共和主義の思想空間・その2

前回のつづき。

共和主義の思想空間―シヴィック・ヒューマニズムの可能性

共和主義の思想空間―シヴィック・ヒューマニズムの可能性

 

スコットランド

 ローランド(低地地方)の牧羊農業者のために道を開く――土地の又借人と小屋住農の大規模清掃に導く――ハイランド(高地地方)の経済変革、大都市でのペイン派の世論の急進展、内国消費税行政の悪政、ロバート・ダンダスとヘンリ・ダンダスの支配への憎しみ、パース、ダンディ、アバディーンにおける暴動とストライキが、フランスの革命的スローガンと自由の樹と共に、新しい形態の民主主義が出現する前ぶれとなった。1792年にはエディンバラグラスゴウを中心に、議会改革を推進する多数の民衆団体が生まれた。1793年になると、不人気で高くつく英仏戦争に対する怒りは、商業と俗用の突然の停滞と失業によって、さらに焚きつけられた。物価上昇は貧民に重くのしかかり、ハイランド清掃の犠牲者たちは暴動と治安妨害の挙にでた。彼らも急進的団体の陣営に加わった。
 フランスの新しい国制は、「世界の驚異、羨望」としての大ブリテンの国制への挑戦であった。三部会、バスチーユの襲撃、人権宣言と展開する出来事が、ヨーロッパで最も専制的とされる国で起こった。「フランスで起こった革命は、そのニュースが届いたヨーロッパのすべての為政者を驚かせている。幾世紀にもわたって無条件的な隷従に服してきた国民が突然、目をまばたいて、自由と愛国心の大胆な精神に活気づけられたというのは、驚きをもって凝視されるべき出来事である」。スコットランドの新聞は弱体で、イングランドの新聞から記事を再録して急場をしのいだ。イングランドから輸入された定期刊行物は、コーヒー・ハウスなどで、こぞって読まれた。
(略)
 新聞・雑誌の論調は革命に共感を寄せた。その意味では当初は共和主義への心情的な傾斜が見られた。しかし、そのような傾向は革命の急転回につれて逆転し、やがて共和主義は不毛な危険思想として葬り去られるのである。

第14章 ヘーゲルの国家・経済論における共和主義的側面について

[革命を観察すべくパリに赴いた元プロイセン将校アルヒェンホルツ編集の月刊雑誌『ミネルヴァ』に]掲載されたキャリエ裁判についての記事から、ギロチンによる大量処刑で悪名高いジャコバン派独裁期のフランス革命の状態を知った。[シェリングへの手紙で]「ロベスピーエル派の破壊的な性格」とされているように、それまで革命に期待を寄せていたヘーゲルはその事態に失望している。すなわち、ヘーゲルの共和制の原像といえるあの叙述は、すでに彼がフランス革命のネガティブな帰結を知ったうえで書かれている。彼がそこでシヴィック的伝統の性格を帯びる共和制をポジティブに描きながらもその崩壊について深刻に論じているのは、その崩壊と現実のフランス革命での共和制の混乱状態とが重ね合わされているからである。
 「キリスト教の既成性」での共和制崩壊の叙述には「彼らの祖国を没落へと至らせたひとりの男の徳」という表現も見られるのであり、この「ひとりの男」とはロベスピエールのことを指している、と推測できる。
(略)
 さらにヘーゲルが『ミネルヴァ』から示唆を得たと思われるのは、その1794年12月号での「貴族・連邦主義者・反革命主義者としてのジャコバン派」という記事において、ジャコバン派の独裁が「新たな貴族制」であるとして、次のように書かれていることである。すなわち、もはや政治に参加するための資格は「善良で正直な市民である」こと――言いかえればモンテスキュー的な意昧での徳を有すること――ではなく、ジャコバンクラブという「親団体の会員」であるか、少なくとも「その傘下にある諸会派ひとつ」の会員であること、となってしまった。そうした者たちにのみ「公的な諸条件」が与えられるのであり、したがって「結社」としての彼らの地位は「国民における特権カースト」なのである。ジャコバン派こそ「新たな貴族制の震源地」である、と。ここではモンテスキューの名が記されていないが、この内容は共和制が貴族制の生成とともに崩壊するというモンテスキューの(そしてそれを受容したヘーゲルの)シェーマと一致するのであり、ヘーゲルがこの議論に示唆を受けつつフランス共和制の恐怖政治への転換をモンテスキューの議論と重ね合わせていたことは、推測できる。
(略)
 ではヘーゲル自身は、富の蓄積と共和制の崩壊というモンテスキュー的な対応関係がフランス革命にどのようにあてはまると考えていたのだろうか。(略)
[「歴史的諸研究」断片16篇中の「所有の保証」に関する断片、「サンキュロット主義」断片]
  ヘーゲルはここでも古代共和制の崩壊の原因を「冷厳な所有権」の蔓延に見ており、それをフランス革命期の事象に当てはめている。これをどう解釈すべきであろうか。フランス革命では、初期段階で確立された営業の自由のもとで富裕な商工業者がさらに富を蓄積すると同時に、中下層の市民が貧困に陥った。富裕な商工業者を代表するジロンド政権のもとでは、自由競争が経済の基本原理とされ、中下層民から貧困対策が要求されても政府はそれを拒絶した。しかし、サンキュロットらが財産の制限や買占め禁止の要求を強めると、ロベスピーエルらがそれを受けてサンキュロットとともにジロンド政権を倒し、その結果、政権の座についたロベスピエールサン=ジュストらが、買占めに対する徹底的な取り締まりや生活必需品の最高価格の厳守といった経済面での恐怖政治を実行した。中下層の市民サンキュロットの主張の核心は――ヘーゲルも言うように――所有物・財産の平等化であった。彼は、恐怖政治には反対するとしても、サンキュロットの財産平等化の主張それ自体は「単なる強奪欲」によるものとして片づけるべきではなく、共和制の維持という点においてそれなりに支持できる、と考えたのである。
(略)
 このヘーゲルの見解は、『ミネルヴァ』の論調とは異なっている。(略)[『ミネルヴァ』では]革命政府が「罰を受けるべき平等」や「合法的な強奪欲」といった「間違った」「諸原理」をばらまいているとされ、「あの共和国は世界中の所有というものをひったくりたいのであり、さもなくば破壊したいのだ」と辛辣に言われている。
(略)
 ヘーゲルは『ミネルヴァ』から多くを学び取り、そこに描かれたフランスの現実と照らし合わせるなかでモンテスキューの言説を確証していったにはちがいないが、かといって彼が『ミネルヴァ』にすべて「追随している」わけではない。彼の基準はモンテスキューを範とするシヴィック的な共和制であり、彼の志向は、それに破壊的に作用する近代の商工業と「厳格な所有」の弊害をくいとめる方途を探ることであった。
(略)
「ミネルヴァのふくろうは夕焼けが現れるとともにやっと飛行を開始する」という有名な章句は、ひとつの時代の終結とともにそれを総括する哲学が登場することを意味するとしても、ヘーゲルは、これを書いたとき、あの雑誌名と符合する「ミネルヴァ」という語でもって、ベルン時代でのそうした知的格闘を心のなかで反芻していたにちがいない。
 フランクフルト時代に入って、ヘーゲルは、これまでの神学・宗教論を基調とした研究からすれば異質である経済社会や経済学の勉強を始める。しかし、それまでに到達していた彼の関心からすれば、それは研究の自然な進展である。近代的な商工業の展開のネガティヴな作用の阻止・抑制を模索せねばならないとしても、そうした経済的諸関係を知らなかった彼は、ベルン時代にはそれ以上論ずることはできなかった。
(略)
 第一に、彼は「イギリスの新聞からの複数の抜書き」をつくることによって「施し物としての救貧税に関する議会の議事を追った」。救貧租とは「世襲貴族や貨幣貴族が生計の維持できない大衆の凶暴な行動をそれによって和らげようと望んだ」貧民救済策であった。彼が当時最も産業化の進んだイギリスに見たこの救貧税制度は、後に『法哲学要綱』でも言及されて「市民社会の諸個人がもつ自律と名誉の感情」に反するとして否定的に評価されるが、それに連なる考察がここで始まっている。これまでの彼は恐怖政治に批判的でありながらもその一端を担ったサンキュロツトを評価するという矛盾を抱えていたが、今やそうした矛盾のない、騒擾に至らぬ制度的な解決策に目を向けている。
 第二に、そうした経済的現実の認識の開始とともに、理論的な研究もJ・ステュアート『経済学原理』を取り上げて始まる。ローゼンクランツによれば、ヘーゲルは1799年2月から6月にかけてそのドイツ語訳を読んで「詳細な評注」を書き留めており、「市民社会の本質について、欲求と労働について、分業と諸身分の資産、救貧制度とポリツァイ、租税などについてのヘーゲルの思想はすべて」そこに見ることができる。「そのなかに現れているのは、政治と歴史に関する多くの優れた洞察と、彼による多くの評言である。ステュアートはまだ重商主義の支持者であった。ヘーゲルは競争の真只中で、そして労働と交通のメカニズムのなかで、人間の心情を救おうと努めたのであり、そうすることによって、高貴な情熱をこめ、興味深い実例を豊富に用いて、重商主義という死物と戦った」。ここから、ステュアートの与した「重商主義という死物」に対してヘーゲルが戦いを挑んだことが読み取られる。しかし、その後彼が自由競争主義のスミス経済学と取り組みながらもなお行政ポリツァイの側からの「慎重なるべき」操作を説いていることからすれば、むしろこの時期の彼がステュアートの介入主義から学んだはずだとして、ローゼンクランツの報告内容を疑うこともできる。
(略)
 経済的諸関係が社会に占める重みをフランクフルト時代のヘーゲルが強く意識していたことは、その時期になお継続し発展させていた宗教論の研究「キリスト教の精神とその運命」のなかで所有が「運命」としてもはや逃れられぬものとされていることからも窺える。「所有という運命は我々にとって強力になりすぎたのであり、それについての反省などしてられないし、我々がそれから離れてしまうことなど考えられない。[……」富の所有は、あらゆる権利やあらゆる心労とともに、それらと結びついた様々な規定を人間のなかにもち込み、それらがもつ様々な制約が徳に限界をもうけ、条件と依存性を与える、ということはやはり分かっておくべきである」。ここでの所有と徳との対立関係にベルン時代でのモンテスキュー的な同様の論理からの継続を見ることができるし、その継続性は、同じ論稿でヘーゲルが「富の不平等が自由を脅かす危険を国家から除去するために、ソロンとリュクルゴスは所有に関する諸権利を様々な仕方で制限し、富の不平等をまねきかねない多くの恣意を排除した」として、古代ギリシア共和国における所有の脅威をなお言っていることからも、分かる。またシャムレーが言うように、ステュアート研究とともに神学論でのヘーゲルの視点が古代ユダヤ教の世界へと、なかでもそこでの「物的な依存」の問題へと向けられていることも、所有・経済関係の重視を示している。