするかという点である程度の一貫性めいたものを提供していけば(略)観客からすればどんなライヴを期待できるかはるかに察しがつけやすくなるだろう。西側のアイデアで日本に輸入できそうなもののひとつがバンドのレジデンシー (訳者註: バンドが同じ会場で一定期間にレギュラーでライヴをおこなうこと)で、集客の鈍い月曜あるいは火曜日の晩を毎週ひとつのバンドもしくはイベント主催者に1ヶ月間託してサポート・アクトのブッキングまで彼らに任せてみて、ひと月経ったところでその企画が好調であれば、ちょっとした金額が手に入るかもしれない、というものだ。このレジデンシー・システムは会場側のアイデンティティを強化すると共に彼らが様々なバンドと関係を築くのに役立つし、将来的に自分たちもレジデンシーをやってみようかと思っているアーティストにとってそのヴェニューがより魅力的な場と映ることもあるだろう。そこにはもちろん問題もあって、まず第一に恒久的なのは果たしてレジデンシー・ナイトを企画したところで、会場側がいつものように様々なバンドにステージをレンタルすることで得るのと同じ収益を見込めるか?というもの。 第二の問題は、ミュージシャンのほとんどはバンド活動と制約の多い職業および家庭生活とをやり繰りすべく奮闘していることがしょっちゅうで、1ヶ月間に四回連続で毎火曜を担当できる人々を探すのは楽ではないという点だ。

 

 ライヴ会場をもっと持続的なものにしようというこれら様々なアイデアを繋ぐのは、こうした戦略はすべて「オーディエンスは消費者」という概念に基づいている点だ。通常の経済モデルで考えれば東京のライヴ音楽は明らかに供給が過多で需要に関してはひどく不足している不釣り合いな状態で、それに対する自然な反応は大多数の会場が閉鎖し再び供給と需要が見合うまでその数を減らし続ける、というものになるはずだ。

 しかしそうなる代わりに実際何が起きたかと言えば、会場側はステージ上で演奏できる特権を味わうためならアマチュア・バンドたちがある程度の出費を厭わない――一夜のロック・バンドごっこに興じるために――ものと認識したし、その理解においてはアーティスト自身が消費者になってしまうため、方程式からは観客が除外されることになる:「よう、お客さんたち!あんたらは貧乏で、お酒もロクに飲んでくれない、それに音楽の趣味も悲惨だから、あんたたちはもう我々には必要なし!」。

(略)

バンドの面々がお金をかき集められる限り、ノルマという制度は彼らバンドが30分間ステージに上がり、最上級の音響設備を使って思いっきり好き放題にやることを可能にしてくれる。

(略)

非コマーシャルで、しばしばめまいがするほど斬新でアヴァンギャルドな音楽をやっている、あるいは純粋に奇妙なポスト・パンクをやっているバンドたちはいくつかの会場では相当な存在感を誇っていて、それをれっきとしたシーンと呼んでいいくらいの規模に達している。

 何もここで、ノルマが様々なシーンを合体させることになったと言いたいわけではない。だが、ノルマの存在のおかげでこうしたバンドたちがまず始めに結集しやすくなったのは間違いないだろう。ではそこからどうやって前進するかこそが難関だ。

次回に続く。