バブル:日本迷走の原点 永野健二

バブル:日本迷走の原点

バブル:日本迷走の原点

  • 作者:永野 健二
  • 発売日: 2016/11/18
  • メディア: 単行本
 

日本興業銀行

 日本興業銀行(興銀)がもっていた独特の存在感を知る人の数も、次第に少なくなっているかもしれない。戦後の復興期から高度成長期にいたるまで、日本の産業史のあらゆる場面に、興銀の姿があった。興銀は大蔵省・通商産業省公認の日本経済のコンサルタントであり、日本全体の資本を差配するベンチャーキャピタルだった。
 興銀は、日本の重化学工業の振興を目的として、1902年(明治35年)の日本興業銀行法によって誕生した。預金ではなく金融債の発行によって資金を調達し、それを長期で企業に貸し出す特殊銀行だった。興銀は明治末期以降の対外戦争によってその存在感を高め、40年代から大平洋戦争にいたる過程では、戦争金融の大半をまとめ、戦時経済の中核機能を果たす。[当然戦後は「戦犯銀行」として廃止が検討されたが謎の経緯で奇跡的に存続。資金配分が生み出す権力により、興銀を頂点に都市銀行から下は農協系金融機関までのヒエラルキーが完成。だがその神通力は、71年の三光汽船によるジャパンライン株買い占め事件で転機を迎える]
(略)
[運輸省主導の]集約体制に参加していない一匹オオカミの海運会社が、運輸省と興銀が一体となって作り上げたカルテル体制に正面から刃向かったのである。しかも株式市場を通じて、経営権の取得を明確に宣言した。戦後最大の敵対的なM&Aだった。
(略)
船舶の大量発注による取引関係を武器に、造船会社に高株価の三光汽船株を引き受けさせることで、銀行に頼らずとも巨額の資金調達が可能なことを示した。新しい時代の始まりだった。(略)
コストの安い外国人船員を活用するには、運航する船舶が外国籍である必要があった。
 そこで日本船籍ではない船舶(便宜置籍船)を作って、外国人船員中心の運航体制をいち早く追求したのが三光汽船だった。のちに日本の製造業は人件費の高い日本を逃れて、次々に海外現地生産に移行するが、三光汽船の試みは海運業における海外現地生産だった。その後の日本経済全体が抱える問題の先取りでもあった。便宜置籍船の船籍は税金の安いパナマリベリアに置かれた。(略)タックスヘイブンは、海運業界の便宜置籍船から始まったと言われる。
(略)
[「海運業」「株式売買」「船舶売買」を三本柱とし、バブル時代の財テク企業の15年先を行っていた]
[73年興銀の中山素平が起用した児玉誉士夫水島廣雄立ち会いのもと、三光汽船とジャパンラインは和解調停。集約体制は運輸省と興銀によって傍若無人な政治家河本敏夫率いる三光汽船から守られたとメディアは報じた。三光汽船は150億の売却益。裏の謝礼として児玉に2億、水島に1億]
 ジャパンラインは、買い占め問題の決着以降、“日本興業銀行海運部”といわれるほど、名実ともに興銀支配の体制に移行する。派遣される社長は、いずれも興銀で代表取締役をつとめた常務クラス(略)
 興銀が介入してから、ジャパンラインには児玉誉士夫の関係者が我が物顔で出入りしていた。またジャパンラインの関係会社の経営権を児玉の関係者が取得する事態もあった。そして興銀本体の名誉顧問を、長いあいだ水島廣雄が務め続けた。(略)
 ある興銀幹部が自嘲気味につぶやいていた。「歴代の頭取以下、あらゆる幹部が、ジャパンライン問題の当事者なんです。だから、誰にも責任を取らせることは出来ないのです」。
 ジャパンライン問題は、興銀の「終わりの始まり」だった。しかし、この問題で責任をとった経営幹部はいない。そして、興銀とアングラ社会のつながりは80年代のバブル時代の「そごう問題」、「尾上縫事件」にまでつながり、興銀の命脈を絶つのである。

誠備グループ

[1978年導入された「特別報告銘柄制度」で第1号銘柄に指定されたのが笹川良一グループによる買い占めが話題になったヂーゼル機器]
[市場情報を操作し]悪材料を流し、売り方を信用取引空売りに誘い出す。一方で、その銘柄を買い上げて、流通株式を極端に少なくする。結果として、売り方に高値で信用取引の買い戻しをせざるを得ないように追い込む。いわゆる「踏み上げ」相場である,(略)
[これは]のちに兜町の風雲児とまで言われる、加藤暠ひきいる誠備グループの得意な手法だった。そして決着には、会社との直接交渉による直取引を用いる。いわゆる「解け合い」である。岡本理研ゴムの仕手戦では、笹川良一の政治力が市場を通さない株式の肩代わりの場面で使われた。
(略)
 特別報告銘柄制度の導入は、大蔵省の大物次官OBであり、東証理事長としても脂の乗り切った時期の谷村裕の決断だった。(略)
戦後の経済安定本部に出向中、統制経済のもとで「すべての商品の価格を官僚が決めることなど出来はしない」という確信をもつ。それが、谷村の大蔵官僚らしからぬ「市場主義」の根底にあった。(略)
これまでの兜町では、人為的に取引を決着する解け合いの歴史だった。(略)
[自身の理想をゆるがすヂーゼル機器仕手戦に対する]谷村の行動は徹底していた。(略)大蔵省の後輩である磯邊律男博報堂社長に頼み、検察・国税との連携も徹底した。(略)
場合によっては税務上の制裁もためらうつもりはないという合意が出来ていた。ある意味では、取引所と大蔵省、国税当局、さらには検察まで巻き込んだ国家権力と、仕手グループが対峙する局面だった。(略)
 結果として、ヂーゼル機器の株価は凍り付いた。株価も動かず、出来高もほとんどない状態が半年以上にわたって続く。
(略)
[ついに]笹川グループなどが買い占めたヂーゼル株式を、いすゞ自動車など25社が肩代わりすることが最終的に明らかになる。
 興味深いのは、その日の午前に平和相互銀行社長の小宮山精一が会見した内容だった。(略)「ヂーゼル機器の株買い占めにからんで210億円にのぼる巨額の融資をしていた。そして株の買い占めをしていたのは平和相互銀行の取引先である日誠総業だった」と明らかにした。(略)
監督官庁の大蔵省なのか、検察なのか、国税なのか、いずれにしても平和相互銀行の経営者に対して、権力を持つ誰かによる厳しい「指導」があったことは間違いない。
 また、肩代わりに最大の役割を果たしたと言われる野村証券田淵節也社長は後年、「(略)中に入って事実上の解け合いの処理をした。[と語り](略)
 ヂーゼル機器の決着は、谷村東証理事長がもっとも嫌がったはずの事実上の解け合いだった。それは、以後の解け合いをなくすための解け合いだった。
 この決着で語られていない特筆すべきポイントは、買い占めグループが[金融調達の平和相互銀行、株価操作の加藤、政治力で話をまとめる笹川の3つのグループに分断されたこと](略)
 以後、誠備の加藤暠は、仕手グループとして単独で行動することを余儀なくされ、孤独な闘いを強いられることになる。誠備グループを孤立させ追いつめることこそ、特別報告銘柄の最大の狙いだった。(略)
 80年以降、加藤は「兜町最強の仕手筋」と認められるようになるが、実態は、孤立無援の仕手グループとしての戦いだった。
(略)
 意外なことに、誠備グループにとどめを刺したのは、是川銀蔵という老相場師だった。(略)
[81年の菱刈鉱山をめぐる大相場で200億円を稼いだ男、当時85歳]
 その是川は、著書『相場師一代』のなかで、誠備グループの加藤暠のことを「私の60数年の投資人生で出合った人間の中で、最も嫌いな人間は正義感のない人間だ。人に迷惑をかけても自分さえ儲かればいいという人物は大嫌いである」と批判する。(略)
 是川は誠備グループの買い銘柄に、信用取引の「空売り」で挑戦した。(略)[是川は60億を稼ぎ完勝、これにより誠備グループは崩壊]

相場師一代(小学館文庫)

相場師一代(小学館文庫)

大蔵省がつぶした「野村モルガン信託構想」

[82年野村証券とJPモルガンは極秘で合弁で信託会社設立を画策、中曽根と竹下にも話をつけていたが……。
野村財閥は戦前から信託会社を営み、その流れを受けた大和銀行は戦後大蔵省の信託分離政策をはねつけ、55年信託専業の銀行と大和銀行という奇妙な体制がスタート]
大蔵省にとっては今も語りつがれる屈辱の一コマだった。その代償として、大和銀行はさまざまな分野で大蔵省にいじめ抜かれる。(略)
[同じ野村財閥系の野村証券も戦後ずっと信託業務に関心を持ち続けてたが、大蔵省にことごとく水を差された]
日本の金融界に「信託会社」という概念を確立したいという時代認識もあった。「硬直的な日本の金融行政を揺さぶってやろうという気持ちが強かった」。(略)
ニュースが報道されてから、野村・モルガン問題は奇妙な沈黙のなかで棚ざらしになる。大蔵省の徹底した否定と誘導によって、取材記者でも問題の本質を理解している者は少なかった。(略)「野村証券だけは絶対に許さない」という銀行幹部のつぶやきが、時折、耳に入るだけだった。
(略)
84年4月、宮本銀行局長が野村証券に出向き、田淵節也社長に「設立は認められない」と通告して終わる。(略)
86年には投資顧問業法が成立
[野村証券を排除するという一点で、外銀信託の参入が実現。結局、野村モルガン信託構想は金融自由化を加速させた]
その一方で、大蔵省の野村証券への恨みは深く刻まれることになる。「野村証券はやりすぎたな」。のちに次官となる大蔵省の切れ者、山口光秀が私に言った言葉は忘れられない。
(略)
[相田雪雄はモルガン本社を訪ね、計画の断念を伝え、どの分野に力を入れるのかと質問した]
ウェザーストーン副会長の答えは「我々は銀行でもない。証券会社でもない。我々はただJPモルガンである」というものだった。相田はその志と気概に強い感銘を受け

頓挫した大蔵官僚・佐藤徹による「金融改革」

[無担保の社債を発行するには格付け会社による「格付け」を受ける必要がある。佐藤の構想は長信銀三行と都銀七行によるオールジャパンのサムライ格付機関設立だった]
佐藤は証券局長でありながら、銀行の首脳のもとを行脚して金融自由化の未来を説得(略)最大のターゲットは興銀だった。[興銀を日本型の投資銀行にする](略)
 興銀がもしも銀行という名前を捨てる覚悟があるのなら、「あらゆる証券業務を内外でやってもらっていい」とさえ、佐藤は言っていた。[しかし興銀のプライドがその決断を阻む](略)
 佐藤の死の報を聞いて、興銀の中村金夫は「彼が生きていたら興銀が変わる道を探れたかも知れない」と天を仰いだ。後年、興銀がバブルの海にあえぎスキャンダルにまみれたときにも、「バブルの前の83〜84年が興銀にとって最後のチャンスだった」と振り返ることになる。
 三局合意の廃止も格付け機関の新設も、佐藤の死によってなし崩しになる。(略)[バブルの到来で]土地の値上がり益を収益の柱に据えた銀行が、有担保主義(=土地本位制)の見直しに本気で取り組むムードはなくなってしまう。

山一証券の分岐点

 1986年9月、東京の溜池にある全日空ホテルの割烹『雲海』の和室で、私は山一証券副社長の成田芳穂と向き合っていた。彼からの突然の呼び出しに応じたものだったが、成田は最初から奇妙な、張り詰めた空気を漂わせていた。
 「山一証券は腐っている」
 しばらくの沈黙のあと、充血したようにもみえる眼を見開き、彼は切り出した。
 「何が腐っているのですか」という私の問いに「何もかもだ。横田社長には辞めてもらわなくてはいけない。植谷会長にも退任してもらう」と答えた。エキセントリックな調子で語り続ける成田の表情は、私がこれまでに見たことのないものだった。(略)
[小心で気配りの人の成田が二人を退任させ自分が社長になると口にする。腐敗の具体例を問うと口をつぐみ、気まずく別れた。翌年1月、総会屋への利益供与疑惑による検察聴取を前に成田は自殺]
[86年三菱重工は1000億円転換社債[CB]を発行。入手できれば労せず2倍になる。発行金額の35%が発行会社の裁量で配分できる親引けと言われ最高機密で配分される。ところが山一証券の分配リストが流出、殆どが総会屋だった。漏洩した成田は植谷と横田により自宅謹慎を命じられる。さらに植谷は雑誌「財界」で三菱重工に総会屋に配れと依頼されたと話し、それに目をつけたのが特捜検事田中森一。調査すると野村証券日興証券は政治家や防衛官僚に配っていた。しかし検察上層部は動かず]
 成田の死から11ヵ月後に田中森一は検事をやめる。小谷光浩、宅見組の宅見勝の弁護など、まるで憑かれたようにバブルの渦中に飛び込み、みすがらも株取引にのめり込む。そして2014年に亡くなる。
 三菱重工CB問題を立件しなかった検察の判断は、違法な行為を続ける経営者を残し、その拮抗力である人材を放逐することに加担した。結果として、山一証券に自浄作用が働く可能性を奪った。(略)明らかに違法性を問うべき問題だった。しかし、成田はそれを社内抗争の道具に使い、犯罪として立件しようとした検察も腰砕けに終わる。そして、成田の死が、山一証券の反省なき経営の持続を可能にする。(略)
[成田の死後一年たたぬうちに行平次雄は副社長に復帰、さらに社長に]
 成田を死に追いやった暗愚の帝王植谷久三は、その後も取締役相談役として眼を光らせ、代表取締役会長となった横田良男は、社長就任時に個人営業の拡大をともに夢見た部下たちを社外に放逐し、みずからを営業特金拡大路線に縛り付ける。
(略)
2600億円の簿外債務を秘かに隠し続けることを決めた91年が、事実上、山一倒産が決まった時だったという見方が定着しつつある。[しかし本当に山一証券が死んだのは成田死去の87年1月である]

次回に続く。
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