精神の革命・その2 ジョナサン・イスラエル

前回の続き。

精神の革命――急進的啓蒙と近代民主主義の知的起源

精神の革命――急進的啓蒙と近代民主主義の知的起源

 

「永久平和」

 啓蒙思想はある程度まではヨーロッパのどの宮廷においても影響力を持っていたため、フリードリヒのように世上に名高い、広く賞賛を浴びた武人たる国王であっても、自身が行った戦争に対して啓蒙思想が放つ非難の声の高まりにはいくぶんか悩まされていた。そのことは、ヴォルテールに宛てた手紙で述べられている皮肉からも読みとることができる。
(略)
百科全書派の諸氏は「ヨーロッパを殺戮の舞台に変えてしまった、金で雇われたこの死刑執行人たち」を厳しく叱責しているが、「将来、私も彼らから咎められないよう、よくよく気をつけることにします」。
 フリードリヒの皮肉はディドロドルバックに向けられたもので、ヴォルテールが相手ではない。
(略)
ヴォルテール、フリードリヒ、穏健主流派が考えたように、戦争と常備軍軍国主義に染まった宮廷文化は君主と貴族が支配する世界にとってまさに不可欠なものであった。彼らにとって「永久平和」とは、実務能力を欠いた世間知らずな人間がでっち上げた実現不可能な夢想にすぎなかった。
(略)
 ヴォルテールは自身のエッセイ『永久平和について』で、こう書いている。人間が手にしうる唯一の「永久平和」とは「寛容」である。それは、頑迷な信仰心を抑え込み、宗教的権威の信用を弱めることで実現する。戦争に終止符を打つ方策を追求すべきだとはじめて主張した一八世紀フランスのユートピア思想家、アベ・ド・サン=ピエールはより全面的な平和を「想像」したが、ヴォルテールにとってそうした平和は、「象と犀のあいだにも、狼と犬のあいだにも存在しないのと同じく、君主たちのあいだにも存在することの決してない妄想」だった。彼は、一七六九年から一七七〇年にトルコに対して露骨な攻撃――この戦争は明らかな侵略だったが、ヴォルテールはそれによってオスマン帝国が完全に崩壊し、ギリシャの復興が早まることを期待した――を仕掛けたことで、臆面もなくエカテリーナ大帝にあふれんばかりの賛辞を振りまき、領土拡大に向けた彼女の野心を大げさな言葉で称賛したフィロゾーフだ。二五ページに及ぶこのエッセイのなかに君主を批判する言葉は何ひとつ見あたらない。実際、ここでヴォルテールが非難しているのは不寛容と宗教における教条主義だけである。彼にとっては、狂信の力を削ぐことが、人間が「永久平和」に近づくためのただひとつの方法だったのである。
 ルソーもまた、純粋で「男らしい」徳や国民としての感情といったものに傾倒するなかで、「永久平和」を不可能な夢想だとして切り捨てている。

「出版の自由にはある程度の弊害がつきもの」

 この意味で、啓蒙とは思想、表現、出版の完全な自由を必要とする。こうした自由はすべての人間に等しく保証されなければならない。当世風のフィロゾーフたちが目指した「精神の革命」を実現するうえで、鍵を握るのはこの自由だった。古くからの敵対関係や個人的な対立、哲学、教育、立法に関わる学問上の無用な争い、こうしたものに終止符を打つための運動を進めるうえで、表現および出版の自由を無制限に認めることには明らかな危険もともなう。しかし、当世風のフィロゾーフたちが「出版の自由にはある程度の弊害がつきもの」だと認めていたにせよ(略)人びとが理性を十分に働かせ、批判的に物事を究明し、合理的な根拠にもとづいて理解し、納得するという姿勢を徹底することから期待できる利益に比べれば、こうした弊害など一時的で取るに足りないものだ、と彼らは考えていた。出版の無制限な自由は、嫉妬心や憎悪の感情からデマや誹謗中傷を振り撒く連中を勢いづかせるだろう。しかし、公にされることで損をするのはまずは虚偽や欺瞞のほうであり、たいていの場合、真実は公開され、議論されることで勝利するはずだ、とフィロゾーフたちは期待していた。人を欺こうとする著者、不合理な主張を振りかざす著者は、遠からず報いを受ける、とドルバックはいう。社会から非難を浴びることで「出鱈目な作品の著者はすぐに罰を受けるだろう」。

穏健派啓蒙と急進的啓蒙の対立

 ヴォルテールが理解したように、一七七〇年から始まった穏健派の啓蒙と急進的啓蒙との容赦なき闘いは、当初は哲学をめぐるものだったが、やがてその領域にはとうてい収まらなくなった。上流階層の人びとのあいだに寛容をいっそう広め、彼らが教会に寄せる信頼を失墜させようとする闘いにヴォルテールは生涯をかけてきたが、それはヨーロッパの貴族や宮廷と同盟を結んで世界を変えようとする試みだった。彼の念頭にあったのは聖職者の権力を弱め、神学の影響力を削ぐことだけであり、一般民衆の信仰に口を出すつもりはなかった。ディドロドルバックは既存の価値観に対して戦いを仕掛けたが、それは社会や政治、そして知的な面にも及ぶ闘争となっていった。ヴォルテールは哲学的見解については彼らに接近することはあっても、政治や文化といった面で彼らと手を結ぶことは、どんなかたちにせよ、もはやできなかった。彼らがその実現を目指した「精神の革命」はすべての価値を全面的に見直すことを意味しており、そのため、ヴォルテールが長年にわたって取り組んできた「革命」とは根本的に異なるものだった。
(略)
 ヴォルテールは、一般民衆の勝手気儘な情念を抑えるには強力な「歯止め」が必要であり、それができるのは伝統的な宗教だけだと固く信じていた。とくに、来世において神が行なう信賞必罰を信じることで、民衆が期待と恐れを抱くことが大切だとされた。つまり、ヴォルテールは一般民衆を「啓蒙」することは不可能だし、必要もないと考えていた。
(略)
 急進的啓蒙と宮廷を後ろ盾とした穏健な啓蒙との対立は、いまや誰の目にも明らかだった。

結論

一七七〇年代から一七九〇年代にかけて両者の対立は抜き差しならない状態にまでいたった。そのうえ、唯物論に対してヴォルテールが残る力を振り絞って戦いを挑み、チュルゴが断固として批判を続けたにもかかわらず、哲学の領域においては、少なくとも当面のあいだ、自分たちが敗北を喫したことはヴォルテールにとってさえ明白な事実となった。優位に立ったのは急進派の思想家たちであることを認めざるをえなくなったのだ。
 一七七〇年代までに、急進派のフィロゾーフたちはまったく新しいタイプの革命意識を広めていた。彼らはフランスだけを、あるいはヨーロッパの特定の国を念頭に置いていたわけではなく、全世界を変革しようとしていたのである。世界中が無知と軽信を支えとした圧政と抑圧と貧困に苦しんでおり、全人類が革命――まずは知的革命、その後には現実の革命――を求めている。そして、革命によってみずからを解放しようと望んでいるのだ。
(略)
ヴォルテールが思い描く啓蒙とは異なり、急進的啓蒙の立場からは、宮廷における有力者を味方に引き入れることで事態が進展するとはとうてい思えなかった。哲学を実践的なイデオロギーにまで鍛え上げ、非合法出版物を大量に流通させることで読書する公衆にこの新たな革命意識を浸透させる、そして、こうした活動を通じて、社会全体をいっそう「啓蒙」するための広範な運動の実現を目指す。急進的啓蒙にとってはそれが唯一の道だった。彼らの究極目標は、現在、人びとの生活を取り巻いている政治的・社会的な枠組みをつくり変えることだった。読書する公衆がそれまで抱いてきた考えを完全に捨て去りさえすれば、最終的に教育全体の水準を高め、特権や特定の利害を打倒することができると急進派の啓蒙思想家たちは期待した。その結果、統治に携わる人びとに司法改革、制度改革を促すこともいつかは可能となるし、より安全で、市民の保護をいまよりも重視し、全員に対してもっと平等な社会が実現されることになるだろう。
(略)
 革命は起き、そして終わった。革命は自由、平等、友愛は宣言したが、後世に引き継がれるような民主的な共和国を確立することには失敗した。
(略)
アベ・モルレのような「穏健な」フィロゾーフたちは、フランス革命のさなか、急進派の思想が哲学を濫用したせいで生じた大惨事、そうした濫用が生み出した恐怖政治とそれが犯した残虐行為、そして民主派の人びとと民主的傾向そのものを強く非難した。
(略)
 全体として歴史家は、急進的啓蒙とルソー主義との区別についても、民主主義的な啓蒙思想をめぐる革命内部における対立の激しさについても、まともに論じてこなかった。
(略)
一七九三年四月にはロベスピエールが、フィロゾーフたちは宮廷と貴族に仕えているとして彼らを非難した。しかし、反啓蒙的な粛清運動が一挙に強まったのは恐怖政治の開始後である。
(略)
 二つの革命潮流が激しく衝突したのは、思想や哲学をめぐる、あるいは国家や民主主義体制に関する考え方の違いに由来する問題ばかりではなかった。ほかの面でも対立点は多く存在した。たとえば、一七八九年に採択され、一七九二年八月まで効力を持ち、実際に普及もしていった思想、表現、出版の完全な自由は、ジャコバン派によって全面的に廃止され、厳格な検閲制度にとって代わられた。この自由が復活するのは、一七九〇年代半ばにロベスピエールが失脚した後である。
 一七九四年五月までに主だった急進的啓蒙の代弁者たちのほぼ全員が、トマス・ペインのように潜伏を強いられ、または投獄された。
(略)
ロベスピエールは議会で(略)フィロゾーフたちを告発する基調演説を行なった。ロベスピエールによれば、フィロゾーフたちは偉大なルソーのみならず、一般民衆の感情、意見、素朴な徳や信念にも攻撃を仕掛けたという。ロベスピエールジャコバン派は、感情、とりわけごく普通の人びとの感情と矛盾するとして「当世風の哲学」に繰り返し非難を浴びせた。(略)皮肉なことにロベスピエールジャコバン主義はここにおいて、王党派による反啓蒙イデオロギーと一致することになる。啓蒙とは合理的な理念を振りかざすばかりで、冷淡でシニカルで感情を欠いた機械的思考にすぎず、それは人間本来の感情を踏みにじり、人間の生活にとってもっとも大切なものを促進するどころかこれを破壊する。両者はともにこのような神話を普及させた。こうした主張は国際的にも広まり、一七九〇年代のイギリスでは「当世風の哲学者たち」を攻撃する際によく利用されるテーマとなった。
(略)
 恐怖政治を生き延びた急進的啓蒙陣営の著作家たちは、その後、血に飢えた忌まわしい独裁者としてだけではなく、最悪の反知性主義デマゴーグ、狂信的ルソー主義者としてもロベスピエールを告発した。

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