カント65歳、フランス革命に熱狂の巻

ここがロドス島だ

[訳注1]
この箇所について、ヘーゲルは「ここがロドス島だ、ここで跳べ」という成句の引用に続けて次のように述べている。「現にあるところのものを概念によって把握すること、これが哲学の課題である。なぜなら現にあるところのものは理性的だからである。個人に関しては、各人はそもそもその時代の子である。そうして哲学もまた思想のうちに自らの時代を捉えている。どれかの哲学が、それが生きている現在の世界を跳びでていると想うことは、ある個人が彼の生きる時代を跳び越え、ロドス島を跳びでていると想うのと同様に、愚かな妄想である。もしも個人の理論が実際に彼の生きる時代を跳びでて、世界をあるべきように建設したとすれば、たしかに世界は存在するであろうが、しかしそれはもっぱら彼の臆見のうちに――一切の任意なものが思いつかれる軟弱な場面のうちに――存在するにすぎない」。さらに先の成句を「ここにバラがある。ここで踊れ」と書き換えて、「理性を現在という十字架のうちのバラとして認識すること、そうすることで現在を享受すること、この理性的な洞察こそは、概念によって把握することを、そして実体的なもののうちにあって主体的な自由を保持することと同様に、主体的な自由を保持しながら、特殊的、偶然的なもののうちに立つのではなく、即自的かつ対自的に存在するもののうちに立つことを内面的に要求されている人々に対して、哲学が与える現実との和解である」と述べている
ヘーゲル全集9a 法の哲学』上巻

1790年代の自由主義ロマン主義

シラー、フンボルトヤコービ、フォルスターは友人同士であり、彼らは時には共同執筆の企画を立てることもあった。(略)
彼らは、自由、すなわち出版の自由、宗教的寛容、機会の平等、恣意的な逮捕拘禁からの自由を保障するあらゆる政治的理念の擁護者であった。(略)
自由主義者によれば、国家がその目的として提供すべきものは、その公民の最大限の幸福ではなく最大限の自由である。換言すれば、国家の主要な目的とされるべきは、人民の福祉の促進ではなく、人民の権利の擁護である。そのうえ自由主義者は、すでに1790年代に、国家の権力を制限することを強く主張した。彼らは、宗教、道徳、あるいは経済に関して、国家がなんらかの積極的な役割を持つことを拒否した。(略)国家の唯一の任務は(略)団体や個人に対して、公民の自由を侵害させないようにすることであった。(略)
 1790年代の自由主義は本質的には、ドイツにおいて17世紀中葉以来ずっと支配的な正統教理となっていた家父長主義に対する反動であった。
(略)
彼らの信念では、社会生活の目的は個人の自己実現にあった。(略)個人は社会的相互行為を通じてのみ――他者との競争を通じてであれ共同を通してであれ――、自分の本質を実現できる(略)
社会生活は、個人のために存在すべきものであり、個人が社会生活のために存在するべきではなかった。
(略)
 自由主義ロマン主義は、多くの類似性を基礎に持っているので、1790年代にはほとんど区別がつかないように見える。(略)若きロマン主義者たちは、自由主義者と同様に、古い家父長主義に激しく敵対した。(略)出版の自由、人権、宗教的寛容、機会の平等といった自由主義の根本理念のいくつかについては確信に満ちた擁護者であった。
(略)
 だが自由主義者と若きロマン主義者たちとの間には、ある重要な相違があった(略)
第一に、初期ロマン主義には、その個人主義にもかかわらず、強い共同体主義的要素、すなわち個人は共同体の部分であるべきだという確信があった。(略)彼らは、共同体の理念を古典古代の都市国家や中世のキリスト教社会から引き出した。(略)集団に帰属することの心地よさ、連帯の喜び、そして共同体の安全は、個人の孤立、孤独、無力さよりも常に優っていた。
(略)
第二に、初期ロマン主義には、自由主義においては決して見出されえないアナーキズムの要素がある。若きロマン主義者の考えによれば、すべての人が全体に対して自発的に奉仕し全体はそのすべての成員のために供するという完全な共同体においては、国家が存在する必要はなかった。1790年代の自由主義者たちは、統治権力に対する嫌悪にもかかわらず、誰もそのような極論には向かわなかった。彼らは、国家は自由の固有の領域を守るために必要である、と常に主張していた。
(略)
 保守主義者は、共同体の価値を強調して、ロマン主義者に与し、自由主義者に敵対した。(略)[しかし重要な相違点があった]。保守主義者にとっては、共同体とは神聖ローマ帝国の伝統的な身分制社会と同一のものであったが、若きロマン主義者にとっての共同体は、自由、平等、友愛の原理に基づく共和国であった。それゆえ、保守主義の共同体は、依然として伝統的エリートによって統治されるものであったが、ロマン主義の共同体は、人民自身によって、あるいはその代表者によって統治されるものであった。

ドイツ自由主義の源流

その起源を遡れば、16世紀末ないし17世紀初めの急進的改革、とりわけセバスティアン・フランク、ハンス・デンク、テオドール・ヴァイゲル、ゴットフリート・アルノルト、ヤーコプ・ベーメのような宗教的急進主義の思想にまで遡ることができる。これらの思想家たちは、時代をはるかに先取りして、宗教的寛容、思想・言論の自由、教会と国家の分離といった近代的理念を唱道した。彼らは、宗教的自由についてのルターの観念の拡張を主張し、教会の領域のみならず、社会的政治的領域にまでそれを適用した。彼らの見解では、国家は、教会と同様に、個人の良心を侵害するいかなる権利も持つものではなかった。これらの思想家がイングランドの(非国教徒)分離派やドイツの敬虔派に与えた影響は無視できない。ヤコービ、シラーのような自由主義思想家、ノヴァーリス、シュレーゲル、ヘルダーリン、ヘルダーのようなロマン派の著述家たちは、敬虔派の伝統を通して、これらの自由主義の源流に親しむようになった。こうした伝統の重要性を顧慮するならば、自由主義思想はドイツにとっては疎遠なものであり、フランスやイギリスから輸入されたものである、というしばしばなされてきた想定は、誤りであるといえよう。

自由主義啓蒙主義のちがい

 ドイツ自由主義が啓蒙に起源を持つという考えもまた決まり文句になっている。(略)
[類似性はあるが]二つの有力な理由から、両者は区別されなければならないからである。まず第一に、18世紀末の啓蒙主義に対する最も鋭い批判者たちのうちの何人か、とりわけハーマン、ヤコービ、ヘルダーは、同時に自由主義の諸理念の擁護者でもあった。啓蒙の批判者すべてを社会的かつ政治的な反動主義者と見なすのは、実のところ致命的かつあまりにも通俗的すぎる誤りである。(略)
第二に、多くの自覚的な啓蒙主義者は、自由主義的な国家観を批判し、古くからの家父長主義の伝統を支持した。
(略)
多くの啓蒙主義者は、1790年代になってもなお啓蒙主義は絶対主義によって最もよく達成されうると主張し続けていたし、革命を啓蒙主義と同一視することを拒否した。

自由主義者フランス革命

フランス革命を熱狂的に迎えたが、彼らのうちの何人か、特にシラーとヤコービは、革命が果たして平和的な結果をもたらしたり現実に機能しうる制度をつくったりするかについては懐疑的であった。それにもかかわらず、すべての自由主義者たちは、革命の基本理念に関しては広く一致を見ていた。彼らは、人権宣言を賞賛し、専制と貴族の特権の終焉に歓喜した。しかし重要なことは、この熱狂が厳密には観察者の熱狂であったという点に注目することである。すべての自由主義者は、急進派のフォルスターでさえも、フランス革命の方法を自国に適用することには慎重であった。彼らの信念によれば、必要とされるのは彼らの理想を漸進的な改革を通じて達成することであり、暴力革命はせいぜい反動を招くだけの絶望的な賭けでしかなかった。彼らは、多くのドイツ諸邦で採られている啓蒙的統治は上からの改革のための適切な綱領を提供するものである、と主張した。(略)
一夜にして新しい憲法体制を創り出すことはドイツにとってまったく意味がない、とする点では一致していた。というのも民衆の圧倒的多数はその準備を欠いていたし、それに従って行動することができないという厳然たる事実しか存在しなかったからである。民衆は、何世紀にもわたって強いられてきた隷従に慣れてしまって、自由を享受できるほどには成然していなかった。彼らは自由をただ単に自分たちの欲望を満足させるための好機としか見なかった。自由主義者たちは(略)フランスでの暴虐と暴力の様子を伝え聞いて、その思いを強めた。

カント

1765年の秋に、カントの思想はほとんど革命的といっていいほどの変化を遂げた。彼はそれまでの初期の哲学的歩みのすべての企画を放棄した。いまやカントは、形而上学は幻想である、と信じるに至った。この時書いた『視霊者の夢』の中で、カントは形而上学に対する徹底した懐疑主義の態度を明らかにした。(略)形而上学者も視霊者もともに私的な夢想の世界に生きており、実在しない抽象を追いかけているだけなのである。
(略)
二十年近くも形而上学に身を捧げてきたのに、なぜそれを放棄したのだろうか。(略)[それは]ルソーとの遭遇にある。この出会いは早くても1762年に始まり、熱烈なものになったのはようやく1765年秋のことであった。
(略)
ルソーはカントに、形而上学が道徳を支えるどころかむしろ掘り崩すような学問の一つであることを、確信させたのである。(略)
[いまや]哲学の根本的目的は、人間の譲り渡すことのできない権利を擁護することにある。
(略)
伝統的形而上学は、人間の意志を道徳法則の源泉として承認するどころか、道徳法則を、あたかも神によって計画された神の秩序の部分であるかのように実体化したのである。それによって人びとは自分たち自身がつくった法に自らを隷属せしめることになった(略)早くとも1765年の秋には、カントは、後にヘーゲルフォイエルバッハそしてマルクスを悩ませることになる疎外の問題を予見していた。
 自己隷属化の原因に対するカントの洞察は、後に彼が純粋理性批判を遂行するための推進力となった。彼の形而上学批判の目的は、実体化の誤りを明らかにすることであった。(略)人びとに自らの自律性を、すなわち社会的かつ政治的世界を自らの意志に従って改造する自らの力と権利を自覚させようとするものであった。
(略)
 カントの初期政治思想にはある一つの根本的な緊張が走っており、それは(略)政治的自由の主張と革命の権利の否定との対立である。1770年代初め以来カントは、統治者がたとえ暴君で人民の権利を侵害しようとも、人民は自分たちの統治者に対して反抗する権利を持たない、という立場を一貫して取り続けた。(略)臣民がなしうる唯一の権利は、受動的抵抗を行なうことだけである。換言すれば、臣民は処罰を受けることを覚悟しなければならないが、従うことを拒否することはできる、というものである。(略)
カントが抵抗権を否定する背後には、主権は責任を問われないというカントが繰り返し行なった主張がある。主権は法の源泉として法の上に立ち、それゆえ法によって裁かれえないのである。しかしながら主権は責任を問われないというこの主張は、君主制に対する立憲的抑制の必要について彼がしばしば行なう主張と衝突する。
(略)
[フランス革命が起こり]カントは、人民と主権者自身によって同意された憲法条項を主権者が侵害するような場合、服従の義務の撤回は正当である、と主張するに至った。
(略)
[しかし1793年の]「理論と実践」論文においてカントが本来の理論に回帰し、またしてもあらゆる革命に対し無条件の禁止を主張したことは印象的である。
(略)
彼の歓びの原因は推測するに難くない。革命は彼が長年抱いていた人間の権利という夢を実現するように見えたのである。
[65歳の]カントの革命への熱狂はさながら若者の熱狂であった。(略)最新のニュースに対するカントの関心は強く、手紙を受け取るためであれば、何マイルでも走っていこうかというほどであった。(略)新聞は全紙読みたいと思うほどの貪欲な欲求を示し、フランスの事件が頭から離れなくなってしまったという。この二人の学生がともに認めていることだが、革命の最初の時期には、カントはいつも議論を政治のほうに持っていこうとした。フランス革命は、彼にとって、歴史には進歩があるという、彼がずっと抱いていた考えを確認させてくれるものに見えた。(略)
 フランス革命は、カントを鼓舞し、彼に政治についてのそれまでの沈黙を破らせた。(略)[1793〜98年]の彼の重要な著作のほとんどすべては、政治的主題に捧げられた。すなわち「理論と実践」論文、『永遠平和のために』、『法論の形而上学的定礎』、『諸学部の争い』がそれである。これらの作品の根底にあるのは、人間の権利を擁護し、それらの実現のための政治的条件を明らかにしようという試みであった。

カントの途中ですが、ここまででまだ全体の一割強、もうぐったり、というわけで、次回につづく。