ニッポン・ポップス・クロニクル

ファースト・アルバム「はっぴいえんど

 ベルウッドの設立者である三浦光紀に、ファースト・アルバム「はっぴいえんど」のミックスについて聞いたことがある。ヴォーカルが聞こえにくいとの声が多かったからだが、何か理由があるのかというこちらからの問いに、「僕たちは洋楽を聴く時、ヴォーカルをメロディーとして捉えている。ヴォーカルをインストと同様に扱うことからロック的なサウンドに近づける」と答えた。それはきっと、はっぴいえんどのこだわりであったのだろう。(略)
「リミッターのアタック、リリース・タイムが遅かったのが発端なのです」
「それを解決するにはマイクから離れること、マイクの正面に立たないことでした」。

「サイダー'73」

1972年の6月、僕は新宿二丁目の通りで石浦信三に、ばったり出会った。(略)「はっぴえんどにコマーシャルをやらせてみたい、出来るならサクラフィルムを希望している」
(略)
 大森昭男の決断は早かった。「サイダー」の演出(略)結城臣雄には、資生堂の「MG5」で岡林信康をコマーシャル音楽に起用した経歴があった。その録音時にバックを受け持ったのが、はっぴいえんどだったのだ。こうして、偶然が重なりあい、必然となり「サイダー'73」に大滝詠一が起用されることになる。(略)
あれから38年、大森に聞いた。「何故、それほどまでに、大滝さんを起用したのですか?」。大森は明快に答えた。「大滝さんの中に鶏郎を見たからです」。これにはまいった。そうだったのか。
 大森は言い切る。「キャッチフレーズ・ウィズ・ミュージック、キャッチフレーズこそコマーシャルの生命です」と。そうだ、大滝詠一はそれが自然体で出来ていたのである。そしてシズル感!
(略)
オンエアーされなかった悔しい作品に、前述の「資生堂サマーローション」がある。ボツになった理由は、バック・コーラスが「シセイドー♪」を繰り返していたからだろう。当時の資生堂は堅かった。

い・け・な・いルージュマジック

 1981年の秋頃だっただろうか、坂本龍一から僕に、何か新しいことをやってみたいという話があった。YMOが内外に様々な問題を抱えていた時期だった。事実上、バンド活動は休止していた。時を同じくして、資生堂宣伝部の石塚靖男氏から、今夜すぐに会いたいとの電話があった。(略)会うや否や、「牧村さん、口紅のCMソングのアイディアはないか」と聞いてきた。(略)
「男も化粧する時代ですから、いっそのこと化粧をしているミュージシャンを起用したらどうでしょう」。きっとそれは無理だ、資生堂はそういうことは出来ないはずだと思ったからだ。だが、石塚氏は意外にも、それでいきましょうと言った。そこでやめておけば良かったが、「たとえば誰ですかね」と聞かれ、思いついた名前をうっかり挙げてしまったのだ。
(略)
坂本は、この異種格闘技のようなアイディアを歓迎した。一方、清志郎の元には、カメリア・レコードを経て、トノバンのマネージャー担当についていたRCサクセションの初代メンバー・破廉ケンチ氏が行ってくれた。しかし、返事はかんばしくなかった。
(略)
 経緯を坂本に話すと、自分が直接、清志郎と話すと言い出した。(略)
薄紙を1枚1枚はがすように慎重に進めて行くと、それまで隠されていた、RCサクセションのレコード会社移籍の話が出て来たのだ。そしてついに、移籍先のレコード会社から出すならという条件で、まとまる気配が出てきた。
(略)
[スタジオに入った二人に「で、僕らに何をやらせたいの?」と訊かれ]
咄嵯に「Tレックスのような」と言葉にした。化粧=グラムロック、単純すぎるくらいの単純な発想だった。
(略)
[曲が出来ると]またもや難問が来た。2人は嬉しそうに、口を揃えてこう言ってのけた。「タイトルを『ルージュ・マジック』ではなく、『いけないルージュ・マジック』にして欲しい。それが駄目だったらやめる

田島貴男フリッパーズ・ギターのプロモーション4曲入りアナログ盤に寄せたコメント

 3年ぐらい前、あるライヴ・ハウスでフリッパーズ・ギターの前身ともいえるバンドを観た。半年ぐらい経ち再び見かけた時は、バンドが散り散りになったらしく、小山田君と井上さんの弾き語りのようなユニットになっていた。その時僕は、小山田君の曲の語り口に共感を持った。そして、また半年ぐらい経って彼らを観た時は、ちゃんとドラムとベースとキー・ボードとリード・ギターがいて、独特のサウンドができ上がっていた。しかし、僕は彼らがこれほどいいレコードを作るとは、正直いって、思ってもみなかった。フリッパーズ・ギターの曲は、とてもある世代を強調している。僕は日本のパンク・バンドにあまりパンクを感じたことがないのだが、フリッパーズ・ギターには非常にそれを感じる。非常に痛めつけられやすいサウンド。ターゲットにされやすいサウンドモノクローム・セット、ペイル・ファウンテンズ、アズテック・カメラが持っていた反抗的なアコースティック・サウンド。僕らの世代の反抗的な態度は、ある面でこうあって欲しいと僕は思う。このアルバムは日本で初めて、僕らの世代を語った名盤だ。

牧村憲一による相倉久人ロング・インタビュー

[日本のジャズ界でオリジナリティを獲得したのは山下洋輔という話の流れから]
日本の戦前のジャズの消化の仕方というのは、すごかったんですよ。ご存じのように、大正の頃はアメリカでもジャズが生まれたばかりで、要するにその時代に日本人でジャズをやっていたのは、ほとんどは金持ちの道楽息子。(略)
発生したアメリカとは、まったく異質なわけですね。だから日本に帰ってきて活躍をしようといっても、日本人はジャズという言葉すら知らないわけです。そのなかで仕事を得るためには、すでにある日本の芸能界に、なにかの形で溶け込んでいかなきゃいけない。そういうものがね、戦前の日本のジャズ・センスを育てたんですよ。その頂点がエノケンなわけです。戦前のジャズ・シンガーで一番レベルが高かったのはやっぱり、榎本健一
(略)
アメリカ直輸入っていうのが、実はみんな上海系なんです。上海だとか大連だとか。というのは、上海租界とか言って、あそこは国際都市だった(略)
[大恐慌で仕事にあぶれた欧米のミュージシャンが流れて来ていた]
なかでも一番有名だったのが、テディ・ウェザーフォードっていうピアニスト(略)アメリカのジャズに不満で、上海でしばらく活躍して、最後にインドで死んじゃうんですね。その上海時代に彼の薫陶を受けたのが、トランペットの南里文雄なんですよ。あのへんを見たら、みんな上海へ行ってジャズを勉強してる。その前の大正時代には、ほとんどアメリカヘ行って、あとは東洋汽船なんかのバンドでもってやってたわけでしょ。そういう連中は、道楽としてやってきたのを、浅草オペラだとかなんとかが食わしてやってたわけです。
(略)
その流れでもって、戦後に笠置シヅ子っていうのが出てきて。それが残念なことに、そこで途切れるんですよ。戦争で途切れてしまう。(略)
敵性音楽で途切れるだけならいいんですけどね。戦時中にジャズをガンガンやってた連中は、いっぱいいるんですよ。対アメリカの宣伝放送ですね。(略)だからレイモンド・コンデなんて、堂々とジャズができた。それが切れるのは何故かっていうと、ひとつはアメリカの占領政策もあって、ジャズを使って日本人を手なずけようっていうのが入ってたでしょ。そうすると今度はじかに、アメリカの当時のジャズが入ってくるわけですよ。(略)
じかに向こうのレコードが入ってくるわ、音楽が入ってくるわ、FENの放送があるわっていうんで、その頃から日本の歌手はみんな、英語で歌うようになっちゃったんです。(略)せっかくエノケンが作った日本的なジャズの消化の仕方っていうのが飛んじゃった。そうなると、価値基準が、どれだけアメリカの基準に合うかっていうことなるわけですよ。
(略)
状況を悪くしたのは、バークリー音楽大学なんですよ(笑)。(略)
バークリーというのは、ジャズの演奏方法をシステマティックに分析して教えるところでしょ。あそこが「こうすればジャズになる」っていう方法を作っちゃったわけですよ。ところが、昔のジャズメンなんてね、譜面も読めなければ、なにも知らない。聴き覚えでやって、真似してるうちにああいうスタイルができてきたわけ。
(略)
意識がアメリカに向いてて、アメリカのジャズ・シーンからのお墨付きがほしい人が多かったわけですよ。それでバークリーに行ったりするわけでしょ。向こうで「おまえはすごい」と言われたい。そういう時代が来ちゃってイヤだなあと思ったけど、そのなかでも宮沢昭だとか、中村八大だとか……
[その人じゃなくちゃならないものが出てきた]
(略)
今までの話は、本家アメリカと日本についてのものだけど、それとは別に、ジャズが抱えてる矛盾というのがあるわけ。アフリカ的なものの要素と、ヨーロッパ的なものとがあるでしょ。そうすると、どうしてもミュージシャンの頭のなかにはバークリー的な発想というか、ヨーロッパ音楽の理論があるんです。
[理論が正しく、進歩であり発展であると思ってしまう](略)
ヨーロッパ的なものから外れるものは未熟であるという判断。それでね、高柳昌行君は、そういうヨーロッパ音楽の理論をきちっとやってる人なんですよ。だから、彼の山下洋輔に対する評価は低かった。だから、山下洋輔を持ち上げる僕というのもインチキで

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