マルクスとヘーゲル ジャン・イッポリット

脚注

ヘーゲルは国家をまず契約として、ついで個人の“運命 ”を表わす力として考えたように思われる。まもなく彼は同様に、もう一つの運命を、すなわち“ 富”つまり私的利益の多方面にわたる活動のなかに消え去る国家それ自身の運命を考察することになる。個人が市民になることによって国家と和解したとき、国家は自分の面前に自分の運命である経済の世界をみいだす。国家と経済的利益との和解は、自然法にかんするイェーナ時代の著作のなかで考察されている。

富、施されるものの魂

歴史における危機的時代は、旧い秩序がもはや表面的にしか存続せず、しかも新しい秩序はまだ姿を現わしていない時代である。(略)
国家権力は絶対君主制において自らを実現したとき、普遍性というその性格を失った。それ自身はもはや外見にすぎないのである。その結果、富が人々の求める唯一の善となる。(略)
富が本質になった後にも、社会体のなかに差異はいぜん存続する。特権をもつものともたないもの、尊大な金持といやしいおべっか使いなどがいる。(略)
富が――ここで問題なのは、労働や生産一般ではなくて、享受の直接的条件である――唯一の本質になったということには、社会体の深刻な頽廃が含まれている。なぜならば、「富が分与するもの、富が他者に与えるもの、それは自分だけの存在である。しかしながら富が施されるのは、自己を失った自然としてでも、無造作に与えられる生活手段としてでもなく、自分で自分を維持する自己を意識した本質としてである」からである。(略)
解体しつつある世界についてもっとも明晰な意識が存するのは、もっと深い分裂のなかにある、施されるものの魂においてなのである。
[脚注22]
われわれが考察するヘーゲルのこの章のなかには、実際には、富の二つの異なった弁証法がある。――アダム・スミスを読んだヘーゲルは、スミスに従って、現われでんとする新しい世界を考察する。労働、生産、享受としての富の運動はそれ自体普遍的な運動である。しかし、自己意識にたいしては、それはこのようなものとしては現われない。「享受においては、各人は万人に享受すべきものを与え、労働においては、各人は自分のためと全く同様に万人のために労働し、また、万人が彼のために労働する。」このばあい、個人の利益はみせかけであり、仮象にすぎない。しかしここで考察しようとする第二の弁証法は、むしろ富自体のために富を欲求することがひきおこす頽廃の弁証法である。

啓蒙が戦いで勝ちを占めた。

しかしそこで次の問題が提起される。「あらゆる偏見、あらゆる迷信が追放されるといまや残っているのは何か、そうしたものの代りに啓蒙が普及させた真理はどのようなものか。」(略)
「有用性」という真理である。それ自体として存在していたものはすべて破壊され、もはや平板で変りやすい世界しか残っていない。(略)
精神性をとり去られた世界は、もはや、人間が人間にとって有用と考えられるかぎりにおいてのみ、群としてあるいは社会として存続するにすぎないところの「人間の群」の世界である。(略)
いかなる絶対的真理も、一つの契機から他の契機へ果てしなく推移するという真理、すなわち即自と対他とのあいだを往復する有用性を除いては、この世界にもはや現われない。しかし功利主義とはまさに、自らの中にその諸契機をまだまとめていなかったところの、懸命に否定するけれどもたえず再現するのをみることになる表面の薄皮のように、自分の前に対象性を保持していたところの思想の無定見である。「有用性は対象の述語にすぎず、それ自身は主語でない。」それゆえにこの無定見は消滅しなければならないし、新しい時代の偉大な真理が宣言されねばならない。「人間は自由な意志である」と。人間は、社会的有用性というこの平板な世界を越えて高まり、世界がめざす真理として、その「普遍的自己意識」のなかに絶対者を発見する。この内的な革命から、実際の現実の実際の革命がほとばしりで、意識の新しい形態、すなわち「絶対的自由」が現われ出てくる。その中でこれまで分離されていた二つの世界がついに和解させられるのである。

絶対的自由

チュービンゲンにおいてルソーを読んだへーゲルは、いまやフランスに展開している諸事件を手がかりにして『社会契約論』の文章を解釈する。ルソーとカントの原理、すなわち新しい時代の原理とは「絶対的自由」の原理である。人間はその本質において意志であるが、私的な目的を追求する特殊意志ではなくて一般意志である。(略)
自由であるということは、各々の市民が一般意志のなかに、すなわち国家のなかに、分割しえない仕方で、自分自身をみいだすことである。人間は欲望の特殊な衝動に代えて、人間自身が自分で定めたところの法に服従する。人民は神となったのである。人民はこの法において直接に自分を認める。フランス革命のなかで、この絶対的自由は「世界の王座にのぼるが、いかなる力もそれに対抗することはできない」。しかし、普遍と個体とのこの直接的な出会いは一つの抽象である。それが人間のなかにみるものは市民(シトワイヤン)だけであり、ブルジョワ、ありのままの私的な人間ではない。ところでへーゲルは、チュービンゲン時代の初期の著作以来、国家と個人のあいだに必然的に入ってくるあの有機的社会を自覚していた。ルソーの著作が不十分で袋小路に導かれたのは、この具体的世界を無視したためである。個別意志と一般意志とのあいだの直接的同一性は、へーゲルによれば、古代都市においてはありえたけれども、今日ではそれはもはや不可能である。個人は必然的に自己の意志を疎外せざるをえない。そしてへーゲルのいうように、個人は「自分を物にする」、すなわち無限に彼を越える全体の特殊な一契機にならざるをえない。一般意志は、具体的・特殊的な領域に分割され組織されたこの全体を通してのみ実現される。しかしながら、全体的仕事に直接的・意識的に参加することこそ、自己意識の絶対的権利である。意志のあらゆる疎外、自己意識のあらゆる制限にたいする闘争がフランス革命の偉大さをなすのであるが、しかしそれは失敗におわる。サン・ジュストは言明した、「事態のなりゆきはおそらくわれわれが決して考えもしなかった諸結果にわれわれを導くだろう」と。へーゲルが後に理性の狡智と名づけるであろうこの事態のなりゆきが、理念の真の試練であり、歴史の運動を考察する哲学者に、世界の流れのなかで実現される理念の正確な意味を洩らすのである。フランス革命は広大な形而上学的経験ともいえるのである。

政府は「権力についた徒党」

「なんらかの政府はつねに存在する。問題はただそれがどのように生成したかを知ることである。」
 それゆえに国民公会の時期に、政府は「権力についた徒党」として存在する。「だから政府と呼ばれるものは勝利をえた徒党にすぎず、徒党であるというまさにこの点に、ただちにその没落の必然性がみいだされるのである。」ジロンド党の後で、ロベスピエールが恐るべき力をもって権力をにぎり、「必然性がこんどは彼を見捨てる」まで「国家を維持する。」ところが絶対的自由はまさにそのことによって実現され、その実現は、絶対的自由そのものが意図したものの反対である。
(略)
1794年を通して行なわれる大きな形而上学的経験は、政治と死のあいだに新しい関係を確立する、絶対的自由が完全に実現されるという経験である。全面的な民主制が現われるが、その民主制はそれがそうであると主張するもののまさに反対であることが示される。それは、言葉の文字通りの意味における全体主義的体制、すなわち反自由主義的民主制である。なぜならそれは、私的人間を市民のなかに、彼岸の宗教を国家の宗教のなかに、完全に吸収したからである。ロベスピエールは共和国の焦点と支持を宗教のなかに求める。へーゲルは述べている、「ロベスピエールは徳を大まじめに考えた人間であった」と。

革命のたびに

社会的実体は自覚した主体によってますます浸透されるであろう。おそらく窮極においては、それまで必然的であった疎外は消滅し、個人は、共同の社会的事業のなかに自分の反映をみいだすまでに、その自己意識を拡大するであろう。そのとき彼は「普遍的精神の実際の対象的現実、すなわち自分を特殊なものとして締めだす実際の現実に堪える」ことができるようになるであろう。――しかしながら、へーゲルは、精神の歴史の過程をそのように考えることを、疑問を呈した後、拒否しているように思われる。ルターが地上における神の支配の実現を不可能と考えたのと同じように、へーゲルもまた、少なくとも『現象学』のなかでは、二つの世界のこの直接的和解とは別の解決を考えている。フランス革命の失敗は必然的事実として記録されているようにみえる。そして「精神は別の土地に移る。」すなわち、絶対的自由が、実際に実現されるかわりに、カント、フィヒテロマン主義者の道徳的・宗教的世界に内面化されるところのドイツに移るのである。『歴史哲学』のなかでヘーゲルは述べるであろう。「それはドイツ人のなかではおだやかな理論にとどまったが、しかしフランス人はそれを実際に実行しようと望んだ」と。
(略)
[バークは]イギリスの自由をフランスの自由と対比し、このような実験の結果を予見する。すなわち、それは暴力と専制の勝利となるであろう、「諸君は暴力にうったえざるをえないだろう」と。しかし彼はこの実験の偉大さその普遍的な意義を理解しない。彼は、「花壇の庭師」のように念入りにすべてを地ならししながら、抽象から始めるフランス的理性に、偏見のための偏見、思想なき経験主義を対比するだけにとどまっている。若干の点でへーゲルの判断がバークのそれにときとして似ているとしても(略)両者のあいだの相違は本質的である。
(略)
この革命そのものは、その部分的失敗にもかかわらず、へーゲルにとっては、その諸結果が無限であるところの思想の革命なのである。へーゲルがその晩年に『歴史哲学講義』において、いまいちどこの革命について述べたことをここに引用するのは、おそらく無益ではないであろう。「権利の思想、概念は、みずからを一挙に妥当なものとした。そして旧い不正の機構はそれに抗することはできなかった。権利の思想のなかに、したがっていまや一つの憲法がうちたてられ、今後はすべてがこの基礎にもとづかねばならない。太陽が天空にのぼり、遊星がその廻りをまわって以来このかた、人間が頭で、つまり思想で立ち、これにしたがって現実をうちたてるということは見られなかった。(略)いまはじめて、人間は、思想が精神的現実を支配すべきであることを認識するにいたったのである。
(略)
崇高な感動がその時代にみなぎり、精神の熱狂が世界をふるわせた。それはあたかも、このときにはじめて、神的なものと世界との真の和解が達せられたかのごとくであった。」

次回につづく。