財界とは何か

 

財界とは何か

財界とは何か

1948年日経連結成宣言

における「経営権の確立」とは

だが、この「宣言」で言われている「経営権の確立」は、別に企業の株式を乗っ取り屋から守るということではない。ここで行われているのは、なんと、労働組合から企業の支配力を取り返そう、ということなのである。
当時は、なにしろ同友会が今後の企業経営を経営者と資本家と労働者の三者協議にしようなどと言い出すぐらい、個別企業では労働組合の圧力の前に経営者が縮み上がる、という状況にあった。
ひどいところでは経営者が赤字操業を嫌って生産放棄した工場が労働組合によって勝手に稼働した、などということもあった。これは「生産管理」あるいは「人民管理」と呼ばれ、経営者たちはそれを畏怖した。

労使秩序崩壊がもたらしたもの

同友会や経団連は生活の安定感や出世期持の消滅にともなう労働者意識の変質をほとんど軽視していたが、日経連だけは唯一この日本的労使関係解体の反面、企業と協調してくれる労働組合はそのまま存続してくれ、と虫のいい話をしている。ここには日経連がいかに既存の労使秩序が崩れることへ不安を持っていたかが示されていた。
この不安は、バブル崩壊後の不況がさらに深刻化した1990年代後半以降、まさに的中した。従来では考えられなかったような工場火災や不祥事が多発した。それはリストラが進み成果主義が導入された結果、「現場」で労働者のモチベーションが低下、責任感が欠如するようになったからであった。
このため、日本経団連になった2002年以降、「現場力の復活」と称して、中高年労働者の役割を見直すことなどを提言するようになったのである

過去の失敗から「財界」だけでなく官僚も

統制経済には辟易

戦時統制がうまくいかなかったことは、日本のみじめな敗戦が明確に物語っている。実際、統制にたずさわった人物のほとんどが、統制経済は失敗だったと振り返っている。(略)
鮎川義介
私は、戦時に際しての統制経済は非常にいいと思った。戦争中自由主義では一刀両断の大きな政策は誰がやっても出来ないから・・・。ところが、実際はどうやったかというと、統制会をつくった。あれは本当の統制ではない。統制のイカ物だ。(略)官僚は頭はいいし数字を並べたり図面を描くことはうまいが、自ら仕事をしたことがないから、本当に中の方まで神経が通っていないのだ。


河合良成
わが国の戦時統制は全然失敗だったと思う。私は物動計画に関係したとき、一緒にやっている委員連中に向かって「君たちは米、木炭などに足があるのが見えないのか。統制すればするほど品物は値段の高いところへ逃げてしまう」と統制経済に対する皮肉をいったことがある。統制の失敗は満州でも経験した。

「造船疑獄」をきっかけに献金システム

前述した1953年9月の経団連座談会に見られたように、「財界」として過剰投資問題、政府と経済界のあり方について真剣な検討がなされているなか、造船・海運業界は勝手に政界に人を送り込み、利益誘導を行なっていたのだからたまったものではない。
しかも、保守政治が自由党民主党に別れて対立している間に、社会党が勢力を拡大している。財界の危機感は頂点に達した。
アウトサイダーが個別に政治家と手を結ぶのをなんとかして禁止しないと、全「財界」に悪影響が及ぶと認識されたのである。いったん経団連が各企業の献金を預かり、利益誘導を期待しない無色の金として献金するという政治献金プール機構「経済再建懇談会」は、このような状況下、1955年1月27日に作られた。(略)
この政治献金プール機構の形成は、保守政治に対する相当なインパクトがあったらしく、自由党民主党は「保守合同」によって一つになることを決意する。(略)
以後、疑獄事件は「財界」の網がかかっていなかった新興産業や外資系企業を中心にしかみられなくなる。[例:ロッキードリクルート事件]

中小企業を共産党系から奪還した永野重雄

1973年には田中角栄首相、中曾根康弘通産相とともに、「マル経資金」(小企業等経営改善資金貸付制度)という無担保融資制度を作り、共産党系の経済団体に支持を集めていた中小自営業層を保守側に持ってくることに尽力したことがある。
また、永野は1992年、公益法人で表立った政治活動ができない日商の限界を超えるために、別団体の政治連盟として「日本商工連盟」を発足させてもいる。
これらの運動は一定の成果を収め、自民党が都市部で勢力を取り戻すことにつながったものの、いかんせん鮎川や永野の個人的影響力に頼ったシステムであっただけに、脆弱なことこの上なかった。「中小企業団体組織法」も成立は見たものの、経団連の干渉で骨技きにされてしまった経緯がある。また、永野が1984年に逝去した後、「日本商工連盟」は有名無実化してしまった。

行革のもうひとつの柱、大国化

「国でできることを国に」ということで、外交と安全保障を拡充するための行政改革というのがある。(略)
他の省庁が統合や分割、職務変更の憂き目に遭うなか、外務省と防衛庁はほとんど影響を受けなかった。これもはっきりとした意図、つまり日本の大国化のための行政改革であった。

行革のために不況を受け入れた財界

稲山嘉寛は土光敏夫を第二臨調会長にするべく口説く際、全「財界」でバックアップすることを約束した。(略)
「行革推進五人委員会」は、財政再建を政府に押しつけるため、景気対策を自粛するなどの申し合わせを行なっていた。
振り返れば、不況を甘んじて受け入れるという路線を徹底させることができた稲山の影響力はものすごいものであった。もっとも、不況で低配当でも当時の株主が怒らないような経済構造だったからこそ[持ち合い株]、そんなことも可能だったのだろう。

中曾根ブレインと財界内の国際派がつくった

前川レポート

中曾根ブレイン・グループは日本の輸出主導型経済成長路線、ようするに稲川経団連路線を「一国主義的である」と考えていたし、「国際派」の財界人たちは、輸出に有利な円安よりも、いっそのこと円高にした方がいいと考えていた。(略)
さらに、稲山経団連の「我慢の経済」では、国民一般も貯蓄するだけで、株や債券などの「リスク・マネー」に金を投じてくれないではないか、ということを考えていたのである。もっとも、時代を反映して、この研究会の人たちは日本企業が外資に乗っ取られるとか、日本人の貯蓄が外資系金融機関にとられてしまうといったことに関する危機感はほとんどなかったようである

125円台という急激な円高に慌てた中曾根

本来、「国際派」はこれぐらい予想していたと思うのだが、なぜか中曾根とそのブレイン・グループは大あわてした。急激に景気が落ち込んだので、その第二臨調以来の引き締め路線からの脱却、景気対策路線への転換をしないといけないと言いはじめたのである(略)。
さて、官民ともに乾いたぞうきんを絞るようにして切りつめているとき、ある日突然、放漫経済への転換がなされた。乾いたぞうきんは少量の水で旧に復することができたのに、必要以上に大量の水が注がれた。ぞうきんは水を吸いきれず、あたりは水浸しになった(略)
内需拡大は、いわば「我慢の経済」と「国際化」を両方満足させようという、最初から破綻することがわかりきっていた政策として採用されたのであった。
[そしてバブルへ]

なぜ米英の「構造改革」を真似て失敗したか

[「中曾根改革」を境に卸売物価が下落していた日本]
レーガノミックスの米国とサッチャリズムの英国の卸売物価は、結局横ばいないし上昇で、日本ほど低下していないことがわかる。
次に消費者物価を見てみると、英、米はずっと上がってきているのに対し、日本の消費者物価は、ついにマイナスになるに至る。これが一般的にいわれるデフレである。
つまり、「構造改革」というのはインフレのときに行なわれたものを指すということができる。デフレのときにやるとどうなるか……。おそらくそういう発想は「財界」にも、「構造改革」を推進すべきとする学者や官僚たちにもなかったのだろう。

内部告発

日本経団連の「新ビジョン」が指摘したとおり、労働者が「自立」した結果、それまでの企業協調的な労働運動のなかでは考えられないほど内部告発がなされていると見るのが妥当だろう。「日本的労使関係」を破棄し、労働市場の流動化を実現させた「構造改革」の皮肉な結果であった。