フィル・スペクター 甦る伝説 監修: 大瀧詠一

フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版

フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版

 15歳になっても、スペクターの身長は、鳥の巣のように盛り上げたひょろひょろの茶色い前髪を勘定に入れて、やっと5フィートを超える程度だった。マッチ棒のようにやせ、骨格も弱々しかった。血色は悪く、いつも青白い顔をしていた。(略)
フィル・スペクターは極度に神経過敏なティーンエイジャーだった。(略)暗闇がウエストハリウッドを覆うのを歓迎した。静かな孤独のなかで、夜は自分だけのものだという幻想にひたれるからだ。夜になると、彼はギターを弾いた。

バーニー・ケッセルの助言

[エラ・フィッツジェラルドのステージを観て、バーニー・ケッセルのプレイに感銘を受けたフィル。姉シャーリーがケッセルに助言を求めると]
 「音楽の才能があるんだったら、それはポップスの世界に向けたほうがいいと彼女には言いました」とケッセルは語っている。「ジャズの世界には、偉大なアーティストなのにジャズでは食べていけない人がたくさんいましたから。ジャズはとうに流行遅れで、生活を支えていけなかったんです。ツアーに出ることもままならなかった。すでにロックンロールが主流音楽でした。だからわたしは、まずポップスの世界で曲を書いたり、音楽出版に携わったりしたほうがいいと言ったんです。でなければレコード会社に入って、将来のためにレコードづくりのあれこれを勉強するとか」

ゴールド・スター・サウンド・スタジオ

 1957年の晩春になると、ロスアンジェルス中の少年たちが群れをなしてレコーティング・スタジオに押し寄せた。(略)西部のレコード会社はそのほとんどが零細企業で、若いアーティストとはした金で大量に契約を交わし、そのなかから一曲でも当たってくれればめっけものだと考えていた。少年たちが持ちこむデモ・テープが、そのままラジオ局の編成担当に送りつけられることも珍しくなかった。(略)
50年代も中期になると、LAにベースを置くレーベルの、粗末なスタジオで楽器をいくつかかき鳴らしただけというレコードがいくつかヒットしはじめていた。残響音の多い濁ったサウンドは、設備の不足から来るものだったが、スモッグに覆われた広大なカリフォルニアを音楽的にうまく表現していた。やがて人工的なエコーやオーヴァーダビングによって、そのサウンドは模倣され、さらには拡大されるようになる。
(略)
1950年に建てられたゴールド・スター・サウンド・スタジオには(略)ふたつのエコー・チェンバーが備わっていた。これもやはり、運命のなせるわざだった。古い店舗をふたつのスタジオに改装したとき(略)天井高が14フィートしかなかったため――たいていのスタジオは20フィート以上あった――サウンドが平板にならないようにしようと思ったら、残響室で活を入れる以外になかったのだ。幅35フィート、奥行33フィートという小サイズのスタジオ内でベストのエコーが得られるのはバスルームだったため、そこがメインのエコー・チェンバーとなった。

テディ・ベアーズ

[〈逢ったとたんに一目惚れ〉の大ヒットでアルバム制作に着手]
[マーシャル・リーブの回想]
「ぼくらは音楽の透明度を追求していた。それがテディ・ベアーズのサウンドだったからだ。空気はいつもぼくらのまわりで動いている。音にしても、直接マイクに吹きこまれるんじゃなくて、まず空気を経由する。それをチェンバーに送りこむわけだ。聞こえるのは空気の動き――すべての音が混じり合って、輪郭がぼやける。ぼくらがレコーディングしようとしていたのは、それだ。ひとつひとつの音じゃない。チェンバーなんだ」
 フィルとマーシャルは自分たちが、「ある種のステレオ効果を出せる」ところまで来ていると信じていた。
 「片方のチャンネルに高音、もう片方に低音を入れるんだ。モノラルの場合、ふたつのスピーカーのあいだに座ると、まんなかからサウンドの塊が聞こえてくるけれど、実際には両側から鳴っている。片方を外すと、音の中心もずれていく。イコライザーをうまく使ってミックスすれば、片方からだけギターの音が聞こえるようにもできたんだ。ぼくらは、ステレオ以前に音を分離させようとしていたのさ」
(略)
 しかし二週間のセッションを終えても(略)完成した曲は、わずか六曲にすぎなかった。おそらくルー・チャッドは、よくある安手のアルバムづくり――いい曲は二、三曲しかなく、あとは全部捨て曲――を望んでいたのだろう。だがフィルはあえてその意向を無視し、スピーカーとスピーカーのあいだに座っては、耳をつんざく大音量で、バックトラックを何度も何度も聞き返した。時には明かりを全部消すこともあった。かつて啓示を受けた真夜中の雰囲気を呼び戻し、サウンドのみに集中しようとしていたのだ。(略)
[かさむ経費に耐えきれずチャッドはアルバムをフィルから奪いジミー・ハスケルに委ねた]
 「いかにも急いでつくったという感じのサウンドになってしまった」と彼は認め、一方スペクターがプロデュースした曲については、次のように語っている。
 「とても上手くブレンドされていた……当時は一発録りが基本だったし、オーヴァーダビングする場合でも、ひとりの声くらいで、あんなふうにグループのコーラスをダビングすることはなかったんだ」
 ハスケルは、プレイバックをそのまま伴奏にして、その上にコーラスをダビングするスペクターとリーブのやり方に感銘を受けた。「自分たちの声が聞こえなくなるので、彼らは片方の耳にヘッドホン、もう片方の耳にはコップを当てていた。このやり方はすぐにみんなが真似るようになったし、今もつづいている」
 しかし、いかに完成を急がされたにしても、アルバム《ザ・テディ・ベアーズ・シング!》は、気の抜けた弱々しい作品だった。たしかにフィル・スペクターは優秀なサウンド・メイカーだったかもしれない。だが〈逢ったとたんに一目惚れ〉の無意識的な苦悩は、ベン・スペクターの死に端を発していた[自殺した父の墓碑銘は「彼を知る人は、みんな彼を愛した(To Know Him Was To Love Him)」]。この曲を生む原動力となったのは、心のなかから追い出そうとしても、夜更けになると蘇ってくるフロイト的トラウマだったのだ。そうした感情的な由来がなくなると、テディ・ベアーズの曲は、よくできてはいても、本質的にはリアリティのないティーンのクリシェのくり返しに過ぎず、おかげでテディ・ベアーズは白人のR&Bというより、カントリー・フェアの余興に近くなっていた。

フィル・ハーヴェイ・バンド

[テディ・ベアーズ解散、新しいバンドの]コンセプトは、ショウビジネスのキッチュさを熱気あふれるジャズに振りかけ、それをロックの観客に売るというものだった。(略)
全員がギャングのような扮装――襟の広いダブルのスーツ、足首まであるコート、顔を隠すスナップブリムの帽子――をしていた。
 ブルース・ジョンストンとともにスリープウォーカーズからキップ・タイラー&ザ・フリップスに移ったキム・フォウリーも、たまたまその晩の観客のひとりだった。彼はこのコンサートをロックンロールのある種の予言として、そしてスペクターを時代のはるか先を行く幻視者として記憶している。
 「すばらしいアイデアだった。彼はブライアン・デ・パルマが1987年に『アンタッチャブル』でやったことを、1959年にやってのけたんだ。彼らがプレイしたあの驚くべき音楽……デュアン・エディと『マイアミ・ヴァイス』か『スカーフェイス』がいっしょになったみたいだった。女の子にはちょっとヘヴィだったかもしれないが、とにかくすばらしかった(略)フィルがあれっきりにしちまったのは、実にもったいない話だと思う」

スパニッシュ・ハーレム

 ベヴァリー・ロスは、今も彼女とフィルはチームだと固く信じていたし、フィル自身も彼女とのつき合いを絶やさず、ピアノの前に座って共作をつづけていた。しかしベヴァリーの想いは、それだけですむものではなかった。
 「わたしは彼のただひとりの友だちだったし、おたがいに強く惹かれていた」
 少なくとも彼女はそう思っていた。共作が、ロマンスに発展していくことを期待していた。
 「わたしはそう思っていたけれど、フィルは……それほどロマンティックな考え方はしていなかったかもしれない……曲を書こうという情熱とアートが、ふたりを強く結びつけていただけだったのかも。(略)彼はとても特別な人だった。とてもクリエイティヴで……本当に、彼のことが大好きだったわ」
 感情のたかぶりが相互におよぶこともあり、そんな時のフィルは、めったに話さない自分の真情を彼女に吐露した。
(略)
 「父親は自殺したと話してくれて。わたしにはそれが、知能の高い、感受性豊かな子どもにとってどれだけのショックだったかがよくわかった。親が自殺すると、子どもは自分が裏切られたと思うものなの。一生、罪悪感がついて回るのよ。
 フィルはとても不安定だった。いつも自分にはこれができる、あれができるということを見せつけようとしていた……母親か、でなければ父親に向けて。父親との関係を断ち切れていないようだった。愛情と喪失感があまりに大きすぎて、まだ消えずに残っていたのよ」
 フィルはまた、彼がLAを離れたのちに、シャーリーが一線を越えてしまったことも話した。(略)
 「わたしにも知恵遅れの弟がいて、そのせいでいつも罪の意識にかられてた。なにかしてあげなくちゃって。その話をフィルにしたの。彼が『ああ、ぼくの姉さんも気が狂ってるんだ。今は施設に入ってる』と答えたのを覚えてる。お姉さんを助けられなかったことが、彼のもうひとつの枷になっていたのよ。(略)」
 しかしフィルがそんな面を見せるのはきわめて稀で(略)突然、内省的な人間から皮肉屋に転じたり、彼女の弟について手ひどい冗談を言ったりするのだ。彼女がどれだけ傷つこうと、彼はなんら良心の呵責を覚えなかった。
 「生まれつき良心が欠如してるみたいだった」とロス。「他人に同情するなんて、ありえない話だったのよ」
 ある真夏の夜、ふたりはベヴァリーの部屋でリフをいじり回していた。ベヴァリーが昔書いた〈ザ・ウィドウズ・ウォーク〉という曲から派生したそれは、ダダダッ・ダダダッという、テンポの速い三連のパターンのくり返しだった。(略)フィルが突然立ち上がった。
「ジェリーのところに行ってくる。ビジネスの話をしなきゃなんないんだ」と言って彼は、ドアから飛び出した。(略)
ジェリー・リーバーは彼がドリフターズ用に書いた〈スパニッシュ・ハーレム〉という曲の歌詞をフィルに渡していた。(略)リーバーのタウンハウスに行き着くと、すぐさまできたてのメロディをピアノで弾いた。すでに戻ってきていたマイク・ストラー(略)も曲づくりに加わり、それを曲のポイントとして、頭から終わりまでずっとヴィブラホンで奏でるようにアレンジした。しかしストラーは作曲のクレジットを断った――その権利はメロディを書いたスペクターにある。
(略)
[フィルが]プロデュースしたのは自分だとあちこちで触れ回り、クレジットを断ったのは、リーバー&ストラーに敬意を表すためだった、とほのめかした。その種のうわさを耳にするたびに、トム・ダウドは「たわごとだ!」と吠えた。(略)
「壁によっかかるかなにかしてたんじゃないかな」とベン・E・キングは語っている。

カーティス・リー「プリティ・リトル・エンジェル・アイ」

[トミー・ボイスとの共作を4曲抱えた元野菜摘みのカーティス・リー。スペクターは荒れ果てたホテル・アメリカンの裏手にあるミラ・サウンド・スタジオを使うことに]
ホテルにはポン引きが出入りし、スタジオからはネズミを追い払わなければならなかったが、しっくいの壁は分厚く、エコーがまるで熟れたトマトのように、ぐしゃっとつぶれて返ってくるという利点があった。生音でこれだけのエコー――彼は「にじみ[ブラー]」と呼んでいた――が返ってくるスタジオはゴールド・スター以来はじめてだった。(略)
[エンジニアのビル・マックミーキンの功績は]はじめてバス・ドラム専用に別のマイクを使ったことだろう。(略)
スペクターは音をくぐらせるチェンバーを探し回り、最終的にマイクを階段の吹き抜けに据えた。結果に満足すると、彼はさっそくベル・サウンドを引き払った。(略)
[リーの歌唱力を見切りヘイローズに全てを任せた。リーダーのアーサー・クライヤー談]
扇情的な激しいリフ――「ポンポンとかハーハってのは、全部スパニエルズやクレフトーンズから盗んだ」

アトランティック入社

[テリー・フィリップス談]
「業界でフィル・スペクターはだれを見本にしてたと思う?アーメットさ。もう完全に影響されてたよ。アーメットはジャズとR&Bのレコード会社を、まだそんなものがなかった時代にはじめた。フィルは熱烈なジャズ愛好家だったけど、それを産業にしたのがアーメットなんだ。だからそれだけで、じゅうぶん尊敬に値する人物だった」
 この街の人間は、もう何か月も前から、ヒップスターを気取ったフィルのファッションや物腰が、実はアーティガンの物真似であることに気づいていた。
「あの取ってつけたようなどもりの癖だって、元はアーメットだ」とウェクスラー。「最初はからかい半分、まじめ半分で真似てたのが、本当に取れなくなってしまったのさ」
 スペクターのムラっ気を承知の上で、アーティガンは枯渇しつつあったアトランティックのタレントの建て直しを彼に託した。
(略)
 しかし季節が春に変わると、フィルはアトランティックを自分の世界から排除しはじめた。自分の手がけたレコードがことごとく失敗に終わったことを恥じ、会話ではいっさいアトランティックの名前を口にしなかった。
(略)
[退社を告げ]フィルが出ていったわずか数日後、レスター・シルのもとにジェリー・ウェクスラーから怒りの電話がかかってきたのだ。
「あのスペクターの畜生は、わたしに一万ドルも借りがあるんだぞ!」
アトランティックは何度も現金でフィルにアドヴァンスをわたしていた。

「幅のあるモノラル」

 ヴェテラン・ジャズマンのハワード・ロバーツは(略)[フィルの譜面が3コードだけの二年前よりは]手のこんだものになっているだろうと思っていた。彼の思いは裏切られた。(略)「次の曲もその次の曲も『C−F−G』だった」
(略)
彼らには理解しがたかったかもしれないが、聴覚的なイメージを曲の音楽的なイメージのなかで縦横に踊らせる、彼とマーシャル・リーブが開発した「幅のあるモノラル」に三年ぶんの磨きをかけていたフィルは、もっと高次元のサウンドを望んでいた。彼が腐心していたのはメロディではなく、それらのイメージのブレンド加減だったのである。たしかに<アイ・ラブ・ハウ・ユー・ラヴ・ミー>のリズム・セクションは、八本のヴァイオリンとパリス・シスターズの甘い歌声に隠れてほとんど識別できない。だがそれは、ドラム、ギター、ベースが個別の楽器ではなく、混ざり合ってひとつの「感触」となっているからにほかならなかった。

ほかのみんなは自分の出番を待っていればよかったが、ギターは休みなしだった。(略)
[何時間も弾かされ]「ハワードは指から出血していた」とはハル・ブレインの回想だ。「『もうやってられない』と言ってたよ。」(略)
[ハワード談]
 スペクターのセッションに行くのは、たいてい二〇世紀フォックスで、アルフレッド・ニューマンヒューゴー・フリードホッファーの仕事をしたあとだった。世界でも指折りのオーケストラで、初見じゃとても演奏できそうにない譜面を見せられ――しかもそれを一回で完璧に弾きこなす。オーケストラにオーヴァーワークは禁物だってことを、みんなよく承知していたんだ。ストレスはミスを呼ぶからね。一度マスターしたものをくり返させるのは最低のやり方だ。でもわたしの見るかぎり、フィルはそうしないと曲をかたちにできなかった」

フィレス誕生

リー・ヘイズルウッドは、レスターがフィルといっしょにいる時間が必要以上に長すぎると考えていた。そもそもヘイズルウッドがスペクターを嫌っていたことも、こうした見方を助長した。(略)
現在のフィルは上昇気流に乗ったスターで、ヘイズルウッドは不本意ながら、この大嫌いなガキに、主役の座を譲らざるを得なかった。(略)自分のパワーに酔い痴れたスペクターがいっかな彼に敬意を払おうとしなかったことにひどく腹を立て、かつプライドを傷つけられていた。(略)
 デュアン・エディに去られ、その後釜をまだ見つけていなかったヘイズルウッドは、何度もシルに会おうとしたが、そのたびにスペクターといっしょにゴールド・スターに入っていると告げられた。ついにこの短気なプロデューサーは、堪忍袋の緒が切れた。怒り狂った彼はゴールド・スターに怒鳴りこみ、シルと醜い言い争いを演じた。(略)
『いいか、オレはもうやってらんない。オレだって仕事があるのに、あんたはいつもスペクターといっしょじゃないか』と言ったんだ。そして『あんたはフィルとやってればいいさ。オレはデュアンとよりを戻すぜ』と言い捨てた。
(略)
 シル/ヘイズルウッド・プロダンションの分裂を目の当たりにしたフィルは、それが自分の人生にどう影響するかを冷静に考えていた。ヘイズルウッドの空席がまだあたたかいうちに、彼はレスターに提案を持ちかけた。
 「リーはいなくなったわけだから」フィルは言った。「ぼくが代わりに入ってもいいんじゃないかな」
 レスターにとっても、筋の通った提案だった。フィルを共同経営者/共同出版者にしたところで、彼の側にはほとんどリスクがない。(略)
ここで、フィルの身分不相応な願いを聞き入れさえすれば、ほぼ恒久的に、彼と印税を分け合うことができるだろう。その場で、なんのためらいもなく、「それで行こう」とシルは答えた。
 新しいレーベルと出版社が必要となった。グレグマークに倣って、ふたりは自分たちの名前を合体させ、新レーベルをフィレス・レコードと名づけた。

決裂

「問題は、一度成功してしまうと、彼にはパートナーなんて不要だったということだ」(略)
フィルは、かつての恩師であり、父親代わりでもあった男から独立することに執念を燃やしていた。フィレスの基礎をつくったのはシルの人徳と堅実さかもしれないが、軌道に乗せたのは自分の天才だ(略)
「ずいぶんひどいことを言ってたわ」とアネットは回想している。「『ひとりでやりたい。レスターはぼくの蜜にたかる寄生虫だ』とか。」
(略)
けっきょくは彼も折れ、買収の交渉に応じた。(略)
「いくらほしい?」
この態度にむっとしたシルは、「自分で計算しろ」と答え、一年ぶんの印税を基にすればいいとつけ加えた。(略)
「はした金で売り払ってしまった」とシルはふり返っている。「六万ドルぽっちで――ありえない額だ。(略)わたしはとにかく手を切りたかった。そうしないとあいつを殺してしまいかねなかったからだ。(略)
 ことを急いだのは高くついた。「小切手を受け取る前に、書類にサインしてしまったんだ。彼を信用していたから。それが失敗だった」

にごった音を重ねる

「フィルのレコーディングをはじめて見たときにはブッとんだよ」とソニー・ボノは語っている。「あのころだって、サウンドの分離はなによりも優先されていた。(略)みんながクリーンなサウンドをつくろうとしていたときに、かれはにごった音を何度も何度も重ね、どんどん大きくしていって、だれもが仰天するようなサウンドをつくり上げていた」

モノラルへのこだわり

[ラリー・レヴィン談]
 「『どうしてホーンかギターを分離させないんだ?そうすればもっとスッキリするのに』と言ったことがある。彼は『絶対にだめだ。今日聞いた音が、明日もぼくが聞きたい音なんだ。ミックスの時も同じでなきゃならない。それにステレオじゃ、この要素は絶対正確に再現できないだろう』と答えた。たしかにその通りなんだ。いまだにステレオは、スタジオで聞いた音の近似値を伝えることしかできない。フィルの求めるサウンドは、三時間かけて調整した末にレコーディングしたサウンド以外にありえなかった。彼はそれくらいあのサウンドを愛していたんだ」
 モノラルでレコーディングされたため、巨大なオーケストレーションの一部はかすみ、まったく聞こえなくなる部分もあったが、フィルはあえてそうしていた。全体像――歓喜のノイズの原初的な感覚こそが、彼のサウンドだったのだ。とはいえ業界の技術陣のだれもが理解できるサウンドではなかったため、ラリー・レヴィンという片腕がいないニューヨークのセッションでは、エンジニアたちがデシベル・レヴェルがどうした、歪みがこうしたとフィルに食ってかかった。だが彼はいっさい聞く耳を持たなかった。
「よく、『メーターの針が振り切れたってかまわない。ぼくは歪んだ音がほしいんだ』と言ってたよ。」とアーノルド・ゴーランドは語っている。「で、どうなるかと言うと、マスターのままだとレコードが針飛びを起こしてしまう。それぐらいでかい音だった。時にはレコードがリコールされて、最初からやり直す羽目になることもあった。でも彼は気にしちゃいなかった。自分の求めるものを追求していた」

次回に続く。

WALL OF SOUND: THE VERY

WALL OF SOUND: THE VERY

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com