検証 バブル失政・その2 BIS規制

前日のつづき。

突如米英がBIS規制

[1987年1月突如記者発表]
「英国と米国が銀行監督の新しい手法として自己資本率での規制を導入することで合意した」
(略)
邦銀の[海外]進出は、米国や英国の金融機関にとって大きな脅威だった。邦銀の急速な拡大に対する反発は広がっており、米英の動きは明らかに日本を封じ込めようとするものと大蔵省や日銀は受け取った。(略)
ボルカーはこう振り返る。
 「はじめに私は米国の銀行に自己資本を強化してもらいたいと思ったが、彼らは抵抗した。もしこの規制が実現したら欧州や日本の銀行と競争上の問題に直面すると言って。そこでまず欧州を巻き込んで、そして日本にもちかけた」
 「日本の銀行はアンフェアな利点を有していると思っていた。邦銀は大変低い自己資本比率で活動していた。BOEも同様の懸念をもっていたので、米英は手を組むことにした。そしてこれはほかの国と同じように行動させるため、邦銀や日本の監督当局に圧力をかけていくという戦略だった」
(略)
 彼らの主張は、日本の銀行が「薄利多売」をしてロンドンやニューヨークでシェアを広げているという内容だった。そして、それは邦銀の自己資本比率の脆弱さに起因していると見られた。(略)
[FRB国際局長のトルーマン談](略)
邦銀の活動に対しては米銀だけでなくワシントンの政策当局者の中でさえ相当の憤りがあった。日本にこの協定にサインさせることが重要だというのが共通認識だった」
(略)
株式の含み益を自己資本に勘定できるかは、日本にとって死活的に重要だった。(略)
 銀行局で自己資本規制問題に関与することになった渡辺は振り返る。
 「株式の価格変動リスクは、それまでも検討していたし、米国や英国との折衝に備えても検証した。そして、三割落ちても大丈夫ということを改めて確認した」
 近未来に株が三割を超えて落ち込んだらどうするのかという議論をした記憶は渡辺にはない。(略)大蔵省に集う俊英たちにとって、三割以上の株価下落というのは想像できなかった。
(略)
大蔵省が「株の含み益も認めるべきだ」と必死だった頃、細谷は部内の限られた人に「含み益算入」について「金融機関の健全性を重視する中央銀行の主張としていかがなものか」という見方を伝えていた。(略)
 大蔵省には、大手銀行首脳から直接、あるいは業界団体である全国銀行協会を通じて間接的に、悲鳴が届き始めていた。彼らは「邦銀を狙い撃ちにしたものだ」と反発した。ただその原因は自分たちが蒔いた種だった。邦銀の進出が目立ち始めたころから、米英は神経をとがらせていた。そして米銀を買収するなど米国で新たな業務展開に乗り出した邦銀に対して、FRBは事細かな資料提出を要求するようになった。

為替介入と「非不胎化」

[ニクソンショックのとき、為替介入して円レートを維持したのは損は出たが、いいことだった、とする宮沢には、「円高を食い止めねばダメだという信念のようなものがあった」と大蔵省関係者は回想]
部下の官僚たちに「今日はどのくらい介入したのか」と尋ねることも日常だった。(略)
 実際にこの業務を担当したことがある日銀マンは「とにかく自分の担当の都銀に電話をかけ続けて介入を指示する。でも市場の圧力も強くて、ひどいときには朝から晩まで介入していた」と振り返る。(略)
 大蔵省関係者はこう回顧する。
 「日銀がこんなとき介入するのは無駄ですといって介入しないことが何度もあった。たしかに正論だったのかもしれないが、円高阻止は、民の声、政治の声。何もしないわけにはいかなかった」
 国際金融局長だった内海も「介入せず」の日銀に怒った。「連日介入しているのに、それをやめたら方針転換だと思われて円高が進みかねない。夜中に日銀に乗り込んで猛烈に抗議したこともある」
 時の大臣は介入に熱心な宮沢。大臣の側近から為替資金課に「何で介入しないんだ」「お前たちはきちんとやっているのか」などと叱責の電話が入ることも度々だったという。
(略)
[介入で]市場に放出された円を日銀が十分に吸収しなかったのがバブルを加速させたとの説もある。専門家たちは、介入した資金を市場に放置しておくことを「非不胎化」と呼び、逆に資金を回収することを「不胎化」と言った。(略)
[日銀に「非不胎化」の議論はなく] 大蔵省も同じ認識だった。(略)
 ただ、このころ不胎化の議論がそうおおっぴらに出来たわけではない。当時介入の事実は秘中の秘で、介入額は事後的にも一切公表されなかった。そんな中で資金回収の話を始めれば、当然いくら介入したのかという具体的な数字が必要になってくる。介入の具体的な内容については日銀と大蔵省のごく一部が関与するテーマだけに、不胎化は大衆討議できない性格のものだった。

日銀を「羽交い絞め」に

していたのは宮沢なのか

 円高阻止のために一番効果的なのは米国にも「これ以上の円高はダメ」と言ってもらうことだ。
 しかし、米国がそんなに簡単に乗ってくるとも思えない。財政出動も考えたが、予算というプロセスは国会審議を経なければならず時間がかかる。だとすれば、ここは日銀に一肌脱いでもらうしか手がないのではないか。
 日銀に利下げを確約してもらう。それを土産にべーカーと会談して、円高ストップのための枠組みを作ることで日米合意する。そしてそれをG5、G7の合意に拡大し、円高に歯止めをかける――。大蔵省ではこんな戦略を描いていた。
(略)
 順番が逆だ――。これではまるで日銀がいけにえのヒツジではないか――。
 反発の声は出たが、大蔵省の態度は有無を言わせぬものだった。
(略)
 そして米国への不信感もあった。
 「いつものことながらアメリカがつまみ食いすることもありうる。それで日本が割を食うこともあるんじゃないかとも思った」
 日本が公定歩合を引き下げても、宮沢の考えている新しい枠組みに米国が乗ってくるという確証はない。一度引き下げた公定歩合はしばらく動かせないだろう。
 しかし、大蔵大臣がこれだけ熱心に追求している問題で、日銀がゼロ回答できるとも思えなかった。仮に下げるにしてもあとはタイミングか――。
(略)
[利下げを決意したが、肝心のG5、G7の日程が決まらず、不明のまま利上げすると「つまみ食い」されかねない。しかし利下げ情報は漏れ始めており、いつまでも延ばせない]
公定歩合がもたないので六日に下げたい。ベーカーの感触を聞いてほしい」と助けを求めた。
 財務官の行天が米側に確かめたところ、「日本は公定歩合以外、何もないのだから、何とかG7までもたせてくれ」との返事だった。要するに、日本は利下げだけが国際協調行動に貢献できる政策なんだからあんまり早めに切ると「協調している」というメッセージ性を失ってしまうという意味だった。
(略)
日銀と大蔵の関係をみていくと、結局日銀を「羽交い絞め」にしていたのは宮沢自身ではなかったのかとも思われる。バブルは度重なる利下げが原因の一つだったと言われている。だとすれば、その利下げをめぐって日銀に圧力をかけた宮沢はバブルの要因を作ったことになる。
 宮沢本人はバブルの生成についてどう考えていたのか。(略)
[秘書官渡辺博史談]
 「(略)忸怩たるものはあったようだ。ただ、バブルのきっかけは自分の過ちではないと思っていたようだ」
 「インフレ一般と資産インフレが違う動きをする。このずれを見ていると変だよなと思ったことはあるけど、なんで生成しているのかを、自分で判断できていたのかということは自問されていたようだ」(略)
[98年]バブルの責任を問われた宮沢は独特の口調でこう述べている。
「責任はある。しかし、何をしたら回避できたかわからない」「では、どうすればよかったんですかなあ」

株大幅下落の想定はなかった

 自己資本規制のルール作りから日本だけが逃れるわけにはいかなくなっている。保有株式の含み益を算入しないと邦銀は想定される自己資本比率に達しない。ならば株式含み益の繰り入れを認めさせることが国益だ。幸いにも日本の株価は安定的に上昇している。算入できる額は低くはない。日本の銀行が国際的に活動するにはそれしか道はない。その交渉に全力をあげていこう――。(略)
 株が下落して含み益が大きく減少したらどうなるのか。実際に10年後に起こる事態をその時点で予想できたものは皆無だった。

「トゥー・マッチ、トゥー・レイト」

前任の竹下が主計局の論理に理解を示してくれたのに対して、宮沢は違った。(略)
 吉野を筆頭とする大蔵省、とりわけ主流派だった主計官僚にとって、内需拡大の要請に財政で応えることなど論外のように思えた。そして彼らはボスである宮沢との確執を深めていく。(略)
 大蔵宮僚たちは財政出動の弊害について宮沢を説得しようと試み、自民党などとの協議の場で反対するように要請した。しかし、会議から戻ってきた宮沢は「誰も反対しなかったので反対しなかった」という理屈で、賛成したことを明らかにした。それを聞かされた吉野たちはそろって驚いたが、大臣が認めたものをひっくり返すことは事実上不可能だった。
[87年5月に決定した六兆円の超大型補正予算は]結果的にバブルの加速を後押ししたとされる。
 日銀の関係者は振り返って「トゥー・マッチ、トゥー・レイト(大きすぎて遅すぎた)」だったとする。(略)この批判に対して大蔵省の事務次官経験者は「たしかに事後的には底を打っていた。そういう間違いはあった」と認めている。
 ただ同時にこの次官経験者はこうも語る。
 「間違っていたという批判は、皆さんにもお返ししたい」
 要は、政治も、メディアも、正確に事態を認識していなかったではないかというわけだ。

 のちにバブルを防ぐタイミングの判断を誤ったのは、「資産価格の上昇よりも一般物価を重視するという姿勢に固執したことが原因のひとつだった」という反省が日銀内にはでてくる。(略)
 澄田講演を読むと、このときも日銀は資産価格の上昇と一般物価の値上がりのリンクにこだわっていたことが分かる。(略)
 緩和は続けると言いながら、全体を聞けば[インフレ]警戒感が強く前に出ている。
(略)
 ただ、世の中はその認識をすんなりとは受け入れてくれなかった。ある大蔵官僚はこう回顧する。
 「事後的に見ればバブルに入っていたんだろうが、87年の夏ごろはまだ、プラザ以降の円高不況で大変だというムードがとても強かった。そのときは円高に対する恐怖感、抵抗感というものが日本の社会には一貫していた」
 とても引き締めに転じるようなムードではなかったというわけだ。

87年スイス・バーゼルでのBIS委員会

 「その時の最大の問題は現地の金融機関の約三分の一のサヤで貸していたということだ。ダンピングの一種ともみられ、現地の金融機関が怒った」
 米英が手を握っている以上、議論全体をつぶすのは、もう不可能に近かった。日本側もそれに対応して、目論見を絞った。
 ひとつは有価証券の含み益をできるだけ多く算入してもらえるようにする。日本の打ち出した70%はまったく受け入れられそうにない。(略)
 各国の批判の中に「最近の株価が上昇していることを背景に日本は強気なのだろうが、株は上がるだけではない」というものがあった。
 大蔵省銀行局の渡辺は「日本の場合、株価は戦後一貫して右肩上がりであり、安定的に推移してきた」と答えたが、各国を説得するのは難しそうだった。
(略)
 保有株式の含み益を算入させろ――。会議でこう発言するたびに、日本側は批判を受けた。西独の代表は、「含み益は不安定であり、銀行の資本にならない。含み益は意味がない」などと主張した。そのたびに反論したが、日本の考え方は世界ではなかなか通じなかった。そして各国の攻勢はそれからも続くことになる。(略)
大須敏生はもうひとつ、大事なことを感じていた。
 日本が懸命に主張する「株価含み益の繰り入れ」に関連して、米国で接触する人々から「日本の株価はクレージーだ」と繰り返し聞かされたことだ。もっとも彼らのロジックは「異常な日本の株価が崩れ、それがニューヨーク市場に飛び火するのは困る」という文脈だったが、「株価は上昇するばかりでない」というのはBIS規制の議論でもさんざん提起されている。

「高め誘導」

日銀はポジション・ペーパーを経て、87年夏、利上げに向けて態勢を敷いた。(略)
 まず、4月の日米首脳会談で決まった「短期金利の低め誘導」を何とかしなければならないのは明らかだった。(略)いざというときに大蔵省あたりから「市場金利が低いということは誰も金利引き上げを予想していないのではないか」と突っ込まれそうだった。そのために、「低金利政策を続ける」という方針を転換することにした。(略)
 福井以下の営業局がとったのは「市場の動きをあえて抑えない」というやり方だった。いわゆる短期金利の高め放置、もしくは誘導といわれる手法だ。(略)
しかし「高め誘導」といえば、日銀にはトラウマがあった。
[プラザ合意直後に行い、国債が暴落するなど大騒ぎに](略)
金利に魅せられた投資家は円を買うだろうが、同時に内需拡大を目指すことになっていた日本の景気には冷や水を浴びせることになりかねない。
(略)
[米・大蔵省の意向に反するリスクのある金利操作だったが]
事態を知った企画課の若手行員は「いよいよ政策転換するんだ」という高揚感があったという。

次回に続く。