ムッシュ! ムッシュかまやつ その2

前回の続き。

ムッシュ!

ムッシュ!

「レディ・ステディ・ゴー」にも出演

[一緒に出たスペンサー・デイヴィス・グループらは口パクだったが]スパイダースはライブで演奏した。「サッド・サンセット」と、アニマルズがリバイバルさせたジョン・リー・フッカーの「ブーン・ブーン」の二曲だ。公開放送なので、観客を前にしての演奏だったが、思いのほか受けた。(略)
[ヤマハ提供の楽器一式が]なぜか帰国時には税関の関係で日本には持ち込めないということがわかった。(略)
ひと揃い全部、ぼくの大好きなスペンサー・デイヴィス・グループに進呈した。そのとき彼らは知らん顔だったが、その後、スペンサー・デイヴィスから「確かにいただきました」というエアメールが届いた。
 八〇年代になってスペンサー・デイヴィスが来日したとき、彼がぼくのことを覚えていて探していたと、あとから聞いた。会ってあのときの話をしてみたかったな。
(略)
 ひと月近いヨーロッパ・ツアーを終えて、やっと、という感じで羽田空港に降り立ってみると、空港のエプロンに女の子たちがひしめき合って手を振っている。びっくりした。(略)
 日本を留守にしているあいだに「夕陽が泣いている」がブレイクして、スパイダースは超のつく人気グループになっていたのだ。皮肉なものだ。もちろん、うれしいには違いなかったが、自分たちの意に染まない曲が大ヒットしてしまったことにとまどいもあった。
「夕陽が泣いている」を聴いてガッカリしたというファンも少なからずいた。当時、高校生だった近田春夫さんもそのひとりだったらしい。
(略)
 もちろん、あの曲があったからスパイダースが生き残れたという面もある。(略)
[だが客層に橋幸夫舟木一夫を聴くような人が加わって]
やっているほうとしては、以前よりつまらなくなってしまった。

日劇エスタンカーニバル」GS大集結

 三、四ヵ月に一度の割で一週間、人気GSが一堂に会して、それぞれのバンドの親衛隊が熱狂的な応援を繰り広げるのだから、これはバトルのようなものである。スパイダースは毎年のようにイギリスやアメリカに行って、新しい音楽を仕入れ、マスターしてきた。帰国してすぐウエスタンカーニバルでそういう曲を演奏すると、けっこうウケた。
 たとえば、フォー・トップスの「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」。オーティス・レディング版「デイ・トリッパー」。
 まだ日本ではほとんど知られていない、カッコいい曲を披露するときは、勝ち誇ったような気分だった。
 ビートルズの「ペイパーバック・ライター」も、すごく早くカバーしていて、武道館で、アメリカのサーフィン・グループ、アストロノウツと共演したときにこの曲を演奏したら、アストロノウツのメンバーが、
「この曲、お前らのオリジナルか。すごいな」と目を丸くした。
 アメリカのバンドがまだ知らなかった、そのくらい仕入れるのが早かった。
 あの曲はイントロなしで、いきなりコーラスで入ってグイグイ押していく。お客は意表をつかれて「オーッ」と驚く。ステージ映えがするのだ。アメリカのバンドまで驚いたりすると、うれしかった。音楽をやっていて楽しいと、心から思えた時期だ。
 「ハード・デイズ・ナイト」も、サス・フォーのコードをジャーンと鳴らしたあと、いきなり歌に入る。ビートルズには、従来の常識をくつがえすような曲が多かった。それがポップスのひとつのチャーミングなところだ。

タイガース、テンプターズ

[京都の]コンサートが終わったあとのファンクラブの会合で、いちばん前の席に男の子が五人すわっていた。女の子ばかりのなかで、すごく目立った。
 「ぼくたちもバンドやっているんです」
 「スパイダースが好きで、今度ファンクラブに入りました」と彼らがいう。
 「へえ。なんていうバンド?」
 「ファニーズです」
 それがのちのタイガースだった。
 いろいろ話したりしているうちに、仲よくなったし、ルックスもいいから、スパイダースの事務所、スパイダクションに入れてデビューさせようということになった。ところが、内田裕也さんが関西の出身だから、たぶんその関係で彼がファニーズを口説いたのだろう、彼が所属する渡辺プロダクションにとられてしまった。
 しかもタイガースと名前を変えてデビューしたとたん、ものすごい勢いでスターダムを駆け昇っていった。(略)悔しいから、彼らにぶつけるために、スパイダクションが売り出したのがテンプターズだったはずだ。
 たしか、大宮のディスコみたいなところで演奏していたのを誰かが見つけてきたのだと思う。(略)
 しかし、ガラが悪くてまいった。
 スパイダースが出演しているジャズ喫茶に遊びにくると、客席から、
 「『サティスファクション』やれ!」などと怒鳴ったりするのだ。彼ら、ストーンズが好きだったから。懐かしいね。
 日劇エスタンカーニバルで、ショーケンストーンズのナンバーを歌いながら十センチくらいの大さの角材を振り回したこともあった。ちょうど学生運動が盛んな時期だったから、ゲバ棒のつもりだったのだろう。スゴクかっこよかった。

ニュー・ロックとフォークのはざまで

 六〇年代も後半になって、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスやクリームなどのニュー・ロックのグループが出てきたとき、これまでとはまったく違うものだと感じた。クリームの曲を演奏しても、うわべだけをなぞっているような気がしてしかたがなかった。
 七〇年代に入ってから、グレイトフル・デッドとかを聴いて、なんとなくヒッピー集団の思想的なものがわかってきた。そういう思想がなければ、できない音楽だったのだ。ファッションから考え方、生活まで、そのものになりきらなければ、ああいう音は出せない。ジミヘンのアヴァンギャルドなロックにカルチャー・ショックを受けたころから、ぼくは、スパイダースもそろそろ終わりかな、と考え始めていた。(略)
[66、7年頃にゴールデン・カップスを観て]
てんでんばらばらの格好をして、ステージでウィスキー片手にくわえタバコで好き勝手にリズム&ブルースを演奏していた。
 「ああ、カッコいいな」とぼくはつぶやいた。おそろいのミリタリー・ルックを着て芸能界の約束ごとに組み込まれつつあったスパイダースが、やたらに古くさく思えた。その時点でもう“寒かった”のだろう。
(略)
 そんなジレンマのなかで、ヒッピー・ムーブメントに近い、新しい風俗みたいなものを、ロックよりも、関西フォークの人たちからぼくは感じとり始めた。(略)彼らは自分たちで書いたメッセージを日本語で歌っていたから、彼らの考えていることが、言葉として歌からはっきりと聞こえてきた。

荒れる学園祭

 早稲田大学の学園祭でこんなことがあった。前夜祭[が平穏に終わり](略)主催者の学生が「後夜祭にも出てもらえますか」というので、軽い気持ちで「ああ、いいですよ」と答え、当日、行ってみると、浅川マキさんと頭脳警察とぼくしかいない。(略)
前夜祭とは打って変わって、異様な雰囲気に満ちあふれている。学生活動家のような面々が詰めかけ、あちこちで演説やらアジテーションやらが始まっていた。ぼくは、何も知らなかったからその場にいられたようなものだった。
 浅川マキといえば、青山学院の学園祭出演中、ステージに火炎ビンが投げ込まれたことがあるが、ビビるどころか、「何よ、これは!」と怒鳴りながら、煙があがっているそのビンを拾って客席に投げ返し、学生運動家と口論を始めたほどの人だから(略)平然としたものだったが、頭脳警察が観客をあおるのにはまいった。なんたって、「世界革命戦争宣言」とか「銃をとれ!」とかいう曲を演奏して盛り上げるのだから恐ろしい。(略)
 ぼくは、騒然としたなかへおそるおそる出ていった。二、三曲やったところで、素っ裸にヘルメット被ったヤツが三人くらい、突然ステージに乱入してきた。ぼくはあえなく張り倒され、マイクを奪われてしまった。そのマイクを握って、ヤツらの政治的アジテーションが始まった。(略)
それからいろいろな学園祭に出て、ずいぶん鍛えられた。(略)“理論武装”していかなきゃいけないと、いろいろなことを勉強したりして、けっこう忙しかったのを覚えている。(略)
うまく視線をそらすとか、難しいことを問いかけられないように上手にシカトして、コンサートが終わるとさっさと帰ってしまう。だが、なかには学生と一緒に座り込んで、延々と議論するミュージシャンもいた。そういう時代だったのである。フォークの連中がみんなしゃべりがうまいのは、もしかしたらこういう場で鍛えられたからかもしれない。

中津川フォークジャンボリーもヤバかった

中津川に着いたらミッキー・カーチスがいて、こんなことをいう。
「オレ、前の晩から来てるんだけどさー、オレたちが寝てるテントのそばでゆうべ大乱闘が始まってさ、すごい怖かったぜ」(略)
みんなウッドストックを意識していて、客まででたらめなのだ。
(略)
スパイダースにいたから、やっぱり「商業主義、帰れ!」とか怒鳴られるのかなと、こわごわ出ていったのだが、いきなりフィドルをチャッチャッチャッと鳴らしてカントリーを始めたら、なんとか着地できた。しかし、怖かった。あんなに緊張したことはなかった。
(略)
[一夜にしてニューヒーローとなった吉田拓郎]
 あとで聞いたところによると、当時、拓郎のマネジャーをしていた、のちのフォーライフ・レコード社長、後藤由多加さんが、お客に酒飲ませて回って煽動したのだという。それで岡林のメインステージから拓郎のサブステージにお客がワーッと押し寄せた。(略)それから吉田拓郎の時代になったと、伝説的にはそうなっている(略)
 とはいえ、すでに岡林は、主役の座を降りたがっていたのではないだろうか。ただでさえ過激なファンが、ますますエスカレートしていったから、正直、彼も怖がっていた。
(略)
ロックの連中には嫌味もいわれた。内田裕也からは、ぼくがステージに出ようとスタンバイしているとき、「ムッシュ、フォークなのかロックなのか、どっちかハッキリしてくださいよ」
 といわれてしまった。そこで、ステージに立って開ロ一番、
「フォークのかまやつです」
 とあいさつしたら、彼はソデで笑いくずれていた。内田裕也には「怖い」というパブリック・キャラがあるけれど、けっこうジョークも好きだし、ギャグのわかる男なのである。
 フォークの若い人たちからも、陰ではけっこうキツイことをいわれていたかもしれない。「なんだ、あのグループ・サウンズくずれ」みたいに。だが、ぼくは、流れのままにやっていたし、あんまりものを考えていなかった。フォークという音楽に惹かれていっただけで、批判されても、それを受け止めるだけの知識もなかった。ぼくらだって、グループサウンズ時代には、異質なグループとか若いのが出てくると排斥しようとしていた。つぶそうとはしないが、相手にもしなかった。だから、ひと回りふた回り下のフォークの連中がぼくを排斥しようとしても無理はない。だけど、「わかってない」ことが自分でもわかるのだから、「どういわれようと、しょうがねえや」みたいな話なのである。

はじめ人間ギャートルズ」主題歌

[赤坂の蕎麦屋園山俊二と隣り合わせて意気投合、主題歌を依頼される]
 えーっ、アニメの曲かよ!
 CMやテレビ・アニメに出るのは体制的だ、堕落だ、などというツッパった雰囲気が、まだ若者社会にはあったから、内心、引いてしまった。だが、園山さんが書いた詞がデタラメというか面白いというか、「ゴンゴンゴン」やら「ウニャハニャハニャ」やら、感覚的な言葉がやたらに出てくる。(略)
仮歌はぼくが歌った。(略)
 ぼくが歌っているそばで、園山さんはベロベロに酔っ払って、
 「ハチャメチャに!もっとハチャメチャにしてくれ!」
 と、あれこれ注文をつける。ぼくが面白半分に、
 「チョキパラー!モギャギャー!」
 などと叫ぶ。すると彼は「それ、いい!面白い!」と大喜び。大変だったのは、ぼくらが大騒ぎしているテープをもとに起こした譜面を見ながら歌わなければならなかったNHKのお兄さんたちだ。

「我が良き友よ」と「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」

[拓郎とのデュエット「シンシア」がヒット、ソロ曲を書いてくれと拓郎に迫ると]
 「ムッシュにぴったりの曲ができたよ」
 どんな曲だろうとわくわくしながら拓郎に会った。
 「オレの先輩のことを歌ったんだけどさ」
 そういいながら、拓郎が聴かせてくれたのが、「我が良き友よ」である。
 正直、ぼくは複雑な気持ちだった。旧制高校バンカラ学生だったオヤジが、昔はよかった、といっているような懐古趣味的な歌詞だ。
 「この曲を、オレが?」みたいなとまどいがあったが、こういう歌をぼくが歌うなんて、誰も思ってもみない、そのミスマッチに、拓郎のヒット曲に対する感性が働いたのではないかと、いまにして思う。これはヒットするとか、時代にフィットするとか、そういう嗅覚みたいなものを持っている人たちは、たしかにいる。
 当時、東芝EMIの担当ディレクターだった新田和長さんは、この曲を聴いて、「絶対にヒットする!」と確信を抱いたそうだ。
 ぼくはといえば、そういうことが自分ではわからない。自慢ではないが、自分で売れると思って売れたためしがない。
(略)
 そのかわり、B面では思い切り好きなことをやらせてもらうことにした。たまたま(略)タワー・オヴ・パワーが来日していたので、バックをやってもらえないかと、“ダメもと”で打診してみた。(略)子どものように、ただひたすら一緒にやってみたかったのである。そうしたら、意外にもすんなりオーケーの返事がきて、ちょっとあわてた。まだ曲ができていなかったのだ。
 しかたなく、コード進行だけ書いてわたしたら、彼らが器用にアレンジして、ここからここまでが歌の部分、みたいな指定までつけて演奏してくれた。狙いどおり、ファンクっぽいサウンドになっている。ぼくはそのカラオケを聴きながら詞とメロディをあとからつけていった。(略)
 こうして「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」が完成した。
(略)
「我が良き友よ」は、九〇万枚を売る大ヒットとなった。(略)
 身内からは批判も多かった。
 「ムッシュ、あれはちょっと違うんじゃないの」
 久世光彦さんにも、珍しくはっきりいわれた。当然だろう。それまでは自分でもロッド・スチュワート気取りだったのだから。
(略)
テレビ局のスタジオで偶然会った美空ひばりさんには、こういわれた。
 「あの歌は、あなたがちっとも感情移入していないからいいのよね。私がもしあの歌を歌っていたら、きっと感情が入りすぎてしまって失敗していたでしょうね」
 ひばりさんはすごいな、と感心した。
 ぼくのキャラクターと「我が良き友よ」という曲のミスマッチによって、奇妙キテレツな歌に聞こえ、不思議なインパクトを生んだのかもしれないが、それだけではない。瀬尾一三さんのアレンジもよかったし、高中正義さんのあのギターのイントロも決定的だった。(略)高中正義が、その場で、即興で弾いたものなのだ。
(略)
[仮にもう一曲ヒットを出そうとするなら]そのためにはドサ回りの営業も必要だし、売るための戦略も立てなければならない。そういう世界に行ってしまったら……、いや行くに決まっている。それはいやだな。テイチク時代に、そういう予備知識はいやというほど仕入れていた。(略)
「悪いけど、オレやっぱ辞めるわ」
そういって「我が良き友よ」一曲だけで田辺エージェンシーから離れ、またひとりに戻った。

大橋節夫

七〇年代後半から八〇年代は、いろいろなことをやった時期だ。(略)
[『渚の白い家』サントラのプロデュース&演奏。アレンジを担当したのが売れる前の林哲司]
あるときハワイアンの大御所、大橋節夫さんがフュージョンみたいな感じでハワイアンをやりたいというので、ぼくがプロデュースを担当し、[一緒のバンドをやっていた]武部さんにアレンジを頼んだ。このレコードも売れなかったが、武部聡志は、それからすごい勢いで頭角を現していった。
 だから、この時期ぼくは何をやっても売れなかったが、ぼくと仕事をしたミュージシャンはみんな出世していった。ガロもそうだったし。ぼくは男の“あげまん”みたいな存在だった。
 余談だが、日本のシンガー・ンングライター第一号は誰だろう、という話になったことがある。一般的には加山雄三さんだといわれているが、大橋節夫さんではないかという説もある。なにしろ、戦時中にラブンングを作って歌っていたという人だ。おそらく、海軍にいたから可能だったのだろう。海軍には洒落た人が多くて、戦後のジャズマンには海軍軍楽隊の出身者が多かったそうだ。
 角川映画戦国自衛隊』に出演したのも、そんなころだ。切なかったね、あのころは。
 好奇心というのも、正直あったのだ。(略)
ただひとり、あの時代で暮らすことを選んで生き残る兵士というのがぼくの役だった。レイバンかけて長髪で……そんな自衛隊員がいるはずないって。

フュージョン

 マチャアキと順は(略)タレントとして売れっ子になっていた。克夫ちゃんと堯之は、PYG解放後、井上堯之バンドとして人気テレビドラマ「太陽にほえろ!」「傷だらけの天使」「寺内貫太郎一家」の主題曲を手がけ、そのサントラを集めたアルバムもすごく売れていた。(略)
克夫ちゃんはジュリーの大ヒット曲「時の過ぎゆくままに」や「勝手にしやがれ」の作曲者として飛ぶ鳥を落す勢いだった。
 みんなに比べ、ぼくには、ちょっと切ない時期だった。七八年には母が、続いてティーブも八〇年に亡くなっていた。
 ぼくは相変わらず、あちこちでライブをしたりセッションを統けながら、方向性を模索していた。そうこうするうちに、音楽シーンではフュージョンが盛り上がってきた。(略)
もともとジャズが好きだったから、フュージョンはピッタリきた。ぼくの嗅覚と嗜好は、フュージョンに向けられた。
(略)パラシュートやノブ・ケインのセッション・シンガーを務めるようになり、六本木の「ピットイン」や神戸の「チキンジョージ」あたりで、よくライブをやった。彼らの演奏は、実にエキサイティングだった。

ベルリンの壁の上で「バンバンバン」

レコーディングのためロンドンに行っていたとき、ベルリンの壁の取り壊しが市民のあいだで盛り上がっているという記事を読んだ。(略)
みんなで軽いノリで出かけることにした。(略)
 「ムッシュ、ギター持って行こうよ」とミカさんも大乗り気だ。(略)
 ガンガンガンガン、石で壁を削っているヤツがけっこういる。(略)
 みんなで酒を飲みながら、その光景をながめているうちに、
 「ムッシュ、壁に登って歌いなよ」と、誰かが無責任なことを言い出した。
 すでに事実上、壁は崩壊しているとはいえ(略)へたに壁の上に登ったりしたら、鉄砲で撃たれかねない雰囲気だった。しかも、壁の高さは三メートル以上ある。
 それで、パトロールの時間を計った。警官は二分おきに見回りに現れる。その空白の二分間に登れば大丈夫だ。警官の姿が見えなくなるのを見計らって、「いまだ!」とばかり、スタッフの背中に乗って、ギターを持って壁の上に這い上がった。(略)
印象的だったのは、東側は暗くてセピア色、西を見るととてもカラフルだったことだ。(略)
こっちも酒が入って気が大きくなっているから、とっさに「バンバンバン」を歌い始めた。
 西側ではみんなヤンヤの大喝采
(略)
 あとでドイツに行った人に聞いたところによると、「バンバンバン」を口ずさんでいたおじさんがいたらしい。
「どうしてその歌を知っているのか」と聞いたら、
ベルリンの壁の上で日本人が歌っていた」と答えたそうだ。
(略)
 ぼくがベルリンにいたとき、東ドイツのプロモーターから、「ピンク・フロイドベルリンの壁の跡地でやるから、お前も出ないか」という誘いが留守中にあった。(略)電話がつながるのに半日くらいかかる国だ。歩いて行ったほうが早い。
 それで、チェックポイントチャーリーから東に入った。「東ドイツの少年たちをピンポイントする」という雑誌「宝島」の取材もかねていた。
 壁一枚隔てているだけだから、西側の音楽もガンガン入ってくるわけだが、東ドイツの少年たちは、ロック・コンサートを実際に見たことはない。(略)ロックやポップスについての質問が矢継ぎ早に飛ぶ。(略)どんなふうにギターを弾いて、どんなステージングをするのか、どんな服を着て、どんなファッションをしているのか、ということをしきりに聞きたがった。その少年たちの目が、あまりにも澄んでいて、怖かった。
 「こいつらはパンクだ」と、ぼくは思った。社会主義の怖いのは、そこだ。

映画でのスパイダースの演奏

 カバーでも、スパイダースはあまりほかのバンドがやらない曲を選んで演奏していた。(略)プロコル・ハルムだったら[「青い影」ではなく]「ハンバーグ」とか、ぼくが大好きだった「ピルグリムズ・プログレス」なんかを演奏する。マチャアキもアニマルズの「孤独の叫び」や「アラウンド・アンド・アラウンド」のように、けっこうハードな、シャウトする曲を歌っていた。いまでいうとパンクみたいな感じだった。(略)。
 順はホンワカ路線。堯之はゾンビーズとか、線は細いんだけど、メジャーセブンが出てくるような曲を歌うと、けっこうよかった。トロッグスの曲もいい感じで歌っていた。意外だったが、堯之と順でピーター&ゴードンをやるとピッタリだった。
 ただ、スパイダースはコーラスがダメだったなあ。
(略)
 スパイダースで映画に出ていたときには、日活のスタジオの乏しい機材と設備のなかで「なればいい」とかそういう曲のコーラスを、レコードとはアレンジを変えてやったものだ。口角泡飛ばして、ああでもないこうでもないとやり合った。(略)その時その時で洋楽の新たな流行を敏感に吸収して演奏していたのだと思う。映画のために新たに演奏した曲が、レコーディングからわずか三ヵ月しかたっていないのに、レコード・バージョンに比べてすごくサイケデリックなアレンジに変わっていたりする。いまあらためて聴いてみると、それが、よくわかる。
 逆に、あまりに機材が貧しいものだからアタマにきて、メンバー全員、内なる世界に入ってしまい、レコーディングのときよりも、もっと凝ったアレンジやハーモニーを考え、力の入った演奏をしている。だから、映画のなかの演奏は、音質こそ悪いが、音楽的にはレコードよりかえっていいものになっていたりするのだ。

若い世代

 いま好きなのは、圧倒的にRIZEというバンド。(略)[ジョニー吉長、CHARの]息子たちの時代なんだなぁって、なんだか身近に感じる。ぼくの友人の息子がラッパーのZEEBLA。
(略)
彼らの世代は、宇多田ヒカルに限らず、みんな物おじしないで堂々としている。ぼくらの世代にあった洋楽コンプレックスみたいなものもまったくない。(略)
宇多田って相当うまい。歌い方も日本人離れしていてすごいよ。何より声がものすごく魅力的だから、リズム&ブルースであろうがなかろうが、なんでもかまわないのだ。ああいう声を持っている人は、日本にあまりいない。きっと何を歌っても素晴らしいはずだ。ぼくは完全に宇多田にイッちゃってるね。
 CHEMISTRY平井堅ゴスペラーズは、「じょうずだなぁー」とは思うんだけど、素直に入っていけないところがある。実は、ブルーアイド・ソウルは好きだったけれど、濃いリズム&ブルースは苦手だったから、どうも男性のリズム&ブルースというのになじめない。
 ただ、みんな、コブシを回すのが実にサマになっている。昔の人はコブシを回すと演歌か民謡になってしまったものだけど、彼らは生まれたときからリズム&ブルースを聴いて育っているのだろう。(略)
 リズム&ブルースだとかではなく、どこにも属さないCHARAやUA、Coccoみたいな妖しげな天然系のシンガーのほうが、ああいうフィーリングって世界中にあるんだけれども、逆にいうと、日本人には不自然じゃなくていいんじゃないだろうか。自然体で、ビョークのようなケルト系の雰囲気を感じる。ぼくは好きだな。