フランス革命史の現在

  • 第四章 礼拝を護るのは誰か (松嶌明男)

「ライシテ」とは何であるのか

宗教学の定説では、「ライシテ」は定義できないとされる。(略)
 基本的人権の保障と同一視される国家の基本理念が、定義不能というのは驚くべきことである。この混乱の大きな原因は四点あると考えられる。まず、第三共和政の政策であった「ライシテ」を、基本的人権である宗教的自由の制度的保障と同一視したこと。つぎに、「国家の宗教的中立性」を明確に定義しないまま、宗教的自由を保障するうえで必要不可欠な要素に含めたこと。さらに、1905年に公認宗教体制を破棄する際に、それまで認められていた公共圏での礼拝を全面禁止しなかったこと。最後に、「ライシテ」には濃厚に反教権主義が含まれているにもかかわらず、それを事実上無視したことである。

寛容から抑圧へ

ブルボン朝は、宗教改革が引き起こしたユグノー戦争の結果として誕生した。1598年、国王アンリ四世はカトリックカルヴァン派が国内で棲分けをおこなう保障をナント王令によって定め、ようやく国内での宗教戦争が沈静化した。この王令は、カルヴァン派だけが暮らす要塞都市の建設と、カルヴァン派によるその自治を認めていた。カルヴァン派武装自治都市はなかば自立した「国家内国家」と化し、ブルボン朝にとって中央集権化の妨げとなっていく。
(略)
 1610年にアンリ四世がカトリック過激派に暗殺され、ルイ十三世の時代になると、カルヴァン派を抑圧する政策が推進されるようになった。カルヴァン派の拠点ラ・ロシェルは、長期にわたる陰惨な兵糧攻めのすえに陥落した。それと並行して、ドラゴナード(竜騎兵宿泊)という、武装した竜騎兵をカルヴァン派の暮らす住宅に住み込ませ、家人に対する乱暴狼籍によって改宗を強要する政策も始められた。このようなブルボン朝の宗教政策が行き着いた先が、ルイ十四世の発した1685年の[ナント王令を廃止した]フォンテーヌブロ王令であった。
(略)
――自称改革派宗教を信仰する朕の臣下のなかで、最良かつ最大の勢力がカトリックを信仰するにいたったからである。そして、その理由から、ナント王令の施行と、自称改革派宗教を保護するために命じられた措置のすべては、いまや無用のものと化した。――
(略)
 この王令の文言とは異なり、実際には多くのカルヴァン派信徒が改宗せずに残存していた。王はその事実を無視して、一方的にすべての保護措置を撤廃したのであった。この王令の制定によってカルヴァン派の礼拝は禁止され、フランスの国土で当局に見つけられた牧師は死刑に処せられることになる。
(略)
 十八世紀後半、啓蒙主義が台頭するなかで、容疑者のプロテスタント信仰を理由に殺人犯と決めつけて死刑にするという冤罪事件のカラス事件が起きた。これを契機として、啓蒙思想家たちはカトリック教会を相手に反教権主義の戦いを本格化させる。彼らはカトリック教会が定めた基準で善悪が判断される社会の現状と、信仰する宗教の違いで人びとに加えられる差別とを、厳しく糾弾した。

恐怖政治からテルミドール派へ

すべての既成宗教に対する徹底した敵視と、教会堂の閉鎖をともなう礼拝の全面的抑圧は、革命が反教権主義に依拠して進めた「習俗の革命」、つまり国民の生活全体を宗教の支配から解放し、それを革命的なものに変更しようとする政策の産物であった。
(略)
[恐怖政治を終わらせたテルミドール派は、宗教敵視から、公共空間からの排除を条件に、宗教的自由を認める方向に転換]
宗教的な光景や音声は、それを信じていない人間の耳や目に飛び込んで、その人の自由と権利を侵害するとされた。礼拝の際に公共圏へ漏れ出すことが予想される鐘の音や賛美歌、さまざまな唱和に加え、聖職者が法衣を身につけて外出することまで禁じられた。

ナポレオンがつくりあげた公認宗教体制

[1799年エジプト遠征から電撃帰還したナポレオンは権力を掌握、反教権主義によらない新たな宗教政策を模索、教皇庁との和解に乗り出す。礼拝の公共性を主張する教皇庁に譲歩しつつ、少数派からの反発を危惧し]
長い議論のすえに、礼拝は公的かつ自由におこなえるが、治安の維持に必要な場合にのみ警察による規制が加えられると定められ
(略)
[ナポレオンから宗教監督官に抜擢されたポルタリスによって宗教的自由の制度的保障が創出された]
(略)
国王シャルル十世が進めた選挙制度の改悪から再び革命が起き、復古王政は倒れた。この七月革命のなかで巧妙に立ち回り、王座に就いたルイ・フィリップは、前王朝を支えたカトリック教会を敵視し、反教権主義を政策に採用する。
(略)
そして、「ライシテ」を政策目標に掲げて反教権主義政策を推進した第三共和政のもとで、再びヘゲモニー闘争が火を噴くことになる。
(略)
反教権主義に立脚した革命期の宗教政策は、どれも既成宗教との対立を克服できずに終わった。それに対し、ナポレオンがつくりあげた公認宗教体制は、百余年にわたって宗教的自由の制度的保障として十全に機能したのである。
(略)
「コンコルダ体制」という表現を用いる「ライシテ」史観のもとで、ナポレオン体制ではカトリックだけが優遇され、宗教的自由は制限されていたとする主張が長く定説であった。

恐怖政治を共和制の創出の重要な一段階として評価

従来、マルクス主義的な革命史家は1793〜4年の恐怖政治の段階を肯定的に評価し、フランス革命はこの徹底した革命の段階を経過したがゆえに、もっとも典型的な市民革命になりえたのだと評価した。それに対して1970年代の「修正派」は、恐怖政治をフランス革命が横すべりした時期、本来の革命にとっては不要で、フランスの順調な近代化を妨げることになっただけの、血なまぐさい混乱期として否定した。現在はこのような対立を乗り越えたところで、恐怖政治を共和制樹立のための一つのステップとして再評価・再検討する動きがでてきている。
(略)
バチコはこのような「上から主導され、体系的に組織された恐怖政治」という捉え方そのものがテルミドールの反動の時期に、テルミドールのクーデタをおこなった議員たちによって生み出されたものであることを示した。
 またマルタンは、恐怖政治は国家権力が暴力を独占したから遂行されたのではなく、逆に国家が暴力を独占できずにいたからこそ生じたものだとしている。すなわち前記のようにさまざまなレベルや階層において「かたちを変えた政治」としての暴力が容認されたために、当時の政治や社会の状況とあいまって、結果的に「恐怖政治」と呼ばれることになる状態が出現したのであって、公安委員会もしくはロベスピエールはむしろ、こうした状態を終わらせ、政治としての暴力を国家機関に一元化する努力をしていたのだった。その努力がほぼ成功したかにみえたとき、国家機関内部の権力争い、もしくは派閥対立からロベスピエールは倒されたのである。
 こうした新しい研究の流れを受けて、最近ではマゾが恐怖政治期を共和制の創出の重要な一段階として評価している。彼によれば当時の政治は、教会と軍隊から解放された市民的権力をめざしたのであって、1792年夏以降、戦争で軍隊が活動しているにもかかわらず、軍事クーデタは阻止され、新生の共和国は市民的権力のうえに樹立された。そして公共の秩序は一貫して、軍によってではなく裁判所によって維持されたのである。同じ時期に民衆は文化的に覚醒してエリートの後見から抜け出し、自分たち独自の言葉で語るようになった。これが一面では「恐怖政治」につながったのであるが、モンターニュ派はこうした自律的民衆との共闘の道を選び、「徳の共和国」をめざしたのである。テルミドールのクーデタによって「文明化するエリート」と「文明化されるべき民衆」は再び分裂し、民衆の「野蛮さ」は治療の対象とみなされるようになった。精神科医ピネルが活躍する時代が始まったのである。

現在もなおフランス革命を研究することの意味はどこにあるだろうか。まずあげるべきは「共和制の創出」だろう。イタリアやスイスの都市国家を除けば君主制が一般的、というより考えうる唯一の政体であったヨーロッパで、フランスは革命をとおして共和国をつくった。言い換えれば「誰を君主として統治権を委ねるか」ではなく「いかなる統治機構を自分たちのものとしてつくるか」を問題にしたのである。そしてこの問題意識からすると、マチエが事実上無視した革命の後半、すなわち総裁政府期が重要になってくるのである。アンシャン・レジーム下のフランスは、王権による司法権の独占と警察機能の強化、決闘の禁止などによって国家による暴力の独占(国家の近代化)をめざし、かなりの実現にこぎつけたときにフランス革命が起こって、「かたちを変えた政治としての暴力」が正当化され、民衆各層に広まった。マゾが恐怖政治期を共和国の創出との関連で取り上げていることをすでに紹介したが、国民公会のもとで公安委員会は、再び暴力の独占をめざしたものの、完成にはいたらなかった。その続きを任されたのが総裁政府である。確かに、この政府の評判はよくない。ミラボー、ダントン、ロベスピエールのような強烈な個性をもった指導者はおらず、左右両翼からの攻勢に右往左往し、結局はナポレオンの台頭を許して消滅する。しかしこの政府は、足取りはたどたどしくても、共和制の理念と構想を論じ、またその具体的なモデルを示したのであって、フランスは革命をとおしてどのような共和制を構想したのか、実際にはどのような共和制を実現したのかを(共和制と宗教、暴力、戦争との関連を含めて)問うならば総裁政府期に注目しなければならないのである。

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