評伝 服部良一その2 別れのブルース

前日のつづき。

評伝 服部良一: 日本ジャズ&ポップス史

評伝 服部良一: 日本ジャズ&ポップス史

別れのブルース

[専属にはなったが]焦燥と解雇への不安にかられる日々が続いた。ヒットもなく羽振りの利かない自分を思うと、暗い気持ちとなり自然に会社の廊下をうつむき加減に歩くようになる。これではいけないと思い、スタジオの調整室で「コロムビア・ジャズ・バンド」の華麗なジャズサウンドを聴きながら己を奮い立たせることもしばしばあった。ブルーな精神状況を打開するためには、独自の個性を鮮明にした服部メロディーを創造しなければならない。(略)
このような苦しみから生まれたのが一連のブルース歌謡だった。
(略)
[灰田勝彦がポリドールで藤田稔名義で《浅草ブルース》を歌ったが]
これは演歌調の歌でブルースの楽想ではなかった。しかも、服部自身も森山久が歌った《霧の十字路》でブルースを試してみたが、まだ、実験段階にすぎなかった。そこヘテイチクの古賀政男もブルースを使った流行歌を志向し始めているという情報がコロムビア陣営に入ってきた。あの古賀政男がブルース歌謡を創るとなると、悠長にしてはいられない。ここに服部良一の一連のブルース歌謡の創作の歴史が始まるのである。

昭和12年の晩春の頃、本牧のバーで洋酒を傾けていた。電気蓄音機からはジャズが鳴り、色街特有の嬌声が飛び交い、頽廃がたちこめ妙に悲しい空間だった。その電蓄から淡谷のり子の《暗い日曜日》が流れ、服部は、その衝撃でグラスを宙に浮かせてしまった。淡谷のり子の歌を本牧で聴くと沖からよせる黒波のように暗く悲しく浮かび消えてゆくように哀愁がぐっと強まり心が震えたのである。このとき、彼は本牧を舞台にブルースを作ったら、必ず淡谷のり子に歌わせようと心に誓った。
(略)
 歌の題名は、最初《本牧ブルース》だった。本牧には外国人船員相手のチャブ屋とよばれる私娼窟が密集していた。その界隈は妙に哀愁が漂う。外人相手の歓楽街なのでジャズが鳴り響き、その異国情緒が頽廃的なムードを醸しだした。服部が求めていたブルースの心情がそこにはあったのだ。それは作詞の藤浦洸も同じ心境だった。この歌が藤浦自身の体験によるチャブ屋の実感から生まれたと言っても過言ではない。(略)
[淡谷は音域が低すぎると最初難色をしめした]
別れのブルース》のオリジナルレコードを聴いてみると晩年のスローテンンポではない。テンポが速い。これは意外だった。淡谷の歌唱も感情移入が少なくあっさりとしたものだ。ダンス流行の波にのりやすいテンポだったのだ。
[会社はブルースの時代ではないと乗り気ではなく、タイトルから「ブルース」を取れという営業重役陣に服部はその歴史から説いて、ブルースが世界の趨勢であると熱弁、ようやく発売に]
(略)
エドワード文芸部長が『ジャパン・タイムズ』紙に大いに宣伝をした以外は、コロムビアの宣伝はまったくなし。営業の重役陣の反対を強引に押し切ったということで、宣伝部が全く動かなかったのである。しかも、歌唱者の淡谷のり子も自慢のソプラノの声を無視されたことで、宣伝部自体があまり《別れのブルース》を好んでいなかった。
 発売後、レコードの売れ行きは芳しくなかった。まったくダメだった。
(略)
[ところが]意外なところから流行した。満州である。(略)
七月に渋谷のり子の歌唱で《わたしのトランペット》を吹込む時に南里文雄のトランペットを全面にフィーチャーした。(略)レコードのレーベルにも渋谷のり子と並んで「トランペット・南里文雄」とネームが入った。音盤に演奏者の個人名が入るのは前例がなかった。(略)
 南里は大連に戻ると、早速『私のトランペット』をミュージカル・ショーにして各地の劇場で公演した。そのとき、必ず、《別れのブルース》を挿入した。これがヒットの起爆剤の一つになったと言われている。
 《別れのブルース》は発売三ヵ月後に外地から火がついた。まずは満州から上海へ。長崎、神戸、大阪、横浜と東上してきた。港がメイン風景のところから流行している。服部良一はようやく大ヒットを飛ばし、ヒットメーカーの作曲家の仲間入りをはたした。
(略)
[その頃日本の流行歌は]伝統的五音階歌謡、日本調の浪花節系艶歌唱法、外国系流行歌は、シャンソン、タンゴ、ブルースなどの外国ポピュラー曲、健全な「七音階」のホームソング調歌謡曲というように、系脈が複雑になってきたのである。これが服部良一の台頭の頃に非常に明確になっていた。
 服部良一は、すでに戦前においてワールドミュージック的なリズムに着目した日本のポップスの創成者であり、日本の民謡や童歌のなかのリズムを基調にした中山晋平とはまったく音楽が異なる。マンドリン・ギター音楽(プレクトラム音楽)を流行歌にもちこんだ古賀政男の登場といい、ジャズのフィーリングやブルースの服部良一など、中山晋平が先鞭をつけた日本の近代流行歌はかなりの進歩・発展を遂げていた。

別れのブルース 淡谷のり子

淡谷のり子 私のトランペット

 

日中戦争のさなか芸術慰問で上海へ

服部は、中国の世界と欧米のモダンが混在する上海から強烈な異国情緒と好奇心旺盛な人種の坩堝が放つ人間のエネルギーを感じたのである。
 上海では慰問団は盛大な歓迎を受けた。(略)服部は、上海戦跡に立った。その廃墟は目を覆うばかりであった。だが、この中国慰問によって、服部の中国メロディーの楽想が深められ、抒情溢れる風光明媚な中国の風景が多くの中国メロディーの源泉になったのである。
 服部は中支戦線の慰問で6000名の皇軍勇士が歌う《露営の歌》を指揮したが、自然に涙が溢れ出た。はたして、この中から一体どのくらいの兵士が故国の土を踏めるのだろうかと思うと、とめどなく涙が流れたのである。歌う兵士や歌手たちのまぶたにも涙が溢れていた。殊に途中から声量豊かにリリクに歌い上げる伊藤久男の熱唱は感動そのものだった。

古賀政男、渡米

昭和13年]古賀政男がテイチクの取締役を辞任して、日本のレコード界を離れた。(略)[古賀メロディー第二黄金期による]テイチクの王座は終わる。(略)[渡米前古賀は服部に]
「これからの日本の流行歌はジャズ、ルンバが流行するから頼むよ」
 としみじみと話した。古賀は服部にもう日本に帰らないかもしれないとまで言ったのである。表向きは外務省の文化親善使節としての渡米だが、テイチク社長の南口重太郎との対立からテイチク退社(略)
[テイチクは]大手三強が外資ということで軍国歌謡にしり込みしている隙間に一気に稼ごうという魂胆なのだ。つまり、南口にしてみれば、もう古賀メロディーでテイチクの流行歌の基盤が完成したことで、創作のみならず経営権にも幅を利かせる古賀政男は同社において必要ないということになったのである。
(略)
 服部に朗報が舞い込んだ。『踊るブルース』の打ち上げ会場に《別れのブルース》がリュシエンヌ・ボワイエによってパリで吹込まれるというニュースが入った。また、南米のフランシス・カナロが服部良一の作品をタンゴにアレンジするなどのニュースも入り、これもまた周囲を驚かせた。だが、国際的に評価を得ても国内でヒットを飛ばさなければ話にならない。(略)
[昭和13年]《アホダラ心経》《ジャズ浪曲》というジャズ歌謡が発売された。《アホダラ心経》はルンバ調のジャズのリズムとマイナーのブルース的哀愁のある旋律が融合し、「リズム・シスターズ」のコーラスが〈チャカポコチャカポコ スチャラカポコポコ スチャラカチャラチャラ〉とアチャラカ傾向を持ちながら、寄席で演じられる仏教世界の神秘的な要素が多分にあった。

R・ハッター=服部良一

[昭和14年淡谷のり子《夜のプラットホーム》が軟弱と発禁に。ボツにするのは惜しい曲なので、英題・英詞にして洋楽部から洋盤として発売]
《アィル・ビー・ウエイテング》という題名がついた。日独混血の青年(ファクトマン)が「ビック・マックスウェル」という芸名で歌った。服部は作曲者・R・ハッターを名乗った。
 この二人のコンビはその前にも《ラブズ・ゴーン》(夢去りぬ)《ザ・ワルツ・アイラブ》(私の好きなワルツ)でコロムビアの洋盤にしてはかなりのレコードセールスを記録した。
(略)
[戦後]《夢去りぬ》としてリバイバルされヒットしたとき、服部良一は戦中にコロムビアの洋盤で発売されたR・ハッターの曲を盗用したということで非難を浴び、それが盗作問題へと発展した。それほどまでに《ラブズ・ゴーン》は欧米の原盤と思われていたのである。演奏もヨーロッパ一流のタンゴオーケストラと当時のクラシックの音楽評論家たちまでも絶賛していた。なんのことはない。演奏は全員日本人である。(略)指揮・編曲はR・ハッター、つまり、服部良一だった。

明日につづく。