- 戦後ストリップ史 Ⅰ 深井俊彦(演出家)
- 残酷ショー、金髪ヌード
- 戦後ストリップ史 Ⅱ 中谷陽
- 女剣劇からストリップははじまっているんですね
- 天狗ショウ
- 一条さゆりの裁判記録から
- 証人 田中小実昌(文筆業)
- 被告人 一条さゆりこと池田和子
- 小沢昭一 季刊藝能東西 77・1
戦後ストリップ史 Ⅰ 深井俊彦(演出家)
深井 (略)動いちゃいけないというので(略)ブランコに乗って動かせばいいんだろうって。
小沢 本人は動いていないってことですね(笑い)
(略)
深井 二八、九年ごろですよ、入浴ショウをやったのは。これはおもしろかったね。僕は最初見てびっくりした。木の風呂おけをコメディアンが持ってきて、お湯をザァッと入れる(略)で、全部脱いで入るんだ。お客に竹筒持たして「流して……」。これはショウとしては僕はえらいと思う。これはショウじゃないわけですよ。 ショウというのは、いままでマンボとか、きれいに踊っているでしょ。これは、だって何だか家庭の生活を再現するんで、だからものすごく客が入った。 あんな小さな小屋が割れるように入って、三ヶ月でだめになった。警視庁が………。(略)これからが特出しになる。(略)
小屋がだめになって、ちょっと年がとびますけれども、昭和三〇年ごろ旅に出たんです、美人座入浴ショウが。(略)夏の暑いとき、まだ冷房のないころですよ、三六〇〇人も入ったんです。温劇は大きい小屋ですけれど、三六〇〇はなかなか入らない。それからまた旅に出て、東海道からずっと行って、入浴ショウの行ったあとは草も生えないというくらい強かった。(略)
それと、やっぱり昭和三一年ごろ、吉田興行の百万弗ショウ、前は金粉ショウといっていた。
(略)
全然入らない小屋なんです。何をやってもだめ。入らないので、しょうがない、じゃあチラッと見せるか。それが最初。それとつまり入浴ショウがミックスされて、ちょっと見せるから、ベッドショウになっちゃった。ものは順序です(笑い)。
残酷ショー、金髪ヌード
深井 (略)残酷ショーというのは、僕が一番最初つくったんだけど(略)
女がむずかしいことをいうんですよ、人間は破壊されなければならないとか...….。(略)シミーズ一枚にして、正座しろっていうと、女のコが正座するわけ。こうやって蹴とばしてくださいっていうから、蹴とばすと、倒れるでしょ。立って、立ってっていうと、またちゃんと正座する。それを二、三回やったら、コップ酒飲んで、ええっとちょっと縛るかなって、衣桁へ縛って、縄でひっぱたくんですよ。 それを最初にショウにしたわけです。これが三九年ごろ(略)
残酷ショウが全盛のときは、一時三〇組ぐらいあった、全国で。(略)
一〇人お客さんがいれば、七人ぐらいは多少そういうのが好きな人、三人ぐらいはまるでいやだっていう、だから、あまりはやらない。それからレズだろうね。入浴ショウからチラチラ見せになって、ベッドショウになって、それから残酷ショウになって、その間に女子プロレスっていうのがあるんですよ。最初、昭和二七年ごろは女子プロレスの会社が四つあった。
(略)
それから、最初の外国人ヌードっていうのはミス・アンドレア。ハンガリーの人で、在日外国人ですよ。これが昭和二六年ごろ。
(略)
日本人ていうのは外国人コンプレックスで......。それで、入るっていうので、日本人の外国人が出てきた。最初はジプシー・アンナっていうんです。それから背の高いカッコいいのは全部外国人、毛を染めて。(略)
金髪ヌード。あまり日本語を使うなよといっても、「ねえ、おばさん、おしんこない?」(笑い)なんていうから、すぐばれちゃう。名前を忘れたけれども、そのとき黒人ヌードっていうのが出てきた。サッチンというのがいて、色が黒いんですよ。茶色のドーランを塗って、それで、「黒人でいくからな、口きくなよ」(笑い)。
(略)
[外人じゃないとバレて]お客さんがおこるわね。しょうがないから金髪ヌードというようになった。
戦後ストリップ史 Ⅱ 中谷陽
女剣劇からストリップははじまっているんですね
小沢 密林の中で男が女をただ追いかけるっていうだけ(笑い)。(略)
中谷 オッパイは出ているけれども、スパンコールをつけている。(略)
その前までは、みんなブラジャーだった、昭和二二年ごろだから。
(略)
中谷 浅香光代がその当時女剣劇やったわけ。そのときはまだパンツをはいてた。
(略)
小沢 (略)鹿島幸太郎さんの剣劇のところにいた丘ひとみっていうのが、女剣劇の中で……(略)
中谷 (略)剣劇がすたれて、女が座長でないともう食えないわけです。鹿島さんは裏に回れば大将だけれども、表向きは(略)
丘ひとみさんが座長のその一座の中で、ノーパンでパッと開いて、捕り手が来るときに、はしごに登ったりなんかするので見せた。それが露出第一号
(略)
小沢 ということは、女剣劇からストリップははじまっているんですね。
(略)
中谷 その女剣劇の一座がだんだん分散していって、ストリップの荷をつくるようになった。(略)
踊り子が七人とバンドが四人、それに特別出演が一人......。(略)
五〇〇円あげるから、あんた特別出演でやりなさいといって、名前を別につくって、フリーの踊り子がのっていたわけだ。
小沢 それが、いわゆるトクダシ。
中谷 そういうコは踊りも何もできなかった。
小沢 ただ露出専門で......。
中谷 それで、やっているうちに本人が自覚して、テレビを見て踊りの振り付けの真似をしてみたり、いろいろして…..…..。 剣劇がなんでそういうふうにストリップ界に侵入してきたかっていったら、ちょうどテレビの民放がはじまったころなんですよ。 テレビを見るから、もう寸劇を見る人がいなくなった。
小沢 演劇がだんだんすたれてきた。それで、みんなだんだんそういう座がストリップに変更してきた。
(略)
中谷 一番最初に特出しをやりだして、取り締まりがきびしくなって、もうあかんちゅうてやめたのは岐阜セントラル劇場。
(略)
ラヴィアンローズって女のコ……。(略)
これはもう、いわゆる堂々たるオープンの元祖ですわね、チラじゃなくて。
小沢 Vサインのドンの……。だれってことになっているんですか、とにかくお毛々チラの最初っていうのは。
中谷 だれともなしにですね。(略)
昭和四〇年はまだ見せてなかったですよ。(略)
四一年、四二年ぐらいにかけて、ぼちぼち出てきたわけだ。トリになったら、必ずみんな脱いでいましたな。(略)
トリになったらそれをしなければならんという何か……。
小沢 いつのまにか不文律ができあがっちゃった。そのかわり、トリをとれるという名誉があるってことだね。
中谷 いまみたいに開いて何かしなかったけれども。
小沢 ちょっとしゃがんで......。
中谷 毛をみせる。
小沢 (略)つまりオープンてことになったのはいつごろからですか。
中谷 やっぱり四一年。(略)
じきにバッと。だから、だれがやったかということになったら、これはまたむずかしいですね。その当時、警察との関係で、オープンするコはやっぱりパクられていましたからね。みんなかばって隠しておったでしょ。
小沢 留置所に入ったら、やっぱり非常にめんどうみたものですか、小屋主が。
中谷 みましたよ。朝、昼、晩、ちゃんと差し入れして、罰金はもちろん払ってやるし、出てきたら、今度は祝儀でしょ。それから、パクられている期間中のギャラでしょ、全部みるわけですよ。
小沢 そのかわり、口がさけても支配人にいわれたなんてことはいわない。
中谷 絶対にいわない。(略)一条さゆりもパクられたのは一回や二回じゃないんですよ。もう何回とあるわけだ。今度の件でも(略)当初は僕も、一条はてめえが助かりたいもんだからべらべらしゃべったなと思って、非常におこっとったわけだ。ところがあとで聞いたら、結局、ほかがみんなしゃべっとった。(略)
ほかがみんなしゃべって、一覧表、コース表もみんな持っていきよったって。それじゃ一条さゆりも言わざるをえんかったんやな。(略)
それまで、一条はかぼうてた、頑強に否認しとったで、といっとったからね。
(略)
小沢 それで、オープン時代があって、それから手を持っていってビュッと開くようになって、それから後ろからも見せるようなことにもなって、そのころレズになったんですね。 一時はやったですね。
中谷 バックシーンを見せる前ですね、レズは。
小沢 この間、桐かおるさんに聞きましたけれども、レズっていうののスタートも、やっぱり九州が最初。(略)
中谷 カーセックスショウね。
小沢 カーの中で女が二人レスビアンをやる。(略)
中谷 桐の前にレズをやったやつはおりましたよ、関西で。ジーナ・クリスティーナとシルビー・フランソワっていうのが。
(略)
中谷 なぜレズにみんなが殺到したかというと、日舞がすたってきたわけ。なぜかっていうとギャラがね、ベテランの日舞でも、それから出前持ちのコがパッと来て踊っても、特出しによってギャラに差別があるわけだ。日舞みたいに重たい、何万円もするズラつけて、衣裳だって金がかかるし、あほらしいから、あいつらと同じようにあたしもレスビアンするわっていうので、日舞同士が組んだわけ。これでレスビアンがパッと……
天狗ショウ
小沢 レズのあとがいま天狗ってことになってきたみたいですね。これがどこまで安定するかわからないけれども。それからこれに並行してベッドショウっていうのがあったんですね。
中谷 ベッドショウっていうのは、昭和三五年ぐらいからあった。
(略)
そのころ関東で入浴ショウっていうのがあった、浅草で、客に洗わせたり…..…。それで、あんまりえげつないんで、警視庁からストップをかけられた。それが昭和三五年ごろ。
(略)
レスビアンの前にベッドショウがあった。オナニーショウね。それが、コミさんにいわせれば、いわゆるMですわ。 実際にこうやってやっていたんですからね。
小沢 入れないで入れたふりってやつ。しかし、天狗が席捲してきましたね。どうも固定するみたいですね。
中谷 えせ性交みたいな感じで、あれはあんまり受けないですよ。実際は客受けはしていない。何か、男が侮辱されているみたいな……。若い男なんか、くそ、あんなんやりおって頭にくるわ、いうて出ていきよる。
小沢 この間、とうとう客にはめさせたっていうの、ほんとうかしらね。
中谷 事実ですよ。
小沢 とうとう参加番組になってきた、テレビと同じで。
中谷 さわらせるのは前からやっていた、一条が。九州でもどこでもさわらしていた から人気があった。
(略)
小沢 (略)次にどんな趣向が出てくるか、こんなおもしろいことはない。つまり、こっちが考えないようなことがまた出てくるっていうのがね。天狗も考えつかなかったですね。必要は発明の母っていいますけれどね。
中谷 そういうものは昔からあるわけなんだ。天狗とか、そういうアイデアは。ところが、つねに情勢に応じておそるおそる手さぐりをして持っていくというような感じがあるわけですよ。
小沢 いつか姫路で出ていたでしょ、天狗が。男が天狗の面をつけて、あれはナマ天狗の上に面かぶせて無駄な話なんで、ダブル天狗だけれども、そんなに受けてなかった。(略)
中谷 だからファック・ショウもあるんですよ。たまにパパッとやって、様子をみてフッと消える。大阪府警なんかカッカきているでしょう。
昭和47年引退興行で逮捕された
一条さゆりの裁判記録から
昭和48年第三回公判調書
証人 西山三郎(仮名)吉野ミュージック劇場元支配人
弁護人 ところで、この広告の中に、天狗レス、水中コケシレス、変態レスというような演し物の内容が書いてあるわけですね。
(略)
天狗レスということは、どういうことをやるんですか。
西山 天狗の面を使った、一つのショーでして、天狗があばれるというような感じにもっていったりしておりますね。
弁護人 天狗の面をつけて走りまわるだけですか。
西山 そうですね。
弁護人 相手になる者がいないんですか。 例えばセックスを象徴するようなことはないんですか。
西山 客に連想させることはあるでしょうね。……そういうことはあまりやらないです。
(略)
弁護人 こちらから聞きますけどね。天狗レスというのは、天狗の面を女性が腰の部分につけて、相手になる女の子がいて、それで性交の体位をとったりする、ということじゃないですか。
西山 知っていれば聞く必要ないでしょう。
第四回公判調書
証人 田中小実昌(文筆業)
田中 (略)東京フォーリーズという軽演劇の劇団にアルバイトみたいにして行っておりました。そこでは文芸部におったんですけれども、やっておりましたのは進行係です。その昭和二二年三月に、いわゆるストリップと言われているものが新宿の帝都座五階で「額縁ショウ」として始まったんです。
その東京フォーリーズで(略)バラエティの中で、ある踊子が乳バン(ブラジャー)を外してやるという、日本の当時からすればもう大変な出来事というか、その始まりころに偶然出会わしたわけです。
(略)
[22年頃に東京の軽演劇が消え]その小屋がストリップ小屋に順次変わっていった、という状態なんです。
(略)
弁護人 額縁ショウがわが国のストリップの始まりですか。
田中 はい、そう一般的に言われております。
(略)
弁護人 どういう意味で人気を呼んだんでしょう。
田中 舞台の上手のほうに額縁のようなものが作ってあって幕がかかっているんです。それを取りますと、モデルが西洋の絵の真似をしているわけです。活人画というのが昔から日本にある言葉なんですが、それの乳房が出ていたということで、これは大変な評判になったわけです。
弁護人 下半身のほうはどうでしたか。
田中 乳房だけ出して、下半身は覆っていて動かなかったですね。
(略)
弁護人 (略)今のように何にもつけない状態になった、その経過を説明してください。
田中 私の見た限りでは、昭和三三、四年ごろだと思いますけれども、横浜のヌード劇場で関西ストリップと銘うってやってたのが最初で、結局バタフライ及至ツンパ(パンツの意)をチラッと脱いだということだったわけです。これは大変に評判になりました。
(略)
昭和三〇年ごろですけれども(略)わいせつであるということから、東京の警察でバタフライはやめろというようなことがあったんです。それは、バタフライの代りに、もっとひらひらしない頑丈なパンツを履けというようなことです。
(略)
弁護人 オープンを最初に見たときの観客の反応はどうでしたか。
田中 特出しのときのほうが熱狂的でしたよ。それは、最初の乳房が出たときの熱狂と、特出しのときの熱狂は大変でした。オープンは特出しの続きみたいなものですから、それほどでもありませんでした。
(略)
弁護人 ストリップというものをあなたは禁止すべきだと思いますか。それともこのままでいいじゃないかというふうに思いますか。
田中 このままでいいと思います。(略)
わざわざ見に来る人も減っておりますから禁止ということは必要ないと思います。
弁護人 なぜ減っているんでしょうか。
田中 やっぱりあきてきたんでしょうね。
(略)
私は看板だけ見るんですけれども、天狗の何とかかんとか、今日見かけたので人三化七とかですね。 こんなことをしてもお客はふえませんよ。
弁護人 看板が露骨になってきていると。
(略)
一条さんがやってたころは、天狗ショウとかいう宣伝文句はあったんでしょうか。
田中 ありませんでしたね。
(略)
弁護人(杉浦) 一番最初あなたが一条さんに会ったときのショウでは、一条さんは特出し、オープンはやったんですか。
田中 いや、やらなかったです。乳房までは出したと思いますよ。
第五回公判調書
被告人 一条さゆりこと池田和子
弁護人 昭和三八年四月一五日、一番最初にあなたが罰金刑を受けたときには、いわゆる特出しだけれども、ほんのチラリと見せた程度で挙げられたと言われたが事実ですか。
一条 事実です。
弁護人 田中小実昌氏の証言によると、特出しは陰部陰毛を見せるということ、オープンは手や指を使って見せる、ということだというんですが、田中証人のいうオープンを始めたのはいつごろですか。
一条 徹底して私がそういう気持になったのは四二年か三年です。
弁護人 あなたの罰金刑をみると三八年から四一年までに五回程ありますね。
一条 はい。
弁護人 四三年に岡山簡裁で罰金二万五千円になっておりますが、岡山あたりからオープンしていたということですか。
一条 そうです。でもその時分はまだ派手なことができませんで、本当に歩いて上から衣裳まとっておって踊ったときに見せるという程度の時代でした。
小沢昭一 季刊藝能東西 77・1
ここのところ、ストリップが「後退」している。
〈マナ板〉の観客参加がハゲシクなり、〈白黒生本番〉が席捲して、もう「目にあまるものがある」というので"取締り"が強化されたのか、業者側(劇場)が"自粛"しようということになったのか、一斉に"オトナシク"なった。ちょうど、"ストリップ・エスカレート史"をだいぶさかのぼって〈レズ〉時代あたりのところへ引き戻されたようである。その程度ならば"目をつぶる" ないしは"安全"ということなのであろう。
一条さんは、今回の第五回公判の供述で、弁護人の「なぜストリップを辞める気になったのか」の質問に答えて、「(いまのストリップは)ただもう見せればいいということで……。踊りがいらなくなって来ているというふうに見え、レスビアンなんかやられると気おちして、ガクンと来たぐらいで……」と言っているのだが、一条さんがヒンシュクしていたその〈レズ〉も、いまでは"安全域"に入っているようだ。
だから、ましてそれ以前の、またもうひとつ"オトナシイ" 一条さんの〈ベット〉などは、いまや古典的な演出形態になってしまったといってもいいくらいで、いまならもう"御用"になることもあるまい。(略)