哲学においてマルクス主義者であること・その2

 

前回の続き。

平面秩序、丸い秩序、境界ならざる境界

ヒュームが自問したように、もし明日太陽が昇らないとしたら、あるいはもし妻が私を見捨てたとしたら
(略)
今や私は、不安な自問などなんでもないと言ってもらえると知っている。存在があろうとなかろうと、なにも変わらない。ヘーゲルが私たちに、存在は無意味だとみごとに説明してくれている。(略)
保証されていると知って、なにか変わるのか。かくあるのであって、他のようではないと知って、生活や信念や隷属状態のなにが変わるのか。知ってもなお空虚のなかにいることに変わりがあるのか。生活のなにかを変えようとする試みを前にして、なお空虚のなかにいることに変わりがあるのか。
 したがって、存在とは大文字の秩序であり、ものごとを秩序づけて存在のなかに定員することである。ものごとを存在に規定され、導かれるようにすることである。もちろん、大文字の秩序は存在の全能性に照らして無限に多様でありうる。
 秩序は歩道のように、デカルト的空間のように、ボース地方の平原のように、無限に平らであることもある。ご承知のように、デカルトは森がすでに地上を被わない時代にあっても一貫してこう説いている。森のなかで迷った人間は、どの方向にでもよいからとにかくまっすぐ歩いていけばよい。そうすれば必ず、見晴らしのよい平原に出られる。田園の散歩には、あるいは捕虜の脱走には、なんと好都合な平面秩序か!
 しかし秩序は丸いこともある。カントはそれに気づいていた。しかし彼は、地球の丸さだけからそこに思いいたったわけではない。私有地ゆえである。彼はこう述べた。地球は丸く、隣の土地に接して自分の土地をもつ所有者たちは、いつか必ず地球の反対側の土地所有者たちと隣人になる、それで終わりだ!私有地を無限に拡大していくことはできないのである。アメリカ流「フロンティアの終わり」である。完全に自由な事業はなくなる。物理的な特性と妥協しなければならない。社会契約がそれを思い出させる。とはいえカントがこの丸い秩序以外にも着想源をもっていたことを忘れてはならない。彼は頭上に広がる天と、心のなかにある道徳法則のことも考慮に入れていた。言ってみれば要するに、丸い秩序は上となかに補完されているのである。それら三者の関係をカントは生涯にわたって追求し、『判断力批判』において見つけたと考えた。ハイデッガーも彼なりの仕方でその考えを是認した。しかしカントのまえにはルソーがいた。ルソーのあとにはヘーゲルがいた。彼らもまた、違った意味で興味深い。
 ルソーももちろん、地球が丸いことを知っていた。しかし彼は、起源においては、つまり「最初の自然状態」の時代には、地球はデカルトの意見とは異なり、完全に森に覆われていたと考えた。(略)
「最初の自然状態」の人間は、そこが森だとは知らずに森のなかを彷徨っているのである。木々以外にはなにも目にしたことがなく、そんなことはできず、とりわけ満天下の平原など知りもせず、誰に会うこともない。この人間には森から出るチャンスがまったくないのである。これがルソーの見解である。(略)この種の偶発事(大陸の水没、島の隆起など)により変わったのである。それが人間をみごとで快適な痴呆状態から抜け出させた。そこからは季節も生まれたので、人間は労働に従事し、森を開墾して穀物を作らなくてはいけないようになった。弁証法がはじまったのである。しかしそのとき少なくとも、なぜデカルトが森をまっすぐに横切る人間の話を我々に語ったのかが分かる。森が、開墾地に囲まれるようになったからである。また当然のことながら、ものごとはカントが語ったような運びを、かたちを若干修正されてするようになった。地球は丸い、それは私有地のせいである、土地は私有されている、それは地球が丸いせいである。ここでも互い秩序である。ただし今度は、丸い秩序が血なまぐさい無秩序に基礎を置いているという違いがある。丸い秩序が地球を限定された私有地に分割し、私有地の価値がいくらでも跳ね上がりうるのである。
(略)
秩序のなかのなんたる無秩序!平たくても丸くてもいいが、秩序の肯定とは目眩ましではないのかと問うべきだろう。この秩序が実在すると信じさせ(略)、秩序が支配すべく秩序は実在しているはずだと信じさせるための目眩ましではないのか。(略)
しかし、読者諸氏がこのデカルト的な小道に、それがどこかに通じている(ハイデッガーの杣道とは違う!)からという理由で分け入るときには、バックラッシュに用心なされるがいい。あなた方からは若干、異端の臭いがしすぎている。その道はスワン家のほうにではなく、マルクスのほうに通じているのだ。
 ヘーゲルにおいては、ことはよりラディカルである。秩序は丸い、そこに問題はない。すべては円であり、すべては様々な円からなる円であり、無限にそうである。より正確に言えば、カントやルソーの丸い秩序と、まったくカーブがなく高低をもつ――カント的な垂直的二元論における星空と道徳法則――別次元の秩序とのあいだに、もはや矛盾がないのである。ヘーゲルは一貫している。内部に入るや、円または圈の丸さから外部に出ることはできない。あなたは世界のなかにいる?世界に空を加えたい?よろしい。あなたは屋根の上の天によって丸くなっている丸い世界のなかにいる。この世界はまた、あなたの胎内にある――なにしろあなたのなかにあるのだから――道徳法則によっても丸くなっている。人はつまり絶対的な圈のなかにいるのである。どうやってそこから出るのか。出ることは不可能である。とにかく、そとに出るという問題には意味がない。可能ではないのだから。(略)
人はいるところにいるのであって、よそにいるのではない。格子、壁、境界線、鉄条網、標識により。標識の向こうには平原がある、と、すべての囚人たちは脱走しなくとも知っている。敷石の下には砂浜がある、と、六八年五月の夢見る反乱者たちは言った。違う、とヘーゲルは言う。境界線の向こうにはなにもないのだ。理由は単純である。境界線はないのである。そうでなければ、カントの愚かさにまた陥ってしまう。森のデカルト同様、境界のカテゴリーのなかで考えることをやめなかったカントの愚かさに。(略)
民衆的知恵はあけすけに語っている。「境界線を越えてしまえば、もう標識はない」。国家、教会、政治党派、組合、家族のあらゆるリーダーに見られる口ぶりである。しかしそのどれでもなかったカント、しかし世俗的責任にことのほか敏感であったカントには、聞き逃せない問題であった。彼はよい例を挙げている。血の代償を払うことになった例である。フランスのテロルだ。ヘーゲルがテロルに賛成だったというわけではないが、論理の味方であった彼にはこう指摘する力があった。境界はない。そうでなければ無分別さにも限界がない。境界がないとすれば、それはまず、人はカントが望んだように有限のなかにいるのではなく、無限のなかにいるということである。次に、そとはそとにあるのではなく、内にある、ということである。汝自身のなか、有限−無限の人間のなかに、汝の境界を探し、見つけだせ。境界は汝の内にしかない。内があるゆえにそとがないとすれば、すべては言われている。
 すべてとはいえ、ヘーゲル以来の哲学全体に取り憑いている次の問いだけは別である。そとも境界もないとすれば、なぜいまだに境界の話を続けるのか。円の円について、丸い秩序について、なぜいまだに語っているのか。
 したがって、丸い秩序、カーブを境界とする秩序と、非−外部、カーブと境界の不在の両方を同時に考える容易ならざる方法を見つけねばならない。要するに境界ならざる境界、そとをもたない円としての円である。またしてもルソーのことが思い浮かぶ。海のなかから出現する島々、他の土地には寄りかからない島々のことが。
(略)
 そう、ハイデッガーはこの問いについて彼なりの考えをもっている。(略)
境界は宗教的、形而上学的、精神分析的、マルクス主義的(ぽかっ!)な問いであり、そんな話は聞きたくもない。俺たちは事実に興味をもつ。事実はかくあるのであって、他のようではない(ご存じの言い方である)。(略)
[ハイデッガーは]カードを切り直し、境界を消去し、それを自分の手前と向こうに追いやって、窮地を切り技ける。その結果は、ほとんど解読不可能な言語である。どうか明快に語っていただきたい!要するに、自分でもそれを認めているのだが、彼は内部のぬかるみにはまっている。公平な態度を取らず、根底ではよき唯心論者のまま、存在に存在者に対する優位をもたせている。私には不幸にして、彼の思想について短い言葉でこれ以上明快に語ることができない。この思想は、わけが分からないから深遠だという評判を託っている。私としては、そのすべてを明快に理解した人物の話にすぐに移りたい。彼は問いを暫定的に解いた。それも、分かる言葉で。私の友人、ジャック・デリダのことである。
 デリダは非常に説得的な仕方で、境界ならぬ境界の問いに対する答えは余白に求めなくてはならない、と示した。余白とはなにか、誰でも知っている。この頁にもある。充満した空間の隣にある空虚な空間である。充満は空虚なしにありえず、その逆もなりたつと考えるべきだろう。たしかに二つの空間のあいだに境界が想定されているが、この境界は秩序ならぬ境界であり、いかなる場合も秩序には依存しない。というのも、余白は変化させることができ、それを変えれば境界も変わるからである。(略)
この「遊び」は「遊び」でありながら、すべてを変える。それは自由であり、課されてはおらず、秩序全体から自らと我々を解放する。秩序が平らであろうと丸であろうと、一元論的であろうと二元論的であろうと、あるいは捩れていようと。かくてこの余白は、我々の絶望に耐えたあと、我々の希望を身に帯びはじめる。

唯物論の道、神からはじめるとは

 とはいえカント以前に、悪魔的に巧みな用心をして、一人の男が別の道を進んだ。唯物論の道である。スピノザである。スピノザはまったく単純に神からはじめる。「他の者は思考からはじめたり(デカルト)、存在からはじめたり(聖トマス)する」。彼は神からはじめる。これは歴史のなかにほとんど類例を見ない、前代未聞の大胆なやり方であった。というのも、神からはじめるとは、起源と目的の両方からはじめるということである。続く彼の思考から見たときには、哲学におけるあらゆる観念論を構成するこの対を入念に括弧に入れることであった。神からはじめるとは、同時に、世界には神しか存在しないと述べることでもある。それは、神学者全員の鼻先で、すべてとして存在するとすれば神はどこにも存在しない、ゆえに存在しない、と述べることに帰着する。神学者たちはそれをよく分かっていた。しかしスピノザは神を必要ともしていた。すべての可能な属性(数のうえで無限な)を備えさせるためにである。それらの属性は神に固有の本質を表現し、神に固有の本質と一体化している。神の本質と混じり合って、神の本質と絶対的に見分けがつかない。つまり、石であろうが犬であろうが人間であろうが、あらゆる特個的主体の特異な力能を前もって説明するために、彼は神を必要としていたのである。そこでもまた、ものごとは構造なしではやっていけない。属性が無限であるとすれば(人間はそのうち二つのみ知っている。延長――物質――と思惟である)、神から有限様態である(様態とは、属性の変異、様相である)特個的個体に進むには、媒介が必要である。スピノザにとり、それが無限様態であった(例えば、幾何学の空間、知性)。それらの全体としての結合態が、スピノザが奇妙な語で呼ぶ編成を生みだす。(略)
全体宇宙の形象。一方において物体の全体、他方において精神の全体を統制する、おそらくもっとも一般的な法則である。
 この考え方においては明らかに、主体と対象の区別は飛んでしまう。権利の問い、真理の問い、真理基準の問いも飛んでしまう。つまり認識の理論が原理からして消えてしまう。代わりに座を占めるのは、「三種の認識」をめぐる奇妙な理論である。事実として与えられ、いかなる権利の問いからも切り離された理論である。そこで語られる第一種の認識とは想像力であるが、スピノザの告げるところでは、想像力を捉えるには能力のカテゴリーを捨てねばならない。第一種の認識つまり偽の能力とはむしろ、一つの世界を指している。直接的世界である。スピノザイデオロギーの世界とは言わないが、『神学政治論』を読むかぎり、そうみなしてもよい。同書において、想像的なものとはあらゆる人々が知覚し、信じているものである。あらゆる人々には、想像的なものの前哨である預言者も含まれる。神の告げることを理解せずに聞く人、理解しなくても真実を聞く人である。想像力の奇妙なところは、真実の一片を含んでいることである。部分的な真実、非十全な真実。それが十全な真実へと進んでいく。まったき姿で現れ、一切隠されない第二種の認識である。そこにおいて真実は共通真理というあり方をし、科学と哲学がそのなかで仕事をする。
 しかし、主体はどうなっているのかと問われるだろう。主体は第一種の認識において想像的である。第二種の共通真理においては、主体はおそらく認識されているが、その認識は抽象的である。スピノザは主体の認識にかんして驚きを用意している。第三種の認識である。それは、まさに特個的本質の認識を与えるというのである。
(略)
スピノザにとっては逆風の吹く時代であったことを知らねばならない。彼はすべてを公然と語ることができなかったのである。
 事情はとにかく、この驚くべき理論構成には唯物論を思わせるところがあると主張してよいだろう。とりわけ、批判的かつ否定的なやり方をする唯物論については疑いの余地がない。マルクス以前の哲学者には超えることができなかったやり方である。しかしスピノザの哲学には唯物論的な拒否以上のものがある(略)
例えば、属性の無限性という観念は将来の発見に大きく扉を開いている(当時はまだ、代数学幾何学解析学、物理学ぐらいしか真の認識ははじまっていなかった。歴史の理論はまだ彷徨っていた)。既知の二つの属性についての認識(数学と物理学)のかたわらで、『神学政治論』のスピノザは、二つだけ例を挙げれば、すでに歴史の大陸を開拓しているばかりか、形式的には、もう一つ別の大陸の扉を開いている。形式的には、という点を強調しておきたい。歴史の大陸のなかではマルクスがその後決然と前進していった。扉が開かれただけの大陸には、フロイトがその後足を踏み入れることになるだろう。
(略)
最後に例えば、因果性をめぐる強力な観念である。結果において働き、結果のなかにしか実在しない因果性である。マルクスがやがて取り上げ直すことになる観念を、遠くから告げている。関係を関係として構成する諸要素に、その関係が原因として作用する因果性(生産関係を想起せよ)、諸要素に対し構造が原因として作用する因果性(構造的因果性)の観念である。もちろん、スピノザには彼の天才的直観に意味を与えてくれるはずの弁証法の観念が欠けていた。しかしその問いにほんとうの意味で答えることになるのは、ヘーゲルではなかった。スピノザにおいて沈黙したままになっている問いに答えたのは、スピノザをその点で正しく非難したヘーゲル、問いを立てただけのヘーゲルではなく、マルクスであった。
 とはいえヘーゲルスピノザの最良の部分を受け継いだように見える。あらゆる認識の理論に対する批判、権利に対する批判、法的・道徳的・政治的主体に対する批判、社会契約に対する批判、道徳性に対する批判、道徳の補遺としての宗教に対する批判である。それによりヘーゲルは、スピノザデカルトを批判したように、カントを批判することができた。二つの批判はほとんど正確に同じ仕方で行われている。おまけに、ヘーゲルは哲学のなかに、スピノザに欠けていた当のもの、弁証法あるいは「否定的なものの労働」を導入した。それによってはじめて、世界に実在するそれぞれの特個的存在は、「この主体であって他の主体ではないもの」として固定されうるようになった。特個的個体性の形式を問わずに、である(知覚された世界の変異であっても、個人的意識の形象であっても、歴史的個体性であっても、その歴史が一人の人間の歴史であっても一つの民族の歴史であっても)。さらに、存在をめぐる観念論的な問い、空虚な問いが、別様に立てられることによってようやく答えを受け取ったように見える。しかしなんたることか、我らが哲学者は観念論を一掃せず、閉じ込めただけであった……弁証法そのもののなかに。
 というのもヘーゲルにおいては、古いアリストテレス的な思考すなわち、終わり、目的による決定、目的論が完全に作用しているのである。満天下にそう告げられている。それぞれの存在は自らのうちに本質をもつのではなく、自らの終わりに本質が成就されるのを目撃する。この終わりは当の存在とは異なる存在である。存在の発展であり、存在の本質をその存在に代わって実現する。存在は、最初は「即自的」にすぎなかったのに「対自的」になる、とされる。このようにして、ヘーゲルは物質的・知的・社会的本性の目的論的秩序を再建する。そこではすべての存在が、世界の目的=終わりによって指定された場所/本質を、占め/所有する。本質は場所に対し割り振られ、存在が目的=終わりに到達するまでのあいだ、存在の真理として過渡的媒介の役目を果たす。世界の目的=終わりは世界の精神であり、ものごとの歩みをそのはじまりから統制している。統制は歴史に「無駄な費用」があっても働いており、その「無駄な費用」もまた統制の一部である。資本主義的生産のよき理論家として、ヘーゲルはためらうことなくそんな費用を承認し、計算しようとした。「雨はなぜ砂地に、街道に、海に降り注ぐのか」とマルブランシュは訝しんだが(略)
ヘーゲルは、そうした歴史のゴミまで引き受け、それらはなにも生産しなくとも生産に必要なのだと語る。悪や戦争とともに、そんな無も肯定的弁証法のなかには入り込む。神学者の目にスキャンダルと映るものすべてが、入り込む。[脚註7]
 しかし会計係は必要である。それが彼、ヘーゲルであり、神ではない。神は哲学の人員名簿から抹消されており、会計を担うのはヘーゲルである。つまり、すべてを知る人、絶対知をもつ人というアリストテレス的哲学者像が復活しているのである。ヘーゲルが誰よりも勇気をもってその名を口にする。哲学者ないし絶対知の所有者は、神ではなく、神の意識である。君主ではなく、君主の意識である。君主とは地上における神の形象にすぎない。そうしたことがフランス革命下において、また復古王政下において生起した。出来事と反省に溢れた時代であり、ヘーゲルはそこから、歴史は終わったという教訓を引き出した。権力を手にしたばかりのブルジョワジーは、自身が永遠であると信じているではないか。歴史が終わると、概念は概念の形式で具体的に実在することになる。言い換えの必要な謎めいた表現であろう。真理がとうとう人間にまじって暮らすようになるのである。あらゆる人間がどこかの国家の自由で、自由かつ平等な市民であり、彼らは真っ正直であり、語るときにはけっして嘘を言わない。そのことは彼らの顔に明らかであり、隠そうとしても、よき警察が彼らに語らせるであろう。ブランシュヴィック以来知られていることだが、警官とは「理性の代表者」なのである。ブランシュヴィックは不幸にして、警官から逃げなくてはならなくなるまえに、そう述べている。
 歴史が終わったという主張は、誤解されてきた。それは時間が停止したという意味ではなく、政治的出来事の時代が過ぎたという意味である。もはやなにも起こらないであろう。あなたは家に帰って自分の仕事をしていればいい。仕事とは「金持ちになる」ことだ。なにごともうまく行くだろう。あなたの所有権が保証されているのだから。保証をめぐる歴史全体、保証を求める長く苦しみに満ちた概念史は、馬鹿馬鹿しくも、私的所有権を保証して終わるわけである。それと同時に、ものごとの特性、諸特性、事物と各人の固有性の保証を求めてきた長い歴史もまた、同じように終わる。主体がつねに清潔な手をしていて、悪しき主体ではない保証を求めてきた歴史である。今や、主体が悪しき主体であるときには、法廷があり、彼らを迎え入れ、再教育する癲狂院がある。誰もが静かに眠っていられる。正直な人は自分の家で、泥棒は刑務所で、狂人は病院で。理性国家が彼らを見張っている。この国家は、グラムシが某人の表現を借りて述べたように「夜警」である。昼間、国家は姿を消す。市民が見張ってくれるので。すばらしきエコノミーだ。ブルジョワジー的搾取エコノミーである。絶世の美女のように、ブルジョワジーは自分がもっているものしか与えない。それだけで十分である。
[脚註]
*7 ヘーゲル『歴史哲学講義』、「悪意を含め、世界に存在する悪一般が認識されねばならないだろう。思惟する精神は否定的なものと和解しなければならない。(略)世界史から引き出せる絶対的教訓は、そうした和解的認識である」。「諸民族の幸福、国家の英知、個人の徳が引き立てられ、犠牲に供される屠殺場が歴史なのだと思えるようなときでも、もっとも恐ろしい犠牲はいったい誰のため、どんな最終目的のためなのか、という問いが思惟には必然的に生まれる」。

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