啓蒙 ドリンダ・ウートラム

啓蒙 (叢書・ウニベルシタス)

啓蒙 (叢書・ウニベルシタス)

カントが公的と呼ぶ領域

カントは、理性の使用ができるだけ進められるべきだと考えていた。ただし、理性の際限なき進展が、受け入れられている諸々の意味を無制限に疑問視したり検討しなおしたりして、過度に押し進められると、社会的、宗教的、政治的秩序を解体して混沌に陥れかねないことが、彼にはよく分かっていた。
(略)
国王フリードリヒ二世は、カント論文に現れた矛盾する啓蒙の意味すべてを、自らの人格に体現していた。彼は自らを「啓蒙された者」とみなし、自分が哲学者であるとすら考えた。フリードリヒは、個人的にベルリンの科学アカデミーを後援したが、世論や宗教論争への影響力を維持することにも関心を示した。この両義性を熟考して、カントはこう述べている。「人間理性の公的な使用は、常に自由でなければならない。それのみが人びとの間に啓蒙をもたらしうるからである。一方で、理性の私的使用は、多くの場合、きわめて厳格に制限されるだろう」。カントが公的と呼ぶ領域、つまり、人が自分の天職の義務から自由な場所においては、臣民は自由に批判的なことを書き、話してよい。カントが私的と呼ぶ領域においては、支配者の意思を支持し、無秩序が生じる可能性を減らすために、臣民は、気まぐれな政治的判断を表現しないよう慎む義務が実際にある。補助司祭は司祭を批判してはならないし、兵士は上官を批判してはならない。たとえ彼らの命令がばかげているように思えようとも。
(略)
カントは、啓蒙を社会や政治の合理的変化の達成に向かう単純明快な進歩であるとみなす者へのいらだちを隠していない。啓蒙が危険や問題や矛盾に満ちあふれていることは、カントには明らかだった。
(略)
ハーバーマスの公共圈は、カントの「私的領域」とよく似ており、人間が臣民としての役割から逃れ、彼ら自身の意見や思想を交わしたり行ったりする自立性を得られる場所である。(略)
ハーバーマスは、知識が商品のままであってさえも批判を通じて解放する能力を保っている世界として、啓蒙の文化を再解釈した。(略)
ハーバーマスのように、フーコーも、カント論文を啓蒙の代表的な定義と考えた。啓蒙と現代世界との間には何の継続性もないとする以前の立場を捨て、フーコーは、啓蒙は未完であるというカント説を受け入れ、公共空間において変革を引き起こす因子として理性を批判的に使用するという考え方についての新解釈の出発点として、カント論文を用いた。

貸本、コーヒーハウス

安価な貸本屋のおかげで、豊冨な書籍を私的に収集する財源のない多くの者が、「多読」できるようになった。コーヒーハウスは、顧客のために新聞、雑誌、数冊の新刊を一杯のコーヒー代で提供した。本屋の店舗で茶菓子を提供することもあったし、常連客のためにささやかな移動図書館の巡回サービスも行なった。まさにそのような施設の存在は、植民地産品の定期的な取引に、そして人口成長と都市住民の増加に依拠していた。
 そうした施設によって、印刷物に示された思想は、男女どちらにも、またエリート以外の社会階級にも浸透することが可能になった。この拡大現象は、出版の性質自体が変化したことによって促進された。ラテン語での出版から生きた言語での出版への変化は、ラテン語をすらすら読むために必須の古典教育を欠いた多くの者、とりわけ女性が読書するのに役立った。礼拝用の本や神学書は、読書素材としてのかつての支配的な地位を失ったように思われる。18世紀後半までに、ドイツ、イングランド、北アメリカの貸出図書の傾向は著しく似通ったものとなった。貸し出された書物の70%以上が小説であり、10%が歴史、伝記、旅行記で、宗教書は1%にも満たなかった。言い換えれば、読者が思想や意見に出会う主要な媒体として、神学の犠牲のもとで小説の上昇が同じ時期にみられた。それゆえ、多くの啓蒙の小説が、想像的な物語構造を織りなすことと同じくらい、事実情報を伝えることや物議を醸す点を論じることにも関わっているというのは、驚くべきことではない。

啓蒙の世紀

 啓蒙の世紀は、思想の生産と接近しやすさにおいて劇的な変化が起こった時代だった。活字メディアの場合は、とりわけそうだった。社会、政治階級を知らせたり誇示したりするためではなく、思想の相互交流に基づいて、新たな社会団体が設立された。公的に思想を議論する能力や知識は、貴族エリートの外で生まれた者にとって、地位獲得の一手段になりはじめた。それと同時に、書物、新聞、パンフレット、複製絵画といった持ち運びやすい文化的産物を含む消費財で、世界規模の貿易が発達した。文化はますます「商品化」された。(略)
情報や議論を幅広い聴衆に入手可能なものにすることは、大きな商機になり、啓蒙思想家というエリートによってのみならず、いまや大部分その名も忘れられた多くの職業文士によっても行なわれた。(略)
こうしたことすべてが、侮れない影響力としての「世論」の出現を引き起こした。

  • 第3章 啓蒙と統治

18世紀の政府は相変わらずだった。(略)官房学と呼ばれたその思想体系は、啓蒙の時代になっても有力なままであった。官房学はヨーロッパのドイツ語圈でとりわけ影響力があり、オーストリアの君主国やドイツ諸邦だけでなく、ドイツやオーストリアから政府のエリートをたびたび引き抜いた地域、例えばスウェーデンデンマーク、ロシアなどでもそうだった。
(略)
 フランスは、よく啓蒙の心臓部と見られるが、政府に近い顧問や官僚に一流知識人はほとんどいなかった。「世論」の成長にもかかわらず、権力は大部分貴族の手中に残っており、その階級に入るための闘争は熾烈だった。
(略)
フランスにおける「啓蒙」は、政治的領域では往々にして宮廷の派閥争いの飯の種にすぎないように思われた。
(略)
 ドイツ諸邦やハプスブルク領の中央政府においては、状況はまるで異なっていた。そこでは官房学と呼ばれた啓蒙に先行する高度に系統的な思想体系が、官僚制や君主政を学問的に扱おうとし、それらの正当化を試みた。官房学は、国富の重要性を強調し、この目的を達成する上で、強力な政府という徳目を強調した。また、官房学によれば、強くて健全で忠実な多数の人口という不可欠な経済的目的を達成するために、支配者は臣民の生活を細かく統制するよう努めるべきである。
(略)
官房学思想の複製は、ドイツ諸邦に新しい大学や訓練学校の設立の波が高まったことで、制度的に保証された。それらの教育課程は主に、多くの場合、君主自身の密接な管理下にある啓蒙された官房学者官僚を訓練することを目指していた。これは、フランスの状況とはまったく異なり、大学の教師が政府の主要な役職にたびたび就いており、逆もまた真であることを意味した。こうした要因すべてによって、高級官僚が頻繁に国から国へと移動する国際的な階級になることが、確かなものとなった。このこと自体が、広大な地域にわたり、政府についての、改革計画の方向性についての、また社会的、経済的介入についての考えを均質化することに役立ったのである。これが、官房学思想に影響を受けた諸地域にわたって、相対的に均質的な統治観があった理由であり、その思想は、ロシアのような近代化途上の国々にも広がった。言うまでもなく、官房学と支配者の関係は常に円滑であった。
(略)
官房学が、フランスの啓蒙された態度よりもはるかに君主、その臣民、その社会の間で統合化の要因として機能し、支配者たるエリート自身にも一貫性をもたらしたことも概ね事実である。官房学はまた、別の影響も及ぼした。官房学は反宗教的ではなかったが、政府を、それゆえ君主自身を統合の神聖な象徴と位置づけるよりも、むしろ行動と決定を生産する機械として見ることに、間違いなく重きを置いた。これが、本章の冒頭で示した、政府を機械として(略)、君主を単なる最高の機械工として描くユスティの表現の重要性である。また、官房学は、君主の臣民への責任の基礎を、キリスト教の教義と同様に自然法にも存するとみた。自然も経済生活もともに、国家の必要を満たすための開発と「管理」に開かれており、合理性によって正当化されるものと見られた。ここは重要な点である。というのも、これは「合理性」の重要性のような啓蒙の中心的関心と官房学が、いかにさまざまな意味で調和するかを示すからである。そのような関心は、政府の社会への介入に正当性を与えることもできた。オーストリアハプスブルク領のように、支配者に障害となりうる地方特権や司法権を数多く含む領土を有する君主にとって、正当性はとりわけ重要であった。例えば、官房学のおかげで、必要なら貴族の同意がなくとも、自然を制御する――それによって合理性を示す――という人間の義務に言及することによって、また均一の法構造を通じて自然的正義を探求することによって、農地改革を進めるための理論的基礎を組み立てることができた。経済的資源や天然資源をより余さず開発する活動は、たいていの場合、王権への責務に関する法的定義がまったく異なる各地方に対して、君主への一律の関係を課すことでのみ、達成できた。
(略)
人道主義のような啓蒙の価値観への普遍的な訴えは、啓蒙された社会階級に属しているというエリートの感覚に訴えかけることによって、地方主義や地方の諸権利を無視する正当なやり方を、潜在的に君主にもたらした。他の点では、啓蒙思想はまた、農業改革のために、多くの場合、小作農がより大きな力を使えないようにすることで、政府が採りうる選択肢を現実にかなりの程度限定もできただろう。もし、オーストリアマリア・テレジアの場合のように、改革が穏やかな速度で進むなら、啓蒙の価値観に訴えることで、領内にある天然資源や経済的資源――その利用に関して、教会や貴族とある程度直接的に競合する資源――を開発するために、政府が努力をいや増しているのを偽装できるだろうし、もしくは教育を受けたエリートが反対するのを困難にするだろう。ある状況下では、外部の脅威によって課された危険にだけでなく、啓蒙の普遍的な理想から生まれた強制命令を組み合わせたものにも言及することで、君主は、国家を強化する変化を受け入れるよう、社会的特権階級をよりうまく説得できた。フリードリヒ大王のような君主は、特権階級に対して、彼らの個人的権力を国家機構の権力に包摂することによって、国家権力を強める変革を受け入れるよう説得できた。特権階級は、国家が彼らの利益になるよう運営されており(略)、君主がとくに戦争において成功を収めている(略)ことが分かったならば、その状況を受け入れる傾向にあった。(略)
この独特のやり方によって、君主は(常にではないが)、しばしば「取引コスト」、あるいは政府という機械の摩擦を減らすことができた。この経緯において、官房学は、前啓蒙期に継続性をもたらすことと、啓蒙の諸目的への道筋を開くことの両方に成功した。
(略)
敬虔主義〔個人の敬虔な内面的心情に信仰の本質を見る立場〕のような宗教改革運動のおかげで、プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム一世(略)のような支配者は、君主の利益になるように、教会改革の計画を正当化できた。
(略)
ヨーゼフ二世のような支配者は、非宗教的な学校制度を設置し、大学教授陣を聖職者ではない平信徒に開くことで、教会の教育支配を攻撃した。
(略)
 教会の構造を改革しようとする多くの試みには、強い経済的動機があった。(略)
経済学者は、教会による土地市場の支配が農業の発展を遅らせ(略)より高い農業の利益を生み出しうる動的な土地市場の出現を妨げていることを指摘した。
(略)
啓蒙はまた、もう一つの問題を生みだした。「批判」、つまり合理性の使用はどのくらい進めてもよいのか。
(略)
 フランスで起こったような革命という方向以外に、つまり君主政を転覆し、人民主権の名の下に有徳で理性的な(とされる)エリートの支配が取って代わること以外に、こうした二律背反から抜け出す方法はあっただろうか。1780年代までに、この二律背反から平和的なやり方で抜け出す方法を見つけようとしたのは、ドイツ諸邦の官僚であった。彼らが君主政を再構築する際に、君主自身の徐々に強くなったある傾向、すなわち祖先が精力を注いで作りだした、王の儀式的、象徴的側面を放棄するという傾向が役に立った。
(略)
より過激な意見は、成文憲法を国家に与えるよう君主に要求した。(略)
プロイセンの官僚集団は、次のような考え方を前面に押し出した。絶対主義国家では、国家の継続性を保証するのがわれわれであるように、憲法の立場にあるのはわれわれであり、その地位は、君主による恣意的な命令に対して、法的な保証によって守られるべきだという考え方である。こうした考え方の多くは、フリードリヒ二世のもとで議論され、1794年に作成されたプロイセン初の統一法典である一般ラント法に要約された。多くの点で同法は、国家を永続する組織として、死すべき人間である君主の上位に配置した。

第10章 啓蒙の終焉

[君主や教会への]冒瀆や暴力の一切を伴ったフランス革命は、啓蒙知識人の陰謀によって引き起こされた、と[イエズス会士]バリュエルは考えた。(略)
1856年に、アレクシ・ド・トクヴィルが『旧体制と大革命』を出版した。1852年のルイ・ナポレオンによる権力奪取後の、フランスにおける独裁政治の強まりを憂慮していた、自由主義の政治家トクヴィルは、王座と祭壇が揺るぎなかった時代を残念そうに振り返る保守的な人物では決してなかった。彼は、18世紀と革命との間に継続性がある、と論じることに強い関心をもったものの、その継続性は、バリュエルが諭じたような、啓蒙知識人による陰謀の成功にあるのではなく、むしろ中央集権化された国家権力の増大にあると考えた。彼によれば、その中央集権化された国家権力は、旧体制と革命の間も衰退せず存続し、衆愚政治という行き過ぎをもたらしただけでなく、真の自由を根絶やしにする能力もある。トクヴィルは、1789年の後に、政治的実践へと放たれた時点で、啓蒙知識人が、中央集権化を進展させた恐怖政治の発達に対して、いかなるイデオロギー的な防波堤も構築できなかったと論じた。彼は啓蒙知識人を経験不足のユートピア的思想家とみた。
(略)
フランソワ・フュレや他の人のおかげで、革命はマルクス主義者の通説のような階級闘争の挿話として見られなくなり、特定の政治的文化や言説(略)によって突き動かされた政治現象として、次第に見られるようになった。(略)
デール・ヴァン・クレイのような歴史家が指摘したのは、「国民」あるいは「代議制」といったフランス革命の政治的言説の鍵となる言葉は、すでに1760年代からフランス高等法院によって、啓蒙の支持のためではなく、不平等税制と特権に支えられた政治経済構造を変えようとする、国王自身による試みへの異議申し立てのために使われていたことである。
(略)
「革命なるもの」は、「啓蒙なるもの」の終点として考えられてきた。これは、啓蒙をフランス特有の現象として定義した歴史叙述上の年代にはとりわけそうだった。しかし、18世紀の趨勢を全体として見る者ならだれでも、これが誤った見方だと容易に分かる。「啓蒙」と呼ばれた平和な時期は、「革命」と呼ばれた突然の激変によって終わらなかった。ヨーロッパの大部分にとって、啓蒙と革命は、その世紀の大部分の間、並進したというほうがはるかに正しい。啓蒙は革命(略)とともに始まったとさえ言えるかもしれない。
(略)
 結局のところ、われわれはこう論じてよいだろう。啓蒙は、フランスでは重要な防壁を何一つもたらさなかったし、他の国々では、体制への批判の高まりに対して、啓蒙の大部分が支配階級自体から引き起こされた。権力への批判は、ヨーロッパ史において、むろん何ら新しい経験ではなかった。しかし、啓蒙が貢献したのは、「自然法」や「理性」などの観念を通じて権力を定義し正当化する、数多くの新たな伝統によらない方法だけではなかった。啓蒙はまた、社会の諸階級を「世論」――社会的、政治的秩序を混乱させないにせよ、厳格な管理を要すると先にカントが認定したもの――ヘと動員した。第二章で注記したように、啓蒙はより低い社会階級へと広がるよりも、はるかにエリート間の新しい関係を作り、エリートの諸階級をまとめて、思想を中心とする新しい形態の社交をもたらした。啓蒙が「世論」を創り出す際に、もし適切な諸要因や政治的圧力が与えられるなら、革命の発生を可能にする条件をも創り出したのは、おそらくは啓蒙が論じた思想の特定の性質だけでなく、エリートのこの再定義と再動員、および彼らと権力の伝統的源泉との関係においてであった。

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com