選曲の社会史 「洋楽かぶれ」の系譜・その2

前回の続き。 

選曲の社会史  「洋楽かぶれ」の系譜

選曲の社会史 「洋楽かぶれ」の系譜

 

第二部「極東」の洋楽かぶれ

第三章横浜・本牧 

[外国人の遊歩の自由を認めた]遊歩道の茶屋は次第にサーヴィスを拡充させた。店の建物は洋風に改装され、食事やアルコールを供し、訪れる外国人らを接待する女性をおくようになる。明治はじめには居留地の外国人だけでなく、海外からやってくる船乗りの評判となり、遊歩の休憩所というより(略)遊興施設に変わっていく。
 茶屋の数は増えて繁盛をきわめ、明治一五-一六年頃には事実上、バーとダンスホールを備えた独自のスタイルをもつ外国人向け私娼館となる。

(略)

 チャブ屋は遊郭とも売春宿とも異なる独特の遊興施設である。当初、屋号にはハウスと銘打つ店もあったが、大正期にはほとんどがホテルと称するようになる。木造二階建ての洋館には抑えた色のイルミネーションが灯り、色ガラスの扉が構える。中に入るとダンスのできるホールの片隅に客たちが女性とくつろぐソファーが置かれ、バー・コーナーがある。客はまず女性たちと踊ってからめあての相手を指名する。
 二階には女性たちの個室が並び、女性が相手を気に入れば一晩一人の客をとる。教養があり合理的で家柄の悪くない女性も多く、チャブ屋の稼ぎはよかったから、前借りをさせて彼女らを拘束する遊郭とは異なり、ひいきにしてくれる男性客との昼間の外出も許された。ホールでは蓄音機がダンス音楽を流し、ピアノを置いて生バンドを入れる館もあった。

(略)

一九二一年、横浜の映画会社・大正活映の脚本部顧問に起用された谷崎潤一郎は、小田原から本牧のチャブ屋街界隈に転居し、その後、山手の洋館に移った。執筆のかたわら、彼はそこにあまた暮らす外国人や外国人とかかわりをもつ日本人との交流を楽しんだ。
 ニューヨークから来たポルトガル人の社交ダンス教師、海際に建つ別荘の芝生でパイプをくゆらせ日光浴にいそしむフランス人、谷崎の同居する妹の友人でロシア人の銀行家と一緒に住むエキゾチックな顔立ちの日本人女性(チャブ屋で働いていた)(略)

谷崎は横浜の外国人ソサエティでの社交やその生活文化を堪能する。

(略)

 大正期には、ワルツ、カドリール、ランサー、そしてタンゴ、フォックス・トロット、ルンバなどのダンス音楽が流入する。日本にジャズが伝わるのは大正末期であり、チャブ屋でもその前後からジャズや社交ダンスの音楽が流れるようになったと考えられる。

(略)

[戦後]

 空襲ですべてのコレクションを失った吉田衛のジャズ喫茶「ちぐさ」は常連客によるレコードの寄付によって再開され(略)

米軍が各地の部隊に大量に送った慰問用のレコード「Vディスク」を店に提供する兵士もいた。(略)

 軍の備品であるVディスクは持ち出しが禁じられていた。しかしあるとき、米軍物資の横流しを取り締まるために「ちぐさ」を訪れたミリタリー・ポリスの兵士は、店にあったVディスクをあわてて隠そうとする吉田のようすをにやりと笑って見過ごし、口笛を吹きながら店を去ったという。
 そのように、日本でもアメリカ本国とほとんど同期するかたちで、スウィングとモダン・ジャズの「独自の礎」が築かれた。そして、横浜の進駐軍クラブやキャバレー、ジャズ喫茶は、この国における戦後のジャズ音楽演奏の第一次黄金時代を支えたのである。

(略)

 一九五〇年代に入ると、そんな駐屯地のきわに生まれた軍人相手の遊興街に、進駐軍兵上が求める本国のリアルタイムのカルチャーを提供し、それらを渇望した日本人たちをも引き寄せる不思議な熱気を発するゾーンが、ディペンデント・ハウスなど接収地の外縁に広がり始める。
 公家の血をひく東久世壽々子、愛称スージーがそんな本牧通り沿いに戦後初めてのイタリアン・レストラン「イタリアン・ガーデン」を開く

(略)

 イタリアン・ガーデンはジューク・ボックスでアメリカのヒット・ソングを流し、おそろしく暗いブルーの店内照明で知られたリキシャルームはテーブルの向かいの相手の顔さえよく見えず、メニューを読むのに懐中電灯が使われた。

(略)

 京都で婦人服の製造・卸に携わっていた上西四郎が倒産を機に本牧に流れ着き、米兵相手のクラブ「ゴールデン・カップ」を開店させたのはヴェトナム戦争が本格化した一九六四年一二月である。(略)

 午前〇時をすぎ(略)横浜都心の進駐軍クラブが閉店すると、米兵らは本牧に流れていく。宵のうちは日本人と米人の客が半々だったゴールデン・カップは、深夜から朝五時まで米兵一色となり、一日に一五〇人が訪れた。(略)
 店が軌道に乗った六五年、上西はハウス・バンドを入れるべく人を介して出会った平尾時宗(のちディヴ平尾)の歌心あるリズム・アンド・ブルーズに惚れ込み、専属バンド「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」を組ませて、毎晩八時から三時間に及ぶステージを行うようになる。

第5章 南カリフォルニアに雨は降らない

「カリフォルニアの青い空」

邦題のシンプルなイメージとは異なり、成功を夢見て南カリフォルニアにやってきた若者が仕事にもありつけず、身を持ち崩し、挫折していく絶望と断念を謳ったものである。(略)

 アルバート・ルイス・ハモンドは(略)一〇代なかばでミュージシャンを目指すが、親に反対されて家を飛び出し、モロッコカサブランカでライヴ活動を始める。(略)

ロンドンに渡って、一九六六年マイク・ヘイズルウッドに出会い、ヴォーカル・グループ「ファミリー・ドッグズ」を結成(略)

[二人は]何作ものヒット曲を提供し、その後も続くソングライティング・チームの礎を築くことになる。
 一九七〇年代はじめ[LA移住](略)アメリカの音楽業界ではゼロからのスタートに等しかった。

(略)

「カリフォルニアの青い空」は、ハモンドがロス・アンジェルス行きを決めた時期にロンドンで書かれた。ハモンドが共作者のヘイズルウッドに自身のスペイン時代の経験を語ることで曲はつくられたという。

[音楽で食えずスペインで物乞いをしていたら新婚旅行中の従兄と遭遇]

「父には言わないでくれ。音楽をやめさせられてしまうんだ」。それから従兄は泊まっていたホテルに彼を連れて行って風呂に入らせ、清潔な服と金を与えた。

 歌詞にある「故郷の人たちには、ぼくがもう少しで成功するからと伝えてくれるかい。頼むから、ぼくをみつけたときのことは言わないでくれ」というくだりはこの体験をそのまま謳ったものである。

(略)

[片岡義男『ロンサム・カウボーイ』はバイリンガルの片岡がハワイやアメリカ本土を渡り歩いた経験を乾いた文体で書いたもの]

 後年、片岡はこの作品が一九七〇年代の日本の読者たちに引き起こした「誤読」について語っている。
 「(略)全体としては笑える叙述を僕はめざしたのだが、出来上がったものは、これこそ本当の恰好いいアメリカだ、と誤解されることとなった。(略)
あまりにもアメリカ的であるがゆえに笑いを誘う、という種類の叙述を僕は意図した。しかしそのような笑いは誘うことなく、そのかわりに、僕というひとりの人を経由して日本語で読んでなんとなく感触を思い描くという、一種のイメージ行為の対象としての、本当の恰好いいアメリカに、それはなってしまった。当時の日本のあの時代のなかで、若い読者たちは、そのような誤解をしようとして待ちかまえていたようだ」
 七〇年代を通り過ぎつつ、われわれはそのようにして「カリフォルニアの青い空」を待ちかまえていた。『POPEYE』に載るスケートボードやジョギング・シューズやUCLAのスウェットシャツを待ちかまえていた。(略)

第六章 松岡直也のVディスク

――占領下でのブギウギとの邂逅 

 松岡は終戦直後、いわゆる進駐軍のクラブまわりからキャリアをスタートさせたミュージシャンのひとりである。松岡の生家は外国人相手の高級娼館が並ぶ本牧・小港町の「チャブ屋街」にある「東亜ホテル」であった。父親は医者の家に生まれたが、遊び人の気質もあってホテル経営に携わり、バンドを入れミュージシャンと親交をもった。(略)
浜口庫之助は、松岡の父の戦前からの友人であり、ホテルには浜口のハワイアン・バンドも出入りしていた。この縁で松岡はキャリアの初期、ラテン・バンド「浜口庫之助とアフロ・クバーノ・ジュニア」にピアニスト、アレンジャーとして参加する。
(略)

[ホテルは戦災で焼け、戦後、小田原の旅館を改装し「十和ホテル」開業]

 松岡の父も小田原のホテルにバンドを入れ、進駐軍兵士を相手に営業を行った。しかし、その音楽は、兵士たちの趣味に合うものではなかった。兵士らは自分たちで持ち込んだ「Vディスク」と呼ばれる米国陸・海軍が海外駐留の兵員向けに録音したポピュラー音楽のレコードを持ち込んでかけていたという。
 (略)

 松岡は当時を回想する。「駐留軍の兵隊が遊びに来ると、バンドがつまんないって言って、自分たちでVディスクっていうデッカいの持ってくるんですよ。彼ら、それをかけて楽しんでた。すると親父がまた、それがいいからコピーして弾くようにって……譜面の書き方も、結局レコードから習ったんです。誰も何も教えてくれないから。一〇歳のときですけれどね。そしたら、バンブル・ブギとかトミー・ドーシー・ブギとか、レコードのとおり弾けるわけですよ。それをバンドに入って演奏するとね、みんなびっくりしちゃって(笑)。坊や、やってくれ!って。何も弾けないのに、イタズラして弾けるようになって」。 

(略)

[Vディスクとは1943-49年にかけ軍によって録音され戦地に送られた800万枚超のレコード]

折しもアメリカの音楽業界では、レコードの使用をめぐって音楽家とレコード業界が対立し、本土では新しいレコードの生産が事実上困難となっていた。

(略)

 加えて、レコードの原料となるシェラックは軍が必要とする重要な物資であり、市中のレコードは回収され、溶かされて軍事利用されていた。第二次大戦下の米本土ではレコードの音源が圧倒的に不足する事態が訪れていたのである。
 兵員の士気高揚に本土で人気のある音楽が不可欠と考えられ、市中に商業レコードが払底している以上、軍は独自にその音源を作り出すしかない。(略)

一九四三年七月、国防総省と直々に掛け合い、このような軍独自のレコーディング・プロジェクトに使える百万ドルに及ぶ予算を引き当てたのは、番組音源の不足を痛切に感じていたラジオ・セクションのヴィンセント中尉であった。

(略)
 ヴィンセント中尉は音楽セクションに移り、RCAヴィクター、コロムビア・レコードコロムビア傘下のデッカ・レコードなどからスタッフを呼んでVディスク・チームを結成した。

(略)

VはVictory、そしてVメールという戦時中本土から戦地兵員に送られる軍の私信配付システムの名から取られた。ヴィンセント中尉はのちに、それはヴィンセントのVでもあったとほのめかしている。
 Vディスク・プロジェクトではじつに多様な音源からレコードが作られ、まったく独自のオリジナル・レコーディングも数多く行われた。同じ盤でも陸軍と海軍とでそれぞれ異なるシリアル・ナンバーが付され、戦地や基地に送られた。

(略)

 オリジナル・レコーディングに招かれたミュージシャンは通常では困難とされるレコード会社の契約の壁を越えた非公式のセッションに集まり、商業的なレコーディングにつきもののスタジオの緊張感も少なく、録音はアーティストの参加しやすい深夜などにリラックスした雰囲気で行われた。収録はニューヨークが大半(略)

ハリウッドのNBCスタジオなど西海岸の施設も使われた。
 当時、七八回転の一〇インチ盤が最長三分二五秒だったのに対し、Vディスクでは六分三〇秒まで録音が可能で、ミュージシャンはこれまでにない長さのレコーディングができるようになった。海外戦地の兵員との間に親密なつながりが保てるよう、ディスクの冒頭にはしばしばアーティストやパーソナリティによるトークや、曲やバンドの紹介が収録された。

(略)

 一九四九年、松岡の父は経営不振のため十和ホテルを売却し、一家は横浜に戻った。(略)

 中学二年の終わりを迎えたばかりの松岡直也は、ショーバンド「猪狩パンとマーキス・トリオ」のピアニストとして、その一員に加わった。

若い兵士に不評だった米軍放送とPXのレコード

 しかし、日本や韓国、ヴェトナムなどアジアの洋楽ファンが首っ引きでダイヤルを合わせ、コネクションを使って何とかレコードを入手しようとしていた米軍ラジオ放送の選曲や駐屯地のPXの品揃えは、われわれ「現地の」人間の大きな羨望と満足をよそに、実のところ、各地に配属された米兵らのそのような嗜好を十分にとらえていたとは到底言えるものではなかった。
 『ローリング・ストーン』誌は一九六八年(略)軍における音楽聴取やドラッグ使用の実態について調査を行っている。
 たとえば、当時横須賀に配属されとある三等下士官は言う。「米軍ラジオ放送は、おしなべてくだらないね。その『ロック・ショー』とやらで流される曲ときたら、本土で聴くクリスマスのチャート番組みたいだよ。どうしてそんなにひどくて外してるのかわからないけど、はじめてそいつを聴いてあまりにがっかりしたんで、テープ・レコーダーを手に入れた今じゃ、まるで耳にしていないよ。(略)」

 アラスカ配属のある兵士は言う。「AFRNはまったくひどいよ。みんなが聴く時間帯は、『ハワイ・コールズ』とかポルカのパーティの手拍子みたいなやつを流してる。唯一いい音楽をかけるのは真夜中から三時の間で、夜番のときに聴いてるよ。その時間はたいていトップ40的なものを流してて、サイケデリックな曲やプロテスト・ソングはかかってもごくわずかだけどね」。
 また、フィリピンはルソン島に配属されたある兵卒は語る。「AFRTSはこの世で最悪のクソみたいな局だぜ。中西部の田舎町の婆さんみたいに右翼っぽい見かけ倒しの役に立たんことをプロパガンダするロクでもないヤツで、誰もスイッチを入れやしない

(略)

 AFRTSのあるDJによれば、「われわれはプロテスト・ソングは一切かけないし、サイケデリック・ミュージックもごくわずかだ。ビートルズの『レディ・マドンナ』だって『赤ん坊があなたのお乳を飲んでいる』という歌詞のせいでまったくかけなかった。(略)

今じゃ、カントリー・ジョー、クリーム、モビー・グレイプ、ジミ・ヘンドリックスなんかは少しかけるけどね」。
 つまるところ、米本土や海外の米軍放送は将校以上の中年の「職業軍人」向けに編成されたものであり、二三歳以下が大半を占めたという下士官より下の若い徴募兵らにとって、AFRNやAFRTSは(略)「イケてる」選曲を流してくれる局ではなかった。

(略)

 ある海軍兵はインタビューのなかで分析する。「平均的な海軍兵員は中西部の田舎町から軍にやってくるが、おおむね広い意味の中産階級の高卒や、大学に在学したことがある若者で、ちょっとした違反で地元の警察に捕まったことがあるような人たちだ。海軍兵員の10%はあらゆる形のロックを知っていて(略)約20%はディープ・ロックと売れ線の音楽の双方に足を突っ込んでいる。30%はR&Bの熱狂的愛好者である。10%はカントリーを聴く。おそらく、5%がクラシック・ファンで、10%はフォークのファンである。残りは者楽に興味がない者たちだ」。
 音楽の嗜好は、配属先ではなく、明らかに職業軍人を中心とした上級将校と下士官との間のはっきりとした分水嶺によって大きく分かたれていた。上級将校はおおむね好戦的で下士官とのつきあいを「許されておらず」、自由時間は上官用クラブで酒を飲んで過ごした。彼らはロックやR&Bを理解できず、「みんな同じように聞こえた」。基地や戦地の米軍ラジオ放送はそんな上官向けの番組や音楽を標準とし、下士官や兵員たちはラジオから流れてくる音楽を「バブルガム」と冷笑した。

(略)

 若年兵は軍のラジオ放送に背を向け、音楽を聴くメディアはレコードやカセット・テープというパッケージ・ソフトが主流になった。

(略)

 PXのレコードの品揃えの悪さは(略)

ある下士官は、その在庫は「カントリー&ウェスタンやトニー・ベネット、ボビー・ダーリンの類いのクズのようなレコードが基本だが、ときたまポール・バターフィールドとかローリング・ストーンズのようなものにありつける」と語っている。本土ですらそんな状態であり、海外や戦地においてはいうに及ばなかった。
 ヴェトナムのある憲兵隊(MP)の伍長は言う。ヴェトナムの「PXのレコード・セレクションは貧弱だ。(略)

たいていのヤツらはカセット・テープに行ってるから、レコードの品揃えは放ってあるし、時代遅れなんだね。(略)

カセット・テープはいいワインみたいにいい状態で届いたし、レコードよりちょっと安くて、出回ってる数もすごく多かったな」。
 日本にやってくるこうした兵員を相手にしたゴールデン・カップの店主、上西四郎も当時、店に置いたジュークボックスに最新ヒット曲を入れるためには、至近距離にあった本牧エリア2のPXでは在庫が手薄で新譜も少ないため、アメリカ本国から定期的にレコードを直接買い付け、米軍兵らのリクエストに応えていたと述べている。
 戦地でも持ち運びが容易なテープ・レコーダーは、受信状態が安定せず選曲が不評のラジオや持ち運びしにくいレコード・プレーヤーに代わって、ヴェトナムにおける兵士らのステイタス・シンボルとなった。

 [関連記事] 

kingfish.hatenablog.com 

kingfish.hatenablog.com

kingfish.hatenablog.com 

kingfish.hatenablog.com