哲学の犯罪計画 ヘーゲル『精神現象学』を読む

第一章がわかりやすくて面白いのでごっそり引用。

抽象への憎しみ

 『精神現象学』には、抽象への憎しみと、その抽象こそあらゆる思惟にとっての真の敵だと見なすほどの警戒心とが見られる。抽象とはまず分離であり、われわれの知性の「分析的」な使用である。それはいっさいを解体してものごとをほかとは別個に措定するものであり、そのやり方はしばしば手荒であまりに断定的だ。まるで裁断機でばっさりと切り落とした断面のようである。このように個別化されたものの生、私的空間と言ってもいいが、それはどの扉の後ろにもまた別の扉が開いているような感覚を、あるいは閉じた瓶ないし区切られた部屋や廊下のなかに現実が細切れにされたような感覚を残すことになる。「香料店に並ぶラベルで飾り立てられた封のされたたくさんの箱のように、そちらとこちらの違いがくっきり区切られた表」に似ているとも言える。抽象の一撃は、個人と社会、質料と精神、世の流れと、他の世界に向けられる信仰心とのあいだを分離させてしまう、そういうやっかいごとを引き起こすのだ。抽象は、悟性によるこの区分によってがっちり固定されたそれぞれの項目のあいだにスペースを作る。このスペースを超えて動くことは不可能である。それはすべてが孤立しているせいで横断することが困難な「悪無限」なのだ。抽象は見た目には体系という形式を採るかもしれない。つまり、整然と並ぶ引出の集合だ。それを構成するのはかっちりと縛られた構成要素であり、明確な諸命題である。スピノザ幾何学的なあざやかさで展開した方法のようなものである。スビノザがいかにそれらを美しく連ねて展開したとはいえ、人工的な構築物であることにかわりはないのだ!
 ここでは思惟はあまりに断片化されており、それゆえその歩みはたどたどしいものになる。スピノザはこの意味でヘーゲルの《他者》である。二人がともに同じただ一つの世界、彼岸なき、超越性なき世界について語ろうとしていたとしても、だ。統一性を考えるには、陰影線の一本一本を平行に描き込むように事物を一つまた一つと横並びに並べていくよりももっと良いやり方がある、ヘーゲルの目にはそう映ったのだ。そのようなやり方はヘーゲルが『現象学』の「力と悟性」の章で非難したカタログ式のやり方でしかないのだから。そしてこの新しい方法――その論理――が『現象学』の核心をなしている。その名は無限性。無限は先に述べた、陰影線で描かれたような有限とは逆に、一つのものを二つに切断分離し破砕するだけでは飽き足らない。無限が描き出すのは円環だ。そこでは、始まりが終わりに位置する。世界を一つの全体性に統一する緊張関係、無際限の力と言ってもいい。だが問題になるのはきわめて特殊な全体性ということになろう。それはつねにどこかで開かれている。どこもかしこも念入りに閉じられているということもなければ、完全に完結しているということもない。完結地点はつねにどこかずれてしまっていて、しばしば目に見えぬほどのわずかな違いが刻み込まれているのだ。ヘーゲルの創造した方法は、このように具体的であろうと欲する。それはつまり、ものごとを包括的に把握することであり、諸要素を固定した統一体に還元することなく「具体化」あるいは「癒合」させることである。
(略)
 抽象は早急な判断の産物である。(略)ヘーゲルはその主張を理解してもらうために(略)犯罪者と目された人間に対する新聞報道の性急な判断という例をあげている。(略)
ほかの誰より抽象的な判断を下しているのはいったい誰なのか? 自分の行動もまた同じ因果の網のなかに、つまり犯罪者を生み出す社会環境のなかに同列に組み込もうとする哲学者の方なのか、あるいは犯罪者を非難したいあまりに恐ろしいほど抽象的な短絡的思考に流される世論の方なのか?(略)
「ここに抽象的思考の一例がある。殺人者のなかにただ殺人者の抽象しか見ないのだ。そしてこのただ一つの特性を振りかざして、かれが人間として持っているそのほかすべての性格を消し去るのである」。こうした社会的制裁、判断の単純な抽象化、了解ないし共通理解のゆえに、キリストというこれまた高名な犯罪者が死んだのである。そのずっとのちになってから、ひとは十字架を尊敬すべきお守りとして位置づけ、あまりにも芳しからぬ事実を抽象化するわけだ。あのとき十字架はありふれた拷問用具であって、敬うべき対象、その栄誉を傷つけることなどあってはならない対象ではなかったはずなのだ。ひとは事態の性格、そのぞっとするような死をもたらす役割を忘れている。
 抽象が切り出すのは運動のなかのほんの微細な事実だが、しかしその運動こそがこれらの事実を基礎づけている。さて、それが切り出される、そうすると、諸々の断片化された意味が得られる。哲学はそれらの意味の系譜学に着手する義務がある。これこそ、『精神現象学』がカントの形式主義を、カントがおのれの判断力を委ねた抽象的な『批判』を乗り越えてもたらしたラディカルな方法なのである。犯罪者はおそらく、道徳より重要である。ヘーゲルは道徳の方こそ病理的な症状であると名指し、だからこそ非難すべきとつねに構えていた。カントが行ったように、道徳を自由の表現と認めてしまうのではなく、むしろ抽象的道徳を、善悪をあまりにお手軽に判断してしまう社会が押しつける短絡性のなかに位置づけた方がいい。こうした関係づけをみるかぎり、ヘーゲルニーチェとそう隔たってはいないように思われる。
(略)
ヘーゲルは執拗に、《精神》を、出現してくるものとの観点から位置づけようとした
(略)
哲学はプラトン以来、見せかけとして出現するものに異をとなえることから出発している。というのもプラトンは道徳の影響のもと、感覚的なものは影や断片的なコピーだと片付けてしまうために執拗な努力を続けていたからだ。
(略)
われわれの身体はまさにそのために、魂の墓場のようなものと批判され、牡蠣の貝殻になぞらえられる羽目になる。(略)『国家』において、牡蠣は洞窟に置き換えられている。この洞窟は眼窩にも似ている。そこでは反映、つまり現実とはあべこべのイメージしか受容されない。とくに政治はそういうところを利用して生き延びているものだから、ますます巧みに無知につけ込むようになる。プラトンに言わせれば、このイメージの反転ないしシミュラークルを是正し、正義をよりどころにして眼窩という名の洞窟を抜け出し、かくして真理を再発見すべきだったのだ。
(略)
 ヘーゲルはおのれの研究を『精神現象学』と呼んだ。そのことでかれは、見せかけを幻影や小細工として投げ捨てるのではなく、むしろそれについて改めて考え直し、眼前にきらめき輝くものを違った目で再考するに至った。見せかけは人びとに道を踏み外させ、精神を目覚めないようにするものだとされている。しかしそういう意味での見せかけとはまったく違うものなのだ。それは出現するもの、つまりわれわれの前にそれ以外ではあり得ないようなかたちで姿を現すもののことなのである。
(略)
重要なのは、プラトンはとどのつまり反民主主義的な抽象の犠牲になったと示すことである。それは政治的には惨憺たるものだ。なぜならそのことでかれは現象を、コピーや画家による模倣そしてつまらないスローガンにだまされる大衆を沈静化させるための見世物のようなものだと考えてしまったからである。
(略)
ヘーゲル本人の言葉を関こう。「根本的には、見せかけとは何であろうか? それは本質とはどのような関係を持つのだろうか? あらゆる本質、あらゆる真理は、純粋な抽象に甘んじるのがいやならば見せかけとして出現する必要がある、ということは忘れないでおこう。……見せかけそのものは、非本質とはまったくちがう。見せかけは逆に本質の本質的契機を構成するのである」。
 現象、すなわち輝き出でて姿を現すもの、それは唯一アプローチが可能な現実なのであり、われわれはここから出発して、感覚的に世界を観想し受容しうる精神に向かって開かれている世界とはなんであるかを理解しなければならない。問題なのは見せかけを回避するために洞窟を出ることでもなく、都市や民衆から逃げ出すことでもない。むしろそこに入り込み、どうして意識はその知覚という、自分の内側で経験する事物そのものと分かちがたい状態にあるのかを理解することである。
(略)
この内部へと向けて、現象はおのれを差し出す。長い伝統を通じて想定され、そこに迫る努力もなされていたはずのこの表層的なものが、じつは既にもっとも深いところにあったというわけだ。幻影はおそらく、目に見えるものや見せかけが持つ特性によってできあがったわけではない。むしろ考え得るかぎりの生の唯一の指針として出会うことの方がはるかに多い。われわれのもつあまりに強すぎる真実への意志の結果生じた幻影というものもあれば、きわめて劇的で直線的な真理に特有の幻影というものもある。パラドクスか循環論のように思えるかもしれないが、しかしわれわれは執念深くそこを踏破して、もっとも創造的なその矛盾のなかでそれを理解せねばならないのだ。

百科全書の円環

 『精神現象学』は観念の冒険である。よく知っている憤れ親しんだ思惟に対する、概念的な反逆の実験である。出発点とすべきは、ここで、いまと呼ばれているところからだ。
(略)
百科全書 En-cyclo-pedieという語では、教育(paideia)という語が円環cycleという語の後ろに付いている。意識の教育――その過程――は自分自身に立ち戻る円環に沿って進むのだ(接頭辞enから見てもそれが分かる)。つまり、百科全書の円環を追っていくことで、一つの過程が開かれていくはずなのだ。この過程に沿って進むことで、思惟はおのれ自身に足を踏み入れ、おのれ自身を掘り下げていくことになろう。だがそれはつねに、別の円環の中にあるこの円環を穿つように進むものとなる。
(略)
現象学』は一つの巨大な集合――のちに『論理学』という着想でそこに触れることになる――として思い描かねばなるまい。その集合は連続的なものではなく、またそこでは同時に読み取るべきであった諸契機が重なり合っている。意識、自己意識、理性……。ここにはしたがって、一冊のかなり奇妙な書物が存在していることになる。この書物は互いにはめ込まれ、重なり合わされたたくさんの円環によって機能している。特殊なジャンルの小説だと言ってもいい。どのエピソードもそれで全体をなしているが、しかし別の視点のなかに包含されてもいれば、別の手がかりから読み取られるものでもあったりするのだ。
(略)
この円環は自分自身に帰ってくるが、しかしそのときは完全に変容している、ということだ。
(略)
意識はおのれの出発点に戻ることで自己意識となる。
(略)
「この運動は自己自身に回帰する円環であり、ここではその始まりは前提とされているが、そこにたどり着くのは最後の最後になってである」。最後の最後になって、事態は再始動する。なぜなら、始まりに改めて触れ直すことで人は事態をちがったように読むようになり、こうして書物を無限なものに変える補足的な旋回運動へと引きずり込まれていくからだ。

概念は生を表現する

 ヘーゲルにとっては、概念conceptはたんなる認識形成notionではない。それは概念形成conceptionを、つまり、世界のさまざまな要素を有機的な、循環形式の全体性のなかに結び合わせることができる方法を指している。この意味で、それは直線的なものでもなければ、現実を諸対象の分類へと切り分ける単なるカテゴリーでもない。
(略)
それが目指すのは、ただ大きな特徴しか記憶しない図式の項目のなかに諸々の差異を振り分ける、ということではない。そういったものは、たとえば抽象的に考えられた一群のスプーンやフォーク、などといったように、明確に判別された諸要素の集合というおもむきを呈することだろう。それがわれわれに見せてくれるのは、ただの身じろぎひとつしない骸骨に他ならず、そうしてすべての差異が削除された一つの存在が説明されるだけのことになるはずだ。
 ニーチェベルクソンがこの公式を再発見することになるだろう。かれらはおのおのが自分の分野において、概念とはほとんどの場合は現実を操作しようという意志、生を固定化するための道具としての分類方法を生み出す意志に過ぎないのだと、はっきり口にするからだ。ここでいう生とは、本質を絡め取るにはあまりに目の粗すぎる網をつねにかいくぐる存在の具体的な運動であり、交換の無限の豊かさであって、それがたとえば水の一滴に至るまでの特徴となっているのだ。ヘーゲルは抽象的カテゴリーに事物を分類するわれわれの悟性がもたらしてしまう固定性と概念とを引き離しておくよう、つねに細心の注意を払っていた。概念は、単なる対象の分類と一緒にされてしまってはなんの得にもならないのだ。
(略)
ヘーゲルがいう概念は内在的な力によって作裂する。その力は、たとえば『精神現象学』執筆と同時期に作曲されたベートーヴェンの一連の交響曲に張り詰める波のようなうねりに比較しうるものだ。概念は生を表現する。そしてその生から実体を受け継ぐ。いってみれば音楽的なかたちで概念は生のなかに浸透しているのだ。知的な記述の操作ないし機能だけに止まらない。現実の運動に関係しているのだ。概念とは単なる「主体的論理」、あるいはカントのような表象の分析論に甘んじるものではなく、「客体的論理」のリズムをも明らかにするものでなくてはならない。事物そのもののなかでこそ運動が接合されるのであり、思惟はその継ぎ目を追っていかねばならないのである。
(略)
ヘーゲルが関心を持ったのはむしろ、同じ一つの芽のもとに留まって、そのなかに諸々の、時に非常に暴力的な差異があると記すことだった。
(略)
ヘーゲルお気に入りのモデル――概念の生成過程――は文学面に多くを負っている。それらは分析的ないし解説的なものというより、包括的なものである。比較とは違った手段でその暴力を理解し解釈することを可能にする分節化は、事物そのもののなかに登場する。1870年頃、ディルタイは自然科学と精神科学を区別することになるが、その手法においてはこの規定が再評価されて用いられることになる。
(略)
まずはニーチェが、ついでフロイトが、説明という出来合いの観念と対立するものとしての解釈という概念を拡張したのである。
(略)
 ヘーゲル以降、概念は事物を外的に観念化したものではもはやなくなった。それが指し示すのは、事物の持つ創造と破壊の力、その内的な生である。ここから先、花の持つ力は、花の生体としての運動とその解釈とを合わせて一者を作り出すのみである! 『精神現象学』は決然と、われわれを精神と物質、魂と身体の二元論から救い出す。というのも、魂はもはや身体の見取り図でしかないからである。あるいは身体の成長、開花についての歴史記述と言ってもいい。あるいは、それはきわめて驚くべきもの、逸脱的なものへの生成の歴史記述であるかもしれない。
(略)
見たこともないような芽が出るようなものだ。そのときこそ、なにか飛躍があったのかもしれない、切開が入ったのかもしれない、脱線が起きたのかもしれない、つまり否定がなされたのでは、と認識すべきなのである。円環の無限性を断ち切るまた別の円環、といった要領で、全体は全体から発するのである。

否定性

いつだって、無限の運動がメスの一撃で有限なものを切り開いてしまう。そこから奔流を招き入れつつ、亀裂と傷跡とを残すのだ。
(略)
どんな有機体であれ、無限なものは欲求や欲望という名の下にその有機体のなかに充満し、ついにはその囲みを破裂させ、その閉じた枠を揺るがせるに至る。生成とは有限なもののなかにこだまするこの無限への呼びかけ以外のなにものでもない。(略)われわれの内側でわれわれを扇動する空虚ないしは飢えに似ているからだ。あるいは、存在を満たす虚無と言ってもいい。こうすることで、この無は持続的にそこにおのれを刻むのである。
(略)
 ヘーゲルの見るところ、否定的なものとはただの無限に過ぎない。だがそこでいう無限は、一つの体系がおのれに閉じたものになることを絶えず妨げ、それを開くものである。なぜなら、それは体系の境界内に収まってはいられないものだからだ。否定的なものは有限なもののなかに偶発的で空虚な要素、ランダムな定員外の要素を招き入れる。だがそれらは有限なものの組成を変え、一つの生成を実現することができるのだ。運動と生成は外部への呼びかけである。
(略)
有限な事物がもたらす安定性や休息と思われるものは、まなざしによる抽象化に過ぎない。こうしたまなざしは、見かけは動くことのない植物のなかに運動があることを見て取ることさえできないのだ。しかしその植物は、たとえそのことが目には見えなかったとしても、それでも確かに開花する。
(略)
否定的なものは、すべてをまどろみのなかから引きずり出し、安らぎをうち捨てさせる生の痛みと暴力とを剥き出しにする。

次回につづく。