選曲の社会史 「洋楽かぶれ」の系譜 細野晴臣

 

選曲の社会史  「洋楽かぶれ」の系譜

選曲の社会史 「洋楽かぶれ」の系譜

 

プロローグ

細野晴臣の場合、幼少期の彼の心にすり込まれたのは、テレビ番組やコマーシャルの音楽、ピアノの調律師だった祖父や母方の叔父のレコード・コレクションで聴いたビッグ・バンド・ジャズやハリウッド映画の主題歌である。

(略)
三木のり平の出る洗濯機のテレビ・コマーシャルに使われたクライド・マッコイのミュートされたトランペット、黒猫がピアノの上を歩く「ヤシマのボンボン」のコマーシャルに流れるレス・ポールの「キャラバン」、日本テレビのテスト・パターンでかかっていたコール・ポーターの「ユー・ドゥ・サムシング・トゥ・ミー」、人気の探偵ドラマ『日真名氏飛び出す』で出演者が行う生コマーシャルのグレン・ミラー
 細野にとってそれは、誰もが夢を信じることができた一九五〇-六〇年代ならではの「この世のものとは思えない陽気で喜びにあふれた」天上の音楽であり、かたや、快適に過ごされるべき日常生活の合間に流されるからこそ、人の心に抵抗なく受け入れられ、誰もが軽く聞き流せる都会的で洒脱なイージー・リスニングの数々である。
 たとえば、富田勲の手になるあの「今日の料理」のテーマ曲のように、昼どきのテレビ番組や映画館の幕間に流され、作者や曲名は覚えていないのに、耳あたりがよく誰もが一番よく知っている音楽、細野はそれを「ランチタイム・ミュージック」と呼んだ。
 生活に溶け込み、知らぬ間に人生に刻印されているのは、そう、「森を歩こう」や「今日の料理」だけではない。日曜日の終わりを告げる「洋画劇場」のモートン・グールドによるピアノ協奏曲風「ソー・イン・ラヴ」、ニニ・ロッソのような哀愁のトランペットが一世を風扉した時代に、クールなリフレインのトランペットが耳に心地よく焼きつくベルト・ケンプフェルトの「アフリカン・ビート」、料理番組のテーマ曲なら、マヨネーズ・メーカーに半世紀以上使い続けられる「おもちやの兵隊のマーチ」だってある。
 それらのおおもとには二〇世紀中葉のアメリカのジャズやポップス、ムード音楽がある、と細野晴臣はいう。近年の細野は、こうした音楽が「絶滅危惧種」になるとの危機感のもとに、カヴーや商業施設のBGMの仕事を通じて、私たちをその源流へと誘おうとしている。
 そして、この国でも、一九八〇年代からクラブDJやBGM選曲家らが担ってきた「選曲文化」の広まりによって、過去の思わぬ「良質な音楽」の発掘と共有がすすみつつある。

順番を飛ばして、第8章へ。

「音楽の美食家(レコード・イーター)」細野晴臣と消化されたアメリ

[『HOSONO HOUSE』録音]

 「音楽は景色や空気と密接に繋がっている」と細野は言う。ナチュラルで少し泥臭く、シンプルで静謐なサウンドをつくるには、自身が生まれ、はっぴいえんど時代までをずっと過ごしてきた東京都心を離れて、「アメリカのにおいのする田舎」であった狭山のような環境に身をおく必要があった。開発の進んだ東京からは細野が生まれ育った街の原風景が失われ(略)レトロモダンな「風街」世界の幻想を抱くことも難しくなっていた。

(略)

[LAで]ヴァン・ダイク・パークスの音づくりを目の当たりにして、細野は新鮮な衝撃を受けた。パークスの仕事ぶりは、立体的・構築的な方法だった。(略)

豊かな音楽的イディオムの源泉からその場で浮かぶフレーズやアイディアを実験的にメンバーにぶつけ、たとえば最初に一六ビートのハイハットを叩かせ、次にバスドラムカリプソのリズムで打たせ、といった積み上げを重ねて少しずつ全体をつくりあげていった。(略)
[リトル・フィート『ディキシー・チキン』の録音]も見学し、異様な興奮状態のなかで「力強いビートと音のクオリティ」そして「圧倒的なサウンド」によって繰り広げられるセッションに息を呑んだ。
 帰国後、ロス・アンジェルスでの衝撃をすぐには消化できぬまま、細野は「何かをやらなければ」という気持ちをソロ・アルバムの構想に振り向けていった。レコーディングのかたわら、彼はラグタイムニューオーリンズ・ジャズ、カリプソなど、はっぴいえんどの守備範囲になかったアメリカやラテン・アメリカの古きよき音楽を基調としたパークスのアルバム『ディスカヴァー・アメリカ』を聴き込んでいく。これを機に、テレビの深夜映画をあまた見て、自身が子どもの頃聴いていたハリウッドの映画音楽やジョージ・ガーシュインなど、かの国のノスタルジックな音楽にのめり込んでいった。かたや、ビートのあるものではなく、その頃の気持ちの不安定さを拭い去ってくれるジェームズ・テイラーのようなシンガー・ソングライターやカントリーなど温もりのある音楽を聴き直している。

(略)

はっぴいえんどのロス・アンジェルス録音を経て、細野は日本のアーティストとしてアメリカの音楽界とも比肩しつつやっていけるのではないか、という手応えを得ていた。
 彼は語る。「これなら日本でもやれるって自信みたいなものはつけて来たつもり。別に録音するためにアメリカまで行かなくてもいいんじゃないかってね。向うでは、日本人だからどうこうってことは全くなくて、実力だけで評価してくれたからその意味でも自信がついたみたい」。[73年『新譜ジャーナル』3月号]

(略)

[アルバム]タイトルそのままに、自然豊かな郊外の「狭山での生活、ミュージシャンの生活ってものがそのまま出てきてるって感じだよね」という仕上がりになった。[87年『季刊REMEMBER』16号](略)

 セッションの二日目に取材にやって来た北中正和は細野がのちに「バーチャル・アメリカン・カントリー」と呼んだ彼のハウス周辺のようすをスケッチしている。
 「アメリカ村の細野さんの家のあるあたりは小ざっぱりとした住宅街である。アスファルトの道が一本、低い山腹の脇を走っていて、その道と山腹との間に、同じ造りの白塗りの木造家屋が四列に並んでいる。どの家も白い柵がついていたり、古い芝生が植わっていたりする。細野さんの家は、山腹側にあり、一五メートルばかり離れたところまで、緑の崖が迫ってきている」。[73年『ニューミュージック・マガジン』6月号](略)
歌詞からは、「ここら辺りに住みつきませんか あそこをひきはらって生で聞けるからカントリーミュージック 白い家でも見つけましょうか」(「ぼくはちょっと」)、「土の香りこのペンキのにおい 壁は象牙色 空は硝子の色」(「恋は桃色」)など、ハウス周辺の自然や郊外の暮らしの生活感、それを彩る音楽への思いがほのぼのとにじみ出す。
 ただ、細野はこの「カントリー」が時代の幻想にすぎないことを悟っていた。むしろ、そうした幻想を積極的に共有しあおうとしていたのが一九七〇年代初頭のこの国の人びとの意識だったといえよう。彼は言う。「七〇年代のムードを……一番表している空気感が出ているアルバムだと思うんだ。(略)ある種の体制が崩壊したというか。そんな中から、アメリカではバッファロー(・スプリングフィールド)が生まれてきて、日本ではその三年おくれではっぴいえんどが始まった。それが終わって、先のことを考えられない状態で、ただただバック・トゥ・カントリーの時代。都会を捨て、田舎で新しい家庭を作ってという衝動だけで田舎に住んだわけ。幻想のカントリー、アメリカですら幻想なのに、ひとひねりした日本で作ったカントリー。新しく家庭を持って、子供ができてっていうパーソナルな状態から出てきたから、七〇年代的に思えるのかもしれない」。[99年『モンド・ミュージック二〇〇一』]
 狭山にとどまり続けるうちに、細野はこの幻想の暮らしが少しずつ解体しつつあることに気づいていた。彼は言う。「(略)コミューンみたいのを作ってね、現実にはあり得ないようなアメリカ村みたいなとこに住んで、まわりにはミュージシャンとかアーティストが住んで、ニュー・ファミリーみたいなのを結成したりしてね、ほんわかした中で生活していたのが、だんだん崩壊しつつあったんですね。……それ自体がひとつのフィクションだということも、どこか考えていたことは考えていたような気がする」。[『THE ENDLESS TALKING』](略)
ヴェトナム戦争の終焉とともに米軍兵員と家族が総撤収していくことによって「アメリカ村」なるものが空洞化していく

 (略)

 メンバーと親交があり、はっぴいえんどや細野靖臣の音楽活動をカメラに収め続けた写真家・野上政宏は、はっぴいえんど最後の年となる一九七二年の春、自身が働いていた原宿セントラル・アパートにある写真家・鋤田正義の事務所でメンバーたちと会った。(略)

細野に何気なく、最近は何を一番よく聞いているかと訊ねると、ほかのメンバーもいっせいに細野の方をふりかえって返事を待ったという。(略)

 「やっぱり細野の興味の行方が気になるんだなと思った。細野がこれだよと手をかけたのがザ・バンドの『カフーツ』。一曲目の『ライフ・イズ・ア・カーニヴァル』に針を落としてしばらく演奏を聞いたのち、細野はアラン・トゥーサンのクレジットを見せた。『ニューオーリンズね』と誰かが言った」。

「内なるアメリカ」「チャイニーズ・トロピカル・エレガンス」

もちろん、いたずらにアメリカ西海岸のアーティストたちの音楽のひきうつしに終始したわけではない。細野は、その時代にのめり込んでいたバッファロー・スプリングフィールドらについて語っている。「彼らのファンでしたから、そういう人たちのやっていることを突き詰めていくと、自分たちの足もとを見てるわけですね。いわゆるルーツ……たとえばリズム・アンド・ブルーズとか。じゃあ自分たちの足もとを見なきゃ、と。そうしないと面白いロックもポップスも作れない……。そういうふうに学んできて、はじめて日本人だという意識が出てきたと思うんです」。
 細野らが聞き込んだバッファロー・スプリングフィールドのアルバム『アゲイン』のジャケット裏には、彼らが影響を受けインスピレーションを得てきたハ〇人に及ぶアーティストの名前が記されている。(略)

細野と松本はその名前を目にしつつ、では自分たち自身が影響を受けたアーティストはいったい誰なのかを自問し、名前を書き連ねていった。細野は言う。「そのとき、我々は単なるコピー・バンドから一歩進んだと思う。アプローチのコピーというのかな」。[『HOSONO百景』]

(略)

洋楽の旺盛なる美食を繰り返しながら、細野は意外にも過去に自らの中に深く取り込まれていた「内なるアメリカ」に辿り着き、それを梃子に自身のつくる音楽を大きく転回させていく。その媒介となったのは「エキゾティック・サウンド」で知られるマーティン・デニーであった。

(略)

 七四年、狭山から東京の落合に移った細野は、ソロニ作目の『トロピカル・ダンディー』に収録される「熱帯夜」を録音しながら、スタジオで突然、マーティン・デニーのことを思い出し、強い好奇心にかられて曲に採り入れる。

(略)
 『HOSONO HOUSE』のあと、めざそうとしたサンフランシスコのファンク・ミュージックのような音楽に自分のヴォーカルがうまく乗らないことで悩んでいた彼に、「細野さんは『トロピカル』だよ」とアドヴァイスしたのは久保田真琴である。(略)

 久保田の言葉をヒントに、細野は南国楽園をイメージさせる「トロピカル」と東洋趣昧とをミックスさせ、「チャイニーズ・トロピカル・エレガンス」なる音楽世界のコンセプトを構想する。

(略)

 「マーティン・デニーは、自分の中の枠組みを変えてくれた音楽なんだ。東京にいても、日本人には絶対つくれないのんきな“SAKE ROCK"が流れると、クレイジーな気持ちになる。……ネガティブに見えていた日本のあれこれが違った風景に見えてくる、おもしろくなってしまう。異邦人の目を初めて持てたんだ。あれ以来、僕は普通のポップ・ミュージックが聴けなくなってしまった。僕にとっては意識の拡大だったと思う。はっぴいえんどの頃から、居心地の悪い世の中だった。日本は好きだけど、音楽やってると、……いつも文化の摩擦を感じる。……あの頃、それを裏返してくれたのがエキゾティック・サウンドだった」。[『HOSONO百景』]

(略)

[58年の『EXOTICA 2』で服部良一作曲の「蘇州夜曲」をカバーしたデニー]

 「蘇州夜曲」は脱アジアをめざした当時の日本人が感じる中国へのエキゾティズムをしみじみとした哀愁あふれる曲調に乗せた歌である。マーティン・デニーは、アジア人でありながらアジアを脱し欧米化しようとしていた日本人が感じる東洋へのエキゾティズムに、アメリカ人としての東洋へのまなざしを重ね合わせてこの曲を歌ったのだろう。

(略)

細野の精神は高揚しはじめ、東京の街が「それまではただの灰色の街だったのが、……異邦人の目から見たような面白さに突然目が開いた」。そして、当時乗っていたホンダ・シビックの車で「落合あたりのなんの変哲もない路地裏をマーティン・デニーを聴きながら走ると、迷宮に入ったような不思議な感覚がする(笑)。そんなこと楽しんでいたんです。ディスカバー・トーキョーみたいな、再発見というか」[『THE ENDLESS TALKING』]

橋本徹『Suburbia Suite』

PIDEPIPER HOUSEが一九八〇年代に提示した(略)「ソフト・ロック」の斬新さについて、橋本は語る。「とにかくソフト・ロックっていう概念が本当に新鮮でしたね。『ロックなのにソフトなの?』っていう。しかも日本での造語じゃないですか、フリー・ソウルネオアコもそうですけど。目の前がパッと明るくなったというか、その陽射しが射し込んできたような感じが忘れられない体験だったんで、何かを提案するときにすぐそういう発想をするようになりましたね。ブラック・ミュージック……でも、クラブ・ミュージックでも、そういうパースペクティブで新鮮に見せていくっていうのは、あのときの経験が大きい」。
 そして、『Suburbia Suite』というレコード・ガイドの原点は「僕がロジャー・ニコルズとかソフト・ロックから受け取ったものを、ムード・ミュージックやサントラとかジャズやブラジル音楽で表現した」ことであると橋本は言う。(略)

その源流となったのは「辿っていくと八七年……に、パイドパイパーハウスや(ピチカート・ファイヴの)『カップルズ』の時代に、いろいろな古い音楽に興味を抱いて手探りながらも買って聴いてたのが、ルーツ・オブ・サバービア」である、と橋本は振り返る。 

 「カフェ・アプレ・ミディ」

 橋本のイメージにあったのは、「グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスや、サンジェルマン・デ・プレや映画『ロシュフォールの恋人たち』の港の広場のカフェ、ボサノヴァを生んだとされる一九五〇年代リオ・デ・ジャネイロナラ・レオンのサロンのようなアパートである。彼は「人が集まって、新しいなにかが生まれていく」「同じような価値観をもった大人」が音楽を聴きながらくつろげるサロンのようなカフェを自分なりにつくろうとしていた。
 九九年一一月、折しも盛り上がっていたカフェ・ブームにはむしろ背を向けるように、ポスターなど「記号性」のあるものを極力排し、白壁に木目の低いテーブルや椅子を置く、シンプルで抑えめのインテリアに行き着いた橋本の「カフェ・アプレ・ミディ」は、渋谷区神南の公園通り沿いに開店する。そこで橋本は、これまでクラブでのダンスを想定した「Free Soul」シリーズのテイストに沿って行ってきたDJの基準とは別の視点で、自分自身のカフェのための選曲を手がけるようになる。彼は語っている。「あるころからそこ(フリー・ソウル)からこぼれてしまう音楽というものをすごく意識するようになって。大音量やビートによる束縛みたいなものから解放される……そういった音楽をかける場をつくりたかったんだ。……今までDJ的に曲単位で聴いていたレコードを片面通しでかけてて、この曲こんなに良かったっけ、ていう新しい発見があったり」

(略)

ジョアン・ジルベルトキャロル・キングファラオ・サンダースが並ぶことを新鮮」に受け止めたのが、この世紀の変わり目の音楽ファンを包み込んでいる「空気」だと橋本は感じていた。

(略)

[USEN「アプレミディ・チャンネル」]

橋本の渋谷のカフェでの一日の時間の流れ方をプロトタイプとして(略)時間帯によって変わる客のサーヴィス利用の変化に合わせ、一一人の選曲家が時間帯を分担

(略)

それまではただ聴き手が求めてる音楽をひたすらセレクトしてきた」から(略)

「初めて会ったときに橋本さんが、『自分のためにただ好きな曲をかけてるだけ』って言われたのには驚いて」と[USEN側統括者の野村拓史]

(略)

「それまではUSENにはジャンルで区切ったチャンネルしかなくて、職業選曲家の間でもBGMに統一感を出すにはジャンルかテンポしかないというのが定説だった」が「その既成概念から、ちょっと自由になってみようって」と野村は語る。

(略)

[一方の橋本もUSENとの仕事において]

当初の「試行錯誤は、DJの選曲っていうこととBGMとの違いが大きかったんじゃないかな。DJってやっぱり、聴き手を強力にグリップするような選曲を心がけるものだけど、(このチャンネルを)……始めた当初はBGMでもそれをやってしまって。それでテンションが高くなりすぎたりして、自然に、ドラマティックな物語は作らなくてもいいんだなって思ったり、断片的に耳に入ってくることを踏まえて、三曲くらいずつの単位で小さなストーリーをいくつも用意したりするようになって」。

(略)
橋本らがめざしたのは、彼の言葉を借りれば「従来のBGMって言葉のニュアンスがはらみがちだった、ただ耳あたりが良くて無色無害な」ものではなく「聴き手に対してより積極的に響いてくる」が「決して選曲者のエゴに終わっていないようなもの」、「あくまでもリスナー・フレンドリーな態度のもとで」「BGMというものの枠を何センチかでも広げることができたら」という方向であった。(略)
ボサノヴァやジャズの間に、エレクトロニカやメロウなヒップホップ、印象派のクラシック・ピアノ」をはさむといった試みを追究することになり(略)

次回に続く。

 

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