イデオロギーとユートピア ポール・リクール

イデオロギーとユートピア

イデオロギーとユートピア

フォイエルバッハ

フォイエルバッハは宗教を、まさしく現実についての転倒した反射として記述し、論じたのであった。フォイエルバッハのいうところによれば、キリスト教においては主語と述語が逆転している、本当のところは人間が主語であり、人間が神的なもののなかに人間自身の属性(まさしく人間自身の述語)を投影してきたのに、実際には、神的なものは人間によって、われわれがその述語となるような一つの主語として知覚されている(略)
かくして、転倒というフォイエルバッハに特徴的な範例は、主語と述語の交換、人間という主語と神的な述語の交換を含んでいる。こうした交換は、人間主体の代わりに、人間的な述語を持った神的な主語を置くことへと帰着する。マルクスフォイエルバッハにしたがって、宗教が、すべてをひっくり返すような、現実についての転倒された反射の範例、最初の例、始原的な例であることを受け容れる。フォイエルバッハマルクスは、ものごとをひっくり返したへーゲル的モデルに対抗しているのだ。彼らはものごとを正しい向きに直し、足で立たせるよう努めている。転倒のイメージは強い印象を与える。そしてそれは、マルクスイデオロギー概念の、発生をうながすイメージである。主語と述語の転倒としての宗教というフォイエルバッハから借りた概念を拡げることで、青年期のマルクスは、この範例的な機能を諸観念の領域全体へと拡張させるのである。

青年期のマルクス

青年期のマルクスにとって、イデオロギーの概念的代替物は科学ではなく現実、実践としての現実である。人々はものごとを行ない、それから、自分たちはある種のどんよりとした領域のなかでものごとを行なっていると想像するのである。したがってまず、人々がそのなかで生を営むなどのために格闘している社会的現実が存在するのであり、これが実践としての実際の現実なのである。そのあと、この現実は諸観念の宇宙のなかで表象される。しかしこの現実は、この領域に対して自律的な意味を持つものとして、また、思考され、なされたり生きられたりするだけではないようなことがらを基盤に意味をなすものとして、誤って表象される。したがって、イデオロギー批判は生活についてのある種のリアリズムから生じてくる。つまり、イデオロギー批判は、そのリアリズムにとっては実践がイデオロギーの代替的概念であるような実践的生活のリアリズムから、生じてくるのである。マルクスの体系は唯物論的であるが、これはまさしく、実践の物質性が諸観念の観念性に先立っていることを強調しているという点においてである。マルクスにおけるイデオロギー批判は、哲学が現実の継起、現実の発生的順序を転倒させたという主張に由来している。そして彼の課題は、ものごとをその現実の順序に戻すということである。転倒を転倒することが課題なのだ。

ユートピア

あらゆるユートピア――とりわけ、サン=シモンやフーリエ、カベー、プルードンなど、19世紀の社会主義者たちのユートピア――は、マルクス主義においてはイデオロギーとして扱われる。あとで見るように、エンゲルスユートピア社会主義科学的社会主義とを根本的に対置させている。こうしたアプローチにおいて、ユートピアは、科学と対置されているという理由でイデオロギー的となる。ユートピアイデオロギー的なのは、それが非科学的、科学以前的であり、さらに反科学的でさえあるからなのだ。
 こうしたマルクス主義イデオロギー概念において別の展開が生じてくるのは、後のマルクス主義者たちやポスト・マルクス主義者たちが科学に与えた意味のためである。彼らの科学概念は二つの主要な流れへと分岐している。第一の流れはフランクフルト学派をその起源としており、科学をカント的あるいはフィヒテ的な意味での批判のなかで発展させ、イデオロギー研究が解放のプロジェクトと結びつくようにしようとする。(略)
この体系は、こうした純粋に記述的な社会学を発展させることで、おのれ自身のさまざまな前提を問いに付すことがないようにしているのである。こうして徐々に、すべてのものがイデオロギー的となっていくように思われる。
 私の考えでは、ホルクハイマーやアドルノハーバーマスなどに代表されるこのドイツの学派においてもっとも興味深いのは、イデオロギー批判の批判過程を精神分析に結びつけようという試みである。

構造主義マルクス主義

マルクス主義が発展させた科学についての二番目の流れは、個人的なものに注目する精神分析とではなく、主観性への参照をいっさい拒否する構造主義との結びつきをその特徴としている。この種の構造主義マルクス主義は、主としてフランスで、ルイ・アルチュセールによって展開されたのだが(略)あらゆるヒューマニズム的主張をイデオロギーの側に置こうとする。アルチュセールによれば、現実に意味を付与する者たらんとする主体の主張は、まさに根本的な幻想である。現象学の観念論的ヴァージョン、その典型例はフッサールの『デカルト省察』だが、そうしたヴァージョンにおける主体の主張をアルチュセールは批判している。対比の対象としてマルクスの資本主義批判が取り上げられているが、マルクスはそうした批判において、資本主義者たちを批判したのではなく、資本の構造そのものを分析したのだという。したがって、アルチュセールにとって、青年期のマルクスの書き物は考察対象から除外されなくてはならない。むしろ、イデオロギーの主要な概念を提示しているのは円熟期のマルクスなのである。青年期のマルクスはまだイデオロギー的であり、個的人格、個的労働者としての主体の主張を擁護しているからだ。アルチュセールの評価では、青年期のマルクスにおける疎外の概念は、マルクス主義以前の典型的なイデオロギー概念である。
(略)
 こうして、イデオロギー概念を連続的に拡張させることから、奇妙な帰結が生じるのがわかる。イデオロギー概念は、フォイエルバッハにとっての宗教から出発して、徐々に、ドイツ観念論、前科学的社会学、客観主義的心理学、実証主義的な社会学、そしてついには、「情緒的な」マルクス主義のあらゆるヒューマニスト的主張と不平の声とを覆うに至るのだ。

初期のマルクスの課題

初期の仕事におけるマルクスの課題は、現実とは何かを規定することであった。こうした規定が、やがてイデオロギーの概念に影響を与えることになる。なぜなら、イデオロギーとは、現実ではないようなすべてのもののことだからである。(略)初期の著作は、現実と実践との同一視へと向かう運動であり、したがってまた、実践とイデオロギーとの対置を打ち立てることへと向かう運動なのだ。
(略)
イデオロギーはやがて、実践が自らの場から追い払うと同時に自らの内側から生み出してもいるような幻の世界として現われてくることだろう。のちに見るように、これがマルクスイデオロギー概念の難しいところである。
(略)
「ドイツにとって、宗教の批判は本質的に果たされている。そして宗教の批判は、あらゆる批判にとって欠かすことのできない前提なのである」(略)このように言うとき、マルクスは自分に先立つ仕事――フォイエルバッハの仕事――を支えとしている。(略)したがって、マルクスにおいて、宗教の批判は外部から持ち込まれたものである。彼はこの批判を、既に果たされたもの、立ち戻る必要のないものと見なしている。(略)
ここでわれわれは、あらゆるイデオロギー批判のためのモデルを手にしている。
(略)


反宗教的な批判の基礎とは、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、というものである。(略)人間とは世界の外部にうずくまっている抽象的存在ではない。人間とは人間の世界であり、国家であり、社会である。この国家、この社会が、転倒した世界意識である宗教を生み出すのである(略)
[宗教は]人間存在の空想的な実現である。というのも人間存在は、真の現実に達していないからである。それ故、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的な芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。



このテキストは典型的にフォイエルバッハ的である。「幻想を求めるような状況を捨て去ることを要求」するというその実践的な結論を除けば、それはまだマルクス的ではない。だから、人間的現実を実際に可能にするような社会的諸条件へ向けて、すでに何らかの移動が行なわれているのだ。
(略)
マルクスはすでに、転倒させられた実践というモデルを手にしている。しかしこの点について、マルクスは問題を表象の領域から生産の領域に移動させていながらも、生産についてはまだ、そのすべてが意識という観念論的概念つまりヘーゲル的《精神》の残滓を含んでいるような、「自己意識」「世界意識」「自己評価」にかかわる問題に留まっている。とはいえ、マルクスの仕事のこの段階においては、意識がふさわしい場所なのである。というのも、マルクスの言うところでは、そこにおいてこそ驚くべき生産、つまり「人間存在の空想的な実現」が生じるのだからである。
(略)
マルクスの政治哲学において攻撃されているのは、国家の観念からその構成要素へと進んでいく思弁的な法哲学である。マルクスにとって、これはイデオロギー的思考のモデルであり、観念から現実への運動であって、現実から観念への運動ではない。

プロレタリアートの概念

マルクスはこう結論づけている。現実を変化させることのできる唯一の批判は、思弁的な思索にとどまっているヘーゲル左派の者どもによってなされた批判のような、言葉や観念による批判ではなく、具体的な実践を含んだ批判である、と。マルクスはさらに、この具体的な実践的批判が実現されるのは、普遍性を代表する社会階級によって支えられるときだけである、と主張する。そして、普遍性の次元は、思考の領域から現実の階級へと移行させられて、その階級が何も持たないがゆえに普遍的であるとされる。何も持たないこと、それがすべてなのである。マルクスの最初のプロレタリアートの概念は、このようにして構築されている。ここで指摘しておくべきなのは次の点である。すなわち、この概念は抽象的なのだが、それは、プロレタリアートというのが、何らかの特殊な利害を持たない階級、しかしすべてのものに由来することから、全体としての社会の現実の利害を代表している階級について言われるべきものだという点からである。
 このプロレタリアートの概念は抽象的であり、円熟期のマルクスにはイデオロギー的と見えるだろう。この段階では、プロレタリアートは一つの構築物である。マルクスは、普遍的な思考によって占められる場所に続けて、普遍的な階級の欲求に対する場所を主張している。「革命には、受動的な要素、物質的な基礎が必要である。理論が一つの国民のなかで実現されるのは、それが、彼らの欲求の実現である限りにおいてのみである」。さらに次のページにはこうある。「根本的な革命は根本的な欲求の革命でしかありえないのだが、そうした欲求の前提条件と誕生の地が欠けているように見える」。欲求という概念、これはすでにある意味でヘーゲル的であるが、この概念が普遍的思考に取って代わっている。根本的な欲求が、根本的な思考に取って代わっているのだ。

『経済学・哲学草稿』

 ヘーゲルの主要な概念(疎外、対象化)と、フォイルエバッハの主要な概念(類的存在、類的諸力)は、ここでは定式化し直され、労働の構造のなかに位置づけられている。マルクスの企ては、労働の概念の再構築、哲学的再構築なのだ。彼は労働の概念を、記述的現象としてではなく、自らの対象のなか、生産物のなかに客体化する類的存在、またそのとき、自らをその生産物のなかに認知する類的存在を通して意味あるものとされた過程として、再構築するのである。これが、対象化と外化の過程である。
 われわれは、ドイツ哲学における基本的な主題がマルクスにおいて反復されているのを見て取る。自己自身になるために、何か別のもののなかに自己自身を移し入れてしまうという考えは、マルクスからヘーゲルを通して、少なくともヤコブベーメといったドイツ神秘主義者の時代にまでさかのぼるような主題である(略)。マルクスが「これらの類的抗力を対象として扱うこと」と呼んでいるものは、ドイツ史における長い系譜につながっている。これは、自分自身を空にすることで自分自身を強く主張し、捉え直すという創造的な機能に反映されている。マルクスと知的先行者たちとの間の連続性と不連続性は、したがって、非常に重要である。『草稿』では、対象化、現実化、外化、疎外といったヘーゲル的およびフォイエルバッハ的概念が、人間存在の、その労働、労働の生産物、労働という活動、他の労働者、そしてその労働の意味を個人から奪うものとしての賃金に対する関係の根本にある構造を記述するといった、ゆるやかな仕方で用いられている。ここで作動しているあらゆる転倒が、われわれの主題であるイデオロギー概念の、マルクスにおける展開を予示している。
 したがって、『草稿』に向かう時に心がけてもらいたいのは、ヘーゲルに由来する普遍性についての形而上学と、フォイエルバッハによる類的存在についての人間学的見方と、労働のなかに外化された労働者としての人間存在という真にマルクス的な問題設定との、この奇妙な混在を突き止めることである。われわれの目的は、マルクスの思索の展開から、イデオロギー概念にとって重要なものをさぐりだすことである。次回の講義では、この目的のために『経済学・哲学草稿』に立ち戻ることにしよう。

『草稿』が提示するのは、人間の労働が異質の、なじみのない、見たところ超越的な存在、すなわち私有財産とりわけ資本へと転倒される典型例である。こうして、労働の主観的本質(これはいまだ非常にヘーゲル的な言葉遺いである)は廃棄されて、この本質が人間存在を支配しているように見える権力のなかで失われるという変形が、あらゆる類似の過程にとっての範例となる。何か人間的なものが、外部の、外面的な、上位の、いっそう力のある、ときには超自然的なものと思われるものへと転倒されるのである。
(略)
こうして、われわれは、不動産としての土地の価値は消えてなくなった、あるいは、資本の特殊な審級として吸収された、と言うことができるだろう。こうした変形を、マルクスは「第三草稿」のなかで私有財産の普遍化と表現している。このことは、誰もが所有者になることを意味しているのではいない。むしろ、私有財産が普遍化されるのは、あらゆる種類の所有がいまや抽象的になるという意味においてである。主張はその方向性においてヘーゲル的である。財産が価値を持つのは、資本として交換されるという能力においてのみである。したがって、不動産は特殊なものという地位を失い、普遍的な財産の一部、一側面となる。
(略)
マルクスは「地代」の一節の終わりのところで、フランスの古い標語である「貨幣は主人を持たない」がいまや真であるのは、「人間に対する死んだ物質の完全な支配」が成し遂げられたからだ、と主張している。マルクスにとって、この「死んだ物質の完全な支配」は、イギリス経済学の偉大な発見である。したがって、この発見はもともとマルクスのものではない。
(略)
こうした発見は自己破壊的でさえある。経済学の主張は、人間の労働、人間の勤勉だけがあらゆる富、あらゆる資本を生み出すというものであるが、それは現実には、資本が人間の労働を雇いまた解雇するという場合なのである。マルクスにとって、これは経済学の大きな矛盾である。その経済学は、財産のなかに聖なるものは何もないこと、財産は単に蓄積された労働であることを見いだしたが、それでも、財産――資本――は人間の労働を雇ったり解雇したりするカを持っているからだ。これら二つの発見は、経済学の分析の別々の成果として扱われてきた。しかし、これらの成果がいっしょにされるとき、一つの矛盾が生じる。この矛盾によって、われわれは、イギリスの経済学者たちよりも先へと進み、事実として受け取られてきたものの意味を問うように強いられる。
(略)
先に簡単に言及したように、労働の対象化は労働の外化と対比されており、この対象化は望ましい帰結である。対象化はマルクスにおける鍵概念であり、これを強調することで彼はヘーゲルにならっているのだ。対象化とは、何か内的なものが外在化され、またそうしたやり方で現実的になる過程であり、これは非常にヘーゲル的な考え方である。最初に世界のなかに入っていくとき、私は内的な生活しか持っていない。私が何かするときだけ、労働、行ない、何か公共的で他者たちと共有されるもの、私が自分で実現させあるいは実行するようなものが存在する。そのときだけ、私は実際に存在するようになる。対象化は、こうした実現の過程である。「労働の実現は労働の対象化である」。これが根本概念である。
 しかしながら、「経済学の領域では」、そしてこれは、資本主義経済においては、という意味だが、「こうした労働の実現は、実現の喪失として現われてくる」。
(略)
マルクスの分析から明らかになるのは、経済学によって「事実」として捉えられた転倒とは現実には人間の本質の喪失だ、ということである。本来、人間の労働の対象化――本質――となるべきものが、経済学においては、代わりにその実現の喪失――疎外――として現われてくる。
(略)
「経済学は、労働者(労働)と生産の間の直接的関係を考察しないことで、労働の本性に内属している疎外を隠蔽している」

人間が類的存在であるのは、彼らが本質的なものについて考察しあるいは熟考するからではなく、彼ら自身が本質的だからである。(略)
人間の自由は、個体性の単なる主張においてではなく、こうした主張が普遍性の領域へと移行されるときに生じる。こうした移行が生じるまでは主張は恣意的なものでしかない。自由は、普遍性のあらゆる段階を通過しなければならない。これは、ドイツ哲学における自律の伝統である。すなわち、自己自身を普遍的なものとして主張するのである。疎外によって損なわれるのは、この普遍的であるという能力である。
(略)
後期の著述のなかで、マルクスは分業の概念を、この類的存在の分散へと結びつけている。もし私が一人の労働者として、都市の一個人として、あるいは田舎の一個人として応じるのであれば、私はけっして普遍的ではない。

次回につづく。