歌謡曲が聴こえる 片岡義男

一世代前で素材が歌謡曲でもなんとなく春樹の先駆け感が出てる第一章。第三章は橋本治に先駆けてか。

歌謡曲が聴こえる (新潮新書 596)

歌謡曲が聴こえる (新潮新書 596)

 

第一章

一九六二年、夏の終わり、竹芝桟橋

[早稲田大学四年の夏、フェリーから]埠頭に上がると、女性の声による歌謡曲が聴こえた。再生されているレコードではなく、生き身の女性が現実に歌っている声だった。PAで拡大されて埠頭の空間に放たれているその歌声は、こまどり姉妹のものだ、とやがて僕にもわかった。(略)

木材で仮に組み上げた、四角くて素っ気ない(略)特設ステージの上で、こまどり姉妹が歌っていた。(略)

金銀珊瑚綾錦という言葉をそのまま形にしたような着物をふたりは着ていた。強い風を受けて裾はまくれ上がり、袂は水平になびき、はためいた。(略)

マイクロフォンで拾われスピーカーから放たれる彼女たちの歌声は、風にちぎれていろんな方向へと飛んでいった。電気的に増幅された歌声が、歌う端から次々に風にちぎられては飛んでいくのを見るのは、僕にとって初めての体験だった。

(略)

美しい着物をまとって強風のなかで歌うおなじようなふたりは、この世ならざる美しさをたたえた異星からの来訪者のように見えた。

(略)

彼女たちが歌ったこの歌の、なんとも言いがたい不思議な奇妙さを、僕は受けとめた。受けとめたものを自分の内部に受容するために、それまでは存在しなかった異空間が体内に生まれた、という感触があった。そしてすべてはそのなかに納まった。

(略)

 良く出来た歌謡曲と言う不思議なものが、いくつも持っているはずの奇妙な棘のうちの一本が、僕に初めて突き刺さった、という比喩で語っておこう。

(略)

[東京に戻りレコードを購入し繰り返し聴く]

 この日に吹いた風は夜のなかにまだ残っていた。庭の周囲を縁どる樹の枝が揺れ、重なり合った葉がおたがいに触れて音を立てていた。明かりを消した部屋のなかに、こまどり姉妹の『ソーラン渡り鳥』の歌声が、何度となく広がっては消えた。

(略)

[九月の新学期、『全音謡曲全集』の]10を一冊買った。もっとも新しいのもから見ていこう、ということだ。

(略)

 初めて買った『全音謡曲全集』を、それからの僕はいつも持ち歩く人となった。

(略)

僕はその全集をゆっくり読んだ。一冊を読み終えるのに半月はかけていたように思う。最初に買った10を読み終えると9を買った。(略)

各巻の目次につけた印が増えていくことは、レコード店で買った七インチ盤が増えていくことでもあった。

(略)

発売された七インチ盤を次々に収録しては一冊にしていく『全音謡曲全集』とは別に、ヒットした歌謡曲だけを時代順に収録した全集が、よく似た体裁で刊行されていることを、やがて僕は知った。その全集は第一巻から買い始めた。そして、それも持ち歩いては読むことをとおして、僕は戦前からのヒット歌謡曲も、ほぼ時代順に、まず最初は譜面と歌詞で、知っていくことになった。

(略)

 外出するときにはほとんどいつも、僕は『全音謡曲全集』を持ち歩いた。ふとした場所でそれにふさわしい時間があれば、僕は全集のページを開いては譜面を読み、歌詞のつらなりを眺めていた。

(略)
 持ち歩いている『全音謡曲全集』をバーのカウンターに置く。(略)隣についたホステスが全集のページを開く。好きな歌があれば、ハミングあるいは鼻唄で、歌い始める。他のホステスがともに歌う。その歌声にじつに巧みにハーモニーをつける客の大学生がいたりする。その大学生に後日、大学の構内で呼びとめられて立ち話をすると、彼は大学にいくつもあった合唱クラブのひとつのリーダーなのだ、とわかったりした。きみもうちのクラブに入らないか、と誘われたことをいまも覚えている。

 ギターを弾く若い男のバーテンダー、という人たちもいた。

(略)

「この本、貸してください」と、バーテンダーは言う。ひと月ほどして友人とともにその店へいくと、僕を覚えていたバーテンダーは全集を返してくれる。(略)返してくれたその本を、僕は心のなかで驚きながら見た。なぜ驚いたかと言うと、なにをどうすれば一冊の本がこれほどまでにぼろぼろになるのか、想像もつかないほどに、その全集はぼろぼろになっていたからだ。

(略)

[ぼろぼろにしていながら]なんら悪びれることのない笑顔で水割りを作ってくれるのを見ながら、自分とはなにからなにまでまったく異なる生活がこのバーテンダーにはあるのだろう、というようなことをそのときの僕はおぼろげながらに感じた。一冊の本のなかのいくつもの歌が歌謡曲なのではなく、若いバーテンダーにひと月ほど貸してぼろぼろになって返ってきた一冊の本こそ、歌謡曲なのではないか、とも思った。

 歌謡曲全集の譜面を見ては、気になった歌の七インチ盤をレコード店で買う、という体験が積み重なっていった結果だろう、僕は前奏を想像することを始めた。譜面には簡単に前奏の部分もつけてあった。簡単とは言っても、歌によっては前奏が二十一小節あったりもした。その前奏の譜面が、どのような楽器編成でどんなふうに演奏されるのか、譜面だけを見ている段階で、自分なりに頭のなかで作ってみるのだ。気になる歌の前奏を頭のなかで作り上げたなら、その日のうちに七インチ盤を手に入れて自宅へ帰った。(略)

そのレコードの再生音が聴こえてくるまでの短い時間は、自分ひとりだけが抱いている期待の、存分に高まる時間だった。

第三章

黙って見ていた青い空

 松竹という映画会社は、『そよかぜ』と題されたこの映画を、じつは敗戦直前の八月上旬に企画していた。そのときの題名は『百万人の合唱』といい、内容は当然のこととして、戦意の高揚につながるものだった。日本が敗戦するとほとんど同時に松竹は、『百万人の合唱』の脚本を戦後向けに書き換えるアイディアを思いつき、ただちに実行に移した。戦中の戦意高揚は一日を境にして戦後の民主主義の称揚となった。なにがGHQの検閲を通るか通らないか、松竹の関係者たちは知り抜いていたはずだ。つい昨日までは、大日本帝国による身柄拘束に近い検閲下に、その身を置いていたのだから。

 戦前戦中における神州不滅から、敗戦の一億玉砕をへて戦後の一億総懺悔へという世界の大転換に、『百万人の合唱』から『そよかぜ』への転換は、ぴったり重なっていて興味深い。しかしこの大転換には、用意周到にはりめぐらされた意図や深い他意などは、いっさいなかったようだ。敗戦そして占領へと激変した状況に、きわめて軽く対応しただけのようだ。

(略)

[映画は不評、あってなきがごとき作品が今も話題となる理由は]

主題歌の『リンゴの唄』があったからこそだ。主演の並木路子はこの主題歌を劇中で歌った。主題歌にはもうひとつあり、それは『そよかぜ』という歌だったが、こちらはすでに完全に忘れ去られている。

(略)

[『映画を書く』でも僕は]『そよかぜ』を採り上げ、そこで『リンゴの唄』をこれは労働歌だ、と僕は書いた。多くの人たちが命を落とした戦争は終わり、全国の主要都市はすべて焼け野原となり、生活物資はあらゆる領域で極端に不足していた。やむにやまれぬ人口の大移動が日本ぜんたいで起こり、それは戦中から長く続いた。(略)

今日や明日の飯になるなら、どんな労働でも引き受けざるを得ない状況のなかに、一例として『リンゴの唄』のような労働歌が受け入れられた、とかつての僕は考えた。

(略)

前奏と基本メロディだけを記した譜面をいくつか見ていくと、「行進曲ふうに」と指定してあるものに出会うことが出来る。行進曲ふうにとは、明るく前へ進んでいく気持ちで、というような意味だろう。(略)

大勢の人たちが、比喩としてはいっせいに、明るく前へ進んでいく気持ちで歌うなら、この歌らしさが最高度に発揮される、という基本的な性質が、短調の曲調のなかにあるのではないか。

(略)

そよかぜ』の撮影時に間に合わなかったのは、万城目正によるメロディのほうで、サトウハチローによる歌詞は、企画された戦時中にすでに完成していた、という伝承がある。

(略)

戦争がおこなわれていた三年と九か月足らずのあいだに、じつに十二万五千人の子供が日本から消えたことになる。

(略)

子供を戦争で失った親の悲しみに深く共感することの出来た人たちが、ほとんど無数にいた。『リンゴの唄』を支えたのは、そのような人たちだった。

(略)

『リンゴの唄』を録音するにあたって、「いまのきみにこんな明るい歌をうたってくれというのは、僕としてもしのびない気持ちだが」と、作曲者の万城目正並木路子に言った

(略)

並木路子は三男二女の末っ子だった。(略)

[父と兄は戦場へ、姉は嫁ぎ]

東京への空爆で家を焼かれ、母親はこれで命を落とした。燃え盛る炎のなかをひとり隅田川まで逃げた並木は、泳げないにもかかわらず川に飛び込み、溺れかけるところを危うく助けられた。父親と三人の兄たちのうちひとりは戦死した。(略)

並木路子は、ごく簡単に書いて、以上のようなすさまじい戦争体験を持った人だった。

(略)

並木がかかえていた耐えがたい戦争体験について知った万城目は、「『君一人が不幸じゃないんだよ』と諭して並木を励まし」たそうだ。

 並木路子はおそらく必死で歌っただろう。その結果、『リンゴの唄』は、レコードとして残っているとおりの、可能なかぎり澄みきって輝くような歌いぶりとなった。しかし『リンゴの唄』はけっして単純に明るい歌ではない。悲しさのようなものを感じさせずにはおかない力を持った、それゆえに奇妙な歌だ。

(略)

「黙って見ている 青い空」とは、なになのか。過去と未来の、両方のことだ。過去とは、戦争で子供を失った悲しみだ。そして未来とは、繰り返し続けられる営みとしての、失った子供とのつらい別れの積み重ねだ。

夜の新宿 

一九七四年から僕は小説を書き始めた。海のものとも山のものともわかりかねたはずの当時の僕を、ひとまず教育だけはしておこうと思った編集者たちは、僕を夜の新宿へ頻繁に連れ出した。

 銀座は一度もなく、それ以外の場所もなく、ただひたすら新宿だった。教育は一九七四年から三年ほどのあいだ続いた。

フランク永井

もう何年も前、確か雑誌で読んだフランク永井による発言を僕はいまでも記憶している。歌詞の日本語の発音のなかに英語の歌詞の発音のしかたを自分は取り込もうとしている、という内容の発言だ。日本語を英語ふうに発音してみる、というようなこととはまるで違う。

 好みのジャズ・ソングやポピュラー・ソングを英語で歌うとき、フランク永井は、日本語からの脱却の快感を楽しんでいたのではなかったか。日本語そのものからの脱却は不可能だとすると、人前で歌う英語の歌詞の言葉が自分の口から歌声として出ていくとき、少なくともその音にだけは、日本語の音からの脱却を、かなりのところまで果たさせることは出来た。英語で歌うことがうまくなればなるほど、歌手当人は日本語の音からの脱却の快感を、よりいっそう深いところで楽しめた。そしてそのような英語の歌を聴いた多くの人たちが、この歌手に日本語の歌を歌わせてみたいものだ、と願った。