バブル:日本迷走の原点・その2 永野健二

前回の続き&前年からの続き。

バブル:日本迷走の原点

バブル:日本迷走の原点

 

NTT株式公開の功罪

最大の功は、なんと言っても日本の株式市場が、時価総額で25兆円規模の巨大企業の株式を受けとめるという離れ業を実現したことにある。銀行を通じた間接金融ではなく、株式市場を活用した直接金融の世界の新しい始まりだった。(略)
87年という異様な投機の時代の流動性がなければ、これだけ大量の政府株の売り出しはスムーズにすすまなかっただろう。国営企業を株式会社、さらには公開企業として民営化のレールに乗せることに成功したのは、バブルの功といってもよい。
(略)
 そしてNTT株で、一攫千金の公開株を手に入れられなかった大衆の怨念、嫉妬が、その後リクルート事件で、政治家、官僚、経営者に対する恨みとして、倍返しで襲いかかる。(略)政治不信を増幅し、結局は55年以降40年近く続いた自民党の一党支配体制さえ押し流してしまうのである。

ブラックマンデー

 株価暴落の引き金を引いたのは、米国の意図に反した西独の金融引き締めだった。(略)米国のベーカー財務長官が激しく反発した。(略)再びプラザ合意のような急激なドル安も辞さずという態度を示したのである。これが「米国主導の株価暴落」のきっかけになったと言われている。しかし、ベーカー財務長官はみずからの責任は棚に上げて、ブラックマンデーは西独のエゴイズムが引き起こした、西独の責任による暴落と考えていた。(略)
87年12月末の時点で、日本も西独も公定歩合は2.5%で一緒だったのが[西独は89年4月には4.5%に](略)
[日銀三重野康]の再三にわたる「日本経済は乾いた薪の上に座っている」という発言にもかかわらず、公定歩合は2年以上にわたって棚ざらし
(略)
 だが、それだけではなかった。日本は政策においても、乾いた薪に灯油をぶちまけるようなことをした。ブラックマンデーから2ヵ月半後の88年1月5日に大蔵省が打ち出した「特金・ファントラの決算計上の弾力化と生保の運用枠の拡大を軸とした対策」である。
 これを一言で言えば、3月期の決算期に、特定金銭信託とファンドトラストで運用している企業や機関投資家財テク資金について、損失を表面化させないでいいから、積極的に財テクを続けてください、という政策だった。
(略)
原価法を悪用して、運用に失敗していても見せかけだけの財テク利益を計上することを助長しかねない措置だった。(略)
[大蔵官僚はそれが]どういう矛盾を拡大して、どういう結果を生むのかということは考えてもいなかった。(略)唯一の共通認識は(略)世界同時不況のトリガーを引くことだけは困る」ということだった。
(略)
[89年末ようやく特金・ファントラによる財テクの異常な実態に危機感を持ち「営業適正化通達」を出す]
 89年12月の角谷正彦証券局長通達を、その後のバブル崩壊をもたらし、金融上の混乱を生み出したと批判する声が聞こえる。底の浅い批判である。角谷証券局長が決断したのは、88年1月に大蔵省が決断したバブルの原罪ともいえる失政の募引きである。角谷通達は正しかった。しかし、いかにも遅すぎたのである。

リクルート事件

[江副浩正は企業社会で最下層の広告業界でも下に位置する就職広告にコンプレックスを抱いていた。さらに京セラ稲盛に嫌われ第二電電発足に参加できず。そこで通信の本丸NTTの真藤恒に直接アプローチ]
広告の世界でリクルートがしたこと、そして情報通信の世界への夢は、四半世紀たってみれば、間違いなく革新だった。
(略)
[しかし一方で]バブル社会の土地高や株高を使って儲けることの方がおもしろいのではないか(略)リクルートのような利幅の薄い本業よりも、魅力ある分野だと考えてもいた。
 稲盛は、江副のこうした卑しさを心底嫌っていた。
(略)
 リクルート事件は、違法性のない株式取引であっても、社会の不公正の感覚と結びついた時に、どれくらいの破壊のエネルギーが生まれるかをはかる、格好のモデルだった。

秀和の小林茂

バブル期最大のトリックスターは誰かと問われれば、文句なしに小林茂である。(略)
 60年代に、日本に初めて「コンパ」と呼ばれるスナックバー形式の酒場を作った(略)カウンターの中に若い女性が立ち、洋酒をボトル単位で低価格で売り、さまざまな酒を取り揃えた(略)居酒屋の生活になじんだ団塊の世代にとっては生活革命であり、「トリスバー」に変わる新しい酒場モデルだった。(略)
[64年]秀和青山レジデンスを皮切りに(略)日本の分譲マンションブームの先駆けをつくった。そして、欧風の瓦屋根や独特のバルコニーを売り物に、マンションシリーズを定着させた。
 いわゆる建て売りマンション時代の始まりだった。(略)「10階建てが建てられるところには、天井を低くしてでも11階建てるんだ」「必ず建蔽率にゆとりがあるところに道をつけておくんです。そうすればいずれ高い建物が建てられる」[えげつない言葉だが、サラリーマンに手の届く価格でマンションを供給するという信念を加えると評価はがらりと変わる](略)
[50年が経過し秀和のマンションは天井こそ低いが良い立地で]ヴィンテージマンションとして人気が高い。[賃貸ビル業でも収益を上げた]
(略)
バブル崩壊後も、麻布建物、EIE、第一不動産、さらには小谷光浩の光進グループなどが、すべて法的に経営破綻したのに対し、秀和は一度たりとも金利棚上げをせず、徹頭徹尾、自助努力での生き残りを図った。「金利棚上げには陥らない」ということに、一種異様なほどの執念を燃やしたのは、第1次オイルショック後の不況で、銀行管理会社として苦労した時期のトラウマだった。
 2005年、依然として、巨額の負債を抱えながらも16棟のオフィスビルを所有していた秀和は、モルガン・スタンレー証券に1400億円で買収される。小林の無念は推し量るべくもない。(略)
 世間からは「買い占め屋」と言われ続けたが、小林は当時日本には存在しなかった投資銀行の機能を、いち早くみずから体現した存在でもあった。それは「会社は株主のものであるという前提に立って、株主として合理的に株価を算定し、みずからリスクを取って株式に投資する。また求める会社があれば、M&Aに協力する金融仲介機能を果たす」という米国流の投資銀行本来の役割である。
 その小林茂の秀和が、最終的に米国の投資銀行のシンボルともいえるモルガン・スタンレー証券に買われたというのは象徴的なことである。(略)
[バブルの最終局面の88〜90年]相次いで流通関連株を大量に取得し、一躍、流通業界の再編の「目」になる。(略)
[しかし]「中堅スーパーの大合同によって1兆円規模のスーパーを設立する」という[構想は実現せず](略)
[忠実屋といなげやは秀和の持ち株比率を下げるため第三者割当増資し時価の1/5〜1/3の安値で株を持ち合う]
実際に払い込まれるのは、いなげやから忠実屋への50億円強だけである。(略)
 いくら資本提携や支援などのために相対で条件を決めて株式を発行できる第三者割当増資だからとはいえ、市場で取引される株価を無視した、このようなファイナンスが上場企業として許されるのだろうか。(略)
[しかも仲介したのが]野村証券の直系の子会社である野村企業情報だったことである。商法上許された増資とはいえ、株主権を毀損する第三者割当増資については、証券界は、かねて反対の立場だった。三光汽船の第三者割当増資に対しても厳しい批判をしていたのは、ほかならぬ野村証券だった。
(略)
[秀和の仮処分申請を東京地裁は認め]
「市場価格は株価を判断する原点であるという原則に則って対処する」というスタンスを、裁判所が認めた瞬間だった。
(略)
 小林茂の真骨頂は、嫌われ者であることを認識しつつ、日本が「買い占め屋」の時代から「M&A」の時代へ移行する橋渡しを演じてみせたことにある。コモンセンスが欠落していたのは小林茂ではなく、忠実屋、いなげやのアドバイザーをつとめた専門家集団だった。

渡辺喜太郎

[光進の小谷光浩に騙され小糸製作所株をつかまされた渡辺は、安倍晋太郎を通じてトヨタに売りつけようとしたが、寸前で豊田英二によって阻まれる]
[95年豊田英二談]
「安倍さんは、大分こだわっておったけどね。(略)あんなのに深入りしちゃいかんわ。政治家は。しかも、将来(総理)を考えている政治家はね。そこら辺のどさ回りならともかく、安倍さんのような立場の人が、あんなに深入りしちゃいけない」
(略)
ピケンズ・渡辺喜太郎という「買い占め屋」を表舞台に上げ、「M&Aのプロフェッショナル」として遇したうえで、トヨタの正しさを証明した。バブルの崩壊も、トヨタに味方した。(略)
豊田英二の怒りは、ピケンズ・渡辺喜太郎に向けられていたのではなかった。彼らを差別し軽蔑したようにふるまいながら、裏にまわるとそれを利用する政治家、官僚、銀行、そして証券会社に対して向けられていた。
(略)
「バブルの時代はね、モノを作っておるやつは間が抜けておる、というような言い方が幅を利かせておった」「バブルの絶頂期みたいにみんなでワーワーお祭り騒ぎをやっておる時には、ふわふわ浮かんでおるのが当たり前だ、という錯覚を起こした人がたくさんおったでしょう」「結局、小糸事件にしてもそうだけれども、バブルの時代というのは、やっぱりおかしな時代でしたよ」

小谷光浩

小谷光浩たち「成り上がり」の資金力の裏側には、有力銀行が関わっているのではないか。(略)名実ともにナンバーワン銀行の座を獲得した住友銀行と、バブルの寵児である小谷光浩のあいだに明確なつながり[銀行本体から100億円、関連ノンバンクから数千億]があれば、バブルの時代の本質を暴き出す象徴的なニュースになる。(略)
都市銀行長期信用銀行には、預貯金や金融債の発行で国民から集めた資金を、企業の設備投資や運転資金など、日本経済の健全な発展や成長に寄与する分野に回す責任がある。それが免許会社である銀行の条件である。
(略)
それが分かっているからこそ、住友銀行は小谷光浩の「住友は心のふるさとだ」という呼びかけに、沈黙をもって答えたのである。
(略)
 バブルの終息期にイトマン処理で西川善文のみせた決断力は驚嘆すべきものがある。しかし西川の回顧録には、不思議とバブルを膨らませた銀行の責任、とりわけその先兵と言われた住友銀行の営業姿勢について反省の声は聞かれない。
(略)
 70年代、安宅産業の破綻処理に走り回り、「1000億円をドブに捨てた」と公言し、「向こう傷は問わない」と再起を期した磯田一郎。そして磯田が実行した79年の機構改革。そのなかで不動産融資に特化して、審査と営業を一体化させて、一気呵成に営業拡大を志向した住友銀行は、矛盾をまき散らした。しかし皮肉でもなんでもなく、こうした機構改革と営業姿勢が、同時にバブル崩壊後の生き残りを可能にする収益基盤を作ったのである。
 西貞三郎と西川善文は、磯田一郎の住友銀行が生み出した二つの遺伝子である。
(略)
光進の小谷光浩は何のモニュメントも残さなかったが「私を捕まえると、日本は大変なことになりますよ。日本のシステムが壊れるのだから」という言葉を残した。歴史は小谷の言う通りに転がった。そして小谷光浩のことを語る人は今や誰もいない。

野村証券田淵節也

 「海の色が変わった」――野村証券会長の田淵節也から[「熱狂相場の転機」を予測する]この言葉を聞いたのは1989年11月頃のことだった。日経平均は年末にかけて急騰し、4万円台をうかがうような勢いだった。
(略)
バブルの崩壊が間近に迫っていることを、田淵はひしひしと感じていた。(略)

「海の色が変わった」というコメントに実名を入れることは拒否したが、「証券界首脳」とすることで了解した。私が署名入りの記事で「証券界首脳」と書けば、関係者のほとんどが「田淵節也」だと思うことは、田淵自身、十分に承知していた。
 その時に議論した内容が残っている。相場はどこまで下げるんですか、という質問に「日経平均で2万4000円かな。いや2万円を切るかもしれないな」。あっさりと答えた。(略)40%の下げであり、88〜89年の相場上昇をすべて帳消しにする水準だった。それだけの下げを予測する人は、銀行・証券会社関係の首脳レベルでは誰もいなかった。
(略)
 87年のブラックマンデーの当日、田淵はニューヨークにいた。米国の株価暴落は転機だと感じた。あの時、日本の株式相場が米国と同様に調整していれば、バブル崩壊の傷は浅かったとも考えていた。(略)
野村証券外資の参入を黒船として、金融自由化の圧力をテコに日本の金融改革を進めたいと考えていた。(略)
 しかし大蔵省の護送船団行政の壁は、厚く、高かった。
(略)
 当時、彼は「今回のバブル相場は大きいぞ。その反動も大きいぞ。なにしろ、全銀行をあげての土地バブルだからな。ツケも銀行に回ってくる」と言っていた。
田淵の見立てでは、「昭和40年不況」は[所詮山一証券の経営危機にすぎなかった。だが今回は](略)
全金融機関を巻き込んだ土地バブルである。(略)
四半世紀たって、その後の風景を眺めてみれば、田淵の見立てはことごとく的中している。(略)
「大蔵省が一番えらく(略)下座で頭を低くして控える証券会社がお金を融通していただくという世界(略)
田淵が生涯をかけて挑んだのが、この固定した金融秩序の打破だった。間接金融の銀行システムを、直接金融の証券会社に置き換える夢だった。
(略)
田淵節也は、株式の持ち合いという日本特有の仕組みを完成させた「株を凍らせた男」だった。(略)
「この相場はもたない」(略)読みが当たることはみずからの破局も意味した。それでも何かが変わることを止めることはできないと思っていた。(略)
 彼は株式持ち合いを通じて、日本の株式を凍らせて日本の株高の条件を作り上げ、証券市場のドンと呼ばれるようになった。しかし、株を解かして、新しい日本を作り上げられないままに退場した。

尾上縫

この史上最大の破産劇は、奇妙な神がかりの相場師が、バブルに浮かれた銀行に対して働いた詐欺事件で終わるところだった。それを押し戻し、日本興行銀行という日本の金融史でも特筆される公益銀行の衰退と堕落の物語として書き直したのが、92年から尾上の破産管財人をつとめ、のちに最高裁判事になる滝井繁男だった。(略)彼こそが、興銀の息の根を止めた男である。[06年のグレーゾーン金利規制でサラ金も殺した]
(略)
尾上縫本人には被害者の側面もあったという印象を持った。金融機関や証券会社に食い物にされた面があったことは否定できない」「興銀に抱いていた、戦後日本経済を支えた格の高い金融機関というイメージが壊れた」「融資の担保を取るのに興銀のワリコーを買わせれば、逆ざやになって融資先が損をするのはわかりきったことなのに長期にわたって続けた。秀才が集まっているはずの興銀で、そのおかしさに気づかなかったのか疑問だ」。現役の最高裁判事による究極の興銀批判である。そして、融資にかかわった大阪支店の副支店長や難波支店だけでなく、興銀という経営主体の責任だと、明確に指摘している。

損失補償問題

[補填を指摘された超一流企業は声を揃えて「補填の認識はない」と言った。なぜなら補填は形を変えた大口手数料だという認識だったから。]
[蝋山昌一によれば]規制によって手数料が一律だったために、大口顧客への優遇措置として損失補填が用いられたという見方である。
 当時の大蔵大臣橋本龍太郎の損失補填に対する底の浅い理解への批判だった。(略)
[ざっと見積もって]損失は10兆円あってもおかしくない。しかし四大証券の損失補填額1200億円はそのうち0.6%にすぎない。業界全体の特金額を推計すれば、ほぼ手数料相当分の金額である。
(略)
 もちろん、こうした手数料割引の変形といって片付けられない損失補填も数多くあった。永田ファンドと呼ばれる山一証券の運用ファンドで生じた損失は、そのすべてが「にぎり」と呼ばれる、大口定期預金金利を上回る配分を約束したファンドだった。
(略)
 90年3月末までの損失補填額、そして翌年に日経がスクープしたリストは、本来、金融自由化が進めされていたならば必要なかった「取り過ぎた売買手数料などの還付額」だった。証券界が投資家に対して返済すべきコストだった。
 それらを公開したうえで、山一証券などの異常な証券会社については、個別に対応すべきだった。2000億円を上回る“飛ばし”は犯罪である。それを見逃す大蔵省証券局はもはや、免許制の証券会社に対する監督官庁とは呼べない。大蔵省が山一の飛ばしの実態を何も知らなかったなどというのは、あってはならないことなのである。
(略)
 大蔵省は、営業特金問題では証券局の問題として、悪しき証券会社の「利回り保証」を摘発した。一方、ファンドトラストは銀行局の問題として処理して、「利回り保証はなかった」ことにした。全く同質の二つの損失補填の問題を、証券局と銀行局という二つの組織が、二つの異なる基準と価値観で処理したのである。
 しかし、どちらにも「利回り保証」はあったのである。それが財テクの実態だった。
(略)
田淵義久社長の発言「大蔵省のご承認をいただいている」は、橋本龍太郎の激怒によって、田淵の舌足らずな表現として、歴史的になかったこととして片付けられ、二度と表の議論にならなかった。そのことに異議を申し立てた野村証券や証券局の幹部がいたとも聞かない。
 バブルの時代は、同時に金融自由化の時代でもあった。証券業の手数料制度は、このバブルの時代に変更しなければならなかった。その議論は何度も俎上にのぼっていた。しかし、証券業界も大蔵省も、実行することを躊躇していた。土地高・株高を利用して、既存の仕組みの裏側で、含み益を再配分して処理してきた。それは信託銀行業界も同様だった。ひとたび土地・株価が暴落すると、矛盾が一気に顕在化する。
 金融自由化の大前提となる、あらゆる市場参加者に対する透明な情報公開と投資家の参入する「機会の平等」を保証する制度を作り上げることを怠っているうちに、バブルが崩壊し、国民の間で「結果の平等」が維持されていないことに対する怒りが爆発した。その混乱こそが損失補填問題だったとも言える。
 大蔵省は、その処理に当たって、みずからの非を認めないで、営業特金については証券会社だけに責めを負わせ、信託銀行のファンドトラストについては、損失補填問題が一切なかったことで蓋をした。
 バブルの内実を知らない、「裸の王様」を権力に戴いた不幸であり、大蔵省の政策の誤りである。(略)[これが]「失われた20年」という長いデフレの時代の主因となる。

宮沢喜一三重野康

[92年8月株価は危険ラインの15000円を割った、宮沢喜一日銀総裁三重野康は独自のホットラインで合意を形成。宮沢の構想は土地買上げ機構をつくり公的資金を投入するものだった]
 宮沢が確信していたのは、今回の危機は株式市場の危機ではなく、日本の金融市場全体の危機であるということだった。それは「土地神話」の危機であり「銀行不倒神話」の危機であるということを意味した。しかし、株価の先行的な下げに比べて、土地価格の下げは1年半遅れていた。その遅れが、官僚や銀行家に奇妙な安堵感をもたらしていた。「株と土地は違う」と考えている大蔵宮僚や銀行経営者は多かった。(略)
[一方三重野も澄田時代副総裁として土地高を加速させた自責の念が強く、総裁就任後一年で5回利上げをし「鬼平」とあだ名された]
[8月17日、宮沢は三重野に明日株価が14000円を割ったら行動すると電話。だが宮沢の別荘にやってきた]秘書官中島義雄は大蔵官僚の利害を体現していた。「東証の緊急閉鎖」と「公的資金の投入」。そのどちらについても反対し、宮沢が帰京して記者会見することを、体を張って阻止する。そして、「金融行政の当面の運営方針」と書いてあるペーパーを差し出す。(略)その本質は株価対策が主体の「事態の先送り」だった。それは大蔵省の論理だった。中島の必死のとりなしに、宮沢の心も揺れる。
(略)
[8月30日の講演で]公的資金日銀特融なのか、財政投融資なのか、一般会計からの税金投入なのかをはっきりさせなかったことで、宮沢の公的資金投入に関する知識や覚悟を疑う声があった。しかし、それは明らかな間違いである。宮沢は大蔵省など政策を推進する事務方の手足を縛りたくなかったのである。同時に、日本をとりまく事態が公的な資金の投入を必要とするような状況であることを「何らかの形で国民に伝える必要がある」と思っていた。政治家として内閣総理大臣としての矜持だった。
(略)
[20年後の住友の西川善文証言]
 「実は92年の8月に、宮沢喜一総理から軽井沢の別荘に招かれたことがあってね。行ってみると、そこには三菱、第一勧銀など大手行の頭取が全員、顔を揃えていた。不良債権を処理するための金融機関への公的資金注入についてどう思うか、内々の相談のようなものだったんだ」「頭取は皆、反対したよ。当時は財界も否定的だったからね。今思うと、あの時に決めておけば、こんな(不良債権処理をめぐって)大騒ぎにならなかっただろうに」と語ったという。
(略)
[宮沢発言直後大蔵省は大手銀行の不良債権は12兆と発表。だが宮沢は野村総研の40〜50兆という数字や海外メディアの記事を評価していた]
[2006年宮沢は当時を回顧し]
「マスコミも含め誰も賛成してくれなかった。大蔵省は『変なことを言ってもらっては困る』という態度だ。銀行の頭取は『冗談じゃない。うちはそんな変な経営状態ではない』と思っている。経済界も『銀行にカネを出すなんて』と反発した。経団連平岩外四会長は『そんなことは考えることもできません』とけんもほろろだった」。インテリの宮沢にして、激しい筆致である。
(略)
 いまにして振り返れば、92年8月はバブル崩壊後の日本が復活する最後のチャンスだった。しかし、このとき公的資金を導入できなかったことについて、宮沢喜一の総理としての実行力の足りなさだという声が、今に至るまで聞かれる。(略)
 しかし、宮沢喜一三重野康内閣総理大臣日本銀行総裁が歩調を合わせても実現できない政策とは一体何なのだろう。
 それを阻害したのは銀行と官僚。あえていえば、政官民の鉄の三角形のなれの果てだった。

おわりに

 直接金融か間接金融かと言われれば、証券会社がになってきた直接金融への道に、少なくとも肩を入れたいと思う。何よりも、秀和の小林茂、麻布建物の渡辺喜太郎、先進の小谷光浩など日本の経済社会で異端児、もっといえば成り上がりと蔑まれていた人たちに、ある種の親近感をもっていた。バブルのあの時代に「成り上がろう」としたら、この人たちにとって他に表現方法はなかった、と今でも思う。問題があったとすれば、このような人たちの野心や欲望に、何の反省もなく融資し続けた銀行でありノンバンクではないだろうか。またそうした制度を放置しつづけた行政ではないだろうか。
 資本主義のなかの企業家精神には、いつも上昇志向とともに、ある種のいかがわしさが潜んでいるものなのである。それをチェックし、上限を設けるのが、金融機関であり、官僚の仕事ではなかったか。

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