検証 バブル失政・その3 消費税、ブラックマンデー

前回の続き。

グリーンスパンにかまされる

 87年9月4日の朝、米国ではFRBの議長に就任したばかりのグリーンスパンがいきなり金利を上げた。引き上げは三年半ぶりで「インフレ懸念への対処」と説明された。そして西独も金融を引き締め気味にするよう運営方針を変えた。
 こうなれば当然のことではあるが、日銀内でも「日本はどうするんだ」という声が上がり始めた。
 特に米国の利上げに接して三重野は日銀の政策発動も「いよいよだ」と確信めいた感じを抱いていた。もちろん記者などには「いやあ、あんまり関係ない」と否定的なニュアンスで話したが、内心は「米国も上げたんだから、こちらもそろそろあげる時期が来ているな」と思っていた。(略)
 しかし、米国から届いた牽制のメッセージはこの思いに冷や水を浴びせた。
 「これで日銀も安心して金利を引き上げられるとは考えないでほしい」
 米国の要望は9月30日にジョンソン副議長から大蔵省を通じて伝えられた。
 ジョンソンは振り返って言う。
 「詳細は覚えていないが、内海さんたちに言った記憶がある。みんなで利上げを始めたら市場にショックを与える。市場がどう反応するか分からない、と。市場の崩壊を予想したわけではないが。日本には少なくともわれわれが動く間はじっとしていてくれということだった」
 もし日銀が追随利上げに踏み切れば、日米の金利差は拡大しない。ドルの急落を心配する米国の立場からすれば金利差の拡大が望ましい。何よりも米独に続き日本も上げれば、そのまま利上げ競争になりかねない。米国はそれが市場に与える影響を恐れた。わがままな要求ではあったが、総裁秘書役だった小島の記憶によると、このとき米国は「低め誘導をもっとやってほしい」とまで言ってきたという。
 若月によると、このあとBISの会合でグリーンスパンが澄田に同じような要請をしてきた。

株式含み益45%

[散々揉めたけど、どうにか]株式含み益の45%算入が事実上確定した。(略)
 70、50、45、35などと数字が飛び交いながらも、日本は何とか株式の含み益を確保することができた。(略)
 45%も算入できるのだからよしとすべし――。これが大蔵省の結論だった。そして、ロンドンの千野は東京にこんなメッセージを送った。
 「これまで交渉中で50%を1%でも切ったら説明かつかないと米英を脅してきている。従って、仮にも銀行界が「45%でよかった」とでも発言するようなことになると、えらいことになる。銀行のものの言い方は「70%算入」以外になし」
 民間銀行の首脳があいさつなどで米英の当局者らと面会したときに本音を漏らすなと注意しておくように、という意味だった。

ブラックマンデー

[火曜日の朝、営業局担当理事佃亮二は総裁室に呼ばれ]
総裁の澄田と、国際担当の理事、太田赳が並んで座っていた。[副総裁の三重野は会議で香港](略)
 当時のある日銀幹部は、太田に関して「ボルカーと直接話せるとか、ペールがああ言ったとか、きわめて個人的なつながりで仕事をしているなと感じた。俺一人が知っているみたいな感じだった」と好印象を抱いていなかったことを率直に明らかにする。
 佃が腰を下ろすと、澄田がこう言った。
 「米国の暴落を受けて世界恐慌になるのを防止しなければならない。ついては経済大国である東京市場で暴落の連鎖を止めねばならない」
 「気負っているな」と感じたのを佃は覚えている。おそらく太田にかなりレクチャーされているなとも感じた。(略)引き続き緩和政策を維持していくということでよいか」
 佃はこれに反対した。営業局の部下たちは、この朝、一斉に金融機関にヒアリングをかけていた。その結果、マーケットは意外にも冷静であることが分かってきた。
 「カネ余りなので資金の逃げていく先がない」
 「これは一時的な調整で、絶好の押し目買いの機会だ」
 こんな反応が返ってきていることを紹介しながら、佃は澄田に「ここであわてるべきではない。国内的に見れば一時的なショックでとどまる。ここで変なことを言ったら公定歩合引き上げのシナリオが崩れる」と主張した。
(略)
ここで、もし日本が利上げしたら、また世界の資本市場に大きなインパクトを与えるかもしれない。そういうことになる恐れがある限りなかなか上げられない。「ちょっと弱ったな」と三重野は思った。
 この感覚は部下たちも共有していた。金融政策の責任者である総務局長の若月は、「日本が暴落の引き金を引かなくてよかった」と胸をなで下ろすと同時に、「これですべてが吹き飛んでしまった」とも感じていた。しばらく公定歩合のことなど言い出せないだろうと。(略)
 ただ同時に三重野はこうも考えた。
 ――ブラックマンデーで日本の株がぐっと下がったので、熱気が冷めた。世の中の空気が少し落ち着いた。これは公定歩合を一つ上げるのをもうけたんじゃないか。
(略)
 ブラックマンデーの動揺が少し落ち着いてくると、日銀内部には「利上げのタイミングを逃した」という悲観論が強くなった。

BIS規制はバブルへの「通行手形」

 [87年バーゼルBIS会議]
ブラックマンデーの直後でもあり、「これだけ株式が暴落しているときに、株式の含み益を認めることには反対である」「株の含み益なんて長期的にみればプラスマイナスゼロだ。そんなものに頼って銀行経営をやったらだめだ」などの正論もでたが、すでに米英日で固まった大枠は変更できない。結局、最終的に自己資本規制は合意された。
 自己資本規制をクリアするために、邦銀は競って増資を行った。(略)
 自己資本規制は分母と分子の計算だ。つまり、8%をクリアしているなら、資本を1増やせば、資産つまり融資は12.5増やせることになる。のちにBIS規制はバブルを加速させたと批判されるゆえんだ。(略)
 結果的にBISの自己資本比率規制は日本の銀行に「通行手形」を渡したようなものだった。

ギロチンになった自己資本比率

[96年「早期是正措置」導入、比率が達成されていないと]自動的に厳しい行政処分の対象となった。銀行局の若手官僚としてBIS規制の交渉に参加した渡辺はこれを「数字が物神化されギロチンになった」と表現する。
 「銀行経営の健全性を図る物差しだった自己資本比率は単に便宜的なものだったはずなのに、いつの間にかこれで銀行という企業体の生き死にを判断するようになってしまった。時価会計と連動してギロチンになってしまったわけだ。(略)単なる便宜的なメジャーと思っていたのが、結果的に金融システムの不安定さと経済への影響を増幅させてしまった」
(略)
 千野は晩年、渡辺のところに時々電話をかけてきてこう言っていたという。
 「あれは正しかったんだよな」(略)
 「千野さんはよかれと思ってやった自己資本規制が、結果として経済の振幅を大きくした、経済の拡大の過程で火に油を注いだのではなかったのかと気にしていた」
 交渉に関与した大蔵省関係者はこう話す。
 「株は下がるぞという「朋友たちの警告」を受け入れられなかった。45%という含み益の比率を段階的に減らしていくという仕組みをそのときに入れていればよかったと、今は思う。しかし、当時そういう発想はなかった。株価は伸びていくものだと思っていた」

凪・88年夏

[88年9月] 企画課の若手日銀マンたちが深夜に集まった。白川方明、平野英治、稲葉延雄ら後に日銀の中枢を支えることになる面々だ。(略)利上げに舵を切れという建白書だ。一番最初に書いてきたのが白川だった。(略)
 企画課の若手たちはとにもかくにも、ペーパーを書き上げた。(略)
――たしかに物価は上がっていない。しかし、資産価格が上がり、景気も強い。マネーサプライも上昇著しい。いずれ物価に跳ね返ってくる。(略)今予防的に引き締めないと危ない――。こんなロジックで書かれたペーパーには彼らなりの危機感が投影されていた。(略)
[企画課の課長に渡した]彼らの議論はあっさりとボツになった。
(略)
 一方、このときの国際担当理事、太田赳はこう書き残している。
 「88年夏場での円相場の小康持続、特に88年10月央以降再び円高方向に推移した為替市場の動向と、終始一貫した物価の安定持続の下では、これ〔利上げ〕はなかなかできない相談であった」
(略)
 ただ、日銀の中でも危機感の持ち方は一様ではなかったし、当時の日本を支配していた楽観的な見方もある程度、影を落としていたようだ。
 調査役だったある日銀関係者は「日本経済は本当に強いと思っていた」と話し、89年末をピークにして株価が下落し始めたあとも「ちょっとした調整だと思っていた」という。
(略)
 調統局長だった南原はこのころの日本経済について「かなりしっかりしている」と思っていた。同時に強烈な危機感も抱いていた。しかし、その中身は独特のものだった。マネーサプライの増加を物価に結び付けて議論するよりも、地価の異様な上昇に危機感の焦点を当てるべきだ、と。もしこの地価が崩れたら、土地を担保に金を賃している銀行は大きな影響を受ける。南原は金融システムの健全性維持の観点から営業局の窓口指導を通じて資金の流れを絞るべきだと主張したが、営業局長の福井は「公定歩合の上げなくしてはできない」という。
(略)
[理事に昇格した菅野明が]
 日銀の参与会に出席していたときのことだ。参与会というのは、主に財界人たちがメンバーで、総裁、副総裁、そして理事たちが彼らの意見を聴くという機会だった。
 日銀側が、土地価格や株価の上昇について「行き過ぎている」という趣旨の発言をした。すると参与の一人がこう反論した。
 「日銀の中でそんなことを言う人がいるとは困ったものですなあ。日本経済が一皮むけて世界に向かって出ていこうというのに。日本が新しいレベルに入るのは当たり前で、それに疑いの目を向けられるとはいかがなものでしょう」
(略)
[畑亮二談]
 「あの夏、西独が二回も利上げした。米国も上げた。にもかかわらず日銀内では具体的に利上げの議論が盛り上がらなかった。(略)88年のあの時期になぜやらなかったのか。世論がバブルによるユーフォリアで一色になっていたからだ。政界も財界もみんながハッピーだった。アンハッピーなのは日銀だけだった」
(略)
 澄田の秘書役だった小島の記憶によると、日銀が組織として「本当に危ないと思うようになった」時期は1988年の秋だったという。(略)
 「東京から銀行の支店長がお客を連れて地方に来て、土地を買いあさっています」
 支店長会議などでこういう報告が相次いでなされてくると、楽観論は次第に姿を消した。
 89年の秋に入るころ、マネーサプライの上昇や資産価格の高騰に対して、「今すぐ動くべし」との声が、日銀の中でも強くなっていた。
 内心では危機感を抱きながら、周辺にはあまり明確にそれを伝えなかった三重野も、このころになるとはっきりと姿勢を示すようになっていたという。問題は、大蔵省を納得させられるかだ。

日銀、大蔵省他にスルーされる

 これに対して、官僚たちの反応はきわめて鈍いものだった。
 各省庁との話し合いを続けていくと見えてきたものがいくつかあった。ひとつは米国の影だ。大蔵省は、黒字がまだ大きいと主張した。通産省はスーパー301条で日本が対象にされるぞ、不公正貿易、つまり為替を円安に操作して輸出ドライブをかけるつもりだと疑われるぞ、と言ってきた。
(略)
 「雰囲気としては引き締めることなんかないだろうという感じだった。要は景気をふかせと」
 経済企画庁も、日本は動かないことが重要という「日本アンカー論」を唱えた。公定歩合の判断をする総務局長だった若月にとってみれば、「霞が関すべてが敵に回ったような感じ」だった。
 このとき、各省庁は、しかし、「敵に回った」のではなかった。日銀の問題意識を無視したのだ。

消費税で頭がいっぱいの大蔵省

日銀は大蔵省の姿勢の背景に89年4月のビッグイベントの影を見た。消費税導入だ。(略)
大蔵省の幹部たちは消費税導入で頭がいっぱいだった。(略)
88年夏から秋の臨時国会は消費税とリクルート疑惑をめぐり混乱した。(略)
88年の暮れから、89年のはじめにかけて、大蔵省は利上げを模索する日銀にこんなことをいうようになった。
 「消費税導入がうまくいくように波風は立てないでくれ」
(略)
[リクルート問題で揺れる]政治情勢で日銀が大蔵省に利上げ話をもっていっても「政局不安定」という言葉でまったく聞く耳持たぬという形で片づけられてしまった。
 それ以上に、日銀が利上げを検討などということが分かれば、「そうか、消費税導入に伴う物価上昇を警戒しているのだな」と憶測を呼ぶことは確実だ。(略)
 大蔵省側は「日銀が言う早めのブレーキ論は理解した。でも一刻を争うわけでもないんでしょう。だったら、消費税の動きを見てからでもいいのではないか」と繰り返した。
 日銀から見ても、消費税導入は単に大蔵省の施策という枠を超えて、政治問題化していた。与野党が真正面からぶつかっている。そんな政治的にプライオリティーが高いものを突き崩すだけの度胸を、中央銀行は持ち合わせてはいなかった。

次回に続く。